ターミナル
空気を吸い込む度に喉が、肺が、冷えていく。ツンとした空気が滲みた。
息は灰色で、眼前に広がる彩度の低い海の色に重なるから一層、この世界がモノクロで出来ているように見えた。

吹いてくる風はさっきまで頬を切り裂くようだった。もう肌が冷えすぎたからか、感覚が無くなってきて「案外いけるじゃん」なんて少し強がった台詞を心の中で呟いてみる。二匹の鳥が並んで遠くを飛んでいるのが見えた。波の音が聞こえた。

「こんな時間に何しているの?」

お節介な町人のご登場、
心の中で呟いてからひと呼吸。私の視界を一瞬曇らせてから消滅した。両腕で抱えていた脚をほどいて片腕を付いて後ろを振り向くと、

見えたのは、黒。
やっぱり私の世界に色は付かないのか。


「貴方みたいな人、この街に居たっけ」

「ついさっき帰ってきた」

「そ、おかえり」

「ただいま」

男の質問には答えず、それを男も咎めず、適当な中身のない会話をすると男は「よっと、」と云いながら座りこんだ。

「高そうな外套なのに善いの?」

「もう着ないから、善い」

綺麗なわけがない港の堤防にためらいの一欠片もないようだった。私はもう一度体育座りに戻る。男は両腕を後ろについた。

「その体制、暫くすると掌に砂利が食い込んで痛くなるよ」

「えっ、じゃあ止める」

「暫く此処にいる心算なの?」

「…日が昇るまで」

「まあ、あと少しな気がするよ」

男は右膝を立てて、その上に肘をのせてから私のほうに視線を寄越した。探るような視線のようなのに、まったく人に興味がないのがわかる、そんな目をしていた。

「いつからここにいるの?女の子は身体を冷やしちゃ否可ないよ」

「いつからかな…、忘れちゃった。というか家出る前に時計、見てないかも。眠れなくてふらっと出たから」

「寒くないの?」

「寒いよ」

「まぁ、そうだよね。ウン、そうだったな。」

こんな寒さをしていたな、と呟いてから男は一度下を向いて、視線を海に移した。

「その上こんな時間だしね。」

「貴方は如何して帰ってきたの?」

私ばかりが質問に答えてると思い今度は問いかけてみた。男の睫毛が伏せられる、一度口を開いたかと思うとまた閉じた。

「ごめん、こんな時間に釣り以外で海を見に来る人に事情が無いわけない」

「それ、君もだよ」

「うん、私も」

風が髪の毛を揺らした。冷たさでじわりと涙が滲んだ。この人は片目を包帯で覆っているから、平気なのかな、でも右目は駄目か、なんて考えてみる。

「自分を殺しにきた」

ぱちり、突拍子もない言葉に私は目を瞬かせるとぽろりと涙が粒となって零れた。その粒を男が目で追うのがわかった。

「…寒いから」

「うん、判ってる。私も赤の他人が泣いてくれるなんて思うほど、自惚れてないさ」

「そうはっきり云われると、ちょっと寂しいもんなんだけど」

「…そうだね。同じ街の同じような年の人にこんな早朝に逢うなんて、たしかにもう赤の他人では無いかもしれない」

「…いくつ?」

「十八」

「まあ誤差かな」

誤差って、と男は少し笑った。十八か、この年で「帰ってきた」となると、小さい頃にこの街を離れたのだろうか。

「どこから来たの?東京?」

「ヨコハマ。東京の近くで、ここと同じ港町」

「流石に知ってるから」

「ごめんごめん」

行ったことはないが、かなり大きな都市だったはずだ。同じ港街、と括ってもだいぶ違うだろ、とは思ったが口には出さなかった。目の前の海を見る。空も海も、黒と紺のべた塗りの空間に囲まれているようだった。

「自分を殺しにって…自殺?やめてよね、水死体が上がったなんて」

「違うよ…、恐らくは。」

もやもやとした輪郭の無い返事に、少し不意をつかれた気持ちになった。

「なにそれ」

今度は私が男を探るような目で見つめた。男は海を見つめたままだ。視線は交わらないまま口を開いた。


「…救いを、探しに」


「救いが欲しいなんて利己的なことは言えない。ただ、探すだけなら、私でも赦されるのではないかと思って」

「…」

「この世界を教えてくれた友人がいたんだ。死んだのさ、このあいだ。…寂しさなんてのは感じない。ただ厄介な言葉を置いていったんだ」

言葉が喉奥に張り付いて出てこなかった。なにも返せないまま、風が吹いている。

でも、驚きはしなかった。初めて姿を目に入れたときから、喪服みたいな服を着ているなと思っていた。

「私が…、」

男はの言葉は続かずに、灰色になって空中に分散した。遠く一点を見つめる男の眼球は、光が差したとて反射なんてしないんじゃないかと思うほど、真っ黒に濁っていた。

「…私もね」

話してくれたから私も話そうと思ったわけではない、この人なら少しは判ってくれるんじゃないか。そんなすがり、だったんだろう。

「もう、うみの上をただ流れるだけに…海藻みたいになりたいかな」

風が一段と強く、ぶわりと吹いた。
何回も思った、飛ばされないかな、という願いは叶わない。もう判っている。

「毎日こんなこと考えてるわけじゃ無い。ちゃんと楽しいと思えることだってある。でも偶に、ホント偶に、漂っているだけの存在になりたいって思うんだ。友達、亡くした人の隣で云うのも…、あれだけど」

「いや、いいんだ。根本で抱えてることは同じだろ」

自分だけが周囲から取り残されて、くるくると変われない時間を空回りしているような感覚。そしてその事実に向き合ってしまったが最後、こうして眠れない夜を過ごすことになってしまうのだ。


あとどれくらい、日々を消費つぶそう。


「頭の中にのこっている彼の声が、何度も響くんだ。」

もうやめてくれ、そう云うかのように首を垂れ下げて額を腕に押し付けた。

私は、どうすればいいんだい。
額を押しつけたまま男はつぶやいた。私に向けられた言葉ではないのは明確だった。虚ろで彷徨いの問いかけに、答えてくれる人はいなくなってしまったんだろう。

変われない私を置いていくように日々は流れていく。紺色が白み始めた。夜明けが私を待ってくれたことなんて今までにないが、今日ばかりは容赦してほしかったところだった。

「これから、どうするの?」

自分の住んでる町の港で水死体が上がった、なんて話は聞きたくないし、短い時間でもこうして会話をした人であるなんて気分が悪いというのが本音である。とはいっても、私に止める権利も無い。

「…昨日までの自分を浄化しなければいけない。善い人間になれと云われたんだ」

目を閉じたこの人は、遠くへ、遠くへ、祈りを捧げているのだろう。

「悪い人だったんだ、貴方。」

「嗚呼。おそらく君には想像もつかないほどのね」

「しばらくここにいるの?」

「わからない…ただ気がつけば脚が向かってきていたんだ。昔のことなんて、とうに忘れたと思っていたのに」

「実家とか…泊まる場所にアテ、あるの?帰ってきたばっかりなんでしょ?」

「……無い」

「そっか。」

太陽はいつのまにか半分ほど姿を現していた。それはとても美しくて、夜明けを厭がるくせに動く心が、悔しかった。

どこかでエンジンのかかる音が聞こえた。人の生活が動き始める。
私はそっと呼吸をする。仕様のなさを抑えるために。深夜に目覚めた自分を宥めるために。

脚を引くと、ジャリ、という地面と靴が擦れた音がした。

「まあ、取り敢えず…行こうよ。そろそろ人も増えてくるから」

私がそういうと、男はほんの少しだけ首を縦に振り、同意を示した。

立ち上がるとお尻と足の筋肉が一気に解放されてじんわり熱を持った。硬直していた四肢が自分に戻ってくる感覚。服を軽くはたいていると男が立ち上がった。出会ったときは座っていたからかと思ったが、並んで立っても身長が高く、か細い人だなと思った。

私は海に背を向けた。ざり、という音から、男も後ろをついてきているようだった。


「そういえば、名前なんていうの?」

私は後ろで手を組んで、ゆっくりと動かしている足元を見たまま問いかけた。

背後の砂利を踏む音が止まった。

「名前は、」

私は振り返る。真っ黒な姿を夜明けの逆光が照らしていた。オレンジの光が細かな波を立てる海にキラキラと反射している。風が吹いて、彼の黒く柔い髪を揺らした。



「…名前を、呼ばないでくれないか」

「…私はまだ生きていると、生かされていると、感じてしまうんだ」


彼は目を閉じた。風でゆらゆらと揺れる姿が、まるで水に沈んでいくのかと錯覚してしまうようだった。

「そっか…判った。じゃ、私も云わないでおく」

私は一歩、彼の方に歩を進めた。伏せた目を開いた彼の黒い瞳を見つめてから、もう一度海に背を向けた。

自分が自分であることを証してくれるもの。それを伝え合う勇気は、今の私たちにはない。できるのは近くで、そっと呼吸をすることくらいだ。

「…ありがとう」

隣を歩く彼が口にした。

「こちらこそ、声をかけてくれたのは貴方からだよ」

「それでもさ…、誰にも出会えなかったら、きっとこの街の風にやられていたかもしれない」

「風?」

「嗚呼…。同じ港町でも、こんなに違うのだね」

「そうなんだ…いつか私も、」


そういって私は言葉を断った。いつか私も貴方が居た街に、



「ヨコハマ、来なよ」 


飲み込んだ言葉の先が彼から続いた。ふっと私は笑みを零して、

「…うん、それもいいかもね」

と返して彼の目を見た。


来な、というこの人の心はここから遠くの地にあるままだ。彼の身体が、心を取り戻しにいけたとき。そのときに彼は彼に成れるのだろう。


そのとき、私はきっと彼の名前を。

(2022 0619)
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