信仰の剣
「その時は。僕が、君を殺してあげるね」 それは、愛していると同じ響きをしていた。
雪が降る。白く染め、音もなく、冷ややかに。 イシュガルドのマーケット。冬の街で、俺は肩を染められながら報告に勤しむ家族を見守っていた。吹き抜けた風は不穏な温度で彼の髪を揺らす。白の世界に花緑青が美しい。本当に冬が似合う人だ。それはそれとして、あまり冷えるのはやめて欲しいのだが。 今日の彼は大剣を背負い、黒いコートで雪に降られていた。体の弱い彼はしかし憎らしいほど己の体調に無頓着で、傘をさそうという提案すら受けてくれやしない。 ――だって、粉雪は大して濡れないもの。雨なら僕だって傘をさすよ。だから、大丈夫。 完璧な笑みでそう言い切られたのだから堪らない。俺の声はいつだって届きやしないのだ。この意地っ張り、ししょーの馬鹿。詰ってみても変わらない。ちびは心配性だね、と笑うばかりなのだった。 強情で優しいその人は、俺の師匠で、同時に捨て子だった俺の現在の家族である。星の揺籃(プロトスター)という家族は血のつながりをもたぬけれど、俺は何よりもこの場を愛しているし、あぁつまり、認めるからせめて肩の雪くらい払ってくれよ。心配だって言ってるだろ。 その彼が漸く振り向いて、俺に向かってふわりと微笑む。冬の街に蕾が綻び、そこだけが春だった。 「お待たせ、ちび。これで残りはあと二件かな」 「あぁ……そうだな。さっさと終わらせて帰ろう。このままじゃ吹雪き始めちまう」 今までは柔らかな六花が舞う程度だったからまだいい。けれど天気は下り坂だった。風がどろりと水気を孕み、気温は下がる一方だ。そんな中で一日中動き回っているのだから、天気が保っても身体が保たない事など分かりきっている。日も落ちてしまい、本当は全て明日に回そうと諭したいくらいだというのに。 自分でも理解しており、また理解されている事を察しているのだろう。彼は困ったように眉を下げて笑った。 「ごめん、ごめんね、ちび。でも報告だけは今日中にして回らなきゃ。待っている人たちがいるんだもの、終わった事を知らせてあげて、それで相手が安心できるのなら、自分だけ休んでなんかいられないでしょ」 「だけなんてこと、ないだろ。寧ろちゃんと休んでくれよ。ししょーはほんとそういう所」 「それでも。これは依頼を受けた者の責任だよ。僕は今日中に出来ると判断した分だけ受注し、それを約束してサインした。星の揺籃の名にかけても、この信頼を反故にする気なんてない」 本当に、どんなに穏やかに笑んでも強情なのだ、この人は。すぐ困った顔で誤魔化そうとする彼に、俺は勝てた試しがなかった。だから深くため息をついて見せ、せめてと肩の雪を払ってやる。 「――っ、」 途端、大きく揺れる彼の身体。 「アルス。やっぱり今からでも帰ろう」 「帰らない。大丈夫、僕は大丈夫だよ」 こんな事で体幹を揺るがせるような人じゃない、分かっている。家族だから気を抜いていたというのも承知の上だ。それでも。 俺は自分の手からグローブを抜き取り、彼の丸い頬へ当てた。燃えるように熱い。ほら、やっぱりこうなると思った。 「大丈夫だよ、ねえ。だからほら、報告してこよう? そうしたら家まではすぐなんだもの、ゆっくりしてからレポートを纏めればいいし、提出は後日でいいって言われてるんだから問題ないでしょ」 本当に、仕方のない人だ。雪を溶かしてしまいそうな温度で、しかしそれを冷気に奪われながら、その人はしゃんと立ってそこに在った。やはり俺はその決意を覆せなどしないのだった。 「わかった、わかったよ。倒れたら連れ帰る、帰ったらすぐ休む。それだけ約束してくれ、ししょー」 うん、と彼が小さく頷く。その瞳は緩く溶けていた。依頼人の前では何事もないかのように隠してしまうであろうそれは、ひどく痛ましく思えてならなかった。 だから、首に巻いていた長いマフラーを彼に掛け直す。風に靡く白。行きに過保護な姫君から下賜されたものだった。自分ではさして防寒もしなかったくせに。そう、俺は朝も敗北を喫したという訳だ。 案の定彼は不満げに俺を見たけれど、そんなものには気付かないふりをした。これくらいはさせてくれ。もう昔の様な子供らしさは落としてきてしまったから――代わりにこの手に盾を持ったからには、お前を守るのは俺の本望なんだよ。どうせ分かっちゃいないだろうけどさ。 「あり、がと。――ごめんね」 「ごめんは余計だっての。行こう」 グローブを嵌め直した手を差し出す。彼はぱちくりと目を瞬いて、それからふわりと微笑んだ。冬が似合うその人は、しかし胸に柔らかな灯火を齎す人なのだ。やはりそこだけが春だった。 俺の愛しい、楽園だった。
報告は順調に進んだ。それはそうだ、最短で最良の結果を穏やかな笑みと共に差し出され、悪い気がする者などいるものか。俺は彼の体調が気になって仕方がなかったので、丁寧な応対に焦れたくらいだったのだけれど。 しかし最後の一件はそうもいかなかった。 「要らないって言ってるんだよ、こっちは!」 その男は食品の納品を発注し、にも関わらずそう拒絶の言葉を吐き出した。その怒声を開口一番で浴びせられたアルスは、しかし小さく首を傾けたのみで表情ひとつ変えやしなかった。 「要らないって、本当にそれでいいの?」 「そう言ってんだろしつけえな!」 しつこいって、いま初めて確認したんだろ。俺は思ったが何も言わなかった。アルスのやり方に従う、それが星の揺籃の決まりだ。俺が前に出る訳にはいかない。 「ふぅん、そうなんだ。君とは前もこんな事があったね。理由を聞かせてもらっても?」 「なんでもかんでもねえよ、さっさと帰れ!」 取りつく島もないとは正にこの事だ。依頼人である若い男が捨て台詞と共にアルスの肩を強く押した。既に高熱に浮かされていたアルスは一歩だけ後退り、それでも倒れることはなかった。ただ一言、そう、とだけ告げた。それだけだった。 なんだよ、何なんだよ、これは。 お前のためにどれだけの無理をこの人がしたと思ってるんだ。それを、それを。 優しすぎやしないか。語らぬ花緑青を見遣る。相手を責める言葉は一つもなかった。ただ静かだった。 そんなだから、男が馬鹿にした態度で鼻を鳴らした。このクソ野郎。アルスは平然としていた。行使する実力ならいくらでもあるのだから、それで筋を通させればいいものを。 衝動のまま殴り倒したい気持ちを堪えた。俺の勝手な行動は組織として望ましくない事くらい理解できたからで、同時に両腕が納品物で埋まっていたからでもあった。受け取るはずであった男は振り返らず雑踏の中へ消えてゆく。 時間を指定しての食品の納品。反故にされてはどうにもならない依頼だった。唯一の救いは金銭的な損失がないくらいのものだ。だってそう、肉も果実も自分達で丁寧に採集したものだったので。 とても三人で処理できる量でないこれらは、悲しいかな、破棄するしかないのだけれど――。 「わるかったね」 彼の横から声がかかった。見れば、腰を丸めた小さな老婆が眉根を下げて隣に立っていた。灰の髪の上へ白が薄く積もっている。すぐ近くの店は片付けの途中で、成程その店の主人なのだろうと推測された。 「あいつはクソ野郎だけどね、卸先の店はいいところなんだ。庶民向けから高級料理まで請け負って、食材にもこだわっている。だから、神殿騎士の会合で今日は貸切予約だったのさ。ところが直前に狼の群れが出てね。人手がそっちに取られちまった。仕方ない事だ、感謝すべきだろうよ。まあ、おかげで予約はおじゃんだがね」 嗄れた声で老婆は言った。そっか、と返した彼の声もまた掠れていた。ごほ、とそのまま咳き込む。重い音が雪に飲み込まれてゆき、ぱたりと一滴の赤が白を汚した。俺が口を開く前にそれは彼の足に踏み抜かれて消えた。見るなという無言の訴え。鋭く流された視線一つで俺は言葉を解いてしまう。だってそう、愛故に。 憎らしくも愛おしいその家族は、懐から錠剤を取り出しエーテルと共に煽った。その雑な処置はしかし正しく、彼にしか成せないものだった。俺はその知識を持たない。 だからそう、次に繰り出された彼の声は美しく澄んで、今見たものは全て幻だと謳いあげるのだ。 「ねぇ、それはちゃんと国の方から店に代金は支払われるんでしょう。直前に反故になったのだから、店に与える損害は大きい。それを分からないアイメリクではないと思うけれど」 「あぁ、勿論そうさ。国は店に約束破りの代価を支払う。店は卸業者へ代価を支払う。だからあのクソ野郎は、お前さん達に店から得た代価の幾らかを支払わなきゃならん」 なのに、と老婆は拳を握りしめた。皺だらけの手がくしゃりと丸まり、小さく震えている。 「なのにだ! あのクソ野郎め、店から金をとったくせ、自分は金を払わないときた! 私も前にやられてね。だがこんな婆じゃあ殴り返されるのがオチさ」 「あの人、やっぱり他でもこんな事を繰り返してるんだね? 何か事情があるのかな」 「いや、単に自分の事しか見えちゃいないんだ。それで何人があいつの私服を肥やしたと思う」 やはりアルスは静かに頷いた。彼はこの話題に対し、それ以上追求しなかった。老婆に近況を尋ね、労い、その腰の痛みを星の光で包み込んだ。それから俺の腕の中から果実と肉を取り上げ、老婆の店の木箱の上に置いた。よかったらどうぞ、と微笑む。 嗄れた老婆は手を叩き、少女の様に喜んだ。捨てずに済み安心した様子のアルスはその全てを彼女に譲った。つまりはまあ、押し付けたという事だ。結果として双方が満足したのだから問題はないだろう。優秀な調理師でもある俺の師は、その鹿肉に柑橘のソースを絡めるレシピを勧めている。楽しそうな横顔だった。先程までの無表情が、不気味に思える程に。 その穏やかな光が、かえって恐ろしく見える程に。
立ち話も程々に老婆とは別れた。降る雪が勢いを増してきたからだ。彼は老体に配慮する形でその場を辞した。自分の体調は気にしないくせに。本当に胃が痛む気がしてくるが、諦めをもって享受する。言ったって無駄なのだ。すると彼は、薬を出そうかなんて宣うのだろう。知っていて、わざと、揶揄うように。 そんな彼はマーケットの端の階段のところまでくると、裏に回り込んで石垣に背を預けた。取り出した手帳に素早く何かを書き込み、鞄から報告書を取り出して共に纏める。同じものが二部。何をしているのかは分からなかった。ただ、睫毛の向こうの花緑青がエーテライトを写し蒼く煌めくのが、宝石のように美しいと思った。 やがて彼は手帳を閉じ、近くを見回っていた神殿騎士を呼びつける。報告書を両方とも渡して、それから。 それから、やはり言葉はなかった。彼の星には温度もなかった。冷たくないかわりに、それは温もりも宿さず玲瓏に煌めいていた。触れたら砕け散りそうだった。触れれば、この指先を彼の破片が裂くのだろう。その想像は恐ろしく、否、酷く甘美なものだった。 高潔で馨しい白百合。 その毒に酔ってしまったから、俺はただ隣にいた。階段の裏で二人きり、降る冬を眺めた。帰ろうと言いかけて口を噤む。心配なんだと伝えたくて、しかし彼の横顔はそれを許してなどくれなかった。結局未練だけが地面へ降り、溶けて消えてしまった。雪が降る。上から次々に俺の想いを塗り替えながら。 静謐な逢瀬。暗雲立ち込めた空に星はない。 緊張はいっそ穏やかですらあった。どれだけの間そうして過ごしただろう。きっとそう長くなんてなかった。けれどそれは永遠だった。時よ止まれと願うほどに、しかしそんな夢はいつだって叶わない。 夢を見せるのも、それを取り上げてしまうのも、どちらもまた彼なのだ。残酷な台詞を優しく唱える彼に、俺は決して抗えない。 「――ん、こんな事も、あるよね」 そう、こんな風に。 破られる沈黙。隣で溢れたのは微かな肯定だった。単に起きた事実を確認しただけの独白は、彼自身を置き去りにするものだ。俺がどんなにお前を想ったところで、結局は。 はぁ、と隣で息を吐くその人を見やる。感情を含まぬそれは身体の苦痛に因るのだろう。熱い息は白く曇り、一段と寒さを増した夜に溶けて消えた。ぐらりと彼の体が傾ぎ、ぽすりと俺に寄りかかる。泣きたくなるほどに重みを感じなかった。 「さすがに、疲れちゃった。あは……、がんばり、すぎたかも」 「……まぁ、最後であれじゃあな。気にすんなよ」 「あはっ、当然。君って僕の事聖人か何かだと思ってない? 僕は気にしないよ。だって、僕は優しくなんてないもの」 そんな台詞を綴るくせに穏やかなばかりの彼は、仕方がないね、と独り言の声量で吐き出した。花緑青は俺を見ない。怒った様子はない、けれど笑いもしない。 彼は体を起こし、独りで雪を踏み締めた。無感動にエーテルの小瓶をわる。言葉を迷わせた俺に代わり、ぱりんと静かに哀愁が鳴った。 「さっきだって。僕は仕返しをしないなんて一言もいってないよ。あの人が約束を破るのは三度目だ。事情をきかせてと僕は問うたけれど、素行調査なんて、本当はもう勝手に済ませているしね。特別な事情は何もなかった。つまり、ただ我欲の強い人間だって、そう判断もしていた。その上で最後の機会を棒に振った者の事なんて、知らない――しらないよ、そんな人」 しらない。もう一度彼は言った。するりと出た言葉は、しかし何処か胸に絡みつく。透明な瞳は同時に昏く、彼方へ心を逃がしているようにも見えた。 だから、ああ成程と思った。淡々とした語り口の彼は、実は相当に苛々しているのだと分かった。これは甘えだ。 分かりにくいそれが冬の街に降り積もる。 「僕はその場で力を振るって終わりだなんて、そんな非合理な事はしない。瞬間的に通り抜ける熱だけをやり過ごして、それでまた同じ過ちを繰り返すのなら、そこに意味なんてないでしょう。だからきちんと実害を被ってもらう」 そして彼は跳ねる鼓動を封じるように胸を抑え、もう一度息を吐いた。水気と熱を孕む白が一瞬で掻き消える。何かをエーテルで飲み下し、その小瓶を手袋の中で握り潰した。開いた掌から風に浚われ雪に紛れる。 風が彼をも遠くへ連れ去ってしまうかのようだった。けれど彼は統べる者の風格でそこに在り、害するもの全てを拒絶しているようにも思えた。堅牢なそれはその実酷く儚いものだ。そして儚いものはとてつもなく勁いと、それもまた真理なのだ。 彼は正しく、鋭く、凪いだ湖面の下に沸るものを押し殺す。故に相変わらず俺は何も言わない。何も言えない。 「そのためなら僕は手段を選んだりなんてしない。僕の世界の、僕の立場を使いすらする」 僕はね、我儘なんだ。彼は己をそう謳った。誰より己に厳しいくせに、うそつき。 今度こそ空気を震わせようとして、しかし振りかぶる前に遮られ俺は肩を竦めた。また敵わなかった。星は孤高だった。ひと睨み、それで詰る言葉を奪い葬り去る。 そうすれば、確かに彼は我儘だ。聴きたくないと、そんな優しさはいらないと、どうかこの身を裁いてくれと。それは音にならない声だった。表に出せぬ想いだった。求めぬ優しさを切り捨ててしまえる程に彼は我儘だった。他人のために己を斬り捨ててしまえる程に彼は優しかった。 認めないのは彼自身、ただ一人だけだ。 彼は俺の想いを跳ね除けて、黒い外套を翻す。 「そう、僕は知っていた。こうなるって分かってた。だから支度すらしていて、そんな僕が優しくなんてあるはずも、なくて。あのね、僕が手配した調査書は、この僕が書いて渡したんだもの、国の上層部へ届くだろう。現在のこの国は、弱きを搾取する者を許さないだろうね。そうすれば国からマーケットの方まで情報はまわり、彼と取引をする店は立ち所に消えるだろうから、うん、彼はこの先どう生きていくのかな。きっと僕のやり方が一番酷い。殴ってあげた方がきっと行先は楽だった。けれど僕はそれを許さない。それでは罪を赦さない。ねえ、彼は何を選ぶんだろうね。立ち止まり振り返るのかな。それとも逆恨みで刃を手にするのか。あはっ、そんなの、どうでもいいよね。しらない、そんな他人の事なんて知らないもの。どちらにせよ、もう僕には関係のない事で、僕はそこまで面倒を見る気なんてない。そこまで、優しくなんか、ない」 分厚い雲の下、その星だけが夜空を照らしていた。奥底に昏い炎を揺らめかせながら、確かに煌めいてそこに在った。 だからね。彼が笑う。美しく完璧な笑みだった。酷く歪で不器用な笑みでもあった。 「だから、ねぇ、僕は独裁者にだってなれてしまう。僕はね、きっと誰よりも残酷だよ」 ちび。柔らかな唇が俺の名を紡ぐ。ちび、僕はね、君が思う程綺麗じゃないよ。僕はね、僕は――。 そして彼はふつりと黙った。しんしんと静寂が降る。結局出す答えはいつも彼自身へ帰着するのだ。そういう性質だと俺が知っていて、だから目を離せないという事を、お前は知らない。 彼は己の胸までをも言の葉で切り裂いて、その瞳を伏せた。それから仕切り直す様にふわりと微笑んで見せるけれど、それは確かにいつもの彼でしかなかったけれど、そんなもの、そんなものが俺に通じる訳ないだろ。 未だ燻る想いが密やかに火花を散らしている。ちり、と覇気が頬を焼いた。今までは彼一人で葬り抱えてきたその苛烈な炎に、いま俺は焚べられているのだ。彼と暮らし始めてから少しずつ剥がれ落ちてきた師匠の仮面は、今や罅割れた硝子と相違なかった。屈折する光の向こうからただのアルスが俺を見ていた。それでも捻くれた言葉で自分を抉る不器用な花緑青は、愛おしく、同時に哀しくさえ思えた。その色を許されている歓喜で胸が奮えた。 つまりこの態度は家族への甘えで、そうなればもうその鋭利な刃に恐怖など抱きようもなかったのである。 「なあ、アルス。ならさ、アルスにとっての優しさって何だよ」 それ故に、俺は逆に彼へ問うた。 すると彼は不思議そうに星を瞬かせた。花緑青は真っ直ぐに翡翠を写している。俺は笑ってしまうほど真面目な顔で俺を見ていた。それに因りこの問いが己が思う以上の意味を持つことを知る。 「そうだね……うん、量かな」 「優しさが、量?」 そして彼の答えに首を傾げた。どんな事が優しさなのかと尋ねて与えられるにしては、軸のずれた教えだった。 素直に顔に出た俺を揶揄う様に彼が笑う。普段の調子を取り戻した彼は、悪戯な香りで俺を誘っていた。熱で不健康に染まる頬は、しかし薔薇色にすら見えて目が眩んだ。 「ふふっ、ちび、分かんないって顔してる」 「しょーがねえじゃん、アルスは意地悪だな」 「そんな事ないよ? 僕が言ったのはそのままの意味。優しさは量だ。僕が持てる優しさには限りがあって、それを誰にどれだけ傾けるかは僕自身が決める。だから誰もに無限に優しくすることは出来ないし、持てる以上に与えたいと願うなら己の身を削らなくてはならない。そして優しさは与えるものだ。主体的な行動だよ。自分で選択して与える以上、どうしてもそれは身勝手になるよね。その身勝手に見返りなど求められようはずもない。相手が望まぬことでさえ、優しさと謳い僕たちは押し付ける事ができる。それを優しさであると、相手の為であると、そう確信しながら。僕たちは時にその慈愛で相手を殺すだろう。故に優しさに普遍の定義はない。だから、単純にその性質を示すのなら量だ。僕らは持てるだけのそれを、好きな様に割り振るだけ。そうでしょう。優しさとはそういうものだよ、ちび」 彼はゆっくりと柔らかく、残酷に世界を祝福した。愛で満ちたその声音は、いっそ呪いの様に降り積もるものだった。 けれどそう、言われてみれば成程確かに、彼の言うこともまた真理だった。全ての人に無限に優しく振る舞うことなど出来はしない。そして与えるか否かを決めるのは自分自身で、その判断の責任もまた己に帰属するものなのだ。 「まあ、そうだな。優しくされたい人、されたくない人。優しくすべき相手、そうじゃない時。何が本当にその人の為で、俺がしたい事はなんなのか。決める時って大体こんなだ。ぜ〜んぶ綺麗な事なんて、まあ、ないよなあ」 「ね、僕もそう思う。優しさっていうのは、個人の単位で測られ、与えられるものだ。そしてそこに本当の意味の価値を添えるものがあるのなら、それが愛だよ」 「じゃあ、アルスは俺を愛してる?」 「ふふっ、知ってるくせに、おばかさん」 彼は俺の欲しいものを知っていて、それでも与えてはくれなかった。しかし綻ぶ瞳は何よりも雄弁に真実を語っていた。 「ならさ。アルスは相手が罪人だったり、憎くてたまんない相手だった時、どうするんだ。優しさを与えるのか。愛を降らせるのか」 故にその剣を俺は鞘から引き抜いた。漸く咲いた日常の花弁を散らして再度問う。彼の星からまた、温度が消える。 「――殺すよ。それが必要な事なら、ね」 星雲が雪に烟る。しかし恐ろしくなどなかった。闇の向こう、それは昏く鋭く煌めいていたけれど、英雄である限り俺を切り裂く事などないと知っていたからだ。 「だからね。例えそこに信念があろうとも、僕が護りたいものと対立する時、そしてそれが最早対話では解消できない場所まできた時、僕は迷いなく相手を殺すだろう。それが誰であっても、僕は僕の信念に基き、この剣を振り下ろす」 漆黒の外套が雪の中で揺れていた。闇に閉ざされた白い世界の中、その暗黒騎士は一振りの剣としてそこに立つ。 「たとえ家族であっても。僕は、ねえ、君たちの事を殺せるよ」 だから僕もまた、善人ではないのかもしれないね。 中庸な色のまま彼が呟いた。裁く者か裁かれる者か、彼は己の立ち位置が何方でも構やしないのだ。彼は心に決めた事を翻さない。眩くも歯痒い思いを何度飲み下してきただろう。俺も、彼も。 譲れないものは誰にでもあり、それを支えるものが信念だ。固く信じるそれは自戒の鎖であり、願いは諸刃の剣だった。 彼の台詞は真理ではない。俺は知っている。彼は英雄である。彼の性質は、彼が掲げた理念に反旗を翻すことを許さない。誰よりも彼が自身を赦さないのだ。 ――そうして成すべきを成してから、一人膝を抱えて泣くくせに。 それでも、英雄は英雄の目の前で、その星を燦然と煌めかせそこに在った。同一の役を異なる舞台で演じる俺は彼の言葉の意味を理解し、しかし遮る事もなく鈴の音に甘んじた。悪き者の非を鳴らす美しい囀りは、同時に彼を傷つけるものであると分かってはいたけれど。 彼が背負う剣は、彼を切り裂く信念だった。それはいっそ信仰にも似て、俺たちを貫いて煌めく星だった。 美しいと思った。あまりにも哀しかった。故に何よりも愛おしかった。 「なら、アルスは。もし、もし俺が堕ちたら」 憎らしいほど求めるそれに、俺はつい手を伸ばす。音にするつもりのなかった台詞はこんな時ばかり自由に囀った。 英雄が英雄に縋り付く。英雄は信仰の剣を振りかぶる。その人は俺をみていた。花緑青が翡翠を閉じ込めるから、俺はもう何処へも行けない。 酷く不自由なその自由が、降り積もり、吹き荒ぶ。 お前がその信念を信仰すると言うのなら、俺はそんなお前を奉ろう。 どうかその剣で、その慈悲で終わらせて欲しいと願う程に。 やがて振り向き、百合がふわりと花開く。 咲いた毒は甘やかに雪を溶かして。 「その時は。僕が、君を殺してあげるね」
それは、愛していると同じ響きをしていた。
[ 25/118 ] [mokuji]
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