ーーああ、またこの夢か、と思った。
辟易する滝の音にダンテは思わず耳を塞ぎそうになる。
アミュレットを胸に抱きしめたバージルがじりじりと滝壺に向かって後退りする。
頼むから待ってくれ、行かないでくれ。
青いコートがひらりと舞い、白いシルクのスリップドレスに移り変わった。
視線を上げる。そこには、メアがいた。悲しげな、あのヘッドライトの逆光の中で見たのと同じ表情をして。
メアとバージルの姿が二重に震えノイズが混ざる。オーバーラップの残像を残しながら、宙を舞った。
俺はまた繰り返してしまうのか?とダンテは自問自答しながら手を伸ばす。
二人の体が奈落に落ちていくのを見ながら、意識は逆に上へと登っていく。




Driiiiing……Driiiiing……
目をこじ開けると電話のベルの音が聞こえた。いつもの耳慣れた事務所の電話のものとは違う、もっと甲高い音でやたらと頭に響く。
電話ボックスの脇に車を停め眠っていたダンテは窓ガラスをゆっくりと開けると受話器を取る。
『やっと出た。人を急かしておいて自分は呑気なもんだな?』
「悪い、寝てた」
ハジェンズを追ってきたクラブからそう離れていない、街外れの寒々しい高架橋の下は人気もなく静かだった。遠目には飲みすぎてゾンビのようにノロノロと歩いている人影とさっさと帰って化粧を落として眠りたがっているように見える足早な夜の女たちが見える。空に目をやると澄んだ水色をしていて目に沁みた。
『知り合いの刑事叩き起すの大変だったんだからな?』
「判ってるって。次回のお前からの仕事は何でもさばいてやるから許してくれ」
その言葉忘れんなよ、と呪詛混じりの声音で呟いてエンツォはダンテの依頼した件について話始めた。
『アンタが追ってる車、その街から一番近いハイウェイのゲートを通過した記録があった』
そうか、と少しだけ肩から力を抜いてダンテは溜め息を吐いた。がむしゃらに追うのもリスキーすぎると思い、メアを連れ去った男の車をどうにかして追いたい、とナンバーと車種だけエンツォに告げて超特急の無茶振りの依頼をかけたのだ。普段は腰抜けのろくでもない男だがやる時はやるんだよな、とダンテは電話口の向こうで揺れているであろうビールっ腹を脳裏に描いていた。
『一時間前の記録だが、まだどこのゲートにも入っていない。降りたゲートの先に主要な街は一箇所だけだ。その街の先はしばらく乾燥帯の野っ原になっちまう。この短時間じゃそこまでしか絞り込めなかった』
「今はそれで充分だ。とりあえずその街に行ってみる」
住所を聞き出し、ダンテは車のエンジンをかけた。急げばまだ間に合うかもしれない、と気が焦る。
「ありがとな、エンツォ」
『なあダンテ』
電話口のエンツォが少しとぼけた声で言う。
『お前、ちょっと丸くなったな』
「うるせぇ」
がちゃん、と乱暴に受話器を置いてダンテはアクセルを踏み込んだ。






ブラックアウトしていた意識が戻って来るのと同時に焼けたような体の熱さに勝手に呻き声が漏れた。体の内側から皮膚に向かって刺すような痛みと熱に苛まれ、いっその事ずっと気を失っていた方が良かったのではと思ってしまう。安っぽい薄汚れたモーテルのカーペットの上にメアは倒れていた。
窓の外に目を向けるととっくに外は明るく、昨夜着ていた赤いドレスのままだった。化粧をしたままの肌がじっとりと汗ばみ、皮脂と汗で流れ落ちたアイシャドウが目に沁みた。
耳を澄ますとシャワールームから水の流れる音が聞こえてくる。アダムは風呂に入っているようだ。
履いていたヒールを脱ぎながらどうにか体を持ち上げて時間を確認するともう15時近かった。12時間近く気絶していたのか、とメアは唖然とした。
昨夜、アダムに昏倒させられた記憶はあるのだがそれにしても長すぎる。何かしらの薬物を打たれたのかもしれない。
倒れ込むようにソファーに腰掛けてテーブルの上に置きっぱなしになっていたミネラルウォーターのボトルをあおってからぼんやりとすると、昨夜のダンテのことを自然と思い出してしまう。
ひどい手紙を残して黙って居なくなったのに、探しに来てくれて、帰ろうって言ってくれた、それなのに。
最後に見た光景に胸が締め付けられる思いがした。あの銃撃くらいで彼が死なないのは判っていたが、それでもショックなものはショックだった。こうなるから探さないで欲しかったのだ。
「起きたか」
浴室から出てきたアダムを胡乱げに見上げながらメアはほつれた髪を耳にかけた。
「……私、お父さんの言う通りにしたよ」
胸元から膝に掛けてついた乾いて黒ずんだ血飛沫に目を落としながら、メアは喉を震わせる。
「ちゃんとハジェンズを、殺した」
風呂上がりの湯気の中で煙草に火をつけ、アダムはふっと煙を吐く。黙ったままのアダムにメアは怖くなってドレスの裾をぎゅっと握った。体が火のように熱いのに心が薄ら寒かった。
「だから情報を頂戴」
じろり、とアダムはメアを睨みやると足元に転がっていた仕事用のカバンの中から黒いレザー製のポーチを取り出した。開けると注射器と薬液の入ったバイアルが覗く。アダムは二の腕をゴム栓で縛ると、慣れた手つきで薬液を注射器で吸い出し、的確に血管を針で捉えた。
何を打っているのか考えたくもなかった。彼はメアが知る限りでは健康体で持病もないはずだ。
「……あいつを何とかしないと厄介なんじゃないか?」
注射を終えたアダムが何を言っているのか一瞬判らず、メアはあいつ、とオウム返しにする。
「あの男だ。俺も顔を見られたし、簡単には死なないんだろう。逃げられないよう、どこかに閉じ込めでもするか?」
そこでやっと言葉の意味が繋がった。
「ねえ、待ってお父さん」
ダンテは関係ない、とメアはアダムに詰め寄る。
「私もうどこにも逃げないから!ずっとお父さんの傍にいる……仕事もちゃんと手伝う。だから、」
「どうだろうな」
喉元を掴まれソファーに体を押し付けられた。熱で体が言うことを聞かずアダムの腕力にメアは全く抵抗することができない。剥き出しの腕を胸の前で押さえ付けられ、皮膚の表面にちくりと微かな痛みが走った。先刻アダムが打っていたものと同じ薬液を打たれているのだと判った瞬間にぞくりと背筋が粟立つ。何を打ったの?と聞く気にもなれなかった。
拘束を解かれ、痕を押さえながら立ち上がるも、足に力が入らず尻餅をついてしまう。アダムは灰皿で煙草の火を揉み消すと、食事に行って来る、と車のキーを取った。
「そろそろここも離れないとな。大人しくしてろよ」
犬のように短い自身の呼吸の中に、閉まったドアの音を聞いた。
発汗量が増えてメアは額の汗を何度も拭う。ベッドサイドに置かれた目覚まし時計の秒針の音が厭に大きく聞こえて身が竦んだ。
不意にバン、と隣の部屋から壁を叩く音が聞こえてメアは飛び上がった。居ないと思っていた宿泊客がいたのだろうか?それにしても力が強すぎる。
バン、バン、と壁を叩く音はどんどんと間隔を狭めていき、メアは堪らず耳を塞いで空のクローゼットの中に転がるように逃げ込んだ。体を小さく折りたたんで暗闇で呼吸を落ち着けようとするのだが、激しく動いた訳でもないのに心臓がずっとうるさかった。自分の汗と香水と、ほのかに混ざった血の臭いが鼻をつく。
『怖いのか?』
突然、耳元を吐息の混じった囁きが掠めて、メアは悲鳴を上げながら頭を腕で庇った。誰のものともつかない低いしゃがれ声だった。
『そんなに怯えるなよ』
『そこから出してやろうか? "望んで"ごらんよ』
『父親に復讐する力は欲しくないのか』
『母親を埋めたあの日を思い出すんだ』
『ほら、"望み"を言えよ』
耳を塞いでも聞こえてくるその声にメアはようやくそれが幻聴だと気がついた。自分の頭の中で鳴っているのだ、塞いでも防げるはずがない。
薬を打たれた痕にガリガリ、と爪を立てながらメアは嗚咽をあげた。
打たれた薬物の名前をメアは知っている。
この症状は"キル・デビル"だ。
……かつて母のモイラが会社で開発していた"アンヘルパム"という向精神薬があった。長時間に渡って脳の中枢神経系に作用するも、どんな体質の患者でも吐き気や眠気といった副作用なしに不安を和らげる効果が期待出来る薬だ。
だが、それに目をつけたのがベラルディも出資する父のアダムが在籍していた民間軍事会社だった。傭兵たちに使わせたいと製薬会社から高額でアンヘルパムの技術を買い上げ、改良を重ね、兵士たちの戦場での緊張を和らげる薬はいつの間にか闇のルートに乗って"悪魔との取引"を可能にする薬物として流通していた。
つい最近までメアも知らなかったが、アダムを追う傍らで図書館で閲覧できる過去の新聞記事や実際にキル・デビルを扱う売人たちから聞いて集めた"経緯"だった。
……母もそれを知っていて、あの日父に反発し、そして殺されたんだ。
『そうだ、親父さんが憎くないのか?殺したいだろ?お前はあまりにも非力だ、メア』
『力を"望む"のか?』
うるさい、とメアは声を絞り出した。
以前ダンテも言っていたが悪魔たちは人の心の隙に纏わりつき、人間たちにひと時の力を与えた末に食い物にする。
モイラが開発した心の不安を緩和させる技術は、人の心を強引にこじ開け悪魔たちを誘う薬物へと化けて人々に牙を向くようになってしまった。
ーーだからここで悪魔の囁きに耳を傾けたらゲーム・オーバーだ。
ホテル・スプレンディッドのマーロウが突然豹変してしまったのももしかするとキル・デビルのせいだったのかもしれない、ふとそう思った途端にメアはひどい吐き気に襲われた。
何人死んだのだろう、この薬物のせいで。
『お前が悪いんだ、メア。薄々判っていたんだろ、罪悪感をずっと抱えていたんじゃないのか』
そんなことない、とメアは吐き捨てる。何もロクに知らないまま学校へ通い、父の言う通りに傀儡のように働き、安穏と暮らしていた自分に怒りが湧いた。だからこそ、やるせなかった。
「なんて愚かなんだろう、バカなメア」
本当にバカね貴女、とメアは悪魔たちの声を掻き消すように滔々と呟きながら泣きじゃくった。






ダンテがエンツォからの情報を元に街に辿り着いたのは午後のティータイムに丁度いい時分だった。
案外時間がかかってしまったことに焦りを感じながら街中に車を走らせる。慣れない繁華街の人混みを走りながら、ネイビーのピックアップトラックを探し回った。途中心許なくなったガソリンを給油し終えて少しひと息つこうかと辺りを見回すと、ガソリンスタンドから道を挟んだ向かい側に建った一軒のモーテルに目が留まる。
その駐車場に見覚えのある車を見つけてダンテは思わず走り出していた。座席にも人影はなく、荷台に積み荷の影はなかったが、綺麗すぎるほどに磨き抜かれているのがかえって不自然だった。
記憶の中のナンバーと照らし合わせ、当たりだと確信したダンテは一度車に戻ってギターケースを持ち出した。念のために持っていても損はないかもしれない、と思った。
問題はどうやってメアとあの男の部屋を特定するかだった。
ダンテは片手にアイボリーを握りながら周囲を警戒しつつ駐車場の脇の受付に向かう。アロハシャツを着た長髪の若い男が気だるそうにカウンターの中でコミックのリーフを読みふけっていた。
「どうも」
ダンテの声に誌面から顔を半分だけ覗かせて男はぶっきらぼうに泊まり?とだけ聞く。
「いや、ちょっと人を探してて部屋番号を教えてもらいたい」
ゴトッ、と重い音を立てて銃をカウンターに置き、コートの内側からメモ用紙を引っ張り出す。
「もしかしたらこの名前では予約してないかもしれないが……アダム・スカーレットってやつだ。あのネイビーのトラックに乗った、ガタイのいいおっさんと十代くらいの女の子の二人組の客を見なかったか」
受付の若い男は暫く考えあぐねていたが、カウンター上の銃とダンテの雰囲気に気圧されたのかそれぞれをチラチラと見やって、
「その名前じゃなかったけど、201と202号室の二部屋とった客かも。二階のあっち側の奥の部屋……」
がそれっぽい、と男は消え入りそうな声で呟いた。
ダンテが礼を言って踵を返すと、
「ねえ、アンタ」
「?」
「あんまり物とか壊さないでね」
努力する、と苦笑してダンテは受付を出た。
恐らく昨夜撃って来たあの男は、見た目の雰囲気も少し似ていたし立ち回りからしてメアの父親だろうとダンテは踏んでいた。
流石に宿泊するには偽名を使っていたようで確信は得られなかったが、そう想定して動いていた方が心構えとしては安心感があった。
昨夜メアが撃ち殺したのは悪魔ではなく人間だった、とダンテは肌で気配を感じていた。彼女が進んで殺人を犯したがるはずがない、だとすると、と考えるとふつりと怒りが込み上げるのだ。メアの精神状態が心配だった。
ブーツの底をガンガンと鳴らしながら鋼鉄製の階段を上る。201号室側とは反対から登って各々客室の気配を伺うと、やはり何人か宿泊客がいるようだった。駐車場に車も数台停まっていたので凡そ察してはいたのだが人を巻き込むことは避けたい。
まずは端から行くか、と201号室の前に辿り着き、ダンテがふっと息を吐きノックをしようと拳を上げた時だった。
ドアが向こうから開き、オリーブ色の深い緑色の瞳と目が合った。目の色までは覚えていないが顔形のシルエットは昨夜の男のそれだーー
そう思った瞬間に銃口が目の前にあった。撃ち出された弾丸を反射で避けると男がドアを勢いよく開けながらダンテの体を突き飛ばすようにタックルを仕掛けて来た。それをバックステップでいなしながら、ダンテはニヤリと笑う。
「アンタさ、メアの親父さん?」
「それがどうした」
「なんか、ちょっと似てんなと思って。動き方とかさ」
アダムは眉を潜めるとダンテの声を掻き消すようにトリガーを引く。まるで煩い虫を追い払うみたいに躊躇いがねえな、と相手の手慣れている気配をどうしても察してしまう。
スライドオープンした大型拳銃にアダムはマガジンを装填した。
モーテル全体がざわざわと騒がしくなり始めている。一階に目を向けると、銃声を聞きつけてパニックになった客たちがぞろぞろと部屋から飛び出して行く。二階の客たちはダンテたちの姿を見て悲鳴を上げてから、反対側の階段へと走っていった。
「お父さん……?」
アダムの背後から不安げな声が聞こえた。ダンテが首を伸ばすとドアの影からメアがこちらを覗き込んでいる。
「ダンテ!」
「よお」
ひらひらと手を振るとメアは嬉しいような悲しいような複雑な表情をして笑った。
「しつこい男は嫌われるぞ」
アダムが銃を構えたまま静かに言う。
「しつこいのはアンタの方だろ」
ぎりっ、と歯を食いしばって殺意を滲ませながら笑ったダンテにアダムは嘆息をつくと体をくの字に折った。
「さっさと終わらせよう」
バキバキ、と乾いた木が折れるような音を響かせてアダムの体が膨れ上がったかと思うと、次の瞬間ダンテは二階の通路から吹き飛ばされていた。空中で体勢を整えて受け身を取り、地面に降り立つとアダムは三メートルは優に超える巨体へと変貌していた。あのノスフェラトゥよりも大型だが、同じ灰色の肌に継ぎだらけの皮膚、長く鋭利な爪にアッシュブルネットのたてがみ。深緑だった瞳は赤い血の色に染まっていた。
メアが呆然と目の前の魔物を見上げる。
「お父、さん?」
その喉からは人語ではなく獣の咆哮が発せられた。ダンテを追いかけて跳躍した魔物の巨体が着地点の乗用車を押し潰した。
「人間のおっさんぶちのめすのは気が引けるなと思ってたが、これなら遠慮はいらねえな?」
ダンテは背中のギターケースを放り投げるとリベリオンを抜き払った。剣圧で揺れるたてがみを睨みながら鋭い突きを入れる。魔物はその突きを、避けなかった。脇腹に切っ先を抱え込みながら、振り上げた爪の先からドロリとしたコールタール状の液体が滴り落ちる。
「うわっ、それ俺が嫌いなやつ、」
斬撃を片腕で受け止めた瞬間に左の前腕の肉が焦げついたような音を立てて削げ落ちていた。どういう原理だか知らないがノスフェラトゥの時にも食らって異様にキズの治りが遅かった厄介な代物だ。
使い物にならなくなった左腕の痛覚を遮断しながら、リベリオンを引き抜いて間合いを取ると、魔物の脇腹から血が吹き出す。それでも焦燥感など微塵も見せる様子がなかった。
二階に目を向けるとペタリと座り込んで手摺りに掴まり、不安げにこちらを見下ろしているメアと目が合う。ダンテの胸に罪悪感がよぎった。曲がりなりにも元は彼女の父親なのだ。
そんなダンテの意識の余白をつくように次々と繰り出される激しい斬撃を刃で弾き返す。コールタールはリベリオンのような無機物には無効のようだった。治り始めた両腕で双銃を構え、銃弾の雨を浴びせる。と、魔物が大きく腕を振り払った。散弾銃のように放射状に広がった黒い液体の粒を紙一重で避けてダンテはニヤリと笑う。
「そんな小技もあんのかよ……っ!」
しゃらくせえ、と叫びながらダンテは魔物の巨体をリベリオンの刃の腹側で殴りつけた。吹き飛ばされた巨体がモーテルの一室にめり込み、砂埃が巻き上がる。そこへ淀みなく銃弾を叩き込みながらダンテは距離を詰めた。
スモークグレネードが焚かれたように塞がった視界の中からまたも散弾状の粒子が飛んでくるがダンテはひらりと避ける。
「読めてんだよ!」
微かに煙の向こうに捕らえた敵影に向かって地面を蹴ると、ダンテは垂直にリベリオンを突き立てた。絞り出すような呻き声が上がる。魔物の胸部を剣先が深く貫き、そのまま切っ先を上に払おうとした時だった。
「ダンテ、待って……!」
息を切らしながら、封筒を腕に抱え拳銃を握ったメアが背後に立っていた。顔面は蒼白で汗が酷く、立つのもやっと、と言った様子だった。
魔物に目を落とすと、リベリオンを抜こうと腕だけは抗っているがその力も弱く、心臓を貫かれて地面が血の海に変わるほど出血している。もうとどめは刺したも同然だった。
「危ないからこっち来るな」
ダンテの制止も無視をして、メアは銃を構えてふらふらと前に進もうとするも、足に力が入らないのかその場で崩れ落ちた。
「最後のとどめをダンテにやらせたくない……!」
その血を吐くように叫んだ言葉に含まれた彼女なりの責任感の強さを感じ取り、はらはらと泣き出したメアの瞳を見つめてからダンテは苦笑した。
「背負うのには慣れてるんだよ」
だから気にするな。
リベリオンの柄を握り込み、更に深く突き立てるとダンテは切っ先を魔物の頭部へ向かって上に払い上げた。
血が飛び散り、くぐもった呻き声を上げて事切れたアダムの体はどろどろと赤い泥に変わって血の海を押し広げて行く。
やっと終わった。
ふう、と息を吐いて剣を背負うとダンテはひたひたと靴底を鳴らしながら両手に顔を埋めて泣き始めたメアに近づいた。
埃と汗でもつれた髪を指の背中でそっと撫でて、
「ごめんな」
「ちがうの、……ありがとう」
ごしごしと涙を拭って赤くなった目でメアはダンテを見上げた。
「……事務所に帰ろ」
その呟きにダンテはくしゃりと笑って、そうだな、と立ち上がった。
「歩けるか?」
「うん」
よろけつつも自力で立ち上がったメアに安堵感を覚えながらダンテは先行した。
道の向こうに目を向けると怖々とこちらを伺っている人影がまばらに見えるが、大部分はもっと遠くへ逃げたのだろう。死にたくなければそれが得策である。
不思議な静けさに辺りが満たされているな、と思った時だった。
「ぅ、わ……っ」
メアが小さく悲鳴を上げるのが聞こえてダンテは振り返った。
メアは自分の左腕をじっと見つめてから、恐怖に目を見開いて唇をわなわなと震わせた。
何事かを言いかけてから、唇を引き結び、右腕を緩慢にもちあげると、こめかみに銃を突きつけた。
トリガーに指がかかる。
「なっ、にやっ、」
ダンテはその光景の異様さに刹那、怯みかけるも、何とか走り出して腕を目一杯伸ばした。
銃声が静寂を破る。
銃口を握り込んで空へと逃がした銃弾は、ダンテの手の平を貫通したのみでメアの頭蓋を砕く事はなかった。
その異様さにダンテは険しい表情でメアの手から拳銃を剥ぐと、手の届かない方向へと放り捨てる。地面を削るカラカラとした音が響いた。
「なに、やってんだ」
パタ、パタ、と手の平から滴るダンテの血の音を聞きながらメアは肩を揺らして息をした。
「だって、腕がっ、灰色の、悪魔の腕に、なってて」
カタカタと震えながら自分の腕を見つめるメアの瞳がどろりとした赤色に染まったように見えて、ダンテは背筋が冷たくなった。
封筒を抱え込んだメアの左腕は、いたって普通だった。いつもの彼女の腕と何も変わらない。
「私、ずっとアイツらの声、無視してたのに、なんで……っ、こんなっ……」
過呼吸気味に泣きじゃくり始めたメアの肩を撫でて、ダンテは息を吐いた。
「落ち着けって」
ちょっと休もう、とモーテルの階段の影でメアを抱えて座り込んだ。
耳を塞いで子どもみたいにしゃっくりを上げるメアの左の手に指を絡ませ、ぎゅっと握った。
「お前の腕は何も変わってないし、他にどこもおかしいところはないぜ?」
ただ、掻きむしられた腕の傷とメアの様子にダンテは嫌な予感を覚えていた。エンツォから聞いた"キル・デビル"の症状に少し似ている気がしたのだ。薬が抜けるまで待った方がいいのか、とも思ったがあまり長時間に渡ってこの状態にメアを晒しておくのも心苦しい。
どうしたもんかな、と最後に抱きしめた時よりも痩せた気がしてしまう華奢な体を背中側から抱きしめて、ダンテはすり、とメアの首筋に頬を寄せた。
甘い汗と、柑橘系とジャスミンが混ざった香水の匂いがした。それから鉄臭い血の臭いが時折混ざる。子どもをあやす様に赤いドレス越しにも発熱してると分かる腹部をとん、とん、と穏やかに撫でてやりながら、ダンテはメアの耳元に囁いた。
「何かして欲しいことあるか?」
その時ダンテは、どろりと体の奥で"何か"が蠢くのを感じた。
ーー何だ?今の……
メアの方も琴線に触れるものがあったのか、くるりと腕の中で体を反転させるとダンテの目をじっと見つめてくる。
「ね、もっかい」
「え?」
「もっかい言ってみて」
「……"何かして欲しいことあるか?"」
メアは涙で濡れた頬にふわりと微笑みを浮かべると、
「"私ダンテとずっと一緒にいたい"」
体の中の蠢きがより一層大きくなるのを感じてダンテは居心地の悪さについ顔をしかめた。
これは自分の"半身"の部分だ、と気がついた。悪魔の部分がまるでメアに引き寄せられるように突然ザワザワと騒ぎだしていた。
何なんだよもう、といつも通り捩じ伏せようとしたが何故か上手くいかない。
メアに触れようとした手からパチッと魔力が静電気のように弾けてうわ、とダンテは引き攣った声を上げた。
「おい、メア、これどういうこ、」
尋ねようとした唇が、涙で濡れてほんのりとしょっぱいメアの唇で塞がれていた。ふ、と吹き込まれたお互いの呼吸の温かさを口内に感じた途端、一際バチン、と大きな音を立ててダンテの魔力が弾けた。
一瞬視界が白く染まったが、メアは特に何事もなかったようで、その表情は晴れている。
「……何が起こってんだ?」
「あ、声、聞こえなくなったよ……」
耳に手を当てて安心したようにふにゃりと笑ったメアを見て、よかったな、とダンテは深く考えるのを止めることにした。




長いドライブを終えて、久しぶりに二人で事務所に帰って来たメアとダンテは真っ先にシャワーを浴びることにした。ダンテは荷物を放り出してコートを脱ぎ捨てると、助手席でも後生大事そうにずっと抱えていた茶封筒をテーブルに置いたメアの体を横抱きにし、うひゃあという色気のない悲鳴を聞きながら浴室へと向かう。
お互い血と埃と汗に塗れ、散々な有り様だ。
カランを捻ってバスタブにお湯を溜めながら、
「本当に一緒に入るの……?」
ボロボロに伝線し穴の空いたストッキングを脱ぎながら、唇を尖らせてメアが言う。
「順番待つのめんどくさくね? 別に何もしないし」
というのは建前で内心のところダンテはまだメアを一人きりにするのが不安だった。薬が抜けているかも怪しいし、あのこめかみに銃を突きつけた瞬間があまりにも鮮烈すぎた。
そんなダンテの心中を察したのかメアはそれ以上は何も言わなかった。
メアの赤いドレスのホックを外してファスナーを下ろしながら、するすると脱がしていく。
こんな衣擦れの音を最後に聞いたのもつい一週間ほど前のことなのにはるか遠くの出来事のように感じてしまう。
メアは気まずそうにパサリ、とドレスを爪先に落とした。前からあった淡い切創の古傷たちに加えて、腰や背中、それから手で押さえた鳩尾辺りの腹部には特に大きな青紫色の痣が出来ていた。
「昔から見えないとこばっかぶつ人だったんだ」
あはは、とぎこちなく笑うメアの頬を手の平で包んでダンテは眉を潜めて低く囁く。
「もう無理して笑わなくていいんだぞ」
「……そう、だね」
くしゃりとはにかんで、メアは髪の毛を解いた。後ろ手にホックを外し下着も外していく。ダンテもぽいぽいとブーツを脱ぎ捨て、ズボンを脱ごうと手をかけた時だった。
「やっぱり綺麗だね、ダンテの体」
するり、と裸になったメアの熱い手がダンテの胸板から割れた腹筋の線を穏やかになぞる。
「彫刻みたい」
「そうでもないけどな」
ふっと笑って下着を脱ぎながらダンテはくるりと背中を向けた。猫に引っ掻かれたような白い傷が蛇行しながら走っているのを見てメアは首を傾げてから、あっと声をあげる。
「ご、ごめん……」
「俺は嬉しいけどな」
それは初めて繋がった夜にメアが背中に爪を立ててつけた傷痕だった。頬を赤らめながらメアは、
「全部すぐに治っちゃう訳じゃないのね」
「ああ」
命に差し支えのない細かい傷や意識しない傷は人と同じ速度で治ることが多かった。
カランを止め、先に湯船に入って頭まで浸かるとダンテはメアを手招きする。メアも段々と羞恥心がなくなって来たのか大人しくチャプ、と爪先から湯に浸かって頭の天辺まで潜水した。
「湯加減は?」
「ちょうどいいよ」
四つん這いで近づいて来るとメアはダンテの胸板に背中を預けた。もたれかかって来た体を抱き留めて二人してゆるゆると息を吐く。
赤く擦りむいた両の膝小僧に刺さった砂利を洗い流しながら、メアがぽつりと呟く。
「ごめんね、ダンテ。黙っていなくなっちゃって」
「別にいいよ」
濡れたメアの白いうなじに静かに唇を落とす。
彼女が無事ならそれで充分だった。
レッド・ラムのタトゥーが入った悪魔に村の人やダンテが傷つけられるのを見て居ても立ってもいられなくなった、とメアはぎりっと脇腹に爪を立てた。
「探してくれて凄く嬉しかった」
「そっか」
よかった、と囁いてダンテは笑う。しつこいと思われてたらどうしよう、と一抹の不安がない訳でもなかった。
天井の蒸気が冷たい雫になってぴちょん、と水面に滴り落ちた。
「ねえ、ダンテ、」
メアはダンテの両手の指に指を絡ませながら、そっと呟いた。
「私、人を殺しちゃったんだ」
ふるり、と背中が震えたかと思うとメアは声を押し殺して泣き始めた。
苦しそうな嗚咽を聞きながらダンテはメアの頭を抱き寄せて、大丈夫だ、と宥める。
メアはダンテの首筋に額を擦り寄せて強く唇を噛みしめた。
張った湯よりも熱いメアの涙の温度を首筋に感じながら、ダンテも泣きそうな声で呟く。
「俺も自分の兄貴を殺してるから」
双子だった、と零した言葉が浴室にぼんやりと反響した。
メアに自分の父親を殺めて欲しくなかったのは、その苦しみをよく知っているからだ。ただでさえ殺人の呵責を抱えている彼女が肉親まで手にかけたらどうなってしまうのか、と不安だった。
メアは半身を起こすと体を捩ってダンテの悲しげなアイスブルーの瞳をじっと見つめた。
「そうだったんだ」
その涙で濡れた射抜くようなサファイアブルーの瞳が恋しかったんだ、とダンテはメアの頬を引き寄せた。
ーー最初は"アイツ"に似ていると思ったけど全然違う、彼女だけの色だ。
時折混ざるメアの嗚咽を聞きながら長いキスを交わして、ダンテは静かに息を吐いた。

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