――ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたときのように。


秋の日差しを孕んだ温かい土に錆びたスコップを突き立てた時、メアはふっと考えた。
この人生に意味はあるのか、と。
辺りを見回すと人里からは距離をおいた森の中、代わり映えのないコロニアルスタイルの一軒家が建っている。
メアはここで父と暮らしていた。
キッチン側の裏口から出て、なだらかな斜面を越えてしばらく行くと、木々が開けた広場があった。その真ん中で土を掘り返すのが、メアの家での主な仕事だった。
短く切り揃えても尚、爪の間に土が入り込み、ゆるい三つ編みに結ったブルネットの髪にも土埃が絡みつく。最初はグローブやキャップを身につけていたのだが、窮屈な思いになって取ってしまっていた。
腐った葉が主なので土はひどく柔らかく、身の丈ほどの穴を掘り終えるのにもそう長くは掛からない。
スコップを手に、穴の縁にかけた鉄製の梯子を登りきり、メアはぐっと縮こまっていた腰を猫のように伸ばした。
そして"これで最後にしよう"と小さく呟く。
それはとても小さな声だったが、強く自分に言い聞かせる響きがあった。
掻き出した土の脇に無造作に転がっていた古い麻袋を引きずってくる。家畜用の飼料袋を使い回したもので、大人一人は余裕で入れそうな大きさをしていた。薄れた豚の絵柄の入ったそれを開いて、穴に向かって逆さまに返す。
中から零れ落ちたのは乳白色の人骨だった。
頭蓋骨だけでも三つ、即ち三人分の骨がガラガラと空虚な音を立てて陰った穴の底に落ちていく。
メアは、いつもこの瞬間が嫌で堪らなかった。
独特の饐えたような臭いに息を止めてしまっていた。
額に滲んだ汗をTシャツの肩口で拭ってから大きく溜め息を吐く。
この人たちを殺したのも、死体を処理したのも恐らく父の手によるものだったが、遺棄する作業はいつの間にかメアの仕事になっていた。
ほの白く光る骨に土をかける。恨めしそうにこちらを見上げる頭蓋骨と目が合った気がしたが、そこには空っぽの眼窩しかなかった。
強力な酸で肉を剥がれた骨たちは漂白されて不自然なほどに白くなり、脆くなる。そして通常よりも早い速度でバクテリアに分解され、証拠らしい証拠はすぐに朽ちてしまうのだ。
あと何人の骨がここに埋められるのだろう、と考えかけて、止めた。
手を組み、短い祈りを捧げてから、メアは足早に裏口へと向かった。汗ばんだ土埃まみれの体を何とかしたかったが、シャワーを浴びている時間さえも今は惜しかった。
今日しかない、と思った。休日で学校は休みだったし、父は仕事でしばらく出かけている。勇気が挫けてしまう前に行動に移らないと。
自分の部屋に飛び込んで、一度ぐるりと室内を見渡した。木目調で統一された味気ない内装だったが、メアは自分の部屋がお気に入りだった。ここだけはいつも安全だった、ように思う。
ワードローブから古びたトランクを引っ張り出した。亡くなった母が使っていたもので、行ったことのない国のセキュリティラベルや母が好きだった映画のステッカーが鞣した牛革の上から乱雑に貼られている。
そこにメアは数日分の着替えと、貯めてきたお小遣い、お気に入りのくたびれたペーパーバックを一冊放り込んだ。さらに朝の食べかけのチキンサンドをフリーザーバックに入れ、チェリーコークの缶と一緒にぎゅうぎゅうに押し込み何とか留金をかける。
よし、と一息吐いて部屋を出かけたがそこで思い留まり、ベッドサイドに目を向けた。ウォールナット製のチェストがある。"忘れ物"を、していた。けれど持っていなくてもいいのかもしれない、とも思い躊躇ってしまう。
静かに抽斗を開けると、傷だらけの拳銃がぽつんと底に横たわっていた。父のお下がりで、譲り受けた時にスライドをシルバーモデルにカスタマイズしてもらったFN ブローニング・ハイパワーだ。メアはこの銃の名前が好きだった。力を分けてくれそうな気がしたから。……何人の血を吸ったのかは、考えないようにしていた。
悩んだ末、お守りだと思って持って行くことにした。ショルダーホルスターを身につけ、上からオーバーサイズのブルゾンを羽織った。
玄関脇で車の鍵を取り、ガレージに向かう。メアの愛車は高校入学のお祝いで父が買ってくれたピックアップトラックだ。型落ちの安物だったが、ベイビーブルーのボディカラーが可愛くてお気に入りだった。通学にも車で30分はかかってしまうほど、メアたちは森の奥まった土地に暮らしている。一番近くのスーパーマーケットまではもっと遠かった。
ガレージから車を出し、エンジンをかけたまましばらくメアは木々の隙間に落ちていくオレンジ色の夕焼けをぼんやりと見つめていた。
衝動的に、家を出ようと思った。
このまま父の言いなりになって生きていくのが苦しいと思ってしまった。今まで何の疑問も持たずに父の傀儡のように振舞って来たが、これから先の自分がふと見えなくなってしまった。
(父の仕事を継げと言われたら?きっと今までの私なら何も考えずに分かった、と答えてしまうだろう)
そんな想像に、背筋を寒気が走った。
変わらなくちゃ、と思った。メアはギアを変え、サイドブレーキを解除した。
どこへ行くのかは考えてもいなかった。手持ちの資金とガソリンが許す限り、なるべく人の多い遠くの街へ行こう。困ったらどうにかして稼げばいい。
滑らかに走り出したベイビーブルーの車体は、勢いよく森を飛び出して行った。









何度も同じ夢を見る。
兄が奈落の滝壺へと落ちていく夢だ。
間延びした時間の中で蒼いコートの裾が緩慢に揺れる。
あの掴めなかった身体に全力で手を伸ばしても、何回も何回も左の手の平に激痛が走る。
あの強く輝く、自分と似た青い瞳が闇に飲み込まれていく。兄は、バージルは、心無しか穏やかな表情をしていたと思う。そうあってくれ、と都合良く記憶を歪めているだけかもしれないが。
夢を見ているという意識だってあるのに、何故こうも嫌がらせのような夢を見続けなければならないのか。


惨憺たる明晰夢に飽き飽きして、ダンテは意識を引き戻した。
事務所の中は薄暗く、日はすっかり暮れ落ちていた。眠れたのかもよく判らず、身体は風邪を引いた時のようにだるかった。剥き出しの上半身がやたらと冷えきっているのは汗のせいだろうか。
クッションのくたびれたソファーから体を起こすとスプリングがギシリと軋んだ。力のこもっていた左手を解くと、爪が食い込んだ傷口から朱が滲んでいる。ひどい寝汗が顎を伝ってフローリングの床を叩くのと同時に、血が滴り落ちた。
傷口は一瞬で塞がっていた。いつも通りだ。何も変わってなんかいない、安心しろ、と独りごちながら、ダンテは立ち上がって壁際のスイッチを押した。仄かに眩暈を覚えたが、それもすぐに引いた。
部屋の隅の簡易キッチンで冷蔵庫をあさってトマトジュースを見つける。
仕事仲間でもある情報屋のエンツォが手配した業者に特急で修繕工事をさせ(費用はもちろんツケだったが)、事務所の体裁は一応整えた。あとは店名を決めれば本格的に仕事が始められるのだけれど、どうにも気乗りしない。その一言に尽きた。
テメンニグルの事件が起きてからまだ一ヶ月と経っていない。
マトモな感性の人間ならそのぐらいは落ち込むだろ、という少々ずれた言い訳を自分に言い聞かせながら、ダンテは漫然と日々を過ごしていた。
空になったトマトジュースの瓶をゴミ箱に投げ捨てる音をかき消すように、事務所のドアがノックされる。
「おーい、ダンテ、起きてるか?」
この湿気た声はエンツォだ、とダンテは細めた目で入口を見やった。
鍵は掛けていないので、ビールっ腹を揺らしながら男が姿を現した。ハンチング帽を脱ぎながら、くせっ毛を落ち着きなく撫でつけている。
「よぉ、エンツォ」
素っ気ない挨拶を返しながらダンテは机に腰掛けた。
気だるげなその様子にエンツォはハッと乾いた笑い声をあげる。
「おいおい、どうした? 元気がないな」
「誰かさんに睡眠妨害をされたもんでね」
長い前髪越しに視線を送ると、エンツォは困ったように苦笑する。
「最近眠れないってボヤいてたのはどこのどいつだよ」
こいつに愚痴らなければ良かったな、とダンテは軽く肩を竦めた。一昨日くだらない仕事の話を持って来たエンツォを追い返す理由に睡眠不足を挙げてしまったのだ。弱味を握られたようで気まずい。
「まあ、この街のやつらはみんな、あんな事件があったんでおちおち寝ても居られなくなってるけどな。教会と薬屋が繁盛してるって聞いたぜ。睡眠薬は品薄なんだろうな」
そうか、と返す声が掠れた。エンツォはバージルが件の騒動に深く絡んでいることを知らないし、ただの世間話として言っているのは重々判っている。それでも、この街の人々に残った後遺症を思うと胸が膿んだように痛んだ。
眩暈がまたしてくるような気がしてダンテは眉間を強くつまむ。
「それで?何の用だ」
またしょうもない案件だったら叩き出すぞ、と付け加えると「おお、こわいこわい」とエンツォが笑う。
「今日は仕事の話じゃねえよ。気晴らしに呑みに行こうぜ」
「今は酒の気分じゃない。呑む前から二日酔いみたいな気分なんだよ」
「でも呑めない訳じゃないだろ?こんな時はパーッと呑んで忘れるに限るぜ」
能天気なエンツォの顔を見ているうちにダンテはああ、と気がついた。彼なりに心配してくれているのかもしれない、と思った。
暫く思案して、分かった行くよ、と返すとエンツォは小さく歓声を上げた。
「お前がベロベロに酔わないうちに言っとくけどな、金はないぞ」
そこでエンツォは待ってましたとばかりにニヤリ、と笑う。
「ないなら稼げばいいんだよ」
純粋に、嫌な予感しかしなかった。




そこは『スペース・モンキーズ』というネオンサインが輝く酒場だった。開店したてらしく、祝いの言葉があしらわれたチープなアルミバルーンが軒先で揺れていた。真新しいオーク材のドアを開けると、地下に降りて行く階段が伸び、音の洪水に飲み込まれていく。
フロアに出ると想像以上の人の量に圧倒された。ロックチューンやEDMを吐き出しながら震えるスピーカーと同じくらいの罵声が飛び交っている。特に店の中央が酷いようだった。
人混みから頭一つ抜けて背の高いダンテでも、簡単に様子をうかがい知ることが出来ない。
「もっと近くで見ようぜ」
いつの間にかエンツォが両手にビールのジョッキを携えて立っていた。飲み口の軽い冷えたビールをあおりながら奥へ向かうと、高い金網が現れる。金網の正体は簡易闘技場のような檻で、中では殴り合いの試合が行われていた。
「いわゆるファイトクラブってやつか」
ルールも無いに等しいに違いない。ちょうど鼻っ柱を砕かれてノックダウンした男が吹き上げた鼻血がブーツの爪先まで飛んできた。倒した男は連勝記録の保持者らしく、雄叫びと共にガッツポーズをしている。筋骨隆々の大男と言って差し支えないだろう。司会役の熱弁でマイクがハウリングを起こし、負けた男への投票券は紙吹雪のように賑やかに宙を舞っていた。
「腕に覚えがある奴は戦えばいいし、それ以外は賭けたきゃ賭ければいいのさ」
「お前が何を企んでるか判ったぞ」
「なあ頼むよ、ダンテー!」
情けなく八の字に曲がるエンツォの眉をじろりと睨みつけた。
「俺は悪魔相手にしか喧嘩しないんだ。再三言っても忘れちまうようならお前の額に刺青にして刻み込んでやりたいね。鏡を見た時に思い出せるように反転しといてやるよ」
ジョッキをあおってさっさと退散しようとするとエンツォが情けない声をあげながら腕にしがみついてきた。
振り払おうとしたところで新しい挑戦者のコールが響き渡る。場内は一瞬で嘲笑に包まれ、何事かとダンテも思わず闘技場の入口に目を向けた。
先刻の勝者である山のようにそびえ立つスキンヘッドの巨人と対峙していたのは、華奢な女性だった。否、少女と言ってもいいくらいの若い娘のようだった。腰まで伸びたブルネットの長い髪をきつく三つ編みに結い、両手と両足はボクサーのようにテーピングで保護している。青いタンクトップとデニムのハーフパンツから伸びた白皙の四肢にはいくつかの淡い古傷と靱やかな筋肉がついていたが、それも巨大な敵を前にするとひどく覚束無く見えてしまう。
『今宵のダークホースの登場だ!さあ賭けた賭けた』
煽る司会の声もブーイングと嘲りの嵐に巻き込まれる。女が男の舞台に上がって来るな、勝負にならないから怪我する前に止めちまえ、という怒号と聞き苦しい猥語が響いていた。
「あんなに可愛いのにボコされちまうのか」
エンツォの声につられて少女にじっと目を向けると印象的な青い瞳をしていることに気がついた。デジャヴを感じてダンテは胸の隅にざわつきを覚え、目が離せなくなる。
そして高らかにサイレンが鳴り響き、檻の中で戦いが始まった。
少女の動きは獣のように俊敏だった。速攻で片をつけたいのだ。持久力戦に持ち込まれたら負けるのが目に見えているからだろう。油断している下卑た笑みを浮かべる男の目玉に一発右ストレートがめり込んだ。痛みによろめく男の腕を掴みながら脛をすくい上げ、相手の体重を利用していとも簡単に足払いをかけてしまう。
その光景に場内がいっそう騒がしくなった。罵詈雑言の対象は少女から男へとあっさり切り替わっていた。
少女は猫のようなしなやかさな所作で金網をよじ登ったかと思うと、次の瞬間には高く飛んでいた。ようやく立ち上がった大男の鼻っ柱に全体重をかけた膝蹴りを食らわせ、もう一度床に沈める。そして首根っこに太ももを絡ませ押さえ込み、男の腕を関節に反するように背中側へと捻りあげた。
"首の骨を折られたくなかったら降参した方がいい"
鋭い眼差しをした少女の唇がそう動くのが見えた。
酸欠に歪む男の顔が見る見るうちに熟れた林檎のように真っ赤になっていく。ジタバタともがくも上手いことあしらわれ、絞め技からは一向に抜け出すことが出来ない。
この街は確かに治安が悪く喧嘩の強いやつは多い。だが少女の動きは多少遊びこそあれ軍隊で教える近接格闘術に近かった。喧嘩殺法で鍛えた素人の腕っ節と、プロの格闘術を身につけている者とでは対応力に開きが出るのは致し方ないことだ。
少女の三角絞めから抜け出せないまま、男はとうとう意識を手放した。
一瞬の静寂の後、けたたましいサイレンが響き渡り、阿鼻叫喚の歓声が弾けた。投票券が舞い、フロアをあっという間に埋めつくしていく。大半が少女の負けに賭けたのであろう。店側からしたらさぞかし儲かったに違いない。
「おっかねえ」
「あの子、すげえな」
純粋な感嘆の言葉がダンテの唇から漏れるのと同時に、紙吹雪のカーテン越しに額の汗を拭っている少女と目が合った。サファイアのような瞳が大きく見開かれ、こちらへ駆け寄ろうと重心が動いたものの担架で運び出される気絶した大男に行く手を遮られてしまう。
「でもまあ、あんな華奢な子、天下のダンテ様ならひと捻りだろ?」
「それ本気で言ってたらぶちのめすぞ」
「冗談だよ」
エンツォに空いたジョッキを取り上げられ、少女を横目に二杯目を催促しにカウンターへと足を運ぶ。
エンツォは同じものを、ダンテはボンベイサファイアのストレートを女性バーテンダーに頼みながら席につく。
「女子供は相手に出来ねえ」
「じゃあそれ以外の野郎なら問題ないってことだな?」
そうは言ってない、と発言を打ち消すのも面倒くさくなってダンテは小さく舌打ちをした。
エンツォの戯言を聞きながら冷えたジンを喉に流し込んでいると、目の前の人の群れが唐突に割れる。
「すみません、ここを通して」
奇異の視線を浴びながら人混みから転がり出たのは先程の少女だった。長い三つ編みが今は解かれゆるいウェーブを描き、カーキ色のオーバーサイズのブルゾンを羽織っているので、闘技場に居た時よりも更にそこら辺に居そうな女の子にしか見えない。
「こりゃ有名人のお出ましだ」
酔いの回り出したエンツォが楽しそうに両手を叩くので、ダンテはうるせえ静かにしろとその頭を押しのける。
先程の勇ましい表情とは対称的に、目の前の彼女は至極自信がなさそうに見えた。履き古した白いハイカットスニーカーに視線を落としながら、
「あの、もしかして貴方、「ねえ君、一杯奢らせてよ!」
まごついた言葉が酔客に遮られる。赤ら顔の若い男が少女の肩を無理矢理抱きながらカウンターになだれ込んできた。
「さっきの試合すごかったよ、俺間違って君に賭けちゃったんだけどさ、無事に勝ててサイコーだった。めっちゃ儲かっちゃった」
「あ、ありがとう……」
蚊の鳴くような声というのはこういう事なんだろうな、とダンテは隣の少女と男の話し声に耳を澄ませていた。首を傾げて視線を送ると困ったように垂れ下がった青い瞳と目が合う。
(そんな子犬みたいな可愛い顔されてもなァ)
「君、お酒は何が好きなの?」
「私まだお酒飲める歳じゃなくて……」
「こんな時間にゴミ溜めみたいな所に出入りしてんのに、そういうところは真面目なんだぁ」
でも俺そういう子好きだよ、と男の手が少女の背中から腰のラインに下っていくのを見てああもう、とダンテは苛立ちながら前髪をぐしゃりと掻き混ぜた。
「おい、悪いなオニイサン」
奔放な右手を軽く捻りあげると男の口から悲鳴が飛び出す。このくらいで情けない声出すな、と呆れながらダンテは男の襟首を掴んで椅子から引きずり下ろした。
「この子は今俺と喋ってたんだ。邪魔しないでくれるか?」
言い返そうと開いた男の口がダンテの銀髪と真紅のコートを認めた瞬間に噤まれた。"便利屋"のダンテの存在は既にこの街に知れ渡っている。あからさまに顔から血の気と酔いを引かせながら男は言葉を絞り出した。
「そ、そうか、悪かったよ」
「聞き分けが良くてよろしい」
手を離してやると男は脱兎の如く逃げていった。両手の埃を払い除けながら、ダンテは息を吐く。
「とんだ邪魔が入ったが、それで?」
ご注文は?と少女に尋ねると、魚のように口を開閉させた後、きょときょととカウンターの棚に視線を走らせた。
「チェリーコークってありますか?」
バーテンダーの首肯にほっとしたような表情を見せる少女と先程の試合光景がますます乖離していく。
ダンテは頬杖をつきながらしげしげと少女を眺めた。
「あんなクソ野郎あんたなら自力でぶちのめせるだろ」
「嫌だったんだけど、あんまり騒ぎとか起こさない方がいいのかなあって思っちゃって。助けてくれてありがとう」
ちょうど次の試合が始まり、かつ賭けの取り分で揉めているらしき客共の乱闘も真後ろで始まっていたのだが、この空気感の中でもそんなお堅い事をのたまえる彼女は一体何なのだろう、とダンテは笑い出しそうになった。
届いたコーラの氷を揺らしながら美味そうに喉を鳴らし、少女はふうと息を吐いた。試合が終わってすぐに着替えて飛んできたのだろう。テーピングをしたままの両の手でグラスを持つ動作は頼りなかった。休憩する時間もなかったに違いない。
「気のせいだったらスルーして欲しいんだが……試合の後、俺のこと見てなかったか?」
こくこくと頷きながら、少女はコーラの着色料で僅かにピンク色に染まった唇をちろりと舐めた。
「ちょうどね、貴方のこと探してたの」
便利屋のダンテさん?と改めて確認されてまあそうだな、と返すと少女の顔がぱっと晴れた。わざわざ探すということはワケありなのだろう。面倒事じゃなければいいが、と目を眇めながらぬるくなったジンを舐めた。
「この街で一番腕の立つ人は誰かって、情報屋のおじさんたちに聞いたらみんな口を揃えて貴方の名前を挙げたから」
少女は足元に転がしていた古びたトランクケースを開けると徐ろにくしゃくしゃの茶色い紙袋を取り出して、ダンテの前に差し出した。
「なんだ?遅いランチタイムか?PB&Jは好きだぜ」
「さっき稼いだ一万ドル。現金よ」
「hmm……」
金の話しを聞きつけて微睡んでいたエンツォが後ろから割って入ってきた。とんでもなく耳ざとい。
「おい!依頼の話なら仲介屋の俺を通してくれないと!」
「うるせえな。バーマンさん、悪いがコイツにもう一杯ビールをくれてやってくれ」
どこもかしこも邪魔者ばっかりだ、とダンテはエンツォの顎を肘で押しやりながら唇を曲げて舌打ちをする。
少女はトランクを膝の上に抱えたままゆらゆらと不安げに足を揺らした。
「あの、もし足りなければ追加でまた稼いでくるから、これは前金でも全く構わない」
「そう焦るなよ、お嬢さん。"主語"が抜けてるぜ」
ダンテが両手を挙げて顔を僅かに顰めると、少女はそうだったと頷き、
「えーと、何から説明しようかな……」
「あんた名前は?」
助け舟代わりに問いかけると少女は少し悩んだ後、
「メアよ。メア・スカーレット」
ちゃんと本名よ、と少しはにかんでメアは顔に掛かる髪をひと房耳にかき上げた。
「それでね、えっと、貴方にお願いしたいことがあるの。"便利屋"のダンテさん」
メアの青い瞳が不安げに揺れるのを見つめながら、ダンテは強い香草の匂いを吸い込みジンを飲み干した。
「とある人から、私の命を守ってくれませんか?」






『スペース・モンキーズ』を後にすると来る時はざわついていた気がする街中も嫌に静かに聞こえた。慣れない騒音で耳がバカになっているのかもしれない、と思いつつメアは必死にアスファルトを蹴った。
「お願い、待って!もう少し説明させて……!」
酔っ払ったエンツォを小脇に引きずっていても尚、ダンテの歩くスピードは早く、トランクを持ったままでは追いつくのにも手間取ってしまう。
「悪いが何言っても無駄だと思うぜ。俺は"生体処理"は苦手分野なんだよ。ボディガードには向いてない」
「情報屋の人たちはそんな風に言ってなかった!」
靴底を高く鳴らして大通りを歩いていた真紅の背中が突然ぴたりと止まった。ぶつかりそうになってつんのめったメアの身体はダンテの片腕ですくい上げられ、いつの間にか背中が雑居ビルの冷たいコンクリートの壁に貼り付いていた。前腕で喉笛をぐっと絞められ息苦しさを覚えたが、まず反応出来なかったことに何よりも驚いた。
「誰に狙われてるのか知らないけどな、生憎俺は人様の命に責任持てるようなタマじゃないんだよ」
悪いが諦めてくれ、と言われても納得出来るはずがない。苦々しく歪むダンテの顔を見たら尚更だった。
壁と腕の隙間に手を捩じ込み、ダンテの右手首をやんわりと返す。関節技を決めてもその顔は痛みなど感じていないかのように涼しげだった。父も痛みに疎い人だった、と過ぎりかけた記憶を意識の片隅に追いやりながらメアはぱっと手を放して拘束を解き、げほりと咳き込んだ。
「そういうお金目的じゃなくて責任感がある人じゃないと私は嫌なの」
「期待外れだと思うぜ」
それは私が決めることでしょ、と踵を返して逃げようとするコートの裾を捕まえるとあからさまに溜め息が上がった。
「聞き分けのないお嬢さんだな」
「そんな事言われたって、貴方だって"主語"が足りてないわ。まず"生体処理"ってどういう意味なの?」
それを説明させるのか、と言いたげなうんざりとした眼差しが不意にメアの背後をじっと射抜いた。つられて振り返ると、つんざくような女性の悲鳴が上がる。
反射的に声の方に駆け出していた。
「おい!待て、メア!」
ダンテの制止の声も無視して煙草屋の脇の路地裏に飛び込む。室外機やゴミ箱で混沌とした道の先で、女性が走っているのが見えた。大きな暗い影がその後を執拗に追いかけている。目を凝らして先を見ると、案の定路地は袋小路のようだった。
早く助けないと。メアはトランクを放り出しながら、右手のテーピングの端を犬歯で噛みちぎった。この手では銃を握れない、と咄嗟に思った。走り抜けた後に白い軌跡が描かれていく。包帯とテーピングを解き終わった手でホルスターから銃を引き抜いて構えた。
「動かないで」
袋小路で腰を抜かして震える女性に立ち塞がる影に銃口を向けた。切れた息を押さえ込みながらセーフティを外す。両手を挙げてゆっくり振り向きなさい、というメアの指示にくつくつと背中が揺れた。
「ああ、間違えてたんだなぁ俺は。その声だよ、その声。"首の骨を折られたくなかったら"、だ」
暗がりから白い月明かりの下にぬっと現れたのは先刻対戦した大男だった。名前は、何といったんだっけか。
「貴方こんな所で何をしているの?」
男はメアの質問を無視してざらついた笑い声をあげた。
「今しがた気がついたわ、"コイツがお前じゃない"ってなぁ」
追い詰められている女性を見ると確かに背格好や服装がメアとよく似ていた。この夜闇に包まれていては差異も曖昧になり確かめようもない。が、それにしても早急すぎる。頭に血が昇っているのか? メアは眉間に皺を寄せて嫌なやつ、と吐き捨てた。
「闇討ちなんて男として恥ずかしいと思わないの?」
「俺に恥かかせたヤリマンがこの世から消えてさえくれればそれでいいのさ」
何と罵られようと今はどうでもよかった。いつでも撃てるようにトリガーに指をかけながら男からは片時も目を離さず、メアは空いた片方の手を差し伸べる。
「そこの貴女、動ける?」
声もなく生まれたての小鹿のようによろけながら少女が走り寄って来た。剥き出しの膝小僧が擦りむけて血が滲んでいたが、大きな怪我はしていないようだった。
倒れ込んできた体を支えて背後に庇う。少女はひどく怯えたままで肩口にしがみつく手が震えているのを感じた。私のせいだ、とメアは自責の念に駆られた。
「私たちはこのまま立ち去りたい。貴方だって死にたくはないでしょう」
「大人しく逃がすとでも?」
「……もっと救護室で寝てればよかったのにね」
殺すという選択肢は無論なかったが、膝でも撃ち抜いて時間を稼げば撒いて逃げられるだろうか。それともまた絞め落としてやろうか。様々な選択肢が脳裏を駆け巡ったが、次の瞬間視界を埋めた光景に意識が真っ白になった。
巨大な男の体が二つに引き裂かれ、内側から男の体積を明らかに超えた大きさの蜥蜴じみた生物が飛び出したのだ。
モンスター映画のワンシーンにしても出来すぎている現実に思考回路が追いつかずフリーズを起こしていた。
二足で立ち、体表は偏光色の鱗に覆われ赤い血でぬめりを帯びていたが、纏っていた男のものかもしれず、この生物自体の血が赤いのかすら怪しかった。
サメのような歯が喉の奥までびっしりと並んだ青い顎が目の前でぐわりと開き、生臭い匂いが鼻腔を刺す。そこでやっと耳元で鳴る警鐘に気がついて、体が脊椎反射で行動を起こしていた。
震える少女を抱えてバックステップで怪物の噛みつきの動作から逃れ、強ばっていた指がようやくトリガーを引いた。銃弾は怪物の凶悪なトラバサミのような口内に吸い込まれていったが、一発やそこらではダメージにならないようだった。今まで人間の殺意に触れたことは何度かあったが、人ならざるものが発する気配というのは得体が知れずひどく不気味だった。素直に"怖い"と感じている自分がいる。
「走って!逃げて!止まっちゃダメ!」
メアがようやく絞り出した声に弾かれるように、かばっていた少女がもんどりを打つように逃げ出した。メアは後ずさりしながら目玉や心臓、眉間と弱点と思しき位置に何発か弾を撃ち込んだが、着弾しても体液は出ず砂が舞うきりで怪物の歩みは止まらない。お願いブローニング・ハイパワーどうか力を、とメアは愛銃に祈った。
しかし、祈りも虚しく後ずさりしていた踵が固い何かに当たりバランスが崩れる。恐怖で狭まっていた視界の端に金属製のコンテナが映った。その隙に付け入るように怪物が鳥のような叫び声を上げながら地面を蹴って高く跳躍した。ここで食われてたまるものか、とメアは奥歯を食いしばったが打開策は咄嗟に思い浮かばなかった。そこへ不意に、
「なあ、忘れ物だぜ」
耳朶を柔らかい囁き声が撫でた。転ぶと思った衝撃は訪れず、覚えのある感触に抱きとめられていた。たたらを踏みながらもコンテナの上にぺたんと座り込む。
足元にはいつの間にかトランクケースが帰って来ていて、何が起きたのかとメアは目を二、三度瞬かせた。視界を白銀と深紅のシルエットが掠め歪みながら飛び去っていき、ダンテなのだと気がついた。
そこからは所々フィルムの焼き飛んだ映画を見ているような思いだった。白と黒の二挺拳銃が月の光を受けて鈍く煌めくのが見えた。ダンテが淀みなくトリガーを引くと辺りには嵐のような旋律が響き渡る。サブマシンガン並の、常人には真似の出来ない射撃速度だ。まず普通のハンドガンではボディが持たないだろう。
そんな事を考えながら、メアは自分の中の恐怖が潮のように引いていくのを感じていた。
銃弾の雨を浴びて蜥蜴の体が空中に力なく投げ出される。そこへメアの背丈ほどもある両刃の剣が何処からともなく飛んできてダンテの手中に収まった。繰り出された鮮やかな斬撃によって、蜥蜴の体は一瞬でハラハラと砂の欠片になって霧散した。
ダンテが悠々と地面に降り立つ頃には、何事も無かったかのような静寂が戻って来ていた。
彼の背負う剣がキラキラと光るのを呆然と見つめていると、
「怪我はないか」
「いまのは、いったい、なんだったの」
「俺の火遊びのお相手だな」
ダンテは悪魔と狩人の存在をメアに説明した。信仰心には乏しい家庭で育ったので案外すんなりと飲み込めたのだが、まず人に化け人を食らって唆すような魔物と対等に渡りあっていた彼が少しだけ怖くなる。"生体処理"と彼が遠回しな表現を選んだ理由がよく判った。
「立てるか」
すっかり腰が抜けて座り込んでしまっていたのだが、差し出された手に掴まる。と、皮膚の表面をざらりと撫でた気配にメアはじっとダンテの顔を見上げた。この気配はさっきの魔物が放ったものと心なしか似ている。
「もしかして貴方も人じゃなかったりするの?」
メアの問いかけにダンテは目を細めて微笑んだ。
「さぁ、どうだろうな?」
その瞳を見上げながら、真意は判らないにしろ、彼は暴漢や悪魔からも助けてくれたし、単純に良い人じゃないか。とメアは一つ一つ起きた出来事を反芻しながらダンテの温かい血の通った手の平をぎゅっと握った。
「ごめんなさい、失礼なこと聞いちゃった。どうでもいいことだもんね。忘れてください」
立ち上がって手を離すと、少し拍子抜けしたようなダンテと目が合う。
「どうかした?」
「いや、なんでもないんだ」
なんでもない、と繰り返しつつ下唇を噛みしめるダンテの表情を覗き込むと、今度は逆にじっと見つめ返されてしまう。メアの瞳より色の薄いアイスブルーの光がどこか悲しげに揺れている気がした。もう少しその深淵を覗いてみたいかもしれない、そう思った時にはダンテから視線がふいと外されてしまっていた。
メアが残した包帯の白線を辿るように、袋小路の出口に向かう背中をとぼとぼと追いかけていると、
「……考えたんだけどさ、」
ゴミ箱にもたれ掛かるように地面で寝こけているエンツォを爪先で突きながら、ダンテがぼんやりと声を上げた。
「もしも俺の仕事を手伝ってくれたら、さっきの依頼引き受けてみなくもな「よろしくお願いします!!!」
「おっまえ返事が早すぎるだろ。ちゃんと考えたのか?」
俺の話聞いてた?と眉を顰めるダンテに向かってメアは深刻な面持ちで頷いた。
「私でも悪魔を倒せるのか判らないけど」
ダンテはふっと唇の端で笑うとメアの頭をぽん、と一度撫でてから、
「大丈夫だろ」
さーてこのオッサンを処理しねえとな、とエンツォの襟首を掴んだ。
「こいつ家まで送るの面倒だから、適当な店に預けてくる。ほっといたら野良犬の餌にでもなっちまいそうだからな。ちょっと待っててくれ」
と言って近場の娼館らしき建物に引きずっていった。
頭を撫でられるなんていつぶりだろう?とメアは残った感触に手を置いた。母が亡くなって以来かもしれない、と考え込みながらトランクを抱えて待っているとダンテはすぐに帰って来た。
「それで、どこに泊まってるんだ?危ないから送る」
その申し出にあー、とメアは生返事にもなりきらない呻き声をあげた。
「ずっと車中泊してたんだけど今朝隣街で車ごと売っちゃって……まだどこにも宿取ってないの」
金銭の工面よりも、特徴的な車両だから足がつきやすいかもしれない、と思っての意味合いの方が強かった。
メアの返答が予想外だったのかダンテがぎくりと口元を強ばらせるのが分かった。
「隣街って40kmは離れてなかったか……?」
「そうかも。かなり歩いた気がする」
呆れたようなダンテの表情にどんどん自信が吸われていく心地がした。引かれてる?私何か変なこと言っただろうか、とメアは俯いてぼそぼそと呟く。
「どこもホテル代高いし、長く居るようなら安アパート探した方がお得かなあとか色々思って、でも保証人とかどうしようかなあとか」
闘技場の存在を知る前だったし、この先何があるかも判らないから出費は最小限に抑えておこうと思ったのだ。
「夕方頃ぐるっと見て回ったら二十四時間営業のお店結構あるし案外何とかなるかもって、」
「OK、オーケイ、判った。あんたが世間知らずなことはよーく判った。頼むからちょっと黙っててくれないか」
しぃっ、と唇に人差し指をかざされてメアは大人しく口を閉ざした。
ダンテは低い呻き声を上げたり前髪をくしゃくしゃとかき混ぜたりしたかと思うと、溜め息混じりに、
「とりあえず、今日はうちに泊まってくれて構わない」
「えっいいの?」
「いいよ。そもそも依頼はいつまで受ければいいんだ」
それが一番の問題だった。メアはしばらく考えた後、
「一ヶ月、かな」
その間安全を確保してもらってお金を貯めて体制を立て直せれば何処へでも逃げられるし好きに生きられるだろう、と思った。あの人も諦めてくれるかもしれない。それでもダメならその時はその時でゲームオーバーだ、と思った。
「じゃあその期間は近くにいてもらわないと困るって訳だな。一ヶ月くらいなら何とか住めると思うけど」
「えっ」
「あ?お前が言い出したんだろう?」
そっか!そういう事になるのか!と吃驚して目を見張ると、ダンテが居心地悪そうに眉を顰める。
「ボディガードってそういう意味じゃないのか」
「いや合ってるよ!合ってます!私の考えが足りなかっただけ……」
「心配すんな。何もしないよ」
歩き出したダンテの後を追いかけると、しばらく二人の間に沈黙が落ちた。気まずい。色々浅はかだった。申し訳ないことをしてしまった、と後悔の念に駆られていたメアに、これも聞き忘れていたとダンテが尋ねてくる。
「誰に狙われてるのか目星はついてるのか」
メアはすっと心の奥底が冷えていくのを感じた。不思議と狼狽はしなかったし、依頼相手にどう思われようと仕方ないことだと最初から腹を括っていたことだった。
「うん。お父さん」
そのあっさりとした返答にダンテは足を止めて振り返ると、メアの冷たく凍えた瞳を数秒推し量るように覗き込んでからまたぽん、と一度頭を撫でた。
「そっか」
その優しい感触と声に無性に悲しさが込み上げてきて、メアは目蓋を強く閉ざして涙を堪えた。
「よろしくお願いします」
改めて言うとダンテは可笑しそうに笑い声をあげた。
「頑張ってくれよ、デビルハンター見習いさん」

←TextTop
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -