地平線を染める淡いピンクからブルーへとグラデーションに色づいていく空をカメラのファインダー越しに眺めていた。
足元からずっと遠くまで広がっているのは、真っ白な石灰で出来た棚田だった。焼いたメレンゲ菓子のようにも見えるその層の群れにはあちらこちらから温かな泉が混々と湧き流れていた。空の色を反射して、その泉も同じピンクからブルーへのグラデーションに染まっている。
上空から見たらきっとスライスしたメノウ石のように見えるんだろうな、と考えながらメアはちゃぷんと素足でぬるい水面を蹴った。
八月末のトルコは暑く、世界遺産にも指定されている此処、パムッカレも例に漏れず灼熱の陽射しに晒されていた。夕暮れを半ばにしても空気は暑く、額には汗が滲む。タンクトップにハーフパンツで過ごしていてもまだ暑いくらいだ。
メアがアトリエを置き拠点にしているニューヨークも同じく暑かったが、最近はずっと冷房の効いた屋内にいる時間が長かったので体の感覚が追いついていないのかもしれない。
ーー新しい写真集の撮り下ろしを撮影する為にこの土地を訪れてみようとふと思い立ったのは、つい一週間前のことだった。
撮影目的の旅行は頻繁にしているし気に入っている国もあるが、やっぱり行ったことのない場所がいいな、と思った。
どうやって選ぼうか、とちょうどパラパラとめくっていたグルメ雑誌でふと目についたのがトルコ料理の店だった。それでトルコ方面の飛行機のチケットを取ることにした。
旅のきっかけなんていつもそんなものだったし、自分の人生がそもそも行き当たりばったりじゃないか、と開き直りながらメアは意気揚々と旅支度をした。
中東の地は踏んだことがなかったのだが、西洋と東洋の文化が入り交じる独特の空気感には早くも好意を抱いている。
ファインダーを覗く度に願うことではあったが、今回の旅ではきっと何かいいものが撮れるに違いない、とそんな予感がしていた。
首から下げたフィルムカメラの設定を見直してからふと顔を上げた時だった。
メアが立っている地点よりも幾つか下の石灰層の淵に一人ぽつんと佇んでいるほの蒼い影が見えた。
夕闇が沈んで行くのをじっと見つめながら、銀色の髪を空と同じ色のグラデーションに染めたその後ろ姿に、メアはつい息を止め、ファインダーを覗き込んだ。
ズームレンズをぐるっと回し、その黒いコートを纏った人影にピントを合わせシャッターを切る。
望郷と寂寥と妖艶さをどろりと煮詰めた噎せ返るような"色"がフィルムに焼き付く手応えがあった。
どくん、どくん、と心臓が耳元で高鳴って体が熱くなった。
忘れていた呼吸を取り戻しながらメアは半ば転げ落ちるように素足で石灰層を下って行く。
乱れた息と風にもつれた短い赤毛を整えながら、メアはあの、とひっくり返った声をあげた。
ゆっくりと振り返った男の、怜悧に光るアイスブルーの瞳にメアはつい言葉を失ってしまう。
数瞬訪れた余白に男は不可思議そうに小首を傾げる。
「今俺を呼んだのは、君だろう?」
その整った唇から紡ぎ出された優美な英語に安堵しながらメアは我に返った。
「ええ、そうです、すみません」
「何か用か」
几帳面に使い込まれた焦茶色の革のバックパックを背負い直し、彼は嘆息を呑み込むような声音でそう返した。
何をどうやって伝えよう、と頭の中が砂が零れ落ちるようにさあっと真っ白になって行くのをメアは実感していた。勢い込んで飛び出しては見たものの、いざとなると腰が引けてくる。
それもこれも目の前の男性が持つ空気感が、今まで会ってきたどの人々との印象にも重ならず、あまりにも確立された"個"があったからだろう。
彫刻のように整った顔立ち、底の知れない蒼い瞳、絹糸のような銀髪に体温があるのかないのかも判らない白い肌、年齢だって二十代にも四十代にも見えて曖昧だ。
頭の中にあるどの引き出しを開けても、彼に投げ掛ける上手い言葉が見つからず、つまるところメアはとてつもなくテンパっていた。
人付き合いは苦手な方ではないと思っていたのだが、どうやら自惚れだったみたいだ。
どうにかこうにか喉を掠れさせながら吐き出せたのは、自分でも頭を抱えたくなるほどの凡庸な言葉の塊だった。
「あの!もしご迷惑でなければ、写真のモデルをしていただけませんか!」
「断る」
メアの言葉が終わるや否や彼はずばり、と切って捨てた。
「やっ、ちょ、ちょっと待ってください、」
「申し訳ないが、先を急ぐものでな」
ざぶり、と彼が足を動かすと沈殿していた白い泥が舞い上がった。その濡れるのも構わずレザーパンツの裾を下ろしたままの足元を見やりながら、メアはええっと、と口篭る。
泉から上がり観覧エリアを抜けて行こうとする広い背中を只々追いかけるしかなかった。
メアはぎりりと唇を噛み締める。
……どうしても、何としてでも彼を撮りたいと思った。
あのファインダーの中に見た鮮やかな景色で、一瞬で執着心が芽生えていた。
曲がりなりにも写真家として生計を立てているという自負と、アーティストの端くれとしての無けなしの創作意欲のような衝動が火のように燃え盛りメアの胸を焦がす。
今諦めたらきっと一生後悔する、そう強く思ってしまったのだ。
バックパックから引っ張り出した靴を履き終え歩き出した、この暑い中でもコートを脱がない如何にも頑なな背中を追いかけながらメアは次の言葉を探していた。のだが、どうやら気の短さは彼の方が上手だったようだ。
突然、踵を返したかと思うとあっという間に距離を縮められていた。
図面を入れるアジャスターケースにしては些か大きい黒い円筒状のケースを背負った肩が、触れるか触れないかの距離にある。そんな彼の気配が冷たくメアの首筋をぞわりと撫で上げた。
「あんまり執拗いと、いくら淑女相手でも俺の許容できる範疇を越えてくるのだが」
そう囁く低い甘やかな声にメアは小さく息を呑んだ。
三十センチは高い位置にある整った鼻梁を見上げると、暮れゆくオレンジ色に染まっている。その横顔にレンズを向けたくなる気持ちを必死に堪えてメアは答えた。
「あの、もしお写真がダメなら、一緒にご飯でもどうですか」
完全に脳の言語野がショートしていた。だがそれでも構わないとも思った。
戸惑いに大きく見開かれた蒼い瞳が、ほろりと笑みで崩れる。くつくつと喉を鳴らして笑う彼の姿に、メアはああこの人ちゃんと笑えるんだな、と安心感を抱きながらぽかんと見上げてしまう。
「話の通じないお嬢さんだ」
そう笑いながら歩き出す背中を、距離を置いて再び追いかけた。
観光スポットの石灰層からホテルエリアはほど近く、徒歩で帰れる距離にあった。
彼もこの辺りに泊まっているんだろうか、どうやったら話を聞いてくれるんだろう、と浮き足立ちながらなだらかな坂道を歩いている時だった。
視界の端から黒い影が飛び出し、肩に掛けていたショルダーバッグをぐいっと引っ張られる。突然のことに頭が追いつかず、きゃあ、と悲鳴をあげることしか出来ないままメアはバランスを崩して前のめりに転んだ。首から掛けていたカメラだけは全力で体の下敷きになる事を阻止できたが、それ以上は手も足も出ない。
自分のショルダーバッグを両腕に抱えた小柄な少年がつむじ風のように走り去って行くのを、メアは呆然と見やった。
やられた、ひったくられてしまった。持ち物をスられたのは随分久しぶりのことで、カバンごとやられたのは人生初である。
すう、と血の気が引く心地がした。
前を行っていた彼が悲鳴に気がつき、転んでいるメアと脇を駆け抜けて行った少年を交互に見やってから、気だるげに額に手をつくのが見えた。
やっぱり浮かれているように見えたんだな、とメアは気落ちしながら体を起こしてぺたりと乾いた岩畳の上に座り込んだ。薄暗い街灯の下で確かめると痛むのは擦りむいた両の膝小僧くらいで他にケガをしている箇所はないようだった。
子どもみたい、と呆れながらカバンの中に入っていたものを思い返す。パスポートは首から下げたケースに肌身離さず持っているので無事だったが、一番手痛いのは財布と今日撮った分のフィルムだ。全く同じ写真は二度と撮ることが出来ない。財布には全財産が入っている訳ではないが、クレジットカードは使用停止にしてもらわないと…と肩を落としていると、
「君のカバンだろう?」
目の前に差し出されたショルダーバッグを反射的に掻き抱くと、数年ぶりにクローゼットから出した時のような懐かしさが込み上げた。
顔を上げると無表情に、息も切らさず彼が立っていた。
「わざわざ取り返してくれたんですか?!」
男は静かに頷く。
「ありがとうございます……!脚、お早いんですね!」
「……観光客を狙うスリは多いから気をつけた方がいい」
ぶっきらぼうにそう言うと男は片膝をついて、懐からハンカチを取り出した。薄手の白い木綿のそれを広げて中ほどに犬歯を立てると、ビリッと縦に裂く。
その姿につい見とれていたが膝が急にじくじくと痛み出した。見ると擦った、というより切ったと表した方が近い傷だったらしく出血の量も多く、ぽたぽたと赤い雫が流れていた。確かに岩畳はゴツゴツとして尖っている箇所も多い。
その有り様に男も見兼ねたのだろう。脚をすくわれ、傷口をするすると縛る手つきをぼんやりと見ていると、
「俺の責任でもあるな。すまなかった」
「あの、ちがっ……ありがとうございます。全然そんなことないです。私がぼーっとしてたのが悪いので」
いい歳して何やってるんだろう、と急に恥ずかしさが込み上げて来てメアは小さく唸りながら頭を抱えた。
「本当にありがとうございます」
「酷く痛むようなら医者にかかった方がいい」
几帳面に蝶々結びされた白い木綿にじわじわと赤い色が滲んでいく。
その様子に嘆息を吐きながら立ち上がろうとした男の袖口を、メアはつい指先でつまんでいた。
「あの、良かったらカバンとハンカチのお礼にご飯でも」
またそれか、と言いたげに銀色の眉が苦々しく歪むのが見えた。
しつこく畳みかけている自覚は勿論あった。だが、それと同時にメアの脳裏にはいつしかこの言葉が浮かんでいたのだ。
"幸運の女神には前髪しかない"
どこの国の諺かは失念してしまったが、チャンスを掴み損ねたらそこでお終いなのだ。
男はゆるりとスカイブルーの瞳を地面に伏せると、
「……今は腹が減っていないから、明日の朝食でも良ければ」
メアははっと目を見開き、微笑んだ。
「それで大丈夫です!是非!」
思わず握手を求めて右手を差し出すと、飽きれたように彼は一度視線を逸らしたが、メアの手を握り込むとそのまま引いてゆっくりと立ち上がらせた。グローブに包まれた無骨な手には人の体温があった。僅かに傷が痛んだが歩くのは問題なさそうだ。
尻の埃を払い落としながら、メアはショルダーバッグを背負い直し、
「どこに泊まっているのかお聞きしても?」
彼がついと指さしたのは偶然にもメアが部屋を取ったのと同じホテルだった。
その奇遇さに驚くと彼も僅かに微笑んだ。
「何号室ですか?」
彼は数瞬悩んだ後に、
「……103だ」
「じゃあ、明日の8時に私からお部屋に迎えに行ってもいいですか?」
「判った」
メアはぐっと拳を握り締めてから、ホテルへの道を軽やかに歩き出した。
胸が高鳴って苦しく、気の早いことに頭の中には濁流のように写真の構図が駆け巡っていた。部屋に戻ったら一応スケッチをしておこう、と思った。まだ被写体になってもらえる許しを得た訳ではないというのに。それでもほんの少しだけチャンスを掴めた気はした。
そんなふわふわと舞い上がっているメアの背中に男が声を掛ける。
「名前を聞いてもいいだろうか」
メアはくるりと踊るように振り返る。
「メアです!メア・スカーレット」
貴方は?と尋ねると、彼は躊躇いがちに唇を開閉させた。
それを見てメアは笑う。
「偽名でも別にいいんですよ。呼ぶのに困りさえしなければジョン・ドゥでもスミスでも私は構いません」
見透かされた、とでも思ったのか彼は一瞬驚いたような表情を過ぎらせたが、すぐに元の涼しい顔に戻った。
「……バージル、と呼んでくれ」
「バージルさん」
その確かめるように呟いた舌の上に乗る温度は温かく、偽名じゃないんだろうな、と何となくメアは思った。所詮ただの勘でしかないし、本当に偽名でも構わないのだけれど。
ホテルのロビーに着くとメアはひらひらとバージルに手を振った。
「じゃあ、おやすみなさい、バージルさん」
ああ、と応える彼の表情が少しだけむず痒そうに見えた。






魔界からダンテと共に人間界に戻って来たバージルの胸中には二つの今後の選択肢が漠然と存在していた。
一つはダンテと共に事務所で便利屋の仕事をこなすこと。もう一つはかつてのように旅に出る、というものだ。
それを何となく、バージルとしては深い意味もなく弟に相談したところ、彼はひどく驚いた顔をしていた。いつも通り事務所のデスクに投げ出していた足を引っ込め、流し読みしていた雑誌を閉じると、
『アンタが俺に相談を持ちかけてくるなんて、天地がひっくり返っちまうんじゃねえか?』
そうおちょくってから、好きにすりゃあいいじゃねえか、と頬杖をつきながらダンテは笑った。
『アンタの人生なんだからさ、もうちょい好きに生きろよバージル。俺はどうせずっとここにいるし、いつでも帰って来ればいい』
そうしてバージルは事務所を後にし、閻魔刀の力を用いて気ままに世界を巡ることにしたのだった。
……かつて彷徨っていた世界は"色"がなかった。モノクロで、絶望に染まり、ふとした瞬間に息苦しさに襲われる。それも人か悪魔かも判然としない非力な自分の居場所など何処にもないと思っていたからだろう。
それが否定された今、もう一度自分の目で世界の"色"を見てみたい、とバージルはふと思ったのだった。
浅いはずの眠りから覚めて枕元の時計に目をやると、時刻は7時50分を示していた。
思ったよりも眠りすぎたな、と目を瞬かせてバージルはベッドを抜け出した。
眠ろうとしなければ睡眠を取らずに活動し続けることも半魔の身では可能だったが、そうすると世界がひどく無味乾燥としたものに変わっていくことをかつての経験で知っていた。バージルにとって睡眠というものは体を休めるという意味合いよりも、意識のリセットという儀式に近かった。
洗面所で顔を洗っていると、ちょうどノックの音が聞こえた。
タオルで顔を拭きながらドアを開けると、そわついたオリーブグリーンの瞳と目が合う。
「おはようございます、バージルさん。すみません、ちょっと早く来すぎましたか?」
「いや、俺が寝坊をしただけだ。すまない」
どこかの愚かしい弟の悪癖でも乗り移ってしまったのだろうか、とバージルは溜め息を吐きながら下ろしたままだった濡れた前髪をぎゅっとかきあげた。
「着替えるとなるともう少し時間がかかってしまうんだが……」
寝巻き代わりにしていたワイシャツとゆとりのある紺色のスラックスをメアはじっと見つめると、
「お着替え待つのは全然良いんですが、でもそのまま外に出てもおかしくはないと思いますよ」
私も似たようなものですし、とメアは昨日とは違うタンクトップとダメージの入ったスキニーデニムを示して笑う。
そういうものか、とバージルは独りごちると逡巡した後に部屋の鍵と革の財布をポケットに捩じ込み、閻魔刀を納めたアジャスターケースを背負った。ルームシューズから、カバーを取払った靴に履き替え、それで身支度が終わる。
気楽なものだ、と内心感嘆している自分がいた。常に戦闘態勢を取ることが当たり前になっていたんだな、と気づかされる。
メアは部屋に鍵をかけているバージルのアジャスターケースを不思議そうに眺めはしたものの、すぐににこりと微笑んでホテルのホールへと向かう。
「どこか行きたいお店とか食べたいものありますか?」
「いいや。……すまない、何も考えていなかった」
「大丈夫です!さっきフロントのお兄さんにおすすめのご飯屋さん教えてもらったんですが、バージルさんって食べれないものとかありますか?」
「特にはない」
「よかった。じゃあ、そのお店に行ってみませんか?」
首肯で返すとふわりとメアは笑う。その明るい赤毛と相まって夏の日差しの中で咲く花のようだ、と思った。
奇妙なひと、というのがバージルのメアに対する最たる感想だった。パーソナルエリアの詰め方が巧妙というか、快活でがむしゃらながらにこちらが不愉快になるラインはよく弁えている印象があったのだ。ただし、若い頃の自分ならば煩わしがって歯牙にもかけなかっただろうが。
愛嬌のある整った顔立ちに騙されている節も否めないが、それもまた才能のうちだろう。と、バージルは目を細めてメアの背中で揺れるショルダーバッグを見つめる。
今までは人と関わることを最低限に抑え、避けて生きて来たが、それもまた味気ない日常になることを知っている。嘘の名前、嘘のホテル、嘘の部屋番号、時を待たずして宿を立ち去る、どんな彼女を欺く選択肢を取ることも出来たがバージルはそれを選ばず、現にこうしている。
彼女との駆け引きは、ある種の戯れだった。






まだ日がそれほど射しておらず、外は爽やかな陽気だった。
岩石で出来た階段を少々覚束無い足取りで登って行く姿に、
「昨夜の怪我は大丈夫なのか」
「はい!血も止まりましたし、お薬塗って絆創膏貼ってあります」
「そうか」
昨日眺めていた石灰棚の群れを右手に見ながら街の中を進んでいく。観光客らしき姿もちらほらと多く、世界遺産のブランドはやはり飾りじゃないのだなと思わされた。それだけ昨夜のように食い物にする人間も多い訳なのだが。
ここです、とメアの案内で辿り着いたのは落ち着いた雰囲気の食堂だった。観光客よりも街の住人に愛されていそうなローカル感漂う、年季の入った白木作りの外観をしている。見ると既に何人か客も入っているようだ。
「美味しいって評判のトルコ料理屋さんだそうです」
どうでしょう?と小首を傾げて伺って来たメアにバージルは無言のまま首肯した。
やった、と笑いながら店に入って行く彼女の姿を目で追いながら、空腹感というものを思い出そうとしていた。
魔界にいた時間が長すぎたのか、いつしか食事を摂るという習慣が欠落していることには気がついていた。面倒なのでそのままでもまあいいか、と目を背け続けていたのだけれど。
メアはにこやかな初老の女主人と何やらやり取りをすると、銀色のプレートをずいと差し出して来た。
「英語大丈夫でした!選んだ後にお会計とのことなので、何でも好きなのをおばさんに取ってもらってください。パンは食べ放題だそうです!」
らんらんと目を輝かせ子供のようにはしゃぐメアについ笑みを零しかけて、バージルは頬の内側の肉をゆるりと噛んだ。食べることが好きなのか、と自分とはかけ離れたその姿が眩しくなる。
品数の多いカウンターの内側をぐるりと見回して、バージルはトマトとキュウリのサラダ とじゃがいもと肉団子の煮込み料理を頼んだ。気の良い女主人が前者はチョバン・サラタス、後者はキョフテという地元料理だと片言の英語で教えてくれた。
レジの横で皿に薄切りのバゲットを一つ載せるとメアが、えっ、と声を上げる。
「バージルさんそれだけで足りるんですか……」
「そう、だな。……朝食はそれほど量を食べないんだ」
「なるほど」
そう深刻そうに頷いたメアのトレーには既に四、五品は載っている。更にバゲットを幾つか取り分けてからメアはバージルの分もさらりと支払いを済ませると、首から下げていた小ぶりなカメラをそっと握った。
「もしよかったらお写真撮らせてもらってもいいですか?」
私の写真?と驚く女主人にそうです、と笑いかけて、メアははにかむ彼女に許可を得ると流れるように数回シャッターを切る。
「ありがとうございます。絶対綺麗に撮れてると思います」
そう言ってピースサインでニッ、と歯を見せて笑う。
ストレスを感じさせない一連の動作に、彼女にとってのカメラは自分にとっての閻魔刀と同じようなものなのかもしれない、とバージルはふと思った。肌身離さず、呼吸するのと同じように扱える道具が彼女の場合はカメラなのだろう。
窓辺の風通しの良いテーブルにつくと、メアは早速フォークを取り上げた。
「食べてもいいですか!」
「好きにしたらいい」
何故俺が許可を出さねばならない、と疑問に思いつつも「いただきます」と楽しそうに食事を口に運んでいくメアの姿につい視線を縫いとめられてしまう。
アイツも食べるには食べるし一応好物もあるようだがどこか気だるげで俺の食欲を誘うものではなかったな、とバージルはダンテの食事風景を脳裏に思い起こしていた。
美味しい、と微笑みながら頬を膨らませるメアの姿はさながらリスのようだ。
串焼きの肉料理をフォークで削ぎ落とそうと奮闘していたメアがはたと手を止める。
「バージルさん、食べないんですか?」
「……いや、食べる」
「お腹がすいてなくても、ちょっとでも食べた方がいいですよ。元気出なくなっちゃう」
むぐり、とチキンを頬張って笑みを滲ませるメアの姿にバージルはつい苦笑を漏らした。
「楽しそうに食べる君の姿を見ていると、俺まで食べた気分になってくるんだ」
「あはは、よく言われます」
「やっぱりな」
普段から健啖家なのか、とつい道中で見た彼女の体の線を脳裏に描いてしまったが特別太っている訳でもなく、どちらかというと痩せている方だったはずだ。得な体質なんだな、とバージルはフォークを取り、温かいじゃがいもにゆっくりと突き刺す。
最後にきちんと食事をしたのはいつだったか、思い出そうとしても思い出せなかった。
舌の上に乗ったじゃがいもがほろりと崩れるのを噛み締めてから、肉団子をフォークで半分に割る。じわりと染み出した肉汁をぼんやりと見ながら、口に運んで、ぎこちなく咀嚼する。
美味いか不味いかを測る秤がまず錆びついていることを、バージルは痛感した。使っていない器官が衰えて行くのは当たり前のことで、味の印象は蒙昧としている。
ただ喉を過ぎて胃の腑に落ちていく感覚はひどく懐かしく、ふと舌の上に蘇った母の手料理の味に静かに動揺している自分がいることに気がついた。
バージルは額を押さえて眉間に深い皺を刻みそうになるのをじっと堪える。
「お口に合いませんでしたか?」
不安げなメアの声にバージルはいいや、と感情の波を飲み下してから顔をあげた。
「美味くて驚いただけだ」
自分が作った料理を褒められたかのように喜ぶメアを見て、バージルはまた苦笑を零してしまった。






女主人が淹れてくれた食後のチャイを飲み、ひと息吐いてから、メアが何やらゴソゴソとショルダーバッグから引っ張り出す様子をバージルは静かに硝子のカップを傾けながら見つめていた。
「えっと、バージルさんにちょこっとだけ見ていただきたいものがありまして」
彼女がおずおずと自信なさげに差し出したのは二冊の写真集だった。表紙に印字された"メア・スカーレット"の文字にバージルは片眉を吊り上げる。
「君の作品なのか?」
「はい、一応出版社さんから発売されてます。こういう写真を撮っていて、決して怪しいものじゃないんですとお伝えしたく……」
二冊の写真集の表紙はそれぞれカラー写真とモノクロ写真とに分かれていた。バージルは先に目に付いたカラー写真の方を手に取る。表紙にはマーマレードのジャムで顔を汚した、幼いスパニッシュ系の少女が満面の笑みで写っていた。
中を開くとプロフィール欄のフォトジャーナリストという肩書きの下の生年月日で彼女と十三も年が離れていることを知りつつ、バージルはふと声に出してとある一行を読み上げていた。
「ピューリッツァー賞、特集写真部門を歴代最年少で受賞……」
時世に明るいとは自称し難いバージルでもその賞の名前は耳にしたことがあるくらい、有名な写真の賞のはずだ。
メアは苦々しい表情を隠そうともせずにそれは、と呟く。
「仕事で撮ったものが偶然、という感じで……その時の写真はこっちに載ってます」
と、モノクロの表紙の方を指さした。
そのままページを繰っていくと、色鮮やかな世界が広がっていた。野菜市場で座り込んで笑う少年、街角で土産物を売る少女、咲き誇った白い花の中に埋もれて微笑む老婆。モデルも国も雑然としていながらどの写真にも色や匂いや温度に溢れ、誰もが穏やかな表情をしていた。
「良い写真だな」
端的にそう思ったのでバージルが呟くとメアは肩を強ばらせて唇を引き結ぶ。
「世辞ではない。念の為、言っておくが……」
かつて"色"のない世界を彷徨っていたバージルからしたら、彼女が閉じ込めて切り取った世界たちはあまりにも鮮やかで眩しかったのだ。
「ありがとう、ございます……」
蚊の鳴くような声でそう零すと、メアはじんわりと口元に笑みを滲ませた。
カラー表紙の方を見終えたので、もう一冊の方に手を伸ばすと、その笑みが寂しげなものに変わる。
「そっちは仕事で撮った写真です」
フリーランスの報道写真家でもあるが懇意にしてもらっている雑誌や新聞社から指名が入ることも多い、と彼女は説明した。
表紙はもの悲しげに朽ちた壁にもたれ掛かりボロボロのくまのぬいぐるみを抱きしめている少女の写真だった。どこかの紛争地域なのかもしれない。
中を開くとモノクロの写真もカラーの写真も入り交じった構成になっていた。銃を抱いて夕闇の中で眠る兵士、片脚を失っても病院のベッドの上で笑いながら煙草を咥える青年、瓦礫の前に積まれた花束や蝋燭の灯りの前で祈る少女。そこに写る人々は誰もが悲しみを乗り越えようと奮闘しているように見えた。
本の中ほどでバージルはふと手を止めてしまう。
「それは人を喰う樹の事件の時の写真ですね」
そこにはクリフォトの木の根元で恋人らしき男の体を抱えて泣く女性が写っていた。他にも最前線らしき場所で悪魔と戦う特殊部隊員の姿や、崩れかけの悪魔の亡骸などが写っていた。
かつてはオカルト、の範疇で済まされていたはずの悪魔の存在がこうして形に残され世に出つつあるのを見ると時の流れを感じてしまう。
バージルは居心地の悪さを感じて、紅茶を一口飲んだ。
「よく生きて帰って来たな」
「昔から悪運が強いみたいで」
その樹を作り上げた張本人が今目の前にいると知ったら、彼女はどんな反応をするだろう?とふつり、とバージルは興味が湧くのを感じた。確かに彼女が言う通り悪運は強いらしい。
メアはついと目を細めると自嘲するような笑みを唇の端に浮かべた。
「私ずる賢いハイエナなんです。……奪われたものを少しでも取り返してやりたいから、撮ることしか出来なくて」
奪われたもの、を追求する気にもなれず、その泣きだしそうにも見える表情を、バージルはただ静かに見つめることしか出来なかった。






食堂を後にし、ホテルへの道を戻りながらメアは後ろ向きに歩きつつ声を上げる。
「お話できて楽しかったです」
「それはよかった」
そんな風に歩いているとまた転ぶぞ、と言うとメアは焦ったように踵を返した。
バージルはその風になびく短い切りっぱなしの赤毛を見つめながら、
「すまないんだが、」
「はい?」
「もう一度写真集を見せてもらってもいいだろうか」
メアは驚いたように目を見張ってから、淡々とカバンからハードカバーのそれを引っ張り出す。
バージルは街並みの路地の日陰に滑り込むと、空いたビール瓶のコンテナに腰掛け、もう一度彼女が撮った写真を眺めた。
人も悪魔も撮って来た彼女が写した自分がどのように、どんな"色"に写るのか、興味を抱いている自分が少なからずいたのだ。
穏やかに笑う表情、返り血を浴びて咽ぶ表情、気だるげに朝日を待つ表情。様々な人たちの光と闇を切り取って来た彼女が撮る自分は一体どちらに傾くのだろう?
「まだ俺のことを撮りたいのか?」
そう尋ねると、メアは静かに、けれども力強く一度頷いた。
「上手いポーズを取ったりは出来ないぞ」
ノリの良い実弟ならともかくバージルは不得意分野だ。
その言葉にふるふるとメアは首を振った。
「そういう写真を撮りに来た訳じゃないんです。私は自然な姿のバージルさんが撮りたい」
自然、と呟いてバージルは二冊の本の表紙を撫でた。
しばらく黙り込んでじっと言葉を選ぶと、
「……今日の夕方、イスタンブールへ向かおうかと思っていたのだが、君も来るか?」
きょろきょろと視線を彷徨わせてから、ようやく言葉の意味を理解したのかメアははっと息を止めた。
「いいんですか?」
「好きにしたらいい」
本を返すとメアはオリーブグリーンの瞳をキラキラと輝かせながら、ずいと右手を差し出して来た。
それについ微笑んでからバージルはそっと握り返す。
「よろしくお願いします、バージルさん」
「こちらこそ」

←TextTop
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -