新月のようだった
「坂口先輩、周りの人の死に直面すると何だか文が書きたくなりませんか?」
はい、コーヒーです。と渡されたマグカップを条件反射的のように受け取ると同時に彼女の顔を見た。
「そんなことなら貴女の仕事はさぞ進んでいるんでしょうね」
「うげぇ。そういうことじゃないですよ」
先日、彼女、苗字名前の仲の良いと思われる友人が任務中に想定外の要素が発生したため命を落とした。その友人は彼女の特務課の中でも数少ない同期で、訃報を聞いてから暫くは何時も騒がしい彼女が静かであったのを覚えている。
「君は彼女の葬式に行ったのですか?特務課の人は外部に漏れないうちに家族葬をするのが定例ですが」
「その定例通りでしたよ。いつやったのかも知りませんし仕事に情けも有りませんから。代わりに昨日の深夜に件の現場に行ってきました。まだ調査が続いてて物々しかったですけど」
「そうですか」
手元の資料に判を押し紙の山に乗せると次の資料を手に取った。
道理で今日の彼女は随分似合わない匂いを漂わせているわけだ。
其処で友人の愛用していた煙草を吸ったのか供えたのかしてずっと物思いに耽っていたのだろう。そして其の儘出勤したということか。
「友達がどんなことを思いながら自分の死が近づいてくるのを待ったのか、今は冬ですけど任務中だったから寒くはなかったのか、最後に見た空はどんなのだったか、後悔をしたのか、それともしなかったのか、彼女は、幸せだったのか。そんなことを考えてると無性に文が書きたくなるんです」
コーヒーを一口飲む。
甘い。君、自分の分と僕の分を間違えていれたでしょう、なんて口を挟める様な無神経なことは出来なかった。
「彼女の生きた世界はどんなものだったか考えれば考えるほど、見えてる風景や自然現象が鮮やかで意味のあるものに感じるんですよ。ただのアスファルトでも体温を奪ってまるで氷のようだなとか、ちらついてた雪は寂しさを一段と感じさせただろうなとか」
「それで、文が書きたくなる、ですか。急に何を言い出すのかと思いましたが言いたいことは判りましたよ」
「先輩はこんな経験ないですか?」
「僕は、」
彼の人の死に際や生きた世界を思うことが罪ですから
「……関わったことのある人の死は毎週のように耳にしますからね。そんなことを考えてたら仕事が回らなくなってしまいます」
資料に判を押す。少しぶれてしまったがこの程度なら問題ないだろう。
「うわー其処までいくと仕事中毒」
彼女は憐れみの目を向けながら自分のデスクに戻っていった。
そうだ。人の死など日常の一部のように経験しているではないか。
それなのに、何故、彼のことが思い浮かんだのだろうか。
彼女が友のことを話していたからであろうか。
持っていた資料を一度置き、肩に手を置き首を回した。
疲れているんだ。この報告書の山を1時間で目を通そうとしたのは流石に無謀であったか。
「そうだ、君。先程間違えて僕の」「にっが!何これ!?」
一つ溜息をついた。
***
時計の針も音を立てるのを憚るほどの静寂に包まれている。
この部屋にいるのももう自分だけであった。然し目の前の紙束を明日に回しても明日又増えた分の下敷きにされてしまうだけだ。
少し休んでから再開しようと考え、机の抽斗の奥に追いやられていた煙草を取り出し立ち上がった。
異能特務課に限らずこの内務省の建物は世間の禁煙の流れに逆らわず基本禁煙となり小さな喫煙室がひとつ隅に追いやられるように設置されている。
それを機に禁煙しようと試みる職員は少なからずいて、一時は狭苦しい喫煙室でも問題なかったのだ。ところが己の弱さを悟った者がちらほら戻ってきたため許容範囲を超え、喫煙者が団結し新たに喫煙室を獲得しようとしているのがつい最近の出来事であった。
(あの光の少なく閉塞感のある部屋に行くのは気分ではないな)
踵を返し椅子にかけてあった背広を取り、屋上へと向かうことにする。
廊下を歩きながら背広を羽織ると何処かの部署の人間が前から向かってくるのが見えた。すれ違う際にお互いに会釈をし、未だ残っている人が居たのか、と僅かに仲間意識を感じた。
屋上への階段を昇る脚が重い。最後に家に帰ったのはそういえばいつであっただろうか。
セキュリティを解除し扉を開けると刺すような風が強く吹き思わず顔を横に背けた。再び前を向くとぼんやりと照らされてる人影が見える。
随分と物好きな人が居るものだ、と自分のことを差し置いてそう思った。
コツリコツリと近づいていくとその人影が自分のよく知る人物のものだと気づく。
「苗字君、」
「あぁ、坂口先輩だったんですね。こんな時間に何しに来たんですか?」
「それは此方の台詞ですよ。君はとっくに帰っていたと思っていましたが」
「資料室で調べ物をしてたんですよ。先輩は今日も徹夜…って見れば判りますね」
「失礼ですね。僕だって家に帰りたいという願望はありますよ。叶わないだけです」
軽口の応酬をしながらフェンスに寄りかかり煙草を取り出し口に咥えた。
「あれ、先輩って煙草吸ってましたっけ」
その言葉には直ぐに答えずに片手で覆いながら火をつけ、冷たい息を吸い込み、それから夜空へゆっくりと吐き出した。
「…偶には毒気も吸いたくなるのですよ」
手持ち無沙汰な左手を懐中へ入れ、一連の僕の動きをじっと見ていた彼女へ横目を移した。
「君も、今日は珍しく煙草の匂いがしていましたね」
「嘘、気づいてたんですか?臭うなら云ってくれれば良かったのに」
「そしてそれが何故かも推測は付いていましたよ。君が昨日、もう一昨日ですか、家に帰っていないことも」
もう一度煙を吸い込む。肺に煙が満ちていく。
「……何でも御見通しなんですね。流石先輩」
フッと笑うように息を吐き出した。
「あの子の好きな煙草、吸ってみようと思ったんですけど上手く吸えなくて」
そう云って彼女は手に持っていた煙草を見つめ、一本取り出し、視線を僕に向ける。
「コツとかありますか」
「そんなもの無いですよ。息を吸って吐くだけです」
彼女は意を決したように口に咥え火をつけた。
煙柱が二本闇に揺蕩っている。
「ッ、ゴホッ、ゴホッ」
「全く、下手ですね」
大丈夫ですか、と咳き込む彼女に声をかけるが恐らく聞こえていないだろう。こうなることは予想できていたが彼女なりの弔いなのであると思うと邪魔などできなかった。
「…やっぱり、煙草なんて美味しくない」
「そう思えてるうちは君も未だ正常ですね。僕は三日ベッドで寝ないと美味しく感じますよ」
「ははっ、徹夜に煙草なんて健康に悪すぎる」
咳をしすぎたせいで出てきた生理的な涙を拭いながら彼女は笑った。
そうだ、君は彼女にはなれない。
幾ら想いを馳せて、思考を巡らせて彼女の癖を追っても、他人が何を考えていたかなど、判りやしないのだ。
短くなった煙草を屋上にぽつりと置かれている灰皿へと擦り付けて捨てた。
ふぅ、と息をつき諦めたように空を見上げた彼女は「月が綺麗ですね」と今日は天気が良いですねと云うかのように(月が綺麗なのは実際に天気のことなのだが)といやに淡白に独りごちた。
視線の先を辿ると、然り、ぽっかりと大きな満月が浮かんでいる。
「あ、いや、その、今のは間違いで、いや月が綺麗なのは事実なんですけど、えっと」
「判っていますよ。騒々しいですね。せっかくの月夜が台無しじゃないですか」
「あはは、そうですよね、はは」
彼女に僕は有名な言い回しであっても文脈を踏まえずに直ぐ愛だの恋だのと早合点するような浪漫主義だと思われているのだろうか。
「苗字君」
「はい」
「、っ」
はっと言いかけてた言葉を飲み込んだ。
応えとして自分に向けられた視線が先程慌てふためいていた人物のそれとは思えないほど空虚であるのだ。
如何してこんな目をしているんだ。
「何ですか?」
彼女の視線から逃げるように再び月を見上げる。
「そうですね……僕は死んでも善いなんて云いませんよ。徹夜で煙草を吸うような人間ですが此の世を去るには未だやり残したことが多すぎる」
ひとつ唾を飲み込んでからそう、応えた。
彼女は今どんな表情をしているのだろうか。
フェンスがカシャンと鳴ったあと僕の眼前に彼女が微笑みながら回り込んできた。彼女は後ろ手を組んでそして、
「置いていかないで下さいね、坂口先輩。貴方まで置いていったら私」
「許せませんからね」
微笑みながら僕にまるで呪いをかけるようにそう云った。
僕は彼女のことを思い違っていたのかもしれない。夜空から満月が照らしているというのに、彼女の瞳は其処にある筈なのに何も生気を感じない、それはまるで。