もしも人生をやり直せるのならば、あの男に出会う前に戻らせてはくれないだろうか、とメアはふと考えていた。
メーデー、メーデー、神様、聞こえていますか?と夏の空を仰いでもそこに星は見えない。街があまりにも明るすぎるからだ。
カラフルなネオンサインがギラギラと輝くこの夜の街が、ずっと温かい自分の庭であり鳥籠なのだとメアは信じて疑って来なかったのだが、それが今はひどく色褪せ冷たい世界にしか見えなかった。
殴られ腫れて痛む頬だけが熱をもって意識の大半を埋め尽くしている。
何も考えられなかったし、考えたくなかった。
うんざりと手の中に目を落とすと逃げる時にどうにか掴んできた裸の100ドル札が数枚と、チェーンの切れたロザリオがある。
メアはそのロザリオを指先でなぞりながら、意識を目の前にそびえ立つ雑居ビルの螺旋階段まで飛ばした。
俯瞰で見ると、そこには付き合っていると思っていた男との別れ話を拗らせて頬を腫らした惨めな若い女が、途方に暮れたように座り込んでいる。
ただ、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもなかった。
彼はとても信心深い人だったが、 メアは敬虔の念も浅く彼からすれば無神論者の域に達していたのだろう。
お互いに雪崩込むように恋に落ちたはずが、一緒に暮らし出してみると何かと意見がすれ違い、とうとう彼が手を上げた。その痛々しく凍りついた表情をざまあみろと睨みつけながら、メアは最後の足掻きとして彼の胸元に住み着いていた神様を奪って来てやったのだ。
それだけが、虚しい達成感として手の平の上に転がっていた。十字架の裏に彫られた磔にされたキリストの姿には、何の感想も浮かばなかった。
すん、と鼻をすすると鉄の匂いがした。白いスリップドレスに点々と乾いて赤茶けた鼻血の痕が残っている。洗濯してちゃんと落ちるといいな、と少しズレた感想が浮かんだ。案外派手に出血したらしく、顎から首へと流れた血は胸元に垂れた黒い髪の毛に染み込んで絡まり、こんがらがっていた。もう何もかもが最悪だと思った。
素足を突っ込んだ10ホールのドクターマーチンがずしり、と爪先に重くのしかかってくる。マリンブルーのそれを脱ぎ捨てて逃げ出したい憂鬱に駆られながらふっと視線を上げた時だった。
傍らに停まっていた黒いクラシックカーの鍵を開ける音がして、メアはひょこりと覗き込んだ。そしてハッと息を止める。
美しい銀髪を撫でつけた黒いコートの男性が、僅かばかり不機嫌そうにシワだらけのメモ書きに目を落としていた。かと思えば手の中のそれをぐしゃりと握り潰すと、小さな塊になった用紙を歩道に放り捨てて深く息を吐く。
その一連の所作に、メアはすっかり頬の痛みを忘れていた。
よろりと立ち上がって彼の元に歩み寄ると、あの、と声を掛ける。
ひどく喉が乾いていることにそこで初めて気がついた。声はガサガサに細り鉄臭く、道を行き交う車の排気音に飲まれてしまったかと思ったのだが、彼のアイスブルーの瞳がこちらに向けられる。
その鋭利な眼光を前にして身が竦みそうになったが、メアの体はまだどうにか動いてくれた。
「あの、」
そうもう一度言い直しながら、メアは両の手を差し出した。
「何だ?」
頬を腫らし、血に汚れ、夏とは言えこんな薄着で夜の街を女がふらついて居たら特定の職業にしか見えないであろう。そんな自分でも彼は無視したりしない人なんだな、とメアは返事がかえってきたことに安堵の溜め息を内心で吐いた。
握り締めていた拳を解いて紙幣とロザリオを彼の眼前に晒すと、その整った銀色の眉が怪訝そうにひそめられる。
「突然で申し訳ないんだけど、」
生温く饐えた臭いのする風に吹かれてカサカサと音を立てる紙幣を逃げ出さぬよう指先に力を込めながら、メアはそっと言葉を紡いだ。
「このお金で私のこと、誘拐してほしいんだ」
彼は眉間に深い皺を刻んでからメアの姿をじろり、と睨みやり、それから手の平の中に視線を落とした。
そのアイスブルーの瞳がある一点に吸い込まれたかと思うと、長い長い沈黙が落ちた。
随分と高い位置にあるその端整ながらもどこか冷たい印象を与える彫刻のような男の顔を、メアはじっと見上げることしか出来なかった。
何をバカげた事を口走っているんだろう、という理性はあったが羞恥のようなものは殆どなく、本当に今の私は自分にうんざりしているのかもしれない、とぼんやりと思った。
その訪れた余白に、やっぱりダメか、といざ前言撤回しようとした時だった。
緩慢な動作で彼はメアの手の中からロザリオをつまみ上げた。
それからもう一度、腫れたメアの頬に視線をやると、スっと目を細める。
「……奇妙な話だな」
紙幣を無視してロザリオを握り込み、その低く吐き出された彼の独り言に小首を傾げていると、彼は助手席のドアを乱雑に開けてから運転席に回り込んだ。
メアが呆然と立ち尽くしていると、ルーフパネルをごんごんと叩いて、
「おい、早く乗れ。誘拐されたいんじゃなかったのか」
そのどこか笑みを含みながらも固い声音に背中を弾かれ、メアは助手席に体を滑り込ませた。



車内でぽつりぽつりと雑談をするうちに、彼はバージルと名乗った。職業は"便利屋のようなもの"と説明され、これから仕事先に向かう途中だったらしい。
バックミラーの中に映りこんだ後部座席には、映画の中でしか見たことのないような日本刀らしき長物が積まれていた。
その口振りと雰囲気から、堅気の人間ではなさそうだったが却って好都合だった。
都合が悪くなったら彼は表情一つ変えず適当に私のことをあしらってくれるだろう、とそんな気がしたのだ。煮るなり焼くなり好きにしてくれればいい。その方が今のメアにとっては居心地がよかった。
他人の頬を一度殴り倒したくらいでこの世の終わりのような顔をする人間とは、もう金輪際関わりたくなかったのだ。



だらしないその服装が目障りだからどうにかしろ、と貸されたコートの温かさに負けて、いつの間にか眠っていた。
車のエンジンが止まる気配を感じて薄らと目を開けると、辺りはまだ暗いようだった。
「……波の音がする」
「海が近いからな」
降りろ、とバージルに言われるがまま車からもたもたと降りるとそこは広々としたモーテルの駐車場だった。
道の向こうに目を向けると、確かに波の音と微かに白んだ水平線が見える気がしたが、寝不足の乾いた瞳では全てを捉え知ることは困難だった。
バージルの後を追ってモーテルにチェックインすると、二階建てのうちの一階の一人用の部屋に案内される。
最低限の設備だったが、清潔感のある案外新しいモーテルだなと室内を眺め回していると、
「好きにしていろ」
肩にかけていたコートをぐいと剥がれ、代わりに部屋の鍵を投げ渡されて出かける準備を始めるバージルの様子にメアは狼狽えた。
「どこに行くの」
「仕事だ」
そうだった、と車内での会話を反芻してからねえ、と口篭る。
「全然誘拐っぽくないんだけど」
コートに腕を通し、襟を正していたバージルがふっと鼻で笑う。
「両手足を縄で縛り上げて欲しいのか?」
「…………やっぱりいいや」
「その汚れた顔を何とかしろ」
そう言い残してバージルはあっという間に部屋を立ち去った。
シン、と静まりかえった室内の空気に、ただじっとしていると押し潰されてしまいそうな気がしてきて、メアはバージルに言われた通りにシャワーを浴びることにした。
狭いながらも明るいバスルームに入った途端、鏡に映りこんだ自分の頬が想像の二倍は不気味な青紫色に腫れ上がり血だらけで、思わず笑ってしまった。こんな顔で彼とずっと話していたのか、と思うとますます可笑しかった。
くすくすと笑いながら、肌がひりつくくらいの熱いお湯を浴びて乾いた鼻血や脚のあちこちに跳ね上がっていた泥を全て洗い落とす頃には、幾分気持ちが穏やかになった。
汚れたままだと癪に障るな、とそのままの勢いでスリップドレスや下着も全て洗面台で手洗いした。石鹸で汚れを丹念に削ぎ落とし、何度も濯いで固く絞り、生乾きのままのそれをもう一度身につけると、夏とはいえまだ日の陰ったこの時間帯では肌寒い。
それでもだいぶマシになったな、と自分の姿をワードローブの内鏡に映してひと息つく。
バスルームの蛇口から水滴の滴る音が一つ聞こえて来てメアはすっと目を細めた。
また静かになってしまった、と思った。
一人でいると、思考の波が押し寄せて来てしまう。それが今は心底嫌だった。
テレビを付けてもくだらないニュース番組しか映らないだろう。
かと言って眠る気にもなれなかった。余計な夢でも見てしまいそうだったから。
綺麗にメイキングされた白いシングルベッドを一瞥して、メアはモーテルの鍵を掴んで外に出た。
海に行こう、そう思った。
穏やかに吹く風は生温かったが、瞬く間に濡れたメアの服や髪から体温を奪い去って行く。それに負けじと真っ直ぐに浜辺を目指して歩いた。
重くて仕方なかったはずの10ホールのブーツが、今は少しだけ軽く感じられた。
朝焼けが近づいてくる水平線は先程よりも姿を現し始めている。
白波の名残りが打ちよせる浜辺は、程よくメアの意識の余白を埋めてくれた。
しゃがみ込み、薄暗い日差しの中で波音に包まれながら細かな砂地に指を差し込む。
表面は夜露で冷えていたが、昼間の太陽の余韻がその下に沈みこんでいるのが心地よかった。
伸びた爪の間に砂粒が入るのにも構わず、あちこちを掘り返してはメアは無心で色々なものを拾い集めた。
欠けた薄桃色の貝殻、星の形にも見える手の平に収まる石、波打ち際で死んだらしき海鳥の頭骨、壊れたネジ巻き時計の断片、波に揉まれて丸くなった水色のガラスの塊。
それからおもむろに、黙々と拾った木の枝で小さな穴を掘った。
少し前ならば大切に持って帰って窓辺に飾りでもしたであろうその拾い集めた欠片たちも、今ではすっかり色褪せたガラクタだった。
埋めてしまおうと思った。嫌な記憶と共に。
そうすれば少しだけ楽になれる気がしたのだ。
夢中で穴を掘っていると額に汗が滲んで来て、手を止めた。
「……つかれた」
白い朝日が登りつつある空を見やって、ぽつりと呟くと、メアは穴の横にブーツを脱ぎ、その中にモーテルの鍵を放り込む。
もう海水は冷たいのだろうか、とふと気になった。夏とは言え海水浴のシーズンも終わりに差し掛かっているはずだ。
人気のない浜辺を見渡してから、メアは素足でざぶざぶと波をかき分けて進んだ。
腰まで浸かった波は風と同じで生温かった。手を差し込むとぬるま湯に浸かっている、そんな気さえするほどだった。
白いスリップドレスの裾はゆらゆらと透き通ったクラゲのように揺れて波間を泳いでいた。
青い海水が朝焼けを浴びてキラキラと瞬き始める。その刻々と表情を変える水面を無心で見つめていた時だった。
不意に高い波がメアの腰から足元をすくい上げた。案外深い位置にまで立ち入ってしまっていたのか、あっという間に水中へと体が飲み込まれ「わぁ、」という悲鳴すら波音に揉み消される。
視界がぼやけ、目が痛んだ。口の中いっぱいに広がる味に海の水ってこんなに塩辛かったっけ?と懐かしい気持ちにすらなる。
その一方で呼吸は苦しくなり、どんどんと体が波に攫われて行くのが判った。
浅瀬で触れていたよりも水はずっと冷たく、このまま身を任せていれば深海に辿り着けるだろうか?そんなことを思った。真っ暗な闇の中を魚たちと揺蕩うのは気楽でいいだろうな、とお伽噺のような夢想をしてしまう。
人並みに泳ぐ力は持っているはずだった。
だから光の差す方へと脚を少しだけばたつかせてやればいいだけのことだ。
そう考える一方でそれをひどく"面倒くさい"と感じている自分が居ることにメアははたと気がついた。
"死にたい"のではなく、ただただ"面倒くさく"、そして"疲れた"と、そう思ってしまったのだ。
酸欠のせいか、眠りにつく様に遠のく意識の中で、ふと水面が大きく揺らぐのが見えた気がした。
海鳥が餌を取りにでも来たのだろうか?それにしては不自然すぎる。
そう思っているうちに視界が陰り、ぐっ、と温かい感触がメアの手首を包み込んだかと思うと、あっという間に体が浮上した。
「お前は馬鹿なのか。まあ馬鹿だろうな。……誘拐してくれ、だなんてマトモな精神状態の人間が言える訳がない」
浜辺に乱雑に放り出され、飲み込んだ海水を咳き込んで吐き出しながら、メアはバージルの言葉にふるふるとかぶりを振る。
わざとでは無い、あくまで事故だったのだ、と。そう主張したかった。
濡れたコートを叩きつけるように脱ぎ捨てながら苛立ちを隠そうともしない仕草で、バージルはうんざりと濡れそぼった前髪をかき上げた。
メアは混乱する意識と呼吸を、どうにか深く息を吸って整えていく。
「どうして、あなたが、ここに」
「戻ってくる道すがら、沈んで行くお前が見えた」
そう吐き捨てるように言ってバージルは左手の高台の方を顎で示した。
胸に手をついて深呼吸をしていると、バージルはメアを見つめながら低い声で呟く。
「それとも何だ、助けない方が良かったか? こんな所まで、わざわざ死にに来たとでも?」
メアはその言葉を必死に否定する。
「違うよ!違う!……そうじゃないの、」
別に死にたかったんじゃない、ただほんの少し足が滑ってしまっただけだ。
そう強く言い返そうと顔を跳ね上げると、どこか困ったような寂しげな色をしたアイスブルーの瞳と目が合って、メアはぐっと喉を詰まらせる。
濡れたグローブに包まれた手の平が、メアの腫れ上がった頬を微かに撫であげた。
「そうか」
ならいい、とそう呟いてバージルは寂しげな瞳のまま、濡れて額に張り付いていたメアの黒髪をくしゃりとかき混ぜた。
子どもをあやすような仕草と、その微かに触れた温かい指先の感触に、胸がぐっと締め付けられるような思いがした。
込み上げてきた嗚咽が殺しきれなくなり、自身を飲み込んだ大波のように涙が押し寄せてきて、メアはそのまま堪えきれずに泣いた。
そうだ、死にたかった訳じゃない。
ただ少し疲れてしまっただけなのだ。
ひどい頬の痛みと、あの人にあんな顔をさせてしまった自分と、あの人を夢中にさせる神様を妬むことにただ疲れてしまった。
滔々と泣き始めたメアをバージルは呆れ顔で見やってから、その横へと片膝をついて座り込んだ。
波音の中へ、メアの静かな泣き声とバージルの小さな溜め息が掻き消されて行く。
朝日がすっかり登ろうという頃だった。
さめざめと流れ落ちていた涙が途絶え、すうと胸のつかえが泡のように溶けて無くなるような心地がした。
不可思議な感触だった。まるで夜の間中悪夢に魘されていたみたいだ、とメアは乾き始めた頬を拭いながら温かな陽の差す空をじっと見上げた。
ふっ、と憑き物の落ちたように泣き止んだメアを暫く横目に見て、バージルはざらり、と砂浜から腰を上げた。
放り出していたコートと閻魔刀を片手に、ざくざくとブーツの底で砂地を蹴り上げる。
その後ろ姿をメアはへたり込んだまま呆然と見やっていた。
これからどうしたらいいんだろう、と妙に冷静になっている自分がいた。
確かに彼の言う通り私はマトモじゃなかった、とやけっぱちで迷惑な行動の数々を振り返っていると、
「おい、」
バージルがこちらを振り返って怪訝そうにメアを睨みやる。
「誘拐されたいんじゃなかったのか」
その言葉にメアは慌ててよろめきながら立ち上がると、ブーツと鍵を両手で拾い上げた。
そこで掘りかけの穴と埋めかけの欠片たちを一瞥して「もういいか」と声に出して呟く。
すると本当にもうどうでもいいと思えた。
素足で砂浜を走りながら、メアはその優しい誘拐犯の背中を追いかけた。

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