情景



窓から差し込む朝日で目が覚めた。目覚まし時計の音で起きないなどいつぶりであろうか。部屋の隅に置かれたかの童謡にぴったりな古時計を見ると時刻は六時少し前ととても健康的である。
昨晩は結局あのあと一度も目が覚めずに眠りこけてしまったようだ。となると十二時間以上も寝ていたということか。流石に寝すぎたと思う。そのおかげか薬も抜けたようで頭もすっきりしている。

足首を見ると彼が言っていた通り足枷は外されていた。ベッドから起き上がり私にあてがわれたこの部屋の捜索をはじめることとする。アーチ型の窓ははめ殺しで開けることは出来ないが、鳥の鳴き声が聞こえてきた。

ここに来てから恐らくずっとこのパジャマのままだろうから取り敢えず着替えを、と思いクローゼットを開ける。そこには自室に置いていってしまった筈の私の服が綺麗に掛かっており、攫われたときに来ていた私服も掛かっていた。全て運んできたのだろうか。解約した部屋に荷物を置いておくことは出来ないから捨てるか持ってくるかで後者を選んだのだろう。

この際このパジャマに着替えさせたの誰とかこの箱の中には下着も揃ってるのかとかはこの際考えないことにした。生活に困るほうが嫌だ。

適当に服を取り着替えてパジャマは畳んでベッドの上に置いた。

そしてドレッサーの前の椅子に腰掛けた。大きな三面鏡のついたこれもまた白く華美で一目で良いものだと判る。台の上には小さな花瓶に挿された花とブラシに、私の愛用している香水が置かれていた。他に化粧品は無く、これだけ持ってこられたのだろう。大切な香水であったため捨てられていないことに安心した。ひと吹きすると馴染み深い香りに包まれ、ここに来てから初めて顔が綻んだ。

髪を梳かしていると腹の虫が鳴り、そういえば昨日寝る前何か用意しておくと言われたのを思い出す。今が何日かわからないためどれくらい物を口にしていないかのも判らないが、自分のことながら食に関心が薄いなと思った。

身なりを整えたので下の階に行ってみることにする。もしかしたら昨日の晩作ってもらったものがあるかもしれない。

取っ手に手をかけ扉を押した。しかし扉は開かずもう一度押すがびくともしなかった。真逆鍵が掛かっているのかと思い焦ってがちゃがちゃと取っ手を鳴らすが扉は


「…引き戸ね…」


あっさりと開いた。





階段を降りるとひとつ下の階は多分私室であろう部屋であったためもう一つ下がると、玄関がすぐそばの廊下に出た。やはり私のいたところは三階だったみたいだ。階段はまだ続いており、地下に倉庫でもあるのかと予想する。

廊下を進んでいくと一際目立つ戸があり、広間だろうと目星をつけてそろりと中を伺う。暖炉とソファが見えリビングであることを確認出来たため中に入った。

そこは大きい机に四つ添えられた椅子。暖炉の前にはソファとセットの丸机が置かれていた。窓も大きく緑が鮮やかだ。隣の壁に本棚が埋め込まれており本がぎっしりと並べられていた。
キッチンが隣接されており、なんだか良い匂いがする。

すると物音が聞こえ、そちらを向くと背の高く、頭に包帯を巻いている人が隣接してあったキッチンから出てきた。

「おはようございます、お嬢様」

「お嬢…?」

「私はイワン・ゴンチャロフ。ドストエフスキー様の侍従長を務めております。貴女様は主様から丁重にもてなすよう仰せつかっております」

「私は苗字名前です。ご存知でしょうが。別に私のことは構わないで、と云いたいところだけど…せめてお嬢様だけはやめて頂けますか?」

侍従という存在が主君の命令に背くことは出来ないのは重々承知している。従く相手が主君よりも上の立場でなければその相手の願いも聞き入れることは侍従には叶わないのだ。
父親に雇われていた私の世話係は良い人であったが「父の意に反する私の願いは聞くことが出来ない」と頭を下げさせてしまったことが幼い頃によくあった。

「では名前様と。それと敬語はおやめください。主様の命でお食事を準備しておりました、ただ今お持ちします」

ひとつうなずき長いテーブルに不釣り合いな数の椅子のひとつに座った。窓から見える森の緑と朝日のコントラストが美しく一枚の絵画のようだった。

どうぞという言葉とともに置かれたのは白い器に映える赤いスープと柔らかそうな黒いパンだった。

「スープは薄い味付けになってます。久しぶりの食事でもお召し上がりいただけるかと」

「どうもありがとう。戴きます」

言葉の通りスープは薄味で、その代わり野菜の味を強く感じた。栄養面を考えてくれたのかな、とかすかに嬉しくなったが誘拐した相手に何を思っているのだろうと我に返ってしまった。

「貴方達はずいぶん遠くから来たのね」

「おや、ご存じですか?」

「ええ。取引先に成りうる相手の国の文化を知っておいて損はないと父親がね。特に料理は接待に直結するから」

「殊勝なお父様ですね」

彼は私がこのスープのことを知っていると判ったのだろう。彼らの国の伝統ある料理だ。見識を深めるためと外国料理を食べに行った際はその国の現状やら歴史やらを食べてる最中に教えこまされたのだ。煩わしく、ゆっくりと食べたかったから私はあまりあの時間が好きではなかった。うってかわって今はカトラリーが当たる音と鳥の声が聞こえるのみだ。

「他にも色々な知識を教えてもらったわ。音楽や紅茶、珈琲、権威を持つブランドまで。知らないのは、そうね、ワインくらいかしら」

「辛いことを思い出させてしまい申し訳ございません」

「…もう過ぎたことよ」

空っぽの胃に温かいスープが染みわたっていく。パンは酸味を少し感じたためスープにつけて食べたところよく合って美味しかった。どんなにゆっくりと朝の穏やかな時間を過ごそうとも誰にも咎められない、電車の出発時刻に追われることもない。変な感覚だった。



「食後のコーヒーはいかがですか?」

「そうね…今日は結構よ。それよりお風呂をお借りしても?」

「勿論です。この階の奥にございます」

「判ったわ。ご馳走様。美味しかったです」

「有難きお言葉です」

さて、お腹も膨れたことであるし風呂に入ることにしよう。数日入ってないおかげで髪の毛がべたついて気持ちが悪いのだ。


***


風呂で数日分の汗を流したあと部屋で髪の毛を乾かし、適当にクローゼットに掛けられた服を着る。そして少しの間窓から鳥が飛び交う様子を見ていたところ時計は既に9時半を回っていた。

ふと好奇心が湧いて、この屋敷の全体像を把握するために部屋を出た。とはいえ閉まっている扉を開く勇気は私には無い。各階をぐるりと回り、先程の広間に戻ってきた。
其処にはやはり侍従長がおり、部屋の掃除をしていた。そして此処で気になるのは本日未だに姿を見ないあの男である。

「ねえ、フョードルは?」

「主様は早起きが苦手な方ですのでいつも遅い時間に起きてこられます。ですがそろそろかと」

「もうすぐ10時になるわよ?」

「なにやら低血圧が関係しているとか」

そういえば虚弱体質と言っていたような気もする。だが彼の青白い顔は昼夜逆転の生活を送る恐ろしい吸血鬼を彷彿とさせた。

「他人の生活習慣に口出しする権利はないけれど、誘拐犯がこうも私の行動に頓着してないとなるとなんだか…」

「主様のお部屋は地下にございますよ。寝室は階段を降りて目の前の扉です」

要するに起こしにいけということか。侍従長は楽しむように私に向かって笑いかけた。

私はひとつ息を吐いて彼の眠る部屋へ向かった。地下室に部屋を取るあたり彼らしいと思った。本当に日光を嫌う吸血鬼かなにかなのではないか?

階段を降りきり、扉の前に立つ。そっと聞き耳を立てたが物音ひとつしないためまだ寝ているに違いない。

小さくノックをして口を開く。

「もう太陽は昇りきってるわよ」

しばらく待ってから、もう一度ノックをしてみたが何も聞こえてこない。私はこんなやつに攫われてきたのかと思うとなんだか腹が立ってきた。
鍵がついていないことを目視してから遠慮なく扉を開いた。

光ひとつない暗い部屋にぽつんと置かれたベッドの上に山が見えた。こんな部屋だから体内時計が狂うのだ。
扉の横にあった電気のスイッチを容赦なく付けて布団の山に近づく。

「フョードル!人を拉致監禁しておいていつまで寝てるつもり?」


そう云うと山がごそりと動き起きたかと思うと、また止まった。


「もう朝の10時よ!」


また山が動き、ぴたりと止まってから今度はぬっと掛け布団から瞼がほとんど開いていない目が出てきた。顔の半分は布団に埋もれたままだ。その眼は私をじとりと見つめており、その眼を私は腕組みしながら見つめ返した。正直目つきが悪すぎて怖い。もしかして侍従長は私にこの仕事を押し付けたのではないかと気づいた。

貴女は、と彼は布団でくぐもった声で云ったかと思うと何故か目を細めてこんなことを云ったのだ。

「…お早うございます。眠り姫」

「寝坊助は貴方よ!!」





椅子に彼が腰掛け優雅にコーヒーを飲んでいた。日常の些細な瞬間であるのに雰囲気があるからか、何をしても絵になる人だと感じた。

あの後すぐに私はフョードルの部屋を出て行き侍従長に文句を云いにいった。すると彼は「矢張り主様のお世話は私でなければ」と歪んだ笑みを浮かべたため、この人も彼の仲間なだけある…と妙に感心してしまった。

起こしてからもしばらく上がってこなかった彼は今漸く朝食を食べ終わり食後のコーヒーを飲んでいるところだ。最早朝食と呼ぶよりブランチといったほうが良い時間か。

私は同じテーブルから少し離れたところにある一人掛けソファに座っていた。冬の時期になると側にある暖炉が活躍するのであろう。手に持っていた本を閉じ、フョードルの方を向いた。

「貴方達は此処にはどのくらい住んでいるの?」

「二ヶ月ほどでしょうか。拠点は度々変えてきましたが此処は落ち着くので比較的長居しているほうですね」

「如何して日本へ?」

「それは秘密です」

彼は軽く笑ってカップにまた口をつけた。私はきゅっと口を結びソファからテーブルを挟んで彼の前の椅子に移動した。

「貴方達は犯罪組織なの?」

「貴女をこうして拉致している時点で犯罪組織です」

「そうやって誤魔化す。私が聞きたいのはそういうことじゃないわ」

少し語気を強めて彼に云い寄った。彼は私を上目でちらりと見るとカップをソーサーに置いた。

「…ぼくたちはあるものを求めてやってきました。それを手にする為の道に貴女のいう“罪”があるとするならば我々は立派な犯罪組織でしょうね」

「手段は問わないということね…。やっぱり貴方を理解しようとした私が間違いだったようだわ」

勢いよく椅子から立ち上がった。つかつかと歩き彼らに背を向けてドアノブに手を掛けた。


「何処へ行くのですか?」


後ろを向かずとも彼がどのような顔をしているのかが解った。あの答えを全部知っているのに人を試すような、地獄に引き摺り込む魔人のような顔だ。


『お前は何処にも行けない』


そう云われていることなど嫌でもわかった。


私は何も云わずに広間を出て行った。地獄から伸びてくる腕からのがれるように階段を一気に登り、部屋へ逃げ込んだ。


仰向けにベッドに倒れこむ。

瞬きもせず白い天井を見つめた。

この逃げた先の部屋も視界に映るもの全てフョードルによって手配されたもの。私は何処にも行けない。迫り来る白からは逃げられない。瞬きもせずいたからか目が乾いたからか涙が滲んできた。

目を閉じて私の視界を無くした。頬に冷たい雫が流れた。

唯一私に残された場所に逃げようと思う。そこは誰にも侵されない、夢の世界。私の最大の逃避。そう、私は眠りにつく時間だ。


「おやすみなさい…せめて夢では逢いませんように」


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