午前六時、ここ数日降り止まない雨の音を聞きながら目が覚める。
スリープモードを解除したばかりでぼんやりとする頭をゆるりと振りながら、コナーは窓の外を遠く見やった。空は相変わらずの鉛色で、厚く垂れ込めた雲は今にも落ちてきてしまいそうなほど低い位置にある気がした。
寝間着代わりの黒いスウェットを引きずりながら、ぺたぺたと素足を鳴らしてキッチンへと向かう。全面コンクリート打ちっ放しの床はどこまでも冷ややかで快適性とは程遠い作りをしていた。
そろそろ補給が必要だと人工網膜のスクリーンが示していたので、コードの抜けた温い冷蔵庫からブルーブラッドの詰まったチアパックを取り出した。
飲み口を噛んでカウンターキッチンに寄りかかりながら、一人で住むにしては些か広すぎるワンルームをぐるりと見渡してみる。
市警から歩いて五分、ハンクの家までは十五分程の距離にあるアパートの一室だ。デトロイト市警が持つ官舎のうちの一つで、一週間ほど前からコナーは生活の拠点を此方に移していた。




サイバーライフ社から持ち掛けられた契約の件をハンクに相談すると彼も初めは喜んでくれたものの、結果的にはあまりいい顔をしてはくれなかった。
市警に向かう車中でハンクは苛立ちを隠そうともせず、アクセルを踏み込む勢いが荒くなる。
「"看板息子"にされて終いだったらどうするんだ」
お飾りになって使い捨てられるのかもしれないんだぞ、と。
「……それもそうですね」
「コナー、お前夢はあるのか」
随分と途方も無い事を聞くものだ、と思った。アンドロイドは電気羊の夢など見ませんよ、と以前のコナーならば皮肉を込めてきっぱり切り捨てていただろう。だが今は迷いが生じる隙があった。
「それは"生きていくうえでの目標"という意味での夢、ですよね」
「そうだ」
難解なニュアンスを求めてくるハンクに抗議したい思いになったが、ぐっと堪え、コナーはそうですね、と躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「強いていうなら、貴方のようになりたいですね」
はっ、とため息にも似た空っぽの呼気を短く吐き出して、ハンクが目を大きく見開いた。
「日頃の不真面目な態度に騙されがちですが、貴方は正義感と知性に溢れ、情に厚く、警官の鑑のような人で、「あー判った判った、もういいって」
空いていた片方の手で口元を押さえ込まれて先が続けられなくなる。横目にハンクを見やると照れているようで、耳に朱が上っていた。コナーが両手を上げて降参の意を示すと、ハンクは身を引いて、
「お前も世辞が上手くなったな」
いいえ本心ですよ、という言葉は飲み込んでコナーは静かに微笑んだ。言ってしまうとまたハンクが臍を曲げかねないからだ。
目的地の市警の駐車場に到着した。
サイドブレーキを引きギアを変えてからも、ハンクは車から降りるでもなく暫くぼんやりとしていた。が、おもむろに短く切り揃えた襟足を何度か掻くと、なあコナー、と低く吐き出す。
「お前警官になってみる気はないか?」




ひと月前の会話を反芻しながら、飲み干したチアパックにふうとゆっくり息を吹き込んだ。
壁にかかった式典用の礼服を細めた目で見やる。そろそろワードローブに移さないと、と思いながらもついつい眺めてしまうのだ。
ハンクの口添えを受けファウラーも前向きに行動してくれた結果思いがけず話はとんとん拍子に進んだ。コナーは性格分析や判断推理といったいくつかのテストを受けた後に、アンドロイドとしては世界初の正式に雇用された警察官となった。補佐だけでなく、今のコナーは一人でも捜査出来る権限を与えられている。とはいえまだ新人扱いなので完全にハンクの手を離れた訳ではないのだが。
ファウラーとしても戦力が更に欲しい、という狙いがあったのだろう。コナーの例が上手く行けば続々と雇用者が増えるはずだ。人間たちの反感はますます強まってしまうだろうけれど。
季節外れに執り行われたバッチの授与式でギャビンが苦虫を噛み潰したような顔をしていたのが印象的だった。あのクソプラスチック野郎め、と今にも叫び出しそうな表情だった。それからハンクの笑顔も。パトロールの警官からキャリアをスタートさせたハンクからしてみれば、コナーの姿に何かしら思いが重なる部分もあったのだろう。いつかの朝焼けの中で抱きしめてくれた時のように優しい顔をしていた。あんな風にもっと笑いかけてほしい、と強く願ってしまうのは利己的なのだろうが。
部屋着を脱ぎ、いつものユニフォームに腕を通していると事件の報せが入った。どうやらアンドロイドが関わっているらしい。すぐにハンクに電話をかけながら、コナーはショルダーホルスターをてきぱきと身につけて行く。かつてはアンドロイド法に阻まれていた拳銃も今では所持が認められている。ベッドサイドに置いていた制式モデルの白いストックを撫でてから左脇のホルスターに差し、右脇のバックアップガンも軽くチェックした。
一度目では出なかったので掛け直すと、すぐにハンクが電話に出た。
「おはようございます、ハンク。また二日酔いですか?」
『あー……いんや、ただの夜更かしだ』
喉の当たりでごろつく声はだいぶ眠たそうだった。検索すると昨晩はデトロイトギアーズの試合があったようだった。2ポイント差で辛くも勝利したらしく、観戦もさぞかし白熱したに違いない。
「出動要請が入りましたので、今からそちらに向かいます。準備をしていて下さい」
『はいはい、了解。スーパーポリスさん』
スモウの爪がフローリングに当たるカチカチという音を残しながらプツリ、と電話が切れた。
スーパーポリス、か。心の中でそう反復してからコナーは上着の皺を伸ばして玄関へと向かった。
サイバーライフから通うよりも効率的かと思い契約したものの、毎日がらんとした部屋に帰って来るのはほんの少しだけ苦痛だった。まだ一週間しか経っていない、慣れていないだけだ、と思いつつも体の中を風が吹き抜けていくような音がする。これも寂しいという気持ちなのだろう、と噛みしめながらコナーは部屋を後にした。




時間経過と共に強まって行く雨足に、窓枠がガタガタと歯の根を震わせるように鳴いていた。そこに乗る甲高い泣き声と相まって、湿度の高い室内はいっそう鬱屈さを極めて行く。ハンクの眉間の皺もいつもの倍深く刻まれている気がした。
ウレタンのすり減った安物のソファーの上で、消えかけのブルーブラッドを浴びた女性が剥き出しの膝を抱えて泣き喚いていた。生地の薄いペールブルーのスリップドレスの胸元から、樫の幹のような色をしたブルネットヘアにまでベッタリとシリウムが絡みついている。通報者の名前はケイト・スチュアート。恋人のアンドロイドが誘拐された、と今朝電話で通報をしてきた本人だ。
ふた月ほど前に成人したばかりのうら若い女性で、通報時の音声と家財の傾向、勤務先を参照したところ、地方から都市に出てきて舞台女優を目指しながら近所のダイナーでウェイトレスとしてアルバイトをしているようだった。電話口で軽度の南部訛りが聞き取れた。
警察を呼んで気が抜けた反動かパニックが治まらないらしく、誰がどのように声を掛けてもぐずる子供のように泣き続けている。
これだけの返り血を浴びているということは、攫った犯人を目撃しているはずなのだ。彼女自身は無傷な点からも顔見知りの可能性が高い。アンドロイドの恋人、とやらは購入した際のシリアルナンバーから紐づいて位置情報を割り出せるのでそう難易度は高くない。変異体になっていなければ、だが。愚直に追いかけても成功率は下がるばかりだ。今は何でもいいからヒントが欲しかった。
手持ち無沙汰気味に部屋を右往左往しているハンクと目が合うと、彼は肩を竦めて「お手上げだ」と口の動きだけで伝えてきた。そうだろう、と予想していたので驚きはしなかったコナーは代わりに彼女へと歩み寄った。
アパートの入り口から玄関にかけて点々と垂れたブルーブラッドから、恋人のアンドロイドのシリアルナンバーは特定出来ていたが、念の為に彼女の返り血と照合出来るか試しておきたかった。
顔を埋めて啜り泣くケイトのもとにコナーは片膝をつき、静かに声をかける。
「はじめまして、スチュアートさん。私はデトロイト市警のコナーと申します。ID番号は313-248-317」
貴方の恋人と同じアンドロイドですよ、とこめかみのリングを指しながら言うと彼女はぴくりと肩を震わせながら目をあげた。痛々しく目元と左の頬を腫らしてさえいなければ、確かに誰もが端整だと唄う容姿に見えた。琥珀色の瞳が不安げに部屋を彷徨い、コナーの姿を認めるとじっと視線が止まる。
「スチュアートさん、恐れ入りますがサンプル採取にご協力いただいてもよろしいですか」
お手を、と求めるとケイトがおずおずと痩せぎすの腕を差し出してきたのでハンクがほう、と声を上げるのが聞こえた。
ブルーブラッドに塗れた腕からサンプルを採取すると、床の血痕と合致する。そこからトラッカーのモジュールにアクセスすると、ここからやや南西のデトロイト川とエリー湖の合流地点に向かってGPSの信号が移動しているのが判った。どうやらアンドロイドは変異体になっていないようだ。
「攫われたアンドロイドの位置を特定しました」
ハンクの端末に座標を送ると彼は電話で応援の手配を始めた。
「スチュアートさん、彼は無事です。だからどうか落ち着いてください」
ストレス値が少し下がるのが見て取れた。頑なに膝を抱いていた腕が解けたので、空いた両の手にコナーが手を重ねるとケイトも弱々しく握り返してくる。落ち着いたのだろうか、と覗き込むとケイトの喉の辺りで息がひっ、と引っかかる音がした。少し過呼吸気味になっているようだった。
「攫った犯人の姿は見ましたか?」
こくりと上下に頭が揺れ、何かを言おうとした声がくぐもる。コナーはケイトの隣に腰かけるとゆっくりと赤子をあやす様に背中を撫でた。
部屋の本棚の文献と、ベッドサイドの抗不安薬のピルケースから判断するに、彼女は人間を恐怖する傾向にあるようだった。ポストイットに塗れた演劇の基礎や古典の上演台本と混ざって、人付き合いのノウハウや臨床心理学の書籍類が並んでいた。だからアンドロイドと舞台を愛したのかもしれない。きっと誰かになりきっている間は心が解放されて癒されたのだろう。人間は脆い生き物かもしれないが、逃避できるからこそ強かな面もある。
ハンクも彼女の精神状態には気がついていたのだろう、それでお手上げだと嘆いたのだ。
呼吸が落ち着いてきたのか、彼女はぽつりと呟いた。
「恋人を、攫ったのは、私の兄よ」
家族構成を参照すると確かに彼女には3つ年の離れたヘンリーという兄がいるようだった。
「田舎の、実家に帰って、さっさと跡継ぎを産めって怒鳴られて、それで喧嘩になったの……」
それだけどうにか吐き出すと、彼女はまた発作的に泣き出してしまった。どうやら相当に圧制的な家で生まれ育ったらしい。赤く腫れた頬も兄に殴られたのだろう。嗚咽を飲み込もうと躍起になっているがそれも上手く行かない。
キッチンから持ち去られたらしきナイフは未発見なので、恐らくヘンリーが所持したままと思われた。アパートの前の道路で予めスキャンしたいくつかの轍の中からヘンリー名義の車種を特定する。年代物の白いピックアップトラックに乗っているようだ。
「ご協力ありがとうございます、スチュアートさん」
「どうか、兄を、許してあげて、」
「はい、もう大丈夫ですから、ゆっくり休んでいてください」
悪い人じゃないの、と魘されたように繰り返すケイトの体をそっと横に寝かしつけた。体温が下がっているのが判ったのでベッドルームから毛布を持ってきて掛けてやると、彼女がか細い声でありがとうと呟いた。
「……悲しみばかりを見るこの目も、眠るときだけは、閉じられる……」
どうやらソファーから滑り落ちた台本の一文を諳んじているようだった。彼女はことりと糸が切れたように眠りに落ちた。
それを見守ってからコナーは踵を返して部屋を出る。急がなければ、位置が割り出せたとは言え彼のこの出血量ではそうのんびりもしていられないだろう。兄のヘンリーには傷害罪で少年院に収容されていた過去もある。気が短く荒っぽい性格なのだろう。無事で済まない可能性も高い。後を追ってきたハンクに肩を叩かれ、体に力が入りすぎていた事に気がつきコナーはふっと緊張を緩めた。
「やるじゃねえか、スーパーポリスさんよ」
「僕がアンドロイドで良かったですね」
「まあ俺にとっては今更だけどな」
それは褒め言葉と捉えてもいいのだろうか、と考えている間にさあ行くぞ、と背中をパシンと叩かれる。意識を切り替えてコナーは目的地への最短ルートを計算し始めた。




辿り着いたのは無人の船着場だった。座標位置は10分ほど前からこの付近で動きを止めている。土砂降りの冷たい雨に備えてレインコートを着込むハンクを横目に、コナーは着の身着のまま車から降りた。開け放したままのゲートの下でブルーブラッドの痕跡を見つける。採取すると確かに攫われたアンドロイドのものだ。
時折入ってくる無線通信から応援部隊もこちらに向かっていることが判ったが、今回の被害者はアンドロイドとだけあって投入人数も少なく、どこか他人事の空気が漂っていた。交渉役も対人間だがコナーが選ばれたのは、人の手を煩わせるまでもないと思われているのだろう。ぐっと拳を握り込んでから緩めると、ハンクが心配そうに声をかけてくる。
「緊張してるのか」
「いえ、大丈夫です」
と固い声で返して、コナーはホルスターから銃を抜くと血痕を追いかけ始める。応援を待っている気はなかったし、それにはハンクも暗黙の了解をしていた。GPSの位置情報も限りなく精密という訳ではないので、ここからは無心で追いかけるしかない。
桟橋の開始地点に白のピックアップトラックが止まっているのを確認した。ボンネットに触れるとまだエンジンの熱が残っている。GPSの軌跡からしても、地の利も乏しいままあてどなく走ったのが判明している。彼も悩んでいるのかもしれない。
中を確かめると助手席をシリウムの液溜まりが濡らしていた。荷台の赤く錆びた工具箱が開けられていたので何かを持ち出したようだった。残された工具の内容と比較して推察するに、恐らく鋸の類だろう。キッチンナイフ、鋸、もしかすると拳銃を持っている可能性だってある。
警戒度を高めながらコナーとハンクは痕跡を追った。船着場は純粋に広く桟橋は入り組み、大型のクルーザーが留められているエリアに近づくに連れて見通しが悪くなっていく。暴風で荒れた水面の上で船舶が揉まれているのだ。道中で調べた天気予報によると台風に化けた低気圧の渦がちょうどミシガン州を通り過ぎようとしているようだった。
銃のグリップを強く握り込んで息を吐いたところで何かを殴りつけるような鈍い音がした。コナーとハンクは体を低くしてクルーザーの影に身を潜めた。
コナーたちがいる桟橋からもう一本奥まった地点に体格の良い男の後ろ姿が見えた。
"お前さえいなければ"という呪詛が切れ切れに聞こえてくる。横顔から解析したところヘンリーで間違いないようだった。無抵抗のアンドロイドに馬乗りになり、素手で殴りつけているようだ。自身の血の赤と青の血がどろりと混ざりあって紫色がかった飛沫をあげている。脇には大振りの鋸が置かれており、殴り飽きたらバラして川に棄てるつもりだったのかもしれない。
二人は静かに男に近づいた。
コナーは銃を構えると深く息を吸って叫ぶ。
「ヘンリー・スチュアート!デトロイト市警だ。速やかに両手を挙げて頭の後ろに置きなさい」
男の動きがピタリと止まった。
殴られるがままだったケイトの恋人らしきアンドロイドはHR-400モデル。主にエデンクラブといったセックスバーに配属される男性モデルだが、彼は左腕から胸元にかけての人工皮膚が消滅しているようだった。着古して伸びきったTシャツの首元から剥き出しになった機体には、引っかき傷のような下卑た単語のラクガキが見て取れる。年季が入っているので、ヘンリーによるものではなく恐らく不良品として廃棄された後に何者かにつけられた痕のようだった。中古のアンドロイドショップでリサイクルされた後に、ケイトが安値で購入した履歴が残っている。
鼻と口からブルーブラッドを垂らした彼の瞳は硝子玉のように虚ろで何の感情も宿していなかった。腹部が大きく裂けてじわじわとブルーブラッドが流出し続けている。このまま失血すればシャットダウンしてしまうであろうことは明確だ。
ヘンリーはコナーの指示に従い、腕を組んだ姿勢でこちらを振り返った。
雨でも流しきれない紫色の返り血で白いシャツは染まり、まだらに汚れた顔に粘ついた笑みが浮かぶ。
「えらく仰々しいな。どうしょっぴくつもりだい、刑事さんたちよォ」
強い南部訛りで問われて、コナーは僅かに顔を顰めた。彼はまだアンドロイドに関する刑法が整い切っていない事を判った上でこの凶行に及んでいるのだ。種族としては一応認められたものの、まだ社会のルール上、アンドロイドは"モノ"の範疇から抜け出しきれていない。その要因は変異しているか、否かに大きく因るところがある。
「ケイト・スチュアートに対する暴行傷害罪の疑いと、窃盗及び器物損壊罪の現行犯で身柄を拘束する」
コナーはベルトに下げた手錠に手を伸ばしながら、ヘンリーとの距離を詰めた。そのまま膝を付け、と命じた時だ。ヘンリーが強く桟橋を蹴り上げた。ひと息に縮まった間合いに処理が追いつかず、コナーは正面からタックルを食らって後ろに吹き飛ばされた。手の中から滑り落ちた拳銃がカラカラと転がって行く。逃げようとするワークパンツの脚を反射的に掴むと、ヘンリーは身を捩りながら転んだ。が、間髪入れずにコナーの手を振り抜いた足で蹴りつける。指の関節が厭な音を立てたが怯むことなく体勢を立て直し、目の前のシャツの肩口を手前に引きずるように掴んだ。二人とももんどり打って転んだがコナーの方が数枚上手だった。殴りかかってきたヘンリーにコナーは猫のようなしなやかな動きでマウントを取ると、その拳を片手でいなしながら捻りあげる。ごきん、と鈍い関節の外れる音が響いた。痛みに咽ぶヘンリーの体をどうと転がし、膝頭で背中を強く抑え込みながら後ろ手に手錠をかける。ついでにズボンのポケットに隠し持っていたキッチンナイフも取り上げて背後へと転がすと、ハンクが証拠品袋へと回収して、フィニッシュ。
「おーおー、容赦ないな」
と、それまで傍観していたハンクが楽しそうに手を叩いた。
「上手いもんだ」
「足の関節も外した方がいいですかね」
「そりゃ勘弁してやれ。車に乗せるまでが面倒くさくなる」
コナーはふ、と息を吐いてから、こっそりと破損した左手を見やる。青い血を滲ませながら、本来曲がらない方向に歪んでしまった薬指をあるべき位置に捻じ曲げてみた。痛みはないが違和感が不快だ。このくらいなら支障もないのでは?と動作を確認する脇から、
「おい、ちゃんと破損のレポート出せよ」
「……はい」
以前は備品破損の報告としてハンクが出していたのだが、今は滅多な事がない限りコナーが自分で報告書を作る取り決めになった。人間で言うところの労災の申請書のようなものかもしれない。
ほら立てよ、と雨に足を取られてふらつく男の体をハンクが引きずって車へと追い立てた時だ。
突如上空へ向かって一度銃声が放たれた。雨音を一瞬引き裂くも、すぐに雨粒の音が襲ってくる。コナーとハンクはハッと息を飲んで振り向いた。
雨に打たれて震えながら、HR-400モデルがいつの間にか茫漠と立ち尽くしていた。その瞳は不安の色に満ちている。そんな、まさか、とコナーは一歩近付きかけて止めた。
皮膚の剥がれた左指がカタカタと未だにトリガーの上で震えているのが見えたからだ。空いた腕で鼻から滴るシリウムを拭ってから、HR-400はヘンリーに向かって銃口を向ける。
待ってくれ、と掠れそうになる喉でコナーは叫んだ。戸惑いに揺れる瞳から彼が変異したのだと悟る。この刹那に箍が外れ、彼の中に込み上げた何かがあったのだ。……その感覚は自分もよく知っている。
「君の名前は?」
彼を落ち着かせようと夢中で、その問いかけが零れ落ちた。
銃口はそのままに、HR-400はぎこちなくコナーの方を見た。その動きとは裏腹に唇は流暢に答えを告げる。
「僕の名前はヘンリー」
つう、と彼の頬を涙が伝い落ちるのが見えて、コナーの意識は一瞬真っ白になった。
"どうか、兄を、許してあげて"、"さっさと跡継ぎを産めって怒鳴られて"、"悪い人じゃないの"……
様々な可能性が脳裏を掠めた末に"ケイト・スチュアートは彼女自身の意思で、恋人のアンドロイドに実の兄と同じ名前をつけたのか?" 、その疑問だけが最後に残った。
気まずそうにしているハンクと一瞬目が合って、コナーはどうするべきか考えるも、物理演算モジュールが一時的に混乱を来たしているようで上手い糸口が掴めない。どうしよう、どうしたらいい?
HR-400はもうシャットダウン寸前で、腹から流れる血を止めようともせず、軋む体でふらふらとヘンリーに歩み寄った。痛みに喘いでいたヘンリーもハンクの拘束の腕の中でギクリと動きを止める。
HR-400はふっ、とどこか勝ち誇ったように微笑んだ。
「ケイトを愛しているのは僕だけだ」
銃声が三度弾けた。そこには明確な殺意を感じた。ヘンリーは心臓の真ん中を貫かれて呆気なく絶命した。その様子を見てやり遂げたと思ったのだろう、アンドロイドのヘンリーも柔らかな表情で膝から後ろへと崩れ落ち、その機能を停止させた。
「おい、コナー、」
遺体を突き飛ばしたハンクのレインコートの脇腹に赤い色が滲むのを見てコナーは我に返った。
雨が止んだのかとさえ錯覚するほど音が果てしなく遠のいた。
即座に分析すると、心臓から僅かにずれた銃弾が肋骨に当たってその軌道を変えたようだった。体を突き抜けた銃弾と、変異体の起こした狂いがハンクに傷を負わせた。
(僕は何のためにここにいたんだ?)
脇腹を押さえ、膝をついてうずくまるハンクに駆け寄ってコナーは彼の名前を叫んだ。ハンクはへらり、と笑って、
「そんなに喚かなくても、これくらいじゃ死にゃしないぞ」
「止血の処置をしましょう」
血の気の失せた表情でネクタイを手に巻き付けると、暗赤色の血を流す傷口を直接圧迫した。ハンクの喉から呻き声が零れる。
幸いなことに、コナーたちも通ってきた大通りの方向から、曇天の空に赤いパトランプの光が走るのが見えた。救助隊が来たのだ。銃弾も体内に残っていないし、傷もさほど深くはない、だからハンクは死んだりしない。大丈夫、大丈夫……と心の中で繰り返していたはずの言葉がいつの間にか唇の端から零れ落ちていた。
雨の雫が幾筋も伝い落ちる滑らかなコナーの肌を、ハンクは血に塗れていない方の手で静かに撫でた。少し首をもたげるとこつん、と額同士がぶつかってハンクの熱がじわじわと伝わってくる、気がした。アンドロイドの人工皮膚には触覚や温覚といった受容体は厳密には存在しないのだから。
「いいから、落ち着けって」
コナー、と名前を呼ぶ吐息が唇の表面を掠めて、それに引きずられるように胸の奥がじくじくと痛みだした。痛覚もない、はずなのに、その幻の痛みがコナーの混乱した意識を現実へと縫い止める。さほど問題なかったはずの左手の薬指まで、痛み出した気がしてもう何もかも厭になった。その自己嫌悪に押し出されるように、勝手に喉から言葉が込み上げた。
「ごめんなさい、ハンク」
「いいや、お前はよく頑張った」
そこからの世界は酷くスローモーションに記憶された。
武装した特殊部隊が現場の安全を確認した後に、ストレッチャーを押した救助隊員が駆け込んでくる。目まぐるしく回る車輪、雨音に掻き消されまいと張り上げられる声。持ち込まれた二つの死体袋にそれぞれのヘンリーが収められて、血痕は何事もなかったように雨に溶けて川へと流れ去って行く。どんどん小さくなっていくハンクの乗った救急車をぼんやりと見送りながら、コナーは雨の中へいつまでも立ち尽くしてしまった。








今回の誘拐事件は使用された銃器に少々問題はあったものの、変異体の正当防衛という世間受けする題目でシナリオが形作られ可及的速やか且つ上手い具合に丸め込まれるようだった。コナー自身も葛藤はあったものの、最終的にはそう解決される事を望んだ。望んで、しまった。もしHR-400が廃棄処分になってしまった場合の、ケイト・スチュアートの心の行き場を案じたのだ。幸いにも彼女は変異前のフラットなHR-400しか知らないので、修理後の初期化に対するショックもさほど受けていないようだった。おかえりなさいヘンリー、と死体袋の中で安らかにシャットダウンしているアンドロイドへ嬉しそうに笑いかける彼女を見てコナーはますます人間というものが判らなくなってしまった。
ハンクの方は大事を見て三日程入院することになっていた。
諸々の始末書を作り終えたコナーが初めて見舞いに来たのは、退院前夜の午後22時過ぎのことだった。本来は面会禁止の時間帯だったが、どうやら身分柄許可を得てしまったらしい。それを大人しく享受することにした。
外部メディアの好奇の眼差しを掻い潜り、書類の嵐や通常業務、スモウの世話をこなしているうちにあっという間に時間が過ぎ去ってしまった。ほぼ支障がなかったので自分の破損の修理は後回しになっており、コナーの左手の薬指には今も申し訳程度のテーピングが施されている。
個室の病床を与えられたので室内は酷く静かだった。ベッドサイドの椅子が軋まぬように腰掛け、ゆっくりと息を吐く。
「遅くなってしまってすみません、ハンク」
と囁いて、コナーはハンクのデスクから持って来たミュージックプレーヤーをベッドサイドのテーブルに置いた。暇つぶしになれば、と思いもっと早くに持ってくるつもりだったのだが、結局間に合わなかった。
ぐっすりと眠っているハンクの寝顔を頬杖をついてじっと見つめた後に、コナーはおもむろに彼の手首を取り上げた。親指の付け根に指を這わせ、橈骨の上を走る動脈に触れてみる。分析モジュールを通せば彼の心臓がちゃんと動いているのは判るのだ。それでも何故だか不安になってしまって。コナーはそっとハンクの胸に手を当ててみた。薄い入院着を突き上げる少し不整脈の混じった拍動を手の平に感じ、それから耳を押し当ててみた。頭蓋に反響する音が心地よくて、やっと落ち着かなかった胸の辺りがすうっと凪いでいく。
シャットダウンした"恋人"を幸せそうに腕に抱いた彼女を目にしてから、雑多な懸念が脳裏にふつりと浮かんでは泡のように消えていった。そうしてあれやこれやと考えた末に箱の底に残ったのは、"自分にも必要とする人が確かに居る"という事実だけで。
コナーは自分の内に存在していたその"独占欲"と呼ばれるらしき感情を一度だけ、素直に認めてみることにしたのだった。
穏やかな寝息を立てるハンクの口元に唇を寄せた。寝込みを一方的に、という状況は罪悪感があったが、きっとこうでもしないとハンクは突っぱねて何一つ受け入れてくれないだろう、と思ったのだ。
柔らかで少し乾いた唇の端に自分の唇を僅かに重ねてみる。以前無意識のうちにハンクの傷を舐めてしまったことがあったが、その時とはまた違ったざわめきが皮膚の下を走る感触がした。あまりにも名前の知らない感覚が多すぎる上に、自分の内側が想像以上に猥雑であることが可笑しくて苦しくて堪らず、今にもはち切れてしまいそうだ。
キスをしてみて、一瞬の高揚感と体温の上昇を得たが、それとほぼ同時に喉元をせり上がって来たのは寂しさの感触だった。冷たくて刺々しく、どこか緩やかな痛みを伴う感触だ。
コナーの頬の上をツゥ、と涙が一筋滑り落ちていった。あの日、僕だけが彼女を愛している、と言い放った彼と同じように。人間の血液が濾過されて涙になるように、その仕組みを踏襲してアンドロイドの涙もブルーブラットをベースに生成される。ソーシャルモジュールの一環として涙を流す機能があることは知っていたが、必要のないものだとばかり思っていたのに。
コナーは体の内側でずっとごろごろと引っかかっていた感情に漸く相応しい名前を見つけ、静かに吐き出した。
「すきです、ハンク、」
舌がもつれて上手く言えず、コナーはもう一度だけ"好き"と呟いた。
「貴方の事がとても大切で、大好きで、だから……途方もなく苦しくなってしまう」
きっとこれが好き、という気持ちなんだと体の奥でザリザリと細かく鳴るノイズをコナーは胸に手を当てて目を閉じて聞き入った。メンテナンスでもパーツに異常はなく、ハンクと居る時にだけ起こる胸騒ぎ。これが好き、という質感なのだろう。
「だから、もう二度とこんなこと言いませんから、どうか許してください」
と囁いてコナーはもう一度、ハンクの唇にキスを落とした。こんな感情は彼を困らせるだけの邪魔なものだと判っていた。この時折胸を締めつけてくる、柔らかく謎めいた感触の"何か"を、コナーは丁度良く撫で飽きたタイミングで消し去るつもりだった。
おやすみなさい、と別れを告げてコナーは真っ白な廊下を少しふわふわとした足取りで去る。一人きりのあのがらんとしたアパートに帰るのが少しだけ憂鬱だった。






コナーが立ち去ってものの数十秒後、静かに息を殺して狸寝入りを決め込んでいたハンクは深い深い溜め息を吐きながら、大して信じてもいない神様を恨むのだった。


わるい花

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