大いなる代償には大いなる愛を
なまえはこの組織の長が構えている最上階の部屋を一枚隔てた観音開きの扉の前に立っていた。記憶が消えるおよそ十日毎にこの執務室を訪れているのだから、幹部でもないのにいつの間にか門番の人に顔を覚えられており、名前を名乗るのは規則となっているがはじめのうちよりかは緊張しなくなったのではなかろうか。勤務したて当初の手帳は字面だけでもひどく首領をはじめマフィアの構成員のことを恐れていたことがわかる。
「
「這入りなさい」
そう促されて扉を開けるときの、恐怖ではないが身を固くしてしまう感覚にデジャヴを感じた。いつの経験に似ているのだろう。
「みょうじ君が此方が呼んでもいないのに訪れてくるのは初めてだね。でも丁度私も話したいことがあったんだ。長くなるだろうから座ってくれ」
「話したいこと、ですか?」
「大したことではないけどね。今紅茶を出させよう」
そう云って彼は控えていた部下に軽く手を挙げて合図をした。太宰さんのことを記憶できるようになったことを報告してから二三日に一回昼下がりに構成員が「首領がお呼びです」と資料室を訪れるようになった。その場の冗談ではなかったのか、毎日ではないが本当に首領とエリスちゃんのティータイムにお付き合いするようになったのだ。首領の思惑通りなのか私の脳に聞かないと判らないが、暫くして目の前の彼や仕事のことも徐々に忘れないようになった。過去の私が早く首領のことも覚えてくれと懇願していたのを読んでいたため心底安心した。
首領が縦に長い執務机から、いつも紅茶を飲む一面窓の近くの小さい丸机に移動したため、後を追って首領の向かいに座る。彼の隣の一回り小さい華美なソファが空白であることに違和感があり、部屋内をぐるりと見まわした。
「エリスちゃんは何処へ?」
「今はお昼寝中だよ。却説、私の用よりみょうじ君の用を先に終わらせてしまおう。どうしたのかね?」
首領は膝を組んでから私が手に持っているものに目を向けながら云った。私はそれを両手で手渡し、詳細を述べるため口を開く。
「奥の書庫の資料に不備がありました。この報告書によると次いで三枚目に記載されてる“関連して起きた事件”の報告書がファイリングされている筈なのですが、丸々抜け落ちているんです。それだけではなくて、二冊目です、それの付箋がはってあるページだけ書体が微妙に違うんです。これらの案件には共通点と思われるものがあって……」
私の話を聞きながら彼はふむ、と片手を顎に当てながら渡したファイルを読み込んでいく。私の思い違いや早とちりだったら恥ずかしいが、大事であった場合を考えると報告しないわけにはいかなかった。説明をしている間に紅茶が運ばれてきたが、二人とも手を付けることはせず、湯気が立ち上り唯紅茶だけが冷めていく。
「成程。確かに不審だねぇ。判った、私が調べておこう」
説明が否定されなかったことに安堵した。首領がもう一度確かめるようにぱらぱらとファイルを捲ると、ひらりと小さな紙切れが落ちた。床に落ちたそれを彼が拾い、何か判ってしまった私は、あ…と手を伸ばした。
「何か挟まっていたよ。これは……ほう、素敵な栞だ」
それはこの間太宰さんと山に行ったときに摘んできた勿忘草を押し花にして、薄鳶色の紙と挟んで作った栞だった。彼はにこりと微笑んでから私の伸ばした手にそれを返した。抱えていたファイルを隣に置かれていたエリスちゃんのための椅子の上に置くと、そのままティーカップを持って紅茶を一口つけた。
「名前と花言葉が一致している花はとても珍しいことなのだけれど、みょうじ君はその由来を知っているかね?」
「由来ですか。いえ、知らないです」
私も彼に倣って紅茶を飲んだ。やはり少し冷めてはいたがこの部屋で飲む紅茶より美味しいものを飲むことはこれからも無いのではないかと思った。そして首領も一目見ただけでこの花が何なのか判ったことに驚いたが、この人の知らないことなどなさそうだ。
「中世の
言葉を区切ってまた紅茶を一口。彼が独逸に詳しいということは初めて聞くことだった。
「古くから伝わる悲しい恋のお話があるんだ。…昔、とある騎士とその恋人がドナウ川沿いを散歩していた。ふと恋人が水辺に綺麗な青色の、丁度君の持っているような、小さな花を見つけたんだ。騎士は恋人のために岸を降りたが、誤って足を滑らせて川に落ちてしまった」
目を伏せて語られるその話は、抑揚こそ無いが彼にしては優しさを感じられる声であった。若しここに彼の愛でるあの子がいれば、恐らくまるで御伽噺をするように語るのだろう、と思う。
「激流に呑まれた騎士は最後の力を振り絞り掴んだ花を恋人に投げ、
「…悲しい伝説ですね」
「当地でも未だこの花の名は変わっていないのだよ」
「それが現代まで“真実の愛”の象徴として残っていることは素敵なことだと思います」
私の言葉に首領はひとつ頷いた。
勿忘草には“真実の愛”という花言葉もあり、欧米では古くから友愛や誠実の花として親しまれているのだ。栞を見ると、彼と過ごしたあの茜色の見晴台の風景を思い出して胸がじんわりと温まるのを感じた。
お互い何も喋らず沈黙が流れる。
どちらも一面窓からヨコハマの街を眺めていた。
「…最近調子は
突拍子もない彼からの質問につい背筋を伸ばした。話したかったとはもしや私の仕事に対する意識を評価するためであろうか。私は何かしてしまっただろうか?真逆この突然始まった首領との面談で待遇が変わるのか…と不安が広がっていく。
「混乱させる言い方をしてしまったね。いや、首領として聞いたのではなく一人の医者として聞いているんだ」
ハハと笑って空になっていた2つのカップにティーポットを傾ける。それに感謝を伝えると、彼の言葉が頭に入ってくる。
「医者として…?」
「私はこんなことをしているがしがない医者でね。君は覚えていないしれないけれど、ここに引き入れるとき君のその記憶のことについて何か手掛かりを掴むために尽力することを雇用する条件として挙げていたんだよ」
「そうだったんですね…」
マフィアに入る前の備忘録は最近読み直していないため、帰ったら確認することを決めた。確か此処に入ることになったのはどういう経緯であったろうか。
「記憶に関しては特に変わったことはありません。忘れてしまうことは忘れてしまいます。でも覚えていられることも増えてきました」
「そうか、それは良かった」
「これもきっと周りの方のお陰でしょう。有難うございます、森
はっと息を飲んだのはどちらだったろうか。口から出た言葉に驚き思わず口を手で抑えた。首領のことをこのように呼んだことは無い。しかしこうして出てきたということは…
「嗚呼、懐かしい。初めて会ったときは君の主治医に仲介してもらったから、暫くは私のこともそう呼んでくれていたのだよ。マフィアに入ってからは首領と呼ぶようになったがね」
そうだ。私の脳外科の先生に紹介してもらって此処に入ることになったのだ。やんわりとだが覚えている。
そして気づく。今さっき執務室の扉を開けるときに感じたデジャヴの正体が何であったか、すっと判った。昔、病院で名前を呼ばれ、医師のいる部屋へ開けたときのあの瞬間の気持ちによく似ていたのだ。
ふ、と自分を笑って紅茶に口をつける。私は無自覚のうちに昔かかっていた主治医の先生と首領を重ねていたのだろう。
「これからもそう呼んでくれて佳いのだよ?“なまえちゃん”?」
「やめてください
軽口をぽんぽんと飛ばし合う。笑い声が漏れ、その様子はまるで気心知れた医師と患者のとりとめのない会話のようだった。
「そういえば、みょうじ君は太宰君と仲が良いようだね」
「前に、私の記憶が異能力と関係しているのかを調べてもらったんです。そのときの記憶は無くて、結局違ったみたいなんですけれど」
「ふむ、成る程ね…。あ、」
彼が何かを思い出したように上を向いた。
「どうされましたか?」
「そろそろ太宰君の誕生日が近いねぇ」
「そ、そうなんですか!?」
「うん、十九日だから、お祝いしてあげるといい」
微笑む首領に色々と見透かされている気がして少し恥ずかしくなった。彼も十八かぁ、と窓に視線を向けたことに安心して、赤くなっていては嫌だと思い、少しでも顔を隠そうとティーカップを傾ける。顔が赤いか紅茶に写った像に目を落としたが、紅茶が赤いのだから解るはずもなかった。
そんな私を横目で見て首領が笑っていたことは気づくことはなかった。