冷たい夜に凍えぬよう


「ックシュッ!」

なまえは静かな空間に響かないように口元を抑えて小さくくしゃみをした。

「…風邪かな…」

突然のくしゃみは誰かが噂をしているという話があるが、科学的に考えて有り得ないというのに何故こんなにも拡く信じられているのだろうか。

今は季節の変わり目で体調を崩しがちな時期だもっと気を付けなければと思いながらなまえ机に置いてあるマグカップを手に取り、口をつけた。
マフィアが仕事で取り扱う資料は、幾ら電子デジタル化が進もうとも恐らくこの先も完全に紙でなくなる日は来ないだろう。マフィアか創立されてから増えていくばかりの報告書が溢れずに資料室の棚に収まっているのは電子化と紙が上手く組み合わせられているからだった。比例して複雑になっていく資料課の整備を一手に担っているのがなまえの仕事であった。

「みょうじさん、すみません」

「はい、どうしました?」

「東欧への貿易業務についての資料を探しておりまして」

「それなら、7列目の左から…二つめの棚のあたりにあるはずです…そういえば先ほど似た案件の資料も聞かれましたから若しかしたらその方が持って行ったのかも…」

「成程。どうにも見つからない訳で、畏まりました。有難うございます」

「いえ、とんでもないです」

黒いスーツと眼鏡を身につけた構成員は丁寧に頭を下げてから部屋を出て行った。

こうして資料課に所蔵されているものについて尋ねられることも増えてきたように思う。頻繁に此処に来る人たちの顔は覚えるようになり、中には「よっ!嬢ちゃん元気にしてっか?」などと気さくに声をかけてくれる人も居る。今のように実働隊に所属している人たちはみな同じような格好をしているためなかなか見分けが付きづらいが、幹部や特設部隊の人たちは比較的自由な規定になっているため見た目の記録もつけやすいのだ。


足元の毛布を掛け直した。暖房をつけるにはまだ早いし、紙は乾燥すると劣化が早くなる可能性があるためあまりこの地下室全体の気温が上がるのは好ましくない。此処で冬を迎えるのも数えて四回目になる。今年もそろそろ家からヒーターを持ってこようか、去年は誰かに手伝ってもらったような気もするが、顔が思い出せなかった。申し訳無い気持ちが胸に広がったため家に帰ったら備忘録を確認することにしよう。それでその人に今年も…と浮かんだが流石に図々しいだろうと思い直した。
自分の性質上、環境にここまで慣れることはあまりなかったと思うのだが、無意識のうちにだんだんと遠慮をしなくなってきたのだろうか。

「初心、忘れるべからず…」

そう呟いて気合いを入れ直すように筆を持ち直した。

・・・


部下を引き連れて中央廊下を進んでいく。組合ギルド戦の後片付けがひと段落つき、付いてくる奴らからも肩の荷が降りたというような雰囲気を感じる。いつもなら腑抜けた様を叱っているところだったが今日は自分も気持ちが分からなくもないため見逃してやることにした。

手前てめえらはそれぞれの場所に戻れ。報告書は俺が提出しておく」

「はっ!失礼します」

「おう」

頭を下げる気配に振り向かないまま手で応え心ばかりの労いを示した。

「ッあー…寒くなってきやがったな…」

この楼閣ビルは窓が少ないから陽の光が少なく、その上建物も古くて空調が廊下にまで整っているわけでも無いから冬になると廊下はかなり冷え込む。肩にかかった外套コートを深く掛け直してから今年ももうこんな季節か、と月日の流れの速さを感じた。

そういえば、と毎年この時期になると暖房を入れたがらない彼奴あいつの所に暖房ヒーターやらなにやらを持ち込むのを暇な人間に手伝わせているのを思い出した。


寒さで凍えてる奴を見るのは、如何どうにも昔のことを思い出して嫌だった。


自分の執務室に向かっていた脚をぴたりととめる。それから短い溜息を吐いてから踵を返して階段を降り始めた。

(冬は感傷的になっていけねェ)

地下室なんて地上階より冷えやすいというのに彼奴はまた自分のことを気にしないでいるに違いない。それなのに外は寒いからといって平気で昼飯を食べに出ない。手前は冬眠中の熊かと突っ込んだ回数は…そう、思い出せないくらいだ。

組合戦で腐るほど見たあの青鯖の顔が頭に浮かんで思わず舌打ちをしてしまった。

「クソッ…手前の為じゃねェ!」




あの日、マフィアから消えたのは彼奴あいつだけじゃなかった。みょうじなまえの姿が無いことも直ぐに判明した。誰もが予想出来たことだからだった。みょうじは知られていないと思っていたようだったが太宰とみょうじが恋仲であることは組織内に知れ渡っていることだった。彼奴が何処へだって鳥肌が立つような惚気話を撒き散らしているのだから当たり前だった。

太宰治はみょうじなまえを連れてマフィアを抜け出した。

首領ボスまでもがそう思っていただろう。
然しなまえは置いていかれた。それもマフィアの幹部用のセーフハウスのひとつにだった。皆、置いていかれた彼女への憐れみより何故彼は置いていったのかという疑問を抱いたほどだった。

そんな中、彼女を見つけたというよりその時誰も使っていないはずのセーフハウスに鍵が掛かっているのを見つけたのは紅葉の姐さんだった。


『如何しました姐さん、見つかりましたか』

『おや、中也も電話に出た…となると誰が使っておるのじゃ?』

太宰治とみょうじなまえの捜索が始まってから早くも数日が経ち、もう日本には居ないのではないかという噂が立ち始めた頃だった。

太宰を殺せる絶好の機会だと彼奴を探していた俺のところに突然姐さんから電話が掛かってきた。撤退命令かまさか見つかったかと考えながら出たが聞こえてきた内容はそのどちらでも無かった。

『どういうことです』

『ちと休もうと思うて丙のセーフハウスに来た所が鍵が掛かってて入れないのじゃ。然し今は全員捜索に駆り出されておるし誰かが使うという一報もわっちの耳に入ってきておらん』

『それで可笑しいってか…確かに。だがよりにも寄って丙か』

『金色夜叉でも無理じゃの。これで突破出来ても困りものじゃがな』

元来セーフハウスはどれも敵の攻撃から一時的に避難できるようにも設計してあって一から三までの幹部専用のものは一見ただの家であるがどんな攻撃にも耐えると言われている。その上対異能力組織を前提としているため異能も弱小化するように施されていた。ロックは幹部の生態認証とそのとき使う人物が都度決める解除暗号が必要になる。姐さんも俺も生態認証はクリアできるが暗号がわからないと開けることは出来ない。そして無理矢理開けるなんてことをしたらハウスの中まで木っ端微塵だ。

『取り敢えず俺も向かいます。そう遠くない場所に居るので』

『嗚呼、待っておる』



重力操作を使って目的地まで向かうと、そこには姐さんの部隊が揃っていた。これだけ居るのに扉一つぶち破れない、何ともないように見える家に感心すら覚えた。

はたまた、彼等には“出来ない”のだろうか。外壁を壊すことはやろうと思えば出来るのかもしれない。だが、皆薄々、この鍵がどうして閉まっているのか…誰が居るのか勘付いているため武力行使に出れないのだろう。

「来たか」

「中の様子は見れないか、そりゃそうだよな」

試しに一回扉を蹴飛ばしてみたが、異能を弾き返してびくともしなかった。

「恐らく中には…」

姐さんが続きを云わずに言葉を切った。予想が違っていたとしても、何らかのシステムエラーでない限り太宰が鍵を掛けたのは間違いないだろう。

「ッたくなんつー堅ェ扉だよ…こんなモンどうやって造ったんだ……ん?」

自分の発した言葉にやけに聞き覚えがあった。なんだったか、と記憶を漁ると答えはすぐに見つかった。
忌々しいことに彼奴と組で動くことが多かったために、作戦コードが沢山存在していた。それらは俺が付けたり、彼奴が付けたりまちまちだったが、今頭に浮かんでいるそれ・・は自分が付けたものだった。
面倒事を態々ここまでして俺に伝えようとしてきた彼奴にも、判ってしまった自分にも反吐が出そうだった。

「“古い日は放心している”ってか…」

姐さんには聞こえないようにそう呟いてから右手の手袋を口で外した。掌を生態認証の機械に読み込ませてから文字盤でその暗号名を打ち込んだ。

違えば好いのに、という願望は叶わず扉の内側から仰々しい金属音が聞こえて緑色のランプが点灯した。

「知っていたのかえ?」

「…なんとなくです。姐さんはここで待っていてください。俺が行きます」

扉を開いて靴のまま突き進んだ。内装は普通の家とはかけ離れた生活感などまるで無い、生き抜く為だけに整備されていた。


彼奴がもしみょうじなまえを捨てようと思っていたならそこら辺に放り出すか、殺してしまってもいいのだ。それなのに態々俺にだけ解る暗号を掛けて、俺に救い出させるように最後の最後に細工をしておいた。

詰まり彼奴はこの頑丈な扉の奥に居るモンを、こんなまどろっこしい手段を使って俺に押し付けてやがったってことだ。

「預かっとけってことかよ…あんの糞野郎」

彼奴の考えることが解るようになってしまった自分をぶん殴りたくなった。否、彼奴が俺の考えることを先読みしたのかも知れない。何処まで見通しているのか判らない、最早どちらなのか判別できなかった。

本当に、嫌になる程冷たい夜だ。


足を止める。
目の前にベッドに眠るみょうじなまえを黙って見下ろした。
当たり前だがそこに太宰治の姿は無かった。

ご丁寧に寝姿は綺麗に整えられており、薬か何かで眠らされているのだろう、起きたような痕跡は無かった。点滴まで腕に刺さっていて、数日発見されないことを考慮してのことだろう。枕元には彼女の携帯電話と家の鍵のみ。他に彼奴の行く先の手かがりになりそうなものは無かった。

眠るみょうじの顔を見た。
太宰に押し付けられたからと云ってここでおれが此奴を助けなければいけない義務など無い。
今、俺が此奴を殺してしまっても外の人達に一言「死んでいた」と報告すれば良いだけの話だ。


首に右手を伸ばす。生きている人間にしては冷たかった。


「…俺も焼きが回ったか…今度面を見たら絶対殺してやる」


手を引き、手袋を付けてから掛け布団を剥がした。異能を使いなるべく揺らさないようにしてみょうじの身体を片手で持ち上げ、枕元にあったものを自分の外套のポケットにしまってから点滴も掴みベッドを後にした。

片脚で異能を使って扉を開ける。

「おい、首領に報告しろ。みょうじなまえを発見した」




アイツは重たい扉のある部屋に閉ざされがちな体質なのだろうか。資料室へと続く廊下を歩きながらそんな馬鹿げたことを考えた。
組合戦中は殆どの事務員は安全が確保されている場所で各自避難という処置をとったからその時も篭りきりであった。それも矢張り重厚感のある扉のある部屋だったはずだ。
いつしか土竜と例えたことは強ち間違いではなかったのかも知れない。

あのとき俺が暗号を解けなかったから、眠っている彼女を仮に匿ったとしたなら、今なまえはここに居なかったのだろうか。何処か日の当たる場所で違う人生を歩んでいたのだろうか。この数年間たまに考えることがあった。

過去の選択に於いて何が正解であったかはいつになっても解らない。だから俺はなまえが此処に居ることを成るべく正解に近づけてやらないといけないのだろう。

ドアノブに手を掛ける。蹴飛ばすことはもうしなくなった。


「おいなまえ!昼飯食ったか?…あ?ンなもん飯とは云わねぇよ!ほら外行くぞ!」
prev   next

back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -