39:Troubles[1/2]


 タルタロスは東に進み、ベルケント港に停泊した。大きな歯車に、むき出しの配管。バチカルのように美しい装飾はなく、無駄を省いた効率的な港に見えた。ここにも工場があるのか、街の至るところは煙突が見える。
 ベルケン卜の街は、ここから更に西にあるらしい。徒歩で数時間なら、イオンの体調も問題ないのだろう。

「確かベルケンドは、あなたのお父様の領地でしたわね。昔二人でベルケントの……」

「……行くぞ。研究所はこの先だ」

ナタリアから逃げるように、アッシュがまた一歩大きく踏み出した。
 距離を縮めたいナタリアと、ぎこちないアッシュ。ルーク・フォン・ファブレと、ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディアは婚姻関係にある。ナタリアにとっては七年ぶりに再会した婚約者。色々と話したいこともあるだろう。アッシュはルークの名を捨てたと言っていたが、先ほどからの彼の言動にはナタリアへの気遣いがみえる。矛盾しているのだ。捨てたというより、捨てたと思いたいのだろうか。

「大丈夫か?」

「大丈夫だけど、」

ガイに声をかけられて顔をあげる。何も心配することはないのに、と言いかけてリンネは言葉を変えた。

「……何か、聞きたいことがあるんでしょ?」

リンネがレプリカというとで、気になることがあるのだろう。ガイは何か言いかけたが、何も言わずに口を閉ざして目をそらした。余程聞きづらいことなのか。急かす理由もなく、ただ微笑んで言葉を待てば、ゆっくりと視線が戻ってきた。

「……君は、自分がレプリカだと分かったとき、どう思った?」

ユリアシティに置いてきたルークが心配なのだろう。ここではない場所を写す青色の目に、リンネは小さく笑った。

「信じられなかったし、信じたくなかったよ」

ルークも今、こんな気持ちを抱えているのだろうか。傍にいられなくてもどかしい。そっと胸元を撫で、リンネはそっと息をこぼした。

「あたしは作り物の身体で、作り物の心。何もかもが偽りで、名前だって自分のものじゃなかった。ただ一つはっきりしていたのは、作られた理由だけ」

そういえば、あの日以来産みの親には会っていない。元気だろうか、と考えて苦く笑う。あの人、あの精霊は驚くほどリンネに無関心だ。心配などしているわけがない。心ない言葉より、あたたかな心のこもった言葉を大切にしたい。あの日の仲間たちの言葉を胸に、リンネは言葉を続けた。

「それでも、あたしのことを認めてくれる人がいた。だからあたしは、ここにいられるの」

「いい人たちに恵まれたんだな」

ガイの言う通りだ。リンネは本当にいい人たちに恵まれた。あの世界でも、この世界でも。大きく頷いて、けれど、と前を行くアッシュたちに目を向けた。

「でもね、苦しいのはレプリカだけじゃないから。レプリカにはレプリカの、オリジナルにはオリジナルの苦しみがある」

リンネはレプリカで、オリジナルを模して作られた存在だ。だからレプリカの気持ちがわかる。つもりだ。彼らは今、それに向き合っている。リンネがかつて乗り越えた壁が今、彼らの前にあるのだ。

「ルークにはルークの、アッシュにはアッシュの苦しみがあると思う。だからルークの力になりたいし、アッシュを見守りたい」

あの日、自分が救われたように。少し開いた距離に足を早めれば、隣でガイも足を早めた。

「あいつにそんなもの必要か?」

「必要か必要じゃないかじゃなくて、あたしがそうしたいの。だから、大丈夫」

余計なお節介は、アッシュに不要だろう。それでも、迷惑にならない範囲で見守っていたいのだ。ルークとアッシュは互いに向き合える。存在しあうことを許されなかったリンネ達とは違うのだから。



 工場が建ち並び、街の至るところに立つ高い煙突からは、煙がもくもくと立ち上る。研究所がある街と聞き、サイバックのような落ち着いた街を想像していたが少し違う。研究街、というよりは工業地帯の雰囲気が強いだろうか。街の中心と思われる広場には巨大な歯車があったが、これもモニュメントではなくなんらかの装置なのだろう。
 つなぎの作業着を着た人々とすれ違いながら、アッシュは迷うことなく進んでいく。イオンの息が弾み始めた頃、大きな建物が見えた。近くの柱には、『第一音素研究所』の文字。読めた、と密かに感動しているとアッシュ達の姿が研究所の中に消えていく。慌ててガイに手招きされながら中に入れば、通路の端に蓄音機のようなものがあった。あれも何かの研究道具なのだろうか。
 リンネ達は明らかな部外者にもかかわらず、誰にも声をかけられない。サイバックなら門前払いをされていることだろう。声をかけるどころか視線を逸らされるのは、アッシュの近寄りがたい雰囲気のせいだろうか。研究所の一室、レプリカ研究室を見つけると、アッシュはノックすることなくドアを開けた。

「スピノザ!」

 アッシュの鋭い声に振り返ったのは、一人の老人だった。辺りに彼以外の人間はいない。微かにずれた眼鏡をそのままに老人、スピノザは大きく目を見開いた。

「おまえさんはルーク!?いや……アッシュ……か?」

「はっ、キムラスカの裏切り者が、まだぬけぬけとこの街に居るとはな」

笑わせる、と低い声と共にアッシュはスピノザを睨み付ける。彼がヴァンの動向を知る人物なのだろう。そしてこのレプリカ研究室にいるということは、間違いなく関係者だ。不穏な空気に、ナタリアが眉を寄せた。

「裏切り者……って、どういうことですの?」

「こいつは……俺の誘拐に一枚噛んでいやがったのさ」

息を飲むナタリアに、スピノザは視線をそらして俯いた。無言は肯定の証だろう。

「まさか、フォミクリーの禁忌に手を出したのは……!」

無言のスピノザに、ジェイドが大きく息をのんだ。それでもスピノザは何も言わない。いつも冷静なジェイドが動揺するとは珍しい。フォミクリーの何が彼の心を揺さぶっているのだろう。沈黙を貫くスピノザに、アッシュは口の端を上げた。

「……ジェイド。あんたの想像通りだ」

「ジェイド!死霊使いジェイド!」

 スピノザの声は震えていた。この状況、何かあれば自身の身に危害が及ぶと分かっているのだろう。リンネとしては、街中の研究所で騒ぎは起こしたくない。……が、アッシュはどうだろう。
 震える拳を握りしめ、歯を噛み締めたスピノザはジェイドをまっすぐ見据えている。決して友好的とは言えないその視線に、ジェイドは臆することはなく。ポケットに手を入れると、いつもの冷静さを纏って口を開いた。

「フォミクリーを生物に転用することは、禁じられた筈ですよ」

「フォミクリーの研究者なら一度は試したいと思うはずじゃ!あんただってそうじゃろう、ジェイド・カーティス!いや、ジェイド・バルフォア博士。あんたはフォミクリーの生みの親じゃ!何十体ものレプリカを作ったじゃろう!」

視線が一斉にジェイドに集まる。フォミクリーの産みの親、ということはある意味ルークの生みの親だろうか。集まる視線に、ジェイドは薄く笑った。

「否定はしませんよ。フォミクリーの原理を考案したのは私ですし」

「なら、あんたにわしを責めることはできまい!」

「すみませんねぇ。自分が罪を犯したからといって、相手をかばってやるような傷の舐め合いは趣味ではないんですよ」

言って笑い、ジェイドは肩を竦める。赤い目の奧が、冷たい熱を帯びる。怒り、ではない。向けるのは侮蔑か、それとも。そっと息を吐きだして、ジェイドはメガネを押し上げた。

「私は自分の罪を自覚していますよ。だから禁忌としたのです。生物レプリカは、技術的にも道義的にも問題があった。あなたも研究者ならご存じの筈だ。最初の生物レプリカが、どんな末路を迎えたか」

落ち着いた、けれど冷たい声にスピノザがたじろぐ。彼の背には壁しかない。それでも少しでも距離をとりたいのか、スピノザは背中を壁に預けた。

「わ、わしはただ……ヴァン様の仰った保管計画に協力しただけじゃ!レプリカ情報を保存するだけなら……」

「保管計画?どういうことだ」

アッシュの問いに、スピノザが口元を覆う。まるで言ってはならないことを言ってしまったように。

「お前さん、知らなかったのか!」

「いいから説明しろっ!」

「……言えぬ。知っているものとつい口を滑らしてしまったが、これだけは言えぬ」

詰め寄られても、スピノザは身体を震わせるだけ。固く閉じた目、固く閉ざされた口。
 全てを拒絶するスピノザに、アッシュは舌打ちすると踵を返した。これ以上は情報を聞き出せないと判断したのだろう。慌ててついていけば、背後でスピノザが座り込んだのが見えた。何か声をかけようとして、けれど見つからない。何も言わずに口を閉じると、そのままリンネもアッシュを追った。

「あなたが、フォミクリーの発案者だったのですね……」

先を歩くジェイドの背に、イオンが声をかけた。ヴァンの行動、鍵を握るのはフォミクリーだ。それも今に始まったことではない。少なくとも、七年前からヴァンの計画は始まっていたのだろう。歩みを止めることなく、ジェイドは頷いた。

「はい。フォミクリーが持つ数々の問題点、それらを無視してでも行いたいことが、かつてはありました。……若かったのでしょうね。私も」

赤い目が自嘲気味に細められて、こちらに向けられる。彼を突き動かしていたものは何なのだろう。聞きたくて、けれどその目に問いかけるのは憚られた。それはきっと彼の古傷を抉る行為なのだろう。必要ならば話してくれるはずだ。今はきっと、踏み込むべきではない。

「ジェイド……」

「大丈夫ですか、イオン様。顔色が悪いですよ」

「いえ……大丈夫、大丈夫です。ただ、ちょっと……びっくりして」

アニスが心配になるのも無理はない。まさに顔面蒼白、と言える顔色はアニスでなくとも心配になる。唇を噛み締め、イオンは自分を落ち着かせるように長い息を吐き出した。無理に休ませようとしてもイオンは聞かないだろう。歩調を緩めながら、ガイがジェイドに目を向けた。

「つまり、あんたがフォミクリーを生み出したから、ルークが生まれたってわけか……」

「だったら、大佐はルークのお父さんって事になるのかなぁ?」

アニスがジェイドの顔を覗き込み、にんまりと笑う。いたずらっ子のようなその笑みに、ジェイドは肩をすくめた。

「父親……ですか。私の息子なら、もう少し利発で愛くるしいと思いますがねぇ」

「あ、ひど〜い」

父親、が嫌なら選択肢は一つだろう。

「じゃあ、お母さんの方がいい?」

「お腹を痛めた記憶はありませんね」

母親も嫌らしい。軽く笑って、ジェイドは眼鏡を押し上げた。

「そもそも、アッシュにフォミクリーをかけたのは私ではなく、ヴァンですから。ルークの父親はヴァンになると思いますよ」

話している間にもアッシュの歩調は緩むことはない。 研究室を出ると、アッシュは足早に歩を進めた。こちらの、というより小柄なアニスや病弱なイオンに対する気遣いはない。付いてこれるだけ付いてこいとでも言わんばかりだ。その隣を必死に歩き、ナタリアは不安げに言葉をこぼした。

「ヴァンは、レプリカ情報を集めてどうするつもりなのでしょう」

「そりゃレプリカを作るためなんだとは思うけど……」

 ちらりと、アニスがアッシュに視線を送る。ここで得た情報は少なすぎる。レプリカ、そして保管計画という言葉。あそこでスピノザを詰問しなかったということは、まだ何かあてがあるのだろう。ナタリアの足がゆっくりとしたものとなり、やがて止まるとアッシュも振り返った。

「……ワイヨン鏡窟に行く」

「西のラーデシア大陸にあるという洞窟ですか?でもどうして……」

「レプリカについて調べるつもりなのでしょう。あそこではフォ二ミンが採れるようですし、それに……」

ナタリアの疑問に、ジェイドが答えるが語尾は濁っている。何か言いづらいことでもあるのだろうか。

「それに?」

あどけなく小首を傾げるナタリアに、ジェイドは息をこぼして肩をすくめた。

「……まあ、色々と。ラーデシア大陸ならキムラスカ領。マルクトは手を出せない。ディストは元々マルクトの研究者ですから、フォミクリー技術を盗んで逃げ込むにもいい場所ですね」

「お喋りはそれくらいにしろ。行くぞ」

「ぶー。行った方がいいんですか、イオン様」

「そうですね。今は大人しく彼の言うことに従いましょう」

歩き出すアッシュに、アニスは不満を隠そうとしない。第一研究所で用件をすませれば、すぐにダアトに戻れると思っていたのだろう。イオンに宥められれば仕方なしに、と言わんばかりに歩き出した。
 リンネも続いて、そこで振り返る。そこには、歩みを止めたままのガイがいた。

「俺は降りるぜ」

「……どうしてだ、ガイ」

息をのんだアッシュが振り返る。なんとなく予測はしていたが、アッシュには予想外だったらしい。軽く目を見開くその目は、どこかルークに似ている。当たり前のことかもしれないが、とリンネが小さく笑えば、ガイもまたいつものように朗らかに笑った。

「ルークが心配なんだ。あいつを迎えに行ってやらないとな」

「ガイってば、あいつの所に行くの!?」

信じられない、と言わんばかりのアニスが息をのめばガイは大きくしっかりと頷いた。

「ティア以外、みんな戻ってきちまったし、あいつ、完全に見捨てられたと思っちまうんじゃないかってな。それに、やっぱりまだあいつには、俺がいてやらないと……」

「そういうのを自惚れって言うんですのよ。大体、あなたはルークを甘やかしすぎですわ。少なくとも皆、ルークの無責任な発言には呆れていましたわよ」

眉を吊り上げ、ナタリアが詰め寄る。それでもガイは笑みを崩さない。分かってる、とナタリアの言葉を受け止めながら、ガイは優しく微笑んだ。

「だがな、あいつはレプリカだったんだ。七年前屋敷に帰ってきた後、ルークをあんな風に育てた原因は、俺にもある。……キミにも、ね」

心当たりがあるのだろう。優しい声にナタリアの目が泳ぐ。

「…そう……ですわね。そうかもしれません。確かにあなたの言う通り、ルークには今、支えが必要なのだろうというのも理解できますわ」

だがナタリアもそのまま引き下がる様子はない。譲りたくない想いがあるのだろう。再び顔を上げ、真っ正面からガイをみつめた。

「でもそれなら、七年間存在を忘れ去られていたアッシュは、誰が支えてあげればよろしいんですの?それも私やあなたのような、幼馴染の役目だと思いますわ」

「そうだよ!あんな馬鹿ほっとけばいいのに」

同調するアニスに、ガイが苦く笑う。

「馬鹿だから、俺がいないと心配なんだよ。それに、あいつなら立ち直れると俺は信じてる」

「あなたはルークの従者で親友ではありませんか。本物のルークはここにいますのよ」

「本物のルークはこいつだろうさ。だけど……俺の親友はあの馬鹿の方なんだよ」

誰に何を言われても、ガイは揺るがない。この中で誰よりもルークの傍にいたガイだからこそ、だろう。ガイが傍にいてくれるなら、きっとそれがいい。

「君はどうする?」

問いかける空色の目は優しい。うん、と頷いてリンネは口を開いた。

「あたしはもう少しヴァンの動向を探るよ。ガイがルークの傍にいてくれるなら、安心して動けるし」

「あなたまでそんなことを……」

整った眉が、怪訝を型どる。きっとナタリアと自分たち……リンネとガイには大きな認識の違いがある。彼女にとっての本物はアッシュと名乗るルーク。けれど、とリンネはナタリアに向き直った。

「あたし達にとって、ユリアシティで眠るルークは、本物のルークなんです」

それだけは譲れない。息を飲むナタリアにリンネは続けてアッシュを見た。

「もちろん、ここにいる彼も本物。でも同時にここにいる彼も、ユリアシティの彼も、そしてあなたも。みんな偽物なんです」

「俺やナタリアが偽物だと?」

「だって、誰もがこの世界にたった一人しかいない人間なんだから当然でしょ?みんな本物であると同時に、誰かの偽物なんだから」

よほどナタリアが大切らしい。分かりやすいなと思わず肩をすくめる。彼にとってナタリアは大切な存在なのだろう。やはり彼は『ルーク』を捨てきれていない。

「だから、この世界でたった一人のルークが大切なんですよ」

例え彼女達がルークを見限っても、それでも彼が大切な存在であることは変わらない。ナタリアがここにいる彼を大切に思うように、リンネたちもルークが大切なのだ。これは価値観の違いなのかもしれない。それでも、リンネ達のルークが偽物扱いされてしまうのは嫌だ。この世界の誰もが本物で、代わりのいないただ一人の存在なのだから。

「迎えに行くのはご自由ですが、どうやってユリアシティに戻るつもりですか?」

 この下にもう一つ世界があるなんて、一般的には知られていない。こちらに戻ってくるのも苦労したのだ。ユリアシティに戻るのも簡単ではないのかもしれない。

「……ダアトの北西に、アラミス湧水洞って場所がある。もしもレプリカがこの外殻大地に戻ってくるなら、そこを通るはずだ」

 ジェイドの問に答え、踵を返したアッシュの背中は少し寂しげに見える。拗ねた子供のようなその姿に、ガイもまた小さく笑った。

「悪いな、アッシュ」

「……フン。お前があいつを選ぶのは、わかってたさ」

「ヴァン謡将から聞きましたってか?まあ──それだけって訳でもないんだけどな」

そう言って、ガイは地面を見つめた。ぽつりとこぼした小さな声に、ナタリアがそっと眉を寄せる。

「どういうことですの?」

「なんでもないよ。それじゃ」

「気をつけてね」

「君も、無理はするなよ?」

軽く手を上げるガイに同じく手を上げれば、ガイは笑った。そんなに無理をするようにみえるのだろうか。これでも落ち着いてきた方なのに、とリンネは笑った。

「大丈夫だよ。ルークに伝えてくれる?待ってるって」

「あぁ、必ず伝えるよ」

背を向けたガイは足早に駆けていく。ナタリアが呼び止めても、ガイの背中は街の中に消えていった。

「ルーク!止めないのですか!」

「その名前で呼ぶな。それはもう俺の名前じゃねぇんだ」

アッシュもまたガイの消えた方向に背を向けた。立ち止まっている時間はない。歩き出すアッシュに、ナタリアはその表情を曇らせながらも続いた。




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