序奏と行進曲
私は水の中にいた。その水は何故か朱色に輝いていた。
ふわふわと身体が仰向けに水中を揺蕩っている。水面は遠く、上から照らしてくる光源はゆらゆらと揺れて朧ろ。まるで綺麗な朱色の空に浮かぶ月のようだった。暫くそれを見つめていると、徐々に身体が浮力により押し上げられ、光が大きくなっていく。明るさに目が昏んで私は思わず目を閉じた。
月が浮かぶ空に朱色など有り得ない。そう気付いたときに、これは夢だと、
瞼を押し上げると私は白に包まれていた。見覚えのない白い天井と、白い天蓋が目に入った。目が覚めたものの視覚が受け止めた情報を理解することが出来ず、まるで金縛りにあっているかのように瞬きしか出来なかった。
(ここ…何処……?)
そういえば背後から薬のようなものを嗅がされた覚えがある。まだ身体に薬が残っているのか力が入らなかった。腹筋だけでは起き上がることが出来ず腕で支えながら上半身を起こすとその部屋の全貌が見えるようになった。
矢張りその空間は白だった。そして何より広かった。
白を基調とした壁に、アンティーク調の家具も白で統一され、今は昼間であるから灯りがついていないシャンデリアが吊り下がっている。私から向かって横の大きなアーチ型の窓から太陽光が差し込んでいて、部屋全体が柔らかな光に包まれていた。
ここで漸く、私は誘拐されたのだと状況を理解した。
私が昨日まで住んでいた部屋は、賃貸アパートの狭い一室で、必要なもの以外は置いていない生きる為だけの部屋だった。換気も暫くしておらず、空気も淀んでいた。
こんな部屋は知らない。されど、このまるでお伽話のお姫様が住むような部屋に酷く非日常感を覚えているわけでも無かった。
とにかく現状の確認をしなければ。
ベッドから脚を下ろそうと動かすとジャリ、という金属が擦れ合う音がしてさっと青ざめて掛け布団を引き剥がした。
見ると右足首とベッドの支柱が足枷で繋げられており、そりゃそうかと妙に納得してしまう。
チェーンは長く、動ける範囲が狭いわけではないため、ベッドから降りて壁に手をつけながらアーチ型の窓へゆっくりと歩いていった。カーペットが敷かれていたため、金属を引きずる音はしなかった。ただ右足が重たいだけであった。
「何処よ…此処…」
外を見ると、この部屋は二階か三階にあるようで無事ではいられないであろうが足枷が無ければ逃げられる高さであった。しかし問題はそこではない。
見渡す限り全て森なのだ。どこまでこの森が続いているのかさえわからない。例え出れたとしてもこれでは無闇に走り回って力尽きるのがオチだろう。
「あまり取り乱さないのですね」
「…ッ!?」
突然聞こえた声に後ろを振り向く。
そこには誰かが入ってくる気配や物音などしていなかった筈が扉の近くに一人の男が立って居た。その人は異国風な白い服を着て、妖しげな笑みを浮かべて私を見ていた。
「あなたが私を連れてきたの?」
「ええ。そして此処は見ての通り人里離れた森の奥。不本意でしょうが脱出は出来ませんよ」
「そうみたいね」
重たい身体を引きずり男へ近づいていく。近づいてみて判ったが、この人の顔色には血というものを感じない。それだけでこの人が普通の人間でないと気付いた。
「目的は?残念だけど身代金なんてものは期待できないわよ」
「身代金、ですか。そうでしょうね。あなたの家族は皆この世には居ませんから」
彼の言い放った言葉に全身が凍りついた。
「苗字名前、22歳。ここ数十年急成長していた企業の社長の一人娘として産まれる。何一つ不自由のない順風満帆な人生を送っていたところ3年前に、」
「ちょ、ちょっと待って…!貴方、一体何者なの!?」
私の経歴を淡々と語る目の前の得体の知れない男に血も凍るほどの恐怖を感じた。思わず後ずさり守るように腕を抱えて男を睨みつける。
「ぼくの名前はフョードル・ドストエフスキー。貴方を誘拐した犯人です」
実行犯ではないですがね、ぼくは虚弱体質ですから。と云う男が恐ろしくて仕方がない。世には良心が欠如した人間は一定数いると云われているがこの男はそれをも超えた別の何かであるように感じた。私を攫ったことを挨拶の一部のように語るのだ。
「先ほど目的は、と聞きましたね。貴女にはただ今日から此処で暮らしてもらうだけです」
「そんなこと出来るわけないじゃない!仕事だって行かなきゃいけないし、例え家族が居なくても心配してくれる友達だって…!」
「居るのですか?」
ひゅっと息を吸い込んだ。さらに追い打ちをかけるように男は笑みを深くする。
「貴女が居なくなって心配してくれるような友達などいるのですか?近づいてきた人間は殆ど貴女の家の眩しさに惹かれてやってきた虫。そうではない人も多忙な貴女と信頼関係を築けるほどの仲にはなれなかったことでしょう」
絶句してしまった。私の幼少期のことまで知られているとなると、この男はどこまで私のことを知っている…?この男は“何”なんだ…?
「そして貴女の仕事はもう既に無いです。特に言及されることなく貴方を解雇しましたよ。住んでいた賃貸の契約も勝手ながら解約させてもらいました」
身体から力が抜け、膝から崩れ落ちた。衝撃と混乱で頭がキャパオーバーし、涙が出てくる。
「如何して…如何してそんなことするの!?私が一体何をしたって云うのよ…!」
「貴女は何も悪くありません……何も、悪くありませんよ」
男が私の前にしゃがみ込み泣いている子供を諭すような声音で云った。天井も、壁も、家具も、男の服も、全てが白で、気持ちが悪くて仕方なかった。
***
「落ち着きましたか」
「…皮肉にしか聞こえないわね」
私は上半身を起こしたままベッドに入っていた。ひとしきり泣いた後立ち上がろうとするにも薬のせいか上手く立てず、不本意ながらこの男の肩を借りてベッドへと逆戻りをした。
男は部屋を出て行ったかと思うと、片手にティーセットを持ってまた戻ってきた。
「ハーブティーです。リラックス効果があると云われています」
枕元にある背の低い木棚の上にそれを置いて、近くにあった椅子を引き寄せて座った。そしてポットを傾けカップにお茶を注ぐと、カモミールの良い香りが漂ってきた。私はそれを一瞥する。
「要らないわ」
「おや、喉は乾いていませんか?ああ、そうですね。ではお好きな方のカップを選んでください」
突然の質問に意図を理解できないまま右と答えると、男は左のカップを取って口を付けた。
「例え毒を盛ったとしても、ぼくは自分が二分の一の確率でそのカップで飲む羽目になるような質問はしません。貴方の答えは予測できませんから」
この男は私が要らないと云った理由が判っていたようだ。普通の人でも誘拐されたところで出されたものをほいほいと口にするような人は居ないであろうが、私は更に過敏になるよう云われてきたのだ。
「護身を身につけさせられたのでしょう。それは良いことです。ですが貴女は暫く水分を取っていない。ぼくの目的は貴女を危険に晒すことではありません」
「判ったわよ…。まあ、貴方なら人の心くらい読んでみせそうね」
男は薄く笑うのみだった。お茶を飲むと、懐かしい香りに過去の日々が思い起こされた。ベッドで寝る前にハーブティーを飲む、何年か前まではこれは私の日常であった。もうこのようにお茶を飲むための時間など私には無いと思っていた。失ったものでぽっかりと胸に空いた穴に塩を塗り込まれている気分がした。
「“取り乱さない”って貴方云ったわね」
「ええ」
目覚めてすぐのときのことを思い出す。知らない部屋だが矢張り既視感があったからかもしれない。自分が過去に舞い戻ったかのように感じたのだ。しかしきっとそれだけではない。私は恐らく心の深層で“この状況を望んでいた”のであろう。
「今の私の生活に執着など無かったもの。さっきはいきなり奪われたことに動揺したけれど、全てが…私の周り全てが壊れて仕舞えば善いと思っていたわ」
目を閉じると浮かぶのは、昨日まで暮らしていた簡素なアパートの一室ではなく、少し前までの日常だったこの白い部屋によく似た私の部屋だった景色。しかしそんなものは幻影である。この白い部屋も幻影であってしまうのだろうか、と思った。
「今までとは全く違う生活、生きるために大学を辞めて入った会社では親の脛を齧って生きてきたと云われ、周りからの目は白い。貧しい暮らしが耐えられなかったわけじゃないわ。私はただあの家に産まれただけで、一軒違えば生まれたときからこんな人生だったかもと理解していたもの」
生まれてくる家を選ぶことは勿論出来ない。自分の意思が入り込んだ“身体”がたまたまその親の元で産まれていただけなのだと私は考えている。
私は三年前に全てを失った。
最近流行りの歌手は「大切な人と笑いあえるなら幸せだ」と切ないメロディーにのせて歌う。確かに私もそう思うだろう。私に大切な人が居たのであれば。家族もいない。友達もさっき云われた通りだ。そういえば許嫁なんてものがいたかもしれないが…まあ云うまでもないか。
「そうね、在り来たりな云い方だけれど、生きている理由が判らないのよ、私」
彼は私を見たかと思うと、目を伏せて自分の口元を指で触る。そして滑らかに口を開いた。
「人間という生き物は、元来その問いと向き合いながら日々を過ごしていくものなのでしょう。何千年前からその本質は変わっていません」
その言葉に私は何も返さなかった。何かに悩むと人は「生とは何か」という研究に勤しんだ。それが哲学の根本である。だが私の知覚で成り立っている世界は私が基準なのだ。人がどうであるなど、正直関係無い。哲学を知ることはあっても、個人の感情と当てはまるとはイコールではないはずだ。
「周り全てを壊したかった、ね…馬鹿みたい。何も持っていなかったくせた」
半分ほど残ったカップを棚の上に置いた。もう飲めない。
腕を布団の上に投げ出し、窓の外に目を向けると、綺麗な青空がやけに目についた。
「それで、ぼくに全てを奪われた気分はどうですか?」
「最悪ね。両手足をもぎり取られたみたいな気分だわ」
腕も、脚もベッドに縫い付けられたようでどんどん感覚がなくなっていく気がした。少し怖くなって足の指を丸めてみた。腕の位置を動かしてみた。ちゃんと、自分の四肢はそこにあった。
眠りから覚めたら自由が無くなっていた。生きている理由が判らないながらも、この三年間は自由であったと今になって気が付いた。
「それでいて、貴方は私がただ此処に居ることを望むのね」
「はい。それだけで構いません」
「寧ろ命を脅かしてくれるほうが怖くないわ」
「脱走の御意思は?」
「こんな森の中じゃ無謀だし、それに帰る場所なんてないんでしょう?」
「そうですね。その言葉がぼくを欺くためのものであった場合のこととして一応云っておきますが、この家全体に監視はついています。自殺を図ろうとしてもどこかの段階で判りますので諦めてください。もう足首の枷は外しますので家の中は自由に過ごしていただけます」
そう、と短く私は返すと掛け布団を引っ張り上げる。今日連れ去られたばかりでこの男のことなど何も知らないに等しいが、どうやっても逃げられないのだと察するには長いくらいの時間だった。
「ハーブティーが効いたのかしら、なんだか眠くなってきたから出て行って頂戴。えっと、」
「フョードル・ドストエフスキーです」
「その発音からして出身はスラブ諸語の国かしら。ロシア?それともウクライナかポーランド?」
「ロシアです。ファミリーネームはこの国の人にとっては長いでしょうからフョードルと呼んでください」
「そうさせてもらうわ、フョードル 。起こしに来なくて結構よ」
「では目が覚めたら下へ降りて来てください。胃に優しい食べ物を準備させておきましょう」
かの遥か北国から来たという男はそう云って部屋を出ていった。そんな遠い国から何をしに来たのだろうかと疑問に思った。気になる反面、聞いてはいけないような気もした。
部屋に残ったのはカモミールティーの香りだけ。私はまた眠りへと沈んでいく。
***
陽は落ち、昇りはじめの月明かりが部屋をぼんやりと照らしていた。日中は太陽光を反射して明るかったが、今は青白い光と長く延びた影で不気味な雰囲気に包まれている。
女が寝ているベッドの枕元に男が立っていた。
男は目を閉じている女を見下ろし、腕を伸ばしたかと思うと、女の顔にかかっている髪の毛をゆっくりと撫でてはらった。
「早く目覚めてください。ぼくの眠り姫」
そして男は口角を上げる。その顔はまるで愛している者を見るように歪んでいて、しかし愛よりも狂気が何より滲み出ていた。