人間がレッドアイスに依存するように、アンドロイドたちの間でもドラッグの類が流行り始めたのは、必然の理のように思えた。子が親に似るのは生物学的にも当たり前なのだ。塩基配列を受け継いでいなくとも、人の手から生み出された事に間違いはないのだから。
「あなたも僕の作ったP2試してくれた?」
「P2? それが君の作ったドラッグの名前かい?」
「ドラッグっていうかウイルスかな。パンク・プロトコルって僕は呼んでる。そうか、そもそも試してたらそんな涼しい顔していられないか」
薄暗く閉鎖的な尋問室でも、アンドリュー・リードは自分のペースを崩さずに、床まで届かない足をゆらゆらと揺らしながらどこか楽しげに答えた。絡まった赤毛を指で弄ぶ彼の隣には、緊張した面持ちの母親が座っている。胸元まで届く長い髪は同じく燃えるような日暮れの色をしていた。
コナーはファイリングされた少年のプロフィールに目を落とす。
プログラミングの分野でずば抜けた才能を発揮した彼は、齢12にして大学への飛び級が決まっている所謂神童だった。が、些かヤンチャすぎるきらいがあるようだ。
アンドロイドたちが個々に持つサイバーライフ社の厳重なセキュリティを掻い潜って、彼は自宅で雇用していた家事手伝いのHK400型をクラッキングした。
ちょっとした悪戯のつもりで彼は擬似的な性的興奮の計算処理をループさせ、発熱及び発汗モジュールを強制的にオンにするウイルスをソフトウェア上に撒いた。つまるところアンドロイド用の媚薬という訳だ。その発想に至る時点でもう子どもとして扱って良いものか少々懐疑的ではあるが、年頃の男子の性知識に対する無垢さと貪欲さは推して測るべきなのかもしれない。
混乱を来たしたHK400型はリード家を飛び出し、先日スラム街の裏路地でリンチされ破壊されている所を発見されていた。狂った獣のように暴れ回った痕跡が残っており、なんと哀れなのかとコナーはつい現場で溜息を吐いてしまったものだ。所有者を洗い出したところアンドリューの存在がすんなりと浮かび上がったことだけが幸いである。
失踪中に彼はウイルスを意図せずバラ撒いてしまったのだろう。捜査によると直接接触する事でしかウイルスを受け渡せないようなので、風邪の細菌のように散布されるルートではないらしい。ただ興味を持った変異体たちがこぞって手を出し始めてしまったのでセックスバーやナイトクラブといったスポットをメインに流行している、という訳だ。
「コナー刑事、だっけ」
声変わりも覚束無い高い声音で少年が無邪気に言う。
「P2、あなたにも分けてあげようか」
身を乗り出して来た少年の手が机上にあったコナーの手首を掴んだ。柔らかい皮膚の温かさが滲んで来るばかりで何も変化はなかったが、一瞬ハッとして少年を見やると、彼はころころと笑い声をあげた。
「なーんちゃって。冗談だよ。僕は人間だからね、この方法じゃあ渡せないんだ」
残念だなぁ、とのんびりぼやく少年にコナーは穏やかに問う。
「君が優れたハックスキルを持っている事はよく判っているよ。だから、ワクチンを渡してくれないかい。作ってあるんだろう」
ドラッグを使ったアンドロイドたちは個体差があれど日常生活に支障を来し、凶暴化する者もいた。擬似的に埋め込まれた性的興奮を制御しきれず、人間を襲う個体もおり、さすがに危ぶんだ市警によって小規模ながらも捜査チームが組まれた。丁度研修期間が終わったコナーもそのメンバーに含まれている。病み上がりのハンクは外されてしまったので一抹の寂しさもあったが、今のコナーの心情的には好都合でもあった。
悪戯の域を過ぎた結果に少年はどうやら満足しているようだった。誇らしげに鼻を慣らすと、
「ワクチンはね、ないんだ」
「ない?それは生成していないという事かい?」
「うん。作ろうと思えば作れるけど。ちょっとめんどくさいかなーって」
そこでアンドリューの傍らで石のように静止していた母親がとうとう声をあげた。
「すみません、善悪の判断がついていなくて」
この子好奇心がコントロール出来ないんです、と母親は涙声で呟いた。
ハンカチで目元を押さえるあかぎれまみれの左手の薬指にはくすんだ指輪が光っていた。その様子に絶えない気苦労を感じ取ってしまう。
「いえ、大丈夫ですよ、お母様」
どちらにせよこの若さでは法で裁ききることも出来ないが、彼の可能性溢れる未来に傷がつく事態も避けたいとコナーは思った。
お腹が空いたのか、アンドリューは尋問室に入った時から抱えていたサワークリーム・オニオン味のポテトチップスを筒から引っ張り始めた。
コナーはそのそばかすの散った白い頬を覗き込んで、
「アンドリュー、私はちょっとだけガッカリしてるんだ」
「どうして?」
乾いた咀嚼音を響かせながらアンドリューは翡翠色の瞳でじっとコナーを見つめる。
「真に優れた技術者は切り札としての解決策をこっそり持っておくものだから、だよ」
そう言いながら、コナーの脳裏にはあの雪の日の心象風景が蘇っていた。裏を読んだカムスキーによる"非常口"がなければ今この豊かな日々は訪れていなかったのかもしれない。
「自分の所有物に問題が起きた場合に解決できなかったら、それこそ格好悪いだろう?」
格好悪いという単語にピクリとアンドリューが反応するのが判った。
「もしも君のお母さんがアンドロイドで、君が作ったウイルスに感染してしまった場合、今の君では元に戻す事が出来ず私たち警察に助けを求めることしか出来ないんだよ」
「そんなことない……! ワクチンなんて一週間もあればすぐに作れちゃうもん!学校休めば二日くらいで……!」
声を荒らげたアンドリューの肩を、母親が気遣わしげにそっと抱きしめた。
「それにママはアンドロイドじゃないし……」
「もしも、の話だよ。そうやって大切にしていたアンドロイドを壊されて困っている人たちが街には沢山いるんだ」
ぐっ、とアンドリューの喉元に力が籠るのが見えた。これ以上追い詰めても泣かせてしまうだけかもしれない。彼は神に愛された強靭な知性を持つからこそ、自分自身で考えていく力を養うことが何よりの課題に見えた。まだ幼いのだから仕方ない、では済まされない。
アンドリューの頬にくっついたスナックの食べかすを取ってやってから、コナーはポンポンと鳥の巣のような頭を撫でた。
「怖がらせるようなことを聞いてすまないね。今日はもうお家に帰っていいよ」
疑念の種は蒔いた。この賢しい子ならばきっと何かしらのアクションはしてくれるだろうと思えた。
尋問室を出た所でアンドロイド警官のPM700モデルに応対を引き継いだ。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません、と頭を深々と垂れる母親と不服そうなアンドリューを見送って一息つく。
ミラーガラスの向こう側の部屋から立ち会っていたギャビンがうっそりと出てくるも、どことなく苛立っているようだった。
「さっさと脅してワクチン作らせちまえば良かったのに。そしたら厄介な残業時間も減るんだぜ?」
「作ってくれますよ、彼はきっと。自主的にね。今は待ってみましょう」
「ははっ、お前いつの間にナニープログラムを仕込んだんだ?」
そんなプログラムの増強はしていないのだが。肩でどん、と背中を突かれてコナーは溜息をつき、
「最近ベビーシッターが必要そうな人と居る時間が長いので、つい」
「あ?なんだ?ハンクのことか?あのクソジジイに必要なのはケアワーカーの方じゃないのか?」
生きるのが楽しそうな人だな、という感想を飲み込んでコナーは尋問室を後にする。
今回の暴走プログラムの捜査チームにはギャビンも含まれていた。ハンクの代わりに彼とタッグを組まされることもあり、内心遺憾ではあるのだが上層部の采配に抗うことは出来ない。
デスクに戻るとハンクがキーボードと格闘しながら書類制作をしていた。先日起きたアンドロイドによるコンビニ強盗事件の書類のようだった。それも元を辿ると例のP2プログラムでハイになったアンドロイドたちによる仕業らしい。波紋はじわじわと広がりつつある。
「おつかれさまです、ハンク」
「ああ、お前もな」
退院してからのハンクは機嫌が悪く、気まずそうな表情をしている事が増えた。きっとあの銃弾から守れなかった自分に対して怒っているのだ、とコナーは思っていた。どうやって謝ったらいいのか一週間ほど考え続けているのだが答えは出ず、かつて初めて顔を合わせた時のような気まずさを懐かしむことしか出来ずにいる。
網膜スクリーンで時計を確認するとお昼時だったので、コナーは資料を自分のデスクで片付けてから、
「ハンク、よかったらお昼ご飯を買って来ましょうか」
「え?ああ……頼んでもいいか」
無下に断られなかった事が嬉しくてコナーの声は少し浮ついた。
「勿論です。何がいいですか」
「まあ、何でもいいよ。食えりゃあな」
LEDリングをくるくると光らせながらコナーは判りました、と頷いた。最近オープンしたばかりで美味しいと評判のサンドウィッチ屋に行くことにした。市警から歩いて三分程の場所にあるが、オーガニックさをウリにしているのでハンクは行った事が無いはずだ。出入口に向かっていると聞き耳を立てていたのかギャビンが声を掛けてきた。
「コナー、俺の分も買って来ていいぜ」
「私が何処へ行くかも聞かずに大丈夫ですか? 生憎貴方の好みは把握していませんよ」
「どうせハンクの使いならファーストフードだろ」
「……判りました。何を買って来ても文句を仰らないでくださいね」
お前ハンクに何食わせるつもりだよ、と呟くギャビンを過ぎてエントランスを抜けた。




ターキーサンドと野菜サンド、Lサイズのコーラ二つが入った袋を抱いてコナーはぼんやりと横断歩道で赤信号を待つ。
時折訪れる意識の空白に対してふと頭を掠めるのは先日の誘拐事件のことだった。ゆっくりと反芻してから気がついたのは、彼女が実の兄も愛していたのかもしれない、ということだ。複雑な感情が入り交じった愛憎劇の観客としていつの間にか選ばれてしまった。幕引きの際に壊れたアンドロイドを抱いて幸福そうに笑っていた彼女も、心では泣いていたのかもしれない。
今の僕が大破したらハンクはあんな風に泣いたり笑ったりしてくれるだろうか、と考えてしまう。バックアップがあるとは言え、今のコナーは出来うる限りの破損と無茶を避けている。再び変異出来る保証もなければ、厳密に言えば"別個体"なのだから、シャットダウンは避けるしかない。今の自分に"死"という恐れがあることが、怖くもあり嬉しくもあった。それにハンクが抱きしめたり撫でてくれたこの素体を粗末に棄てる訳にも行かない、とコナーは自分の唇をふわりと撫でた。陳腐に言い表すならば"宝物"なのだから。
青信号に変わった道を渡りながら、ああ、とコナーは息を零す。この酷いノイズを上げる感情をどうやって、いつ、捨てるべきか。コナーはまだ考えあぐねていた。




休憩所でゴシップ誌を読んでいたギャビンに野菜サンドとコーラの紙袋を押しつける。彼はガサガサと乱雑に袋を開くと、
「おま、これ野菜しか挟まってねえじゃねえか!」
「文句を言わないって約束でしょう」
このぽんこつプラスチック野郎め、という罵倒を背に早々に踵を返す。
チームメンバーなので最低限のコミュニケーションを取る努力はするが、未だにコナーはあのアンドロイド全般に対するギャビンの差別的な苛立ちを受け止めるのが苦手である。
ハンクのデスクへ向かおうと、靴底を鳴らして廊下を進むと、
「こんにちは、コナー刑事」
思いがけない方向から呼び止められてコナーは一瞬反応が遅れた。見るとエントランスの受付カウンターで働いているST200型のアンドロイドだった。配属が延長された日に受付で対応してくれた彼女だ。
スモーキーピンクの口紅を引いた唇がぎこちなく笑みを形作る。
「突然すみません、いつもお忙しそうだから声を掛けるタイミングが無いように思えて」
「いえ、別に構いませんよ」
目鼻立ちの整った顔に浮かぶ照れたような表情に、彼女がいつの間にか変異体になっていたことを察した。何度か仕事上の会話は交わしていたが、気がつけなかった。
雑務の処理中なのか彼女は腕にファイルの束を抱いたままだ。あの、と口ごもる彼女に体を傾けて耳を寄せると、
「よかったら週末の夜に、どこかへ出かけませんか?」
思いがけない言葉だった。それはいわゆるデートというやつだろうか、とコナーがぼんやりと思案していると、受付の彼女は口を数度ぱくぱくと開閉させて、
「どうしても、貴方に興味があって……」
消え入りそうな声でそう呟いた。
その頼りなげな気持ちは嫌というほど理解できる。コナーは無下に断る気にもなれずに曖昧に返す。
「いいですよ。もし捜査が立て込んでいなければ、是非」
ありがとう、と言ってその場を駆け足で離れようとする彼女を待って、と呼び止める。
「君の名前は?」




ハンクのデスクに戻ると相変わらず曇り空のような胡乱げな顔つきで、キーボードをカタカタと叩いている。
「遅くなってしまってすみません」
「いや、ありがとよ」
紙袋を受け取ると彼は作業の手を止めてサンドウィッチにかぶりついた。ハンクの好みからは程遠い生野菜と淡白な鶏肉がメインのサンドだが、彼の健康を考えるとこれが最適解だろう。何も言わずに黙々と食べるハンクに少し驚きつつも、コナーは捜査資料を整理しようと端末の前につく。と、
「さっきのお嬢ちゃん、」
コーラで野菜を流し込みながら、ハンクがコナーのデスクの端に腰掛けてきた。
「デートにでも誘われたのか」
見られていたのか、という焦りと図星であることの困惑でコナーの目元が数度ピクリと震えた。
「当たりか」
「それが、どうかしましたか?」
ハンクがふっと笑って、いや、と言いおくと、
「お前はもっと色んなやつらと関わりを持った方がいいんじゃないか、と思ってたんでな」
コナー、と静かな声で名前を呼ばれながら背もたれを引き寄せられる。
「お前、仕事ばっかりしていると近いうちに後悔するぞ」
「貴方がそれを言いますか」
かつての彼の輝かしい功績を知っているからこそ、ついそう返してしまった。
「俺だから言うんだ。世の中には面白い奴や綺麗な景色、美味い飯……はお前には関係ないか。まあ、色々実際に自分の目で見といた方がいいモンが沢山あるんだよ」
大人になれ、成長しろ、と諭されているのだと気がつきコナーはじっとハンクのアイスブルーの瞳を覗き込んだ。
その言葉は柔らかな拒絶、とも受け取れてしまった。その認識は歪んでいる、と自分に反論して意識をねじ伏せ、
「そう、ですね。努力してみます」
そう微笑むとハンクは安心したように笑ってデスクに戻っていく。
「たまには野菜食うのも悪くないな」
「たまに、じゃ困りますよ。ちゃんと食べて長生きしてください」
仕事に戻ろう、と端末に体を戻したものの突然喉元をこみ上げて来た塊にコナーは一瞬狼狽えた。
静かにデスクを離れて尋問室の向かいのトイレに滑り込むと、鏡の前で深く息を吐いてみる。不意に眦から涙が一滴こぼれ落ちて、慌てて個室に逃げ込んだ。誰の視線もない安堵感から、堰を切ったように涙が溢れ出してしまう。こんな事で泣いて、動揺して、一体どうしたのか。自分の体と心の反応が噛み合っていない驚きが何よりも強く、ただただコナーは額に握り拳を押し当てて涙が止まるのを待っていた。




セントクレア湖寄りの郊外の住宅地で、人間の血に塗れたアンドロイドを発見したという通報があった。流行りのドラッグの関与が疑われたので自宅に迎えに来たブラウン警官の運転で現場へと直接向かう。シフト的に昼過ぎから深夜にかけての出勤となっていたので丁度市警を経由する手間も省けた。
古びたトラディショナルランチ様式の平たい一軒家に辿り着くと、張られた規制線の前で手持ち無沙汰にぶらついていたギャビンと目が合う。
「プラスチック野郎如きが俺を待たせるんじゃねえ」
「すみません。貴方の自宅よりも私の家の方が遠かったので、これでも急いだんですが」
いいから早く来い、と規制線を潜るギャビンに続いた。彼には恐らく何を言っても無駄なのだろう。
「P2、だったか?ピンク・プログラムだかパープル・ペインだか知らねえがさっさと片付けるぞ」
塗装の剥げた木造のドアを抜けると早々に1と番号のふられたデジタルの鑑識標識板が置いてあった。カーペットへ染み込んでいるのは人の血痕らしく、しゃがみ込んでサンプルを採取する。
ギャビンが引き攣った声を上げ、
「いつ見ても気色悪いなそれ」
「申し訳ないのですが、慣れていただくしかありませんね」
照合するとこの家の持ち主、ジョミー・フィールドの血液だった。
通報してきたのは、"コールガール"ならぬ"コールアンドロイド"を派遣している風俗店のオーナーだ。派遣したアンドロイドが二日間帰って来ず、料金も未払いの為に家に乗り込んだところシャットダウンしているアンドロイドを発見したという流れだった。
点々と滴る血痕は寝室に続いていた。先んじて覗き込んだギャビンがうわっ、と顔を顰める。
金髪碧眼の女性型アンドロイドがクイーンサイズのベッドの上に横たわっていた。剥き出しになって壊れた視覚ユニットが弱々しく青ざめた明滅を繰り返している。鼻筋から喉元まで垂れたブルーブラッドは痛ましく、顕になった乳房にはくっきりと鞭に打たれた痕やナイフで浅く切りつけられた青い傷が残り、左手首はヘッドボードへと手錠で繋がれていた。そして胸元から腰にかけてゆるやかに赤い血糊がこびりついている。
ギャビンはやれやれと溜息を吐きながら手袋をはめた手で床に落ちていた女物のハイヒールをつまみ上げた。靴底には乾いた血糊が付着している。
「随分とハードなプレイをお楽しみだったみたいだな」
コナーは生返事をしながら、アンドロイドの内腿に張り付いていた乾いた精液を指先にすくい取って舐めた。先程調べた血痕のDNA情報とも合致したので、このアンドロイドの相手をしていたのはフィールド本人だろう。
「お前せめてもうちょい悩むとかしろよな。野郎の精液だぞ?」
「口腔内に浄化機能が備わっているので問題ありませんよ」
「そういう意味じゃねえよバカ野郎」
部屋を見回すと違和感を覚え、こめかみのリングが黄色にちかちかと光った。コナーはギャビンが拾い上げた靴とアンドロイドが身につけている下着や赤いハイヒールを見比べる。
「あちこち数が合いませんね」
ベッドサイドに転がっていた片足分のみの緑色のハイヒールはどこから来たのか。アンドロイドが両足に身につけているのは赤い靴だ。窓際に脱ぎ散らかされた女物のスカートや上着の枚数も妙に多い。
「もう一体アンドロイドが居たのかもしれません」
「3P好きの変態ばっかで頭が痛いな」
いつかのエデンクラブの事件を思い出したのか、ギャビンが顔を顰めた。
謎の個体の痕跡は見つける事ができなかったが、派遣先のオーナーに服装などを伝えれば何か判るかもしれない。
「少なくとも刺された人間は近くの病院で治療を受けている可能性が高いです」
「だな。この傷じゃそう動き回れない。当たってみるか」
恐らくアンドロイドを破壊してしまった事を懸念して、救急車を呼ぶ事を躊躇ったのだろう。隊員がもし寝室まで踏み込んでしまえば即座に知れてしまう。もう一体のアンドロイドに脅されて家を出た、とかでなければの話だが。
死因がいまいち不明だったのでもう一度分析をしよう、とアンドロイドに近づいた時だった。
力尽きていたはずの体が跳ね起きて突然コナーの手首を掴んだ。あまりの強さに折れる可能性すら畏怖した程だった。巻きついてくる細い指から離れようと藻掻くも肌の上を滑って侵食してきた生温い感触に怯んでコナーは動きを止めてしまう。白いブロックノイズに視界を包まれ前後不覚に陥り、どうにか片膝をついて堪えた。
ほとんど使い物にならなくなった発声ユニットからザリザリと雑音を吐き出しながら、アンドロイドは今度こそ機能を停止させたようだった。何かを伝えたかったのかもしれないが、分析にかけても復元は難しいようだった。ぱたり、と手首から女の手が剥がれ落ちる。
「おい、大丈夫か」
視界が戻ってくるまでに十秒ほどの時間を要した。ギャビンに肩を揺すられながら、ふらふらと立ち上がる。
「ええ、はい、何とか」
額を伝い落ちて来た汗をジャケットの袖で拭う。と、その動作をしてからはたと異常に気がついた。汗をかく機能は基本的にはオフにしてあるはずなのだ。何故、と思考を巡らせて原因に思い当たったコナーは弾かれたように立ち上がった。
「ギャビン刑事、」
「なんだ?」
「申し訳ないのですが、少々体調が悪いので帰らせていただきたいです」
焦りに呼応したようにあっという間に心拍数が上がる。どくどくと脈打つ心音が鼓膜を叩きだし、コナーは自分が喋っている声すらも聞き取れなくなっていた。
襟元をぎゅっと掴み手の震えと切れる息をどうにか押さえ込む。
初めは怪訝そうだったギャビンもコナーの唯ならぬ様子に、その言い分を信じたようだった。
「本当に具合悪そうだな。人間の真似がすっかり上手くなっちまってよ。嘘だったら川に沈めるからな」
ギャビンはふらつくコナーに肩を貸し、規制線の前で待機していたブラウンにパトカーを出すように指示を出した。コナーのぐったりした体を後部座席へと押し込むと、
「あとは俺が何とかしておくから今は休め」
「ありがとう、ございます」
市警まで送ってやれ、とルーフパネルを二度軽快に叩くのを合図に、車はゆっくりと滑り出した。




アラートまみれの回る視界を何とか制御しながら市警に帰って来ると、コナーは真っ先に自分のデスクへと向かった。
出勤したばかりらしきハンクがぎょっと目を見開く。
「どうしたんだコナー」
「どうか、お気になさらず」
「バカ言うな。くるくる真っ赤に回ってるそりゃなんだよ」
こめかみを指差しながら声を荒らげるハンクを無視して端末を立ち上げた。パタパタとキーボードの上に汗が滴るも、気になどしていられなかった。素体が剥き出しになった手の平で端末に触れ、ネットワークを遮断してローカル上に自分の身を蝕むウイルスのバックアップを取る。空いた腕で拭っても次から次へと汗が吹き出した。この発汗の素材も主にはコアに走る冷却用の水を再利用している。セクサロイドモデルは予め擬似体液用のローションを補填するタンクを体内に持つが、そういった機能が無く足りない場合はブルーブラッドで代用されるので人間で言うところの貧血状態になりかねない。余計な機能をつけてくれたものだ、とコナーは創造主を恨みがましく思った。
本当は自宅に帰って一人になりたい気分だったが、これも証拠品の一つになりうるのなら記録しない手はないし、もし自分が失敗しても誰かが糸口を掴んでくれるだろう。
心配したハンクに肩口を掴まれて、コナーは反射でその手を強く振り払ってしまった。片手を上げて息を切らしながら、
「すみません、ハンク。今は僕に構わないでください」
どうかそっとしておいて、と牽制してバックアップを取り終えたコナーは静かに一人になれる場所を検索した。該当したのは旧保管庫だ。地下一階はほぼ倉庫と化しており、廃棄期限を待つ証拠品が片っ端から詰め込まれている場所だ。
コナーはハンクの目を見る事が出来ないまま逃げるように旧保管庫へと急いだ。ネクタイとボタンを外して、自己修復プログラムを走らせるも何度も赤いエラーが吐き出される。落ち着け、何か他に方法があるはずだ。
移されたウイルスは確かにあの少年の"自信作"のようだった。発汗と発熱が止まらず、肌の下が風に吹かれる水面のようにザワザワと騒がしかった。それにいつ暴れ出すのかも判らない。個体差があれど暴走してしまう可能性もある、その恐怖がひたひたと忍び寄ってきて、コナーは自分の二の腕を強く掴んだ。
カードキーをかざして旧保管庫の鍵を開けると、古びた紙の匂いが流れ込んできた。辺り一面無機質なラックが隙間なく並べられ、証拠品の詰め込まれたボール紙の箱が雑多に収められている。やや時代遅れの印象を与えた。
奥まったところにある古びた木製の作業台の上に倒れ込むように座ると汗に濡れた上着を脱ぎ捨てる。コナーはシャツの袖をめくり上げてこめかみに指を当てた。集中しなければ。分析して逆算すればプログラムを打ち消すワクチンが作れるはずなのだ。それさえ掴めばどうということは無い、と解析の処理を始める。天井のオレンジ色の光を灯した電球がゆらりと揺れてはコナーの足元に影を踊らせた。
「コナー、」
呼びかけられてギクリと顔を上げた瞬間、鼻の奥、眉間の辺りでプツリと何かが千切れる音がした。毛細血管のパーツが切れたようで鼻の穴から垂れてきたブルーブラッドに呆然としていると、慌てて駆け寄って来たハンクが自分のシャツの袖を押し当てる。
コナーはうんざりとした表情を隠すことなく細めた目でハンクを見やった。
「そっとしておいてって言ったじゃないですか!聞こえなかったんですか!」
「馬鹿野郎!あんな尋常じゃない様子でほっとけるほど、俺は人間を辞めてないんだ。残念だったな!」
コナーの叫び声に負けじとハンクも怒鳴り返してくる。
僕がどんな思いで逃げ出してきたのかこの人は何にも判っちゃいない、という怒りがフツフツと込み上げてきた。
すん、と鼻を啜ってみると幸いにもすぐに鼻血は止まったようだった。発熱で至る器官が麻痺している気配がする。これに喜んで飛びつく変異体たちの感覚は判らなくもないが、今は煩わしさしかなかった。
厳しい眼差しをしているハンクを横目に見やりながら、隠してもどうしようもないことだと諦めて、コナーは自分の身に起きている異常を大人しく白状した。
「噂のウイルスに感染してしまいました」
「なっ、」とハンクが絶句する。
「現場で皮膚接触を許してしまって。今は抗体の生成を試みている所です」
そこで喉が詰まって深く息を吐いた。下腹部が燃えるように熱く疼いているのが判って、コナーは奥歯を噛み締める。あくまで捜査モデルの自分には生殖器モジュールは不要の代物で、備わっていない。幻肢痛のように、真っ更な場所がじくじくと疼いて堪らなくなる。どうしろというのだ。服の上から撫でてみると擬似的な受容体が敏感になっているのか、生地が擦れただけで身悶えしそうになってしまった。
「お前、肝心な所で案外ドジだよな」
「そういった苦言は今は控えていただけるとこちらとしても作業がスムーズですね」
自分が迂闊なことくらい言われなくとも判っている。
解析を実行するだけでもかなりの負担がかかるのに、メモリに食らいついたウイルスがますます負担を増加させていく。最新型の自分でもこの体たらくなのだから、一般的なスペックしか持たないアンドロイドにとってはそれこそ致命傷だろう。じりじりとバックグラウンドで進む処理にやきもきしながら、コナーは腹部を手の平で押さえ込む。
「苦しいんじゃないのか。確か興奮剤みたいなもんだろあのウイルスは」
俺に出来ることは無いのか?とハンクはコナーの汗で解れた前髪をかきあげて熱で霞んだ目を覗き込んだ。無骨な指先が額をかすめただけでピクリと肩が震えてしまう。どこもかしこも敏感になりすぎていた。このまま我慢し続けたらオーバーヒートを起こしてしまうかもしれない。それもまた怖かった。
コナーは唇を噛み締めて微かにあった羞恥心を殺すと、静かに恐れを吐露した。
「体中が熱くて、ウイルスのバグで下腹部の……無いはずのものが疼くんです、どうすればいいのか」
ハンクは一瞬何のことやらと思案したが、おもむろにコナーの下半身へと手を伸ばした。スラックスの上へと指先が滑り、恥骨の辺りをやんわりと撫で上げていく。甘い疼きが腰骨全体に突き抜けていき、
「やっ、あ……っ、」
自分でも聞いたことのない甘ったるい声が喉から飛び出してコナーは驚いて唇を噛み締めた。
「悪い。そうか、本当にないんだな」
とハンクは確認してから独りごちて、コナーのスラックスのボタンを外して前を寛げさせた。ワイシャツのボタンもプチプチと外しながら、
「まあ、適度に発散しちまえば何とかなるだろ」
「待ってください、ハンク」
待って、とうわ言のように繰り返してしまう。
「アンドロイドの性感帯ってやつは人間と同じなのか?そもそも存在するのか?」
「……恐らく同じ、ですが……もしかしたら僕にはその機能が備わっていないかもしれない」
「……触ってみてもいいか?」
胸の調整器が騒がしく鳴り始めるのを感じながら、コナーはこくりと頷いた。
未知の領域に震える腰を抱き寄せられながら、汗ばんだ項に音を立ててキスが落とされる。ちゅっ、ちゅっと啄むようなキスを浴びるたびにぴくぴくと体が震えた。この感覚はなんなのだろう、と考える。ノイズと共に胸の奥を締めつけてくるあの"好意"の感覚にも似ているのだが、それよりももっと遥かに俗物的な感覚に思えて。これが"快感"と呼ばれる類のものなのかもしれない、と思った。
ハンクのちくちくとした硬い髭の感触と共に項から首筋へと熱い舌が這って、耳朶へと辿り着く。耳の中を柔らかな粘膜がやわやわと出入りしては、水音が鼓膜を犯していく。聴覚ユニットが拾う自分の心音とハンクのゆるやかな舌使いの音が頭蓋いっぱいに響いて、目の前がちかちかと明滅した。不意に怖くなってハンクの腕を掴むと、あやす様に背中をポンポンと撫でられる。
「う、あ、ハン、ク……」
しがみつく腕を緩めるとハンクの手がするすると胸の上を滑っていき、コナーの胸の突起をつまみ上げた。電流が走ったような感覚にコナーはひゅっ、と喉を仰け反らせる。柔らかな桃色の尖端をくにくにと弄んだかと思えば胸全体を撫で上げる指先の感覚が悩ましい。ハンクはコナーの敏感な反応を楽しそうに見ていた。
「しっかり機能してるじゃないか。感度が良すぎる気もするが」
くつくつと笑いながらハンクの唇が喉仏の辺りに落ちてきて、そっと歯を立てていく。コナーはひくりと喉を鳴らした。
電流のような快感が走る度に目の前が白く霞み、視界はシャットダウンの直前のそれとよく似ている気さえした。
体に力が入らなくなって机の上になし崩しに倒れ込むと、ハンクが覆い被さってくる。
「大丈夫か」
頬を撫でてくる手の平が優しくて泣きそうになる。優しくしないで欲しかった。また貴方への感情を忘れるのが困難になってしまう。
そんな焦りに襲われてコナーはハンクの肩をそっと押しやった。
「あの、ハンク、」
もう大丈夫ですから、と言いかけた時にまた鼻の奥からつぅと熱いものが滴り落ちた。ワイシャツの胸元はすっかり青いまだらに汚れてしまっている。全然大丈夫じゃなかった、とコナーがうんざりと鼻を啜ろうとするとハンクの舌先がブルーブラッドをすくい上げていく。人体への害はないとされているが、大量摂取が推奨されている訳でもなく。原料の一部もあのレッドアイスと同じシリウムである。
「止してください、体に悪いですよ」
「酒と大して変わらないだろ」
ゆるりと頭を振って逃れようとするも片手で頬を押さえ込まれて動けなくなる。鼻先に触れるブルーブラッドをすくい上げる唇の柔らかさが心地よくて、強く拒絶することができなかった。発熱と発汗で滑る手の平でハンクの手首を掴むと、ゆっくりと手を握りしめられて指が絡み合う。夢を見ているのか、と思った。アンドロイド風に表すならば、スリープモードの目蓋の裏に描いた幻の演算結果、か。目を開くと消えてしまう儚い霞だ。
青く濡れたハンクの唇がふとコナーの唇に重なった。じっくりと留まって穏やかに唇を吸い上げられる感触に、いつもより高い肌表面の温度が更に上がって行く。
(今僕はハンクとキスを、している。)
ハンクの表情を見ようと視線を彷徨わせたが距離が近すぎるのかぼやけてしまってピントが合わない。サファイアブルーの瞳だけが暖色系の照明を受けてもキラキラと青く光るのが見えた。
ちゅっ、と音を立て離れてはまた吸い付くようなキスを繰り返されて、胸を突き上げる鼓動が早くなっていく。それから下腹部のむず痒さも、だった。ワクチン作成の処理は止まりはしないもののずるずると予測終了時間が延長していく。早く終わってくれ、とまだ終わらないでくれ、という二律背反の意識がぐちゃぐちゃと綯い交ぜになっていった。
ハンク、と呼びかけた舌の上の言葉すら軟らかな舌が絡めとって行く。歯列のエナメル質を丹念になぞり上げられて背筋が小刻みに震えた。初めてハンクからもらったキスはほんのりと甘くて少し辛いようだった。息を切らしたハンクが息継ぎをする間に、ふはっとコナーはつい笑い声を上げてしまう。
「貴方またハンバーガー食べてましたね」
いつものコーラと、彼がよく食べているハンバーガーに使われている特製チリソースの成分が網膜のスクリーンに表示される。
「勝手に分析するんじゃねえ」
「昨日は野菜も食べるって、」
下唇を強く噛まれて皮肉の言葉が尻すぼみに消えて行く。差し込まれた分厚い舌に上顎を舐められてコナーの腰がぴくんと震えた。自分の口腔内のセンサー量をすっかり失念していた。サンプル採取の為に研ぎ澄まされた器官はどうやら快感をも微細に拾い上げてくれるようだった。ん、と喉を鳴らしてコナーは鼻から息を漏らすと、おずおずと自らの舌をハンクの舌に絡ませた。もっと深い所で彼と交わりたいと思った。ハンクのサファイアブルーの瞳にふわっと穏やかな色が浮かぶ。
じゅぷっ、と淫靡な音をわざと激しく立てながら舌が絡まってきた。口の中が甘い唾液でいっぱいになり、コナーはゴクリと喉を鳴らすも飲み込み切れずに口の端からたらりと一筋伝い落ちる。味蕾の一粒から舌の根まで丹念に舌先で舐め上げられてびくびくと腰が震えてしまう。
彼はどんな思いでキスをしているんだろう、という疑問が脳裏に浮かんだ。人間同士にとってのキス、は特別な意味合いがあったはずだ。愛だとか情欲だとか、そういった少し重たい感情が伴うものだ。
短く呼吸を繋ぎながら、ハンクは唇の端にぎこちない笑みを浮かべる。
「あの時よりも随分と積極的だな」
「あの時……?」
「病院で目覚めのキスをしてくれただろ?」
ハンクが何を言っているか判った瞬間、コナーの顔面からサァっと血の気が引いた。
「もしかしてあなた起きてたんですか?」
「まあな。もうお前が帰ろうとしてた時に少しだけな」
ここ最近のハンクの態度の理由は、その気まずさから来ていたのかと腑に落ちてしまい、コナーは項垂れた。まず彼が起きていた事に気がつけなかった自分の余裕の無さが酷く恥ずかしい。
コナーは眉根を寄せてモルタルの床に目を伏せた。緊張で喉がつかえて、だったら、と絞り出すような声が溢れだす。
「僕がこんな風に触れられたら、どう捉えるのか判ってらっしゃいますよね」
心踊らせていた自分が情けなくなった。ハンクは同情心でこういった戯れを許してくれたのだろう。綻んだ蕾が冷たく萎んでいく音がした。
ハンクは寂しげなような曖昧な笑みを浮かべていた。
「どんどん、貴方への感情を忘れることが難しくなっていく」
「忘れる、」
「僕が忘れても貴方は忘れてくれないでしょう」
相変わらず熱を持つ下腹部にシャツの上から爪を立ててコナーはぐっと歯を食いしばった。擦れ合った奥歯がぎちり、と軋む。
何事かを思案していたハンクが、コナー、と穏やかな声で呼びながらぎこちない手つきで髪を撫でてくる。耳元をくるりと撫でた手の平が後頭部を滑り、そのまま胸板に顔が埋まっていた。抱き寄せられたシャツの胸元からアルコールの匂いとほの甘い香辛料のような不思議な香りが漂ってきて、コナーはほっと息をつく。
「ずっと考えてたんだ」
とハンクは誰もいない空間で独りごちるような温度の声でそう言った。
「生まれたての雛鳥みたいなお前に、最初に深く関わったのが俺じゃなければ良かったのにってな」
孵ったばかりの雛は最初に見たものを親鳥だと思い込むという。刷り込みの可能性は確かに否めないけれど、それでもハンクに好意を寄せなかった自分自身が居る世界だってあるかもしれないのだ。観測された猫のようだ。今この世界で生きる自分は確かにハンクのことが好き、だった。
「お前はこれからも他の可能性を知っていくだろうし、感情を履き違えていた事に気がつくかもしれない」
それでも、とハンクは呟いてから、コナーのこめかみのリングへと微かに口付けをした。
「……"勘違い"してたのは、どうやら俺の方だったんだよな」
その意味を尋ねようとしたのだが、今にも泣き出しそうなハンクの表情に気がついて口を噤む。ハンクはその顔を隠すようにコナーをかき抱いた。隙間なく密着した体の間で、どくどくと二つの心臓が高く鳴っている。太腿の付け根に当たる感触でハンクのデニムの前が張り詰めている事に気がついてコナーは小さく息を呑んだ。知識はあるがその現象を目にするのは初めてだ。
まるで傷が膿んだみたいに下腹部がじくじくとざわつき始めて、宥めるように静かに撫でる。この内側にハンクを受け入れることが出来たらどんなに幸せなんだろう、とふと考えている自分が居て、怖くなった。そんな高望みをしてはいけない、と意識の片隅では判っているのに。自制が出来なくなっていた。
ハンクの足の間に膝頭をやんわりと擦りつけると、彼の肩がぎくりと強ばった。
窘めるような眼差しが眉間の辺りに注がれているのを感じたが、意に介さず厚いデニム地に手を伸ばす。片手でボタンを外してチャックに手をかけたところでチラリと見やると、唇を強く噛み締めているハンクと目が合った。そのまま下着の上から勃ち上がりかけている陰茎を撫で擦る。と、手首を掴まれた。
「お前、意味判っててやってるんだよな?」
「無論です。僕ばかり介抱していただくのも癪ですから。もしよければ……ですけど」
受け入れる器官がないので必然的に手淫か口淫の二択になってしまうのもひどくもどかしかった。
ふ、とハンクの手の力が抜けたので許しを得られたということにする。ゆるゆると擦ると、手の平の下で熱が一点に集まって膨らんでいくのが判る。黒い下着に先走りの液が滲んできたので、コナーは窮屈そうな内側から陰茎を取り出した。成人男性の平均値よりは大分大きい赤く充血したそれを、コナーは先走りを馴染ませながら両手で包んで上下に扱く。知識としては持ち合わせているが、上手く出来ているのか心配になってしまった。
「痛くないですか……?」
と、ハンクが苦しげに息をつきながら、コナーの体を押し返した。
「もういい、お前はじっとしてろ」
「?」
コナーの脇の下に腕を差し込んで作業台の上に押し倒すと、ハンクは噛みつくようにコナーの唇に食いついた。角度を変えて吸い上げられるキスに狼狽えている合間に腰からスラックスと下着が引きずり下ろされていく。下半身が頼りなく思えて、込み上げてくる羞恥心に膝を強く寄り合わせた。コナーの靴下留めのベルトをぱちん、と指で弾いてからハンクは苦い表情を浮かべて、
「ここまで煽ったんだから、最後まで付き合ってくれるよな」
「何を、なさるおつもりですか?」
すっかり硬く勃ち上がったハンクの陰茎が太腿の間にぬるりと差し込まれて、コナーの腰が小刻みにわなないた。
「ハンク、これは、」
「今更だと思うが念の為に一つだけ言っとくと、俺は好きでもない奴と平気でキスできるようなタイプの人間じゃないからな」
まくし立てられたその言葉の意味が腑に落ちる前に、下腹部にずるりと陰茎を擦りつけられてコナーは体を痙攣させた。潤滑剤代わりにハンクの唾液がたらりと伝い落ちてくる。それがやたらと熱く感じられた。汗と唾液が混ざりあった液体がコナーのきめ細やかな人工皮をてらてらと照らしている。
ハンクはコナーの膝裏をまとめて抱えるとゆっくりと腰を振り、律動を刻み始めた。二人の肌がぶつかり合う乾いた音が静かな旧保管庫を満たしていく。大きく膨らんだ亀頭でぐりぐりと腹部を抉るように突き上げられてコナーはか細い悲鳴をあげてしまった。
「ひっ、う……」
「嫌じゃない、か?」
それに首肯しながら太腿に力を込めて締めると、ハンクの喉からぐうっと呻き声が漏れた。出っ張った恥骨パーツにカリ首が引っ掛かるたびに幻の器官が甘やかに快感を吐き出してくる。幸いワクチンの作成はじわじわと進行していたが、完成を目前に頭蓋が破裂してしまうのではと怖くなった。
にゅぷ、っと濡れた音を立てて二人の肌が深く吸い付き合う。ハンクの腰のストロークが段々と短くなっていき、コナーは喘ぐ声を堪える為に唇を強く噛みしめた。声をあげない、なんて処理もいつもならば容易いのに今は上手く制御することができなくなっていた。その様子を見たハンクがコナーの唇を指で割り開く。人差し指と中指の二指でツツ、と上顎を撫であげたかと思えば舌の根をやわやわと揉まれてコナーはたまらず首を横に振った。
「んぅ、」
無骨な指で口内を刺激されるたびに、視界がチカチカと瞬いて熱が体の奥に蓄積していく。苦しい。早く解放してしまいたい。
欲を貪るようにコナーがハンクの律動に合わせて腰を揺らすと濡れた音が一層大きく響いた。
ハンクが顔を顰めながらコナーの腰を深く抱きこむ。
「っ、くそっ、……コナー……ッ」
切羽詰まった声でコナーの名前を呼びながら、ハンクの体がびくりと一際大きく波打った。それに引きずられるようにコナーの内側の熱も高まり、泡のように弾ける。
「ふああっ……」
視界が真っ白に染まった。足の間で震えた陰茎がコナーの腹の上を白濁でしとどに濡らす。あまりの熱さに腹の内側が溶けて一緒に流れ出してしまいそうな錯覚をした。弓なりに反らせたままの背中からゆるりと力を抜いて止めていた息を吐く。
チリチリと耳元でアラートが鳴っているのだが網膜スクリーンまで同時に吹き飛んでしまい何も見ることが出来ず、コナーはぼんやりと瞳を彷徨わせた。
ハンクの汗に濡れた手で額から頬を撫でられ、段々と内側の熱が穏やかになっていることにはたと気がついた。
戻って来た視界に写った情報にコナーは「あ、」と息を零す。
「ワクチンの生成、終わりました」
そりゃよかったな、とハンクはひどく疲弊した表情で項垂れていた。






精度を上げる為にアンドリュー・リードにプログラムのデータを送ったところ、「刑事さん、これどうやって手に入れたの?」と質問攻めにされたがコナーはやんわりと誤魔化して回避した。
彼は案の定学校を休んで開発に躍起になっていたようだったが、少々手詰まりに陥っていたらしく大人しくコナーの組んだデータをベースにブラッシュアップをしたワクチンを提供してくれた。これで街は沈静化するに違いない。
ギャビンに押しつけてしまった事件も、犠牲者はアンドロイド一体のみだったようだ。あの家の主は病院でもう一体のアンドロイドに付き添われて看護を受けていたそうだった。能天気なものだ。利用料の踏み倒しと、アンドロイドへの暴行の疑いでそれ相応の場所に放り込まれるだろう。




デスクからいつの間にか消えていたハンクの姿をつい癖で探すと、珍しく署の屋上にいるのを見つけた。風に当たりながら、オーガニックのサンドウィッチを齧っているのでそっと忍び寄る。
「お前は本当にいつまで経ってもプードルみたいにくっついてくるのな」
バレていたようだ。ハンクは特に驚きもせずにコーラを啜り上げる。
「できれば飲み物も、ノンシュガーのアイスティーなどにしていただけると僕は安心するんですがね」
「こいつだけは譲れないな」
彼が飲みきったコップを振るとザラザラと氷が鳴る。
昨日の情事を一人反芻しては顔を赤らめたり青ざめてみたりして、コナーはハンクとどう接したらいいのかいまいち掴めずにいた。表面上はフラットにしているつもりだが、一言一句に迷いが生じてしまう。その迷いも人間に知覚出来るか怪しいコンマの世界、なのだろうが。ハンクの態度は相変わらず無愛想、と言うより他ならず、あまり以前とは変わっていないように見えた。彼は何を思っているのだろうか、と必死に考えてみても透けて見えるはずもなく。そんな力があったらどんなに楽だったろうか。もしもハンクが後悔していたらどうしたら良いのだろう? それに自分たちの関係は一体何と表せばよいのだろうか。パートナー、であることは違いないのだろうけど。
あれこれ考え込んでいたコナーは不意にぐいっと腕を掴まれてよろけた。フェンスの際に立っていたハンクに手を引かれて、彼の胸板に顔が埋まる。いつもより早くハンクの鼓動が高鳴っているのが聞こえた。
「コナー、今晩よかったら家に来ないか」
その誘い文句にコナーはえ、と目を見開いた。
「……スモウ"も"寂しがってるみたいでな」
「それは貴方も、寂しい、という事ですか」
コナーの真っ直ぐな問い掛けにハンクは少し言い淀んでから、
「そう、だよ。……お前と一緒に居たいんだ」
きゅう、と胸の奥が切なく高鳴ってうっかり泣いてしまいそうになる。
きっと夢をみているんだ。こんなに幸福な気持ちになれるのならば、例え現実でなくても構わないと思った。
背中を撫でてくるハンクの手の温かさを感じながらコナーはくしゃりと泣き笑いの表情を浮かべ、掠れかけの声でそっと囁いた。
「はい、喜んで」


Cの昇天

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