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藍の朔を染める




ランプの柔らかな光が、橙に揺らめき廊下を仄かに染めていた。
雪に耐えうる石造りの家はしかし木の内装で纏められ、家主のこだわりを強く表している。よって廊下の木目もまた優しい色で夜更けの冷気を温めていたのであった。
とはいえそれは見た目ばかりの話だ。真冬の木材は乾いて硬く、故にそこを歩く時は音に気を付けねばならなかった。そろそろ油を差して回るべきだろう。きいと軋む悲鳴は微かなものであったけれど、眠りの浅いその人が気付く可能性はとても高かったので。
そう、珍しく個々の部屋で眠ったその夜、冷えた寝具の寂しさに目が覚めた。それはまだ朝と呼ぶには遠すぎて、しかし夜と呼ぶには更けすぎた時間の事だった。どうにも凍えて眠れず、せめて何か飲もうと部屋を抜け出し、そこで。
こんな時間なのに、家主の部屋から灯りが漏れていたのである。
小さく仄かな橙だった。揺らめき僅か溢れるそれは卓上ランプに違いない。まさかまだ起きているのか、あんなに身体が弱いのに。それとも何かをしている途中で寝てしまったのか、いや、倒れてしまったのだとしたら。
嫌な想像が脳裏を掠め、心臓がどくりと鳴った。それは冬の廊下に落ちて響いたようにすら思え、つい胸を抑える。
そっと、そっと。音を立てぬよう、そっと廊下を進んだ。扉の近くで耳を澄ませる。何か硬く、それでいて滑らかな音。書き物をしているのか。その音が不意に止まり、椅子を引く気配があって、あぁ、見つかってしまったようだ。
きいとやはり軋む音を立て、扉が細く開いた。花緑青の瞳が穏やかに微笑んでそこにあった。
「こら、夜更かしさん。こんな時間にどうしたの。寂しくなっちゃった?」
くすり。悪戯に星を煌めかせ、少女のように肩を小さく揺らす。そこに瞳と同じ色のブランケットを纏う彼は、衣を揺らす天使と相違なかった。
俺は絵画のようなその空間にあって、声を出す事を躊躇った。いやに乾く唇を湿らせ、舞い降りた彼へ現実を纏わせるように名を紡ぐ。
「――アルス。俺はその、いや、目が覚めちまって。それで明かりがついてたからさ」
そうすればほら、いつもの日常がふわりとそこに咲くのだ。
「ん、心配させちゃったかな。僕は大丈夫だよ。ちょっとやりたい事があって、それだけ。でも君は……ふふっ、確かによく目が冴えているようだ」
毎朝そうならお互い苦労しないのにね、と彼は片目を瞑って見せた。俺よりずっと早起きの彼は、しかし本当は朝に弱く、夜ばかりを長く数えるのである。つまりそれは眠っていないという事に他ならない。
それで倒れるんだから心配するに決まってるだろ。
俺は口を開きかけるも、彼の白い指に制され言葉を飲み込む。蕩ける微笑みに俺はどうやっても勝つ事ができない。彼は理解した上で俺を弄ぶのだ。高嶺に咲く花が憎らしい程に愛おしい。
「わかったよ、分かったから。ここまではいい、でもこれ以上やったら朝になっちまう。だからもう寝ろよ」
「あと少しで終わるから、そうしたら僕も休むよ」
「少しって、どんくらいだよ」
「少しは、すこしだよ」
具体的な返答がないため深々と溜息をついてやる。これだけ濁すのはつまり、俺が何か飲んで潰す時間より作業のほうが長いという事だ。綺麗な嘘をつけるくせにそうしないのは、俺が気にして何度も様子を見に来る事を見越してに違いなかった。俺はそうまでしても彼に休んで欲しく、彼はそれを踏まえてでもやりたい事があった、それだけの話なのだった。
彼は全てを理解して、それでも我を通す方法を知っていた。ちび、と小さな唇が愛を紡ぐ。恋しい声が柔く俺を呼ぶから、あぁもう、勝てる訳なんかないのだ。
「どうぞ。ベッドの中入ってていいよ」
そう言い置いて彼が藍と橙の部屋へ踵を返す。制止は叶わない、けれど彼に甘えれば結果は見えている。堂々と作業をするか、隠れてするか。彼にはもうその選択肢しか存在しないのだから。
こんなのどうしたってアルスの思い通りじゃんか。
腑に落ちず薄く開いた扉の前に佇む。立ち去らない時点で答えなどもう出ているというのに。そんな事は彼も承知しているだろう。故に部屋の中からは暖炉に火を焚べる物音が漏れ始めた。
まさか、真冬の深夜に肩掛け一枚で作業をしていたのか。こんな、こんなに脆い身体を抱えて。
慌てて追いかけると、彼は既にベッドサイドの小さなデスクに就いていた。ぱきん、と始めの音を薪が奏でる。
俺は彼の横まで歩き、悩み、結局ベッドに腰掛けた。其処から百合が香る気がして、聖域を犯す様な居心地の良さと悪さが同時に襲い来る。しかしその部屋はあまりにも静謐で、抱えた熱はすぐに溶かされてしまった。
俺は何も言わなかった。彼もまた何も言わなかった。美しい花緑青は手元の手帳に向けられ、場を支配するのは寒気と筆の音、それから時折混ざる暖炉の歌だけだった。
宵の色をしたインク、煌めく瓶。彼の筆跡は淀みなく美しい。滑らかなそれは時折止まり、傍の本を開いては思案するように花緑青が細まった。ぱらり、ぱきり。橙の光が彼の色を染め返している。綺麗だ。陳腐なその表現は、しかし俺の全てだった。綺麗だ、愛おしい。
暫くの間そうしていた。時計の針は規則的に夜を刻んでいたけれど、そんなものは背景に溶け込んだ音でしかなかった。俺は飽きもせず窓辺の姫君を見つめていたし、熱い翡翠の向く先で彼は一度も振り返らず作業に没頭していた。
やがて、彼が深く溜息をつく。それは完了の感慨にも諦観の感傷にもとれた。彼がやはり何も言わないから、俺もまた声をかけない。
すぐ目の前の窓から深い藍が部屋へ降りていた。雲の晴れた暗い空に星が瞬く。月はみえなかった。
「朔、ていうんだって」
ぽつり。あれから初めてその鈴の音が揺れた。彼は窓の外を見上げている。
「月はたしかに其処にあるのに、見えなくなってしまう。すぐ近くに在る太陽が酷く眩しいから」
ふわりと彼が息を吐く。火の灯る部屋の中では白くならない。透明なそれが纏う感情を図りかねる俺に、彼はやっと振り向き笑って見せた。
「でもこんな夜は、星がとても綺麗に見えるね。月は美しいけれど、明るすぎると仄かなものをかき消す事に変わりはないから。僕はね、どちらも好きだよ」
月も、星も、太陽も。
俺の目の前、天体を統べる英雄が指先に星を灯し咲いていた。
そっか、とだけ俺は返事をした。彼が静かに頷いて、それから魔法をかけるように指を振る。
「いつか、誰も知らない森の奥に、小さな木の家を建てて。バルコニーから満天の星空を見上げるの。望月の煌めく宵も、星が綺麗な朔の闇も。どう、素敵でしょう」
立派な石造りの家の中、彼はそんなささやかな夢物語を俺に広げて見せた。それはきっと深く穏やかな森の奥、木漏れ日の隙間から温もりの降る家だ。彼は周りで沢山の薬草を採集して帰るから、そこはハーブの香りで満ちているに違いない。その中心で百合が咲く。焼きたての菓子を両手に振り向く花の側に騎士はいる。家族三人で。それはひどく甘美な夢だった。
「ねぇ、だからその時は。ちびが家を建ててね。大きな金物は萬里が、小さな物は僕が作るから。ね、お願い」
こてんと首を傾けて彼が言う。砂糖菓子を溶かした瞳が俺を見ていた。花緑青に写る俺は困った顔をするくせ喜色をてんで隠せていないものだから、今度こそ苦笑する他になかった。
「分かったよ。アルスはどんな家に棲みたいんだ?」
「えっとね、まずは木造。床も壁も全部木なの。机も寝台も木がいいし、椅子の足も木がいい。あっ、あとね、バルコニーも木」
「待ってくれ、全部俺の仕事じゃんか……」
「そんな事ないよ、蝶番とか窓枠とか、布とか僕もやるよ?」
「なあししょー、これから木工とって俺の手伝いをしてくれる予定は?」
「んー、えへ?」
頼りにしてるねと悪戯な天使が肩を揺らす。ずっと隣にちびがいるから大丈夫。絡めとるようなその台詞に抗える者などあろう筈もない。全くとんだ小悪魔だ。
そしてその意味を正しく理解した俺には、拒否する理由すらもないのだから手に負えなかった。
だから形ばかりの溜息をつき大仰に呆れを表明してみせる。
「我儘で可愛い俺のお姫様、仰せのままに」
「うん、期待してるね、僕の騎士」
するとほら、齎されるのはそんな幸福なのだ。
くすくすと鈴を鳴らし、彼は身を乗り出して俺の髪に口付けを贈った。それだけで騎士の褒章には充分すぎた。けれど、もっと。
俺は彼の腕を掴もうとし、しかし途中で伸ばした手を遊ばせた。彼へ寄った際に見えた机上の書き物、その内容が気になったのだ。
「アルス、それ……もしかして帳簿か?」
「えっ、あ、えっと……」
ふい、と星が明後日の方向へ流れる。これはささやかな彼の足掻きだ。すでに白日の下へ晒された真実を、しかし少しでも雲で覆わんとするだけの、小さな抵抗。
如何にも気まずそうな瞳をそれでも見つめてやれば、彼は諦めたようにため息をついて花緑青を俺に向けた。
「……こんな事ならさっき寝ておけばよかったかも」
「こんな事でもなきゃ寝ないなら見にきてよかった」
捻くれた反省を呟く彼の横に立ち上から帳簿を覗き込む。几帳面に記入された綺麗な手帳は如何にも彼らしい。そこに示されているのは、明確なまでの財政難だった。
「なぁアルス。これ、気のせいじゃないなら」
「気のせいだよ」
「や、こことか」
「気のせいだよ。ほら、ちびはこういうの苦手だもんね」
完璧なまでに完成された笑みを浮かべ、彼は長く柔らかな髪を揺らす。傾げられた白い首に橙が揺らめいた。藍を溶かす花緑青は普段よりも深い色で気遣いを俺に向ける。
ついそれに吸い寄せられた瞬間に、音もなく彼の片手が手帳を閉じる――それに、気付く。
「っ、ご、誤魔化されないからな」
「んん、今日のちびは手強いね?」
途端彼が纏う濃厚な色香が霧散した。仕方ないなと呟く彼は何処か投げやりですらあった。
「ならやっぱまずいって事か」
「大丈夫だよ、僕個人の財産という意味でならね。星の揺籃としては――見ての、通りだ」
あーもう、なんで見ちゃうかな。拗ねた声が俺を詰る。その八つ当たりめいた行為はしかし可愛らしく、顔を覆った手の隙間から恨めしげな星を流される事にすら幸福を感じてしまう。だから俺は、そんなお前の事が。お前と過ごす、この日々が、こんなにも。
だから、と俺は机に手をついて俯く百合を覗き込んだ。
「一人でなんて、無茶だ。こんな夜更けに冷え切ってさ。どうするつもりだったんだよ、これ」
「暫く家から離れて、まとめて稼ごうかと思ってたんだけど――そんな顔しないでよ、大丈夫だから」
「アルスの大丈夫なんか信用できないっての。みんなのことなのにさ、一人で無理して、それで倒れて。俺はそんなの嫌だ」
夜中に一人きり。今までそうして全てを隠してきたのだろう。あるいは全てを知られていてなお、その信念を優先させてもらっていたのか。納得しているのならと、それで回せる自信があるのならと。
それはあいつのやり方だ。でも俺は、お前を犠牲にするような方法は許さない。
「見ちまったからには知らないふりなんて出来ない。ししょー、俺はどうすればいい。アルスが望む事なら、何でもする」
「なんでも、って。そんな簡単にいっちゃだめだよ、ちび」
「誰もに言うわけじゃない。アルスだから、家族だから言ってる」
「――っ、」
彼が真実を知られてなお誤魔化そうとした理由は、あまりにも分かりやすくその中身が赤字だったからに他ならない。ならばこんなもの、はじめから分け合って仕舞えばいいのだ。そもそも皆で暮らす組織――家族で、彼一人で無理をする方がおかしいのだから。
そう突きつけてやれば、彼は泣きそうな顔で俺を見た。けれどそこに言葉を重ねる前に苦情に変わってしまったから、あぁ、きっとそれは見せるつもりのない想いだったのだろう。
故に俺はそれを問い糺さない。尋ねるのならそう、現状を正す為に必要な根底の理由だ。
「そもそも、なんでこんな苦しいんだよ?」
「ん、あぁそれは……。僕はフリーカンパニーとしての活動は殆どしていなくて。家が維持できる程度、ただそれだけにしていたんだよね。個人の活動もある程度クレジットに換算されるから、今まで大して気にした事もなかったし、でも最近は」
「今まで問題なかったのが、なんで急に」
問えば、彼は再度躊躇う様子を見せた。もしや、俺たちの存在が。その思考を読んだのだろう彼が、慌てたように違うと言葉を重ねる。
しかし何が違うものか。足りない分全てが彼個人の財産で賄われている現状で、それは真実でしかない。俺はそれを見てしまったのだ。
「違うから……そうじゃ、なくて。最近実は少しずつ活動量を増やしてて、本当は、足りてて。でも、でも――僕は」
アルスがまた手帳を開き、数頁遡る。するりと伸びた指が示す数字は確かに余裕を表している。それでも生活費が彼の個人資産である事に変わりはないが、組織としての予算という意味であればそこまで切羽詰まった状況には思えない。
「これは、別で貯めてる分。こんな事してるから足りてないの。だから君たちが心配するような事は、何も。本当に何もないから」
「それでも。皆のことだろ。だったら俺も稼ぐよ。ちゃんと次から俺も呼んでくれ」
こくりと言葉もなく彼が頷いた。俺はそれで信じるほどもう無垢ではないから再度念を押す。分かったが音で返ってくるまで。
「――最後にこれだけ訊く。貯めたクレジット、何の為だ」
やがて望み通りのものを引き出すと、俺は最後の一手を彼へ突き付けた。彼が隠れて無理までしようとした、その理由。赤字を覚悟してでも限界まで組織としての貯蓄にこだわった、その理由。
いま暴いておかねば、また煙に巻かれてしまう。
すると彼は、本当に、本当に嫌そうな顔で舌打ちをした。俺の前でこういう態度を取るのは珍しい。長い指が苛立ちを誤魔化すようにペンを回す。その彼に濃い疲労の色を見て取り、俺は眉根を寄せた。また、無理をしている。嘘がつけなくなるくらいに、咄嗟の反応が隠せなくなる程に。
その俺の顔を見て何を勘違いしたのか、ごめんそうじゃなくて、なんて彼は慌てて見せるのだ。その謝罪が見当違いなものである事は確認するまでもなく分かっている。お前が理解していないって、俺は分かってんだよ。
案の定彼は上目遣いで己の非礼を詫びるのだ。
「ごめん、ごめんね。えっと、その、なるべく言いたくなかったというか。そもそもちびが興味を持つとも、中身を理解出来るとも思っていなかった僕の油断が悪いのであって、だからあの」
「アールース、それ、失礼なのは一緒じゃんか」
「えっ、あっ、そうだね? そうなんだけど、あぁもう、何で今日の君は誤魔化されてくれないの? ここまで話せばもう納得してくれると思ってたのに」
全くこちらを何だと思っているのか。昔より遥かに大人になったというのに、この人の中ではまだ出会った当初の子供が息づいているのかもしれなかった。
それの事実は机上の灯火の如く胸中を温めたけれど、いつまでもそれでは困るのだ。だって俺は騎士なのだから。
「ほんっとうに、本当に、知りたいの?」
「そりゃあ勿論。アルスの事なら何だって知りたい」
「ばか、そうじゃなくて……、知っても、静かにしていられる?」
「うん? あぁ、わかった」
「本当だね? 僕いま約束したからね?」
くどい程に念を押し、慎重なその人はため息と共にまた手帳を閉じた。それでもなお躊躇う様子に焦れて、俺は机に手をつき彼の耳元に唇を寄せる。
「ほら、教えて、俺のお姫様?」
「あぁもう、そんな風にしなくても教えてあげるから、」
意図的に出した低い声に、アルスがぴくりと震え首を振った。彼の中にある覚悟を決める前の己を振り払う様に、その差を意識させる様に振る舞う。ほら、な。みくびるなよ、俺はもう大人だ。
そう、それはもう立派な、
「あの、ね。皆で旅行に行きたいなって、思っ」
「やったぁあぁああああぁあ!」
「――っ、う、」
俺は雄叫びをあげた。それはもう立派な雄叫びをあげた。今なんて言った? 旅行。家族旅行。最高だ、えっ、最高だ。温泉か山か海か、遺跡巡りかも。え? 最高だな。
肉がうまいか魚がうまいか、果物かもしれない。全部いい。煌めく太陽、それから唯一無二の家族、俺の大切な居場所の、特別な催し。しかも、旅行だ。旅行……旅行かあ!
「旅行だあぁあぁああああ!」
「うッ、うるさい! ちび、うるさい!」
「萬里ッ、萬里ぃい! 旅行だあぁああぁあ!」
「こら馬鹿! そっちも起こしたら収拾が、」
「なに!? 旅行!? やったあぁああぁあ!」
「わぁあああい! 旅行ぉおおおお!」
「あーっもう! うるさいっ!静かにしろこの馬鹿ども!」
いやだって旅行だし。静かになどできるわけもない。旅行なのだから仕方がない。これは世の理だ。旅行だし。
俺たち馬鹿二人はまたアルスの部屋に駆け込んで跳ねた。馬鹿でいい、大人でなくてもいい。これがはしゃがずにいられるかよ!
勢いのままアルスに二人して抱きついたら、何と彼は舌打ちと共に俺たちを足蹴にするではないか。けれどささやかな力では何の効果もない。愛らしいばかりである、怖くなんかない。
だから俺は萬里と手を繋いでまた跳ねた。いくら跳ねても足りないくらいで、床もぎいぎいと歓喜を奏で俺たちを祝福した。
と、そこで。
「――静かにしろって。僕、いったよね」
かん、と鋭い高音が寒気のように部屋を切り裂いた。インクの瓶が机に叩きつけられた音だった。それには罅一つ入らなかったが、刃のような衝撃は浮かれた猫を震え上がらせるには充分すぎた。見れば、昏い星が鋭利に煌めいて俺たちを射抜いている。
「静かにしてるって。お前、僕と約束したよね」
椅子から立ち上がった家主が、組織の長が、今度は音もなく歩を進め、止まった。下から見上げる花緑青は、しかし睥睨するが如く。
「約束を守れないのなら。全部、なし」
「わぁあああごめんなさいししょー! 旅行いきたいです!」
「うわぁああ突然与えられ奪われる理不尽だー!」
「うるさいッ! 何時だと思ってるの!静かにしろって何度僕に言わせるの! もぉお、正座! そこに正座しろ!」
するりと伸びた指が木目の床を示す。硬いそこに逆らわず腰を下ろした。二人目配せし合う。ここで文句を言ったら本当に何もかもを無かった事にされてしまうのだ。その確信は経験から生ずるものであり、学習せざるを得ないほど繰り返してきたという現実でもあった。
そんな二人に対し、中心で咲く花はその毒を香らせる。ねぇ、二人とも。話す声は打って変わり穏やかで平坦だった。意図的ではないだろうそれこそが恐ろしいなんて、きっと知りもしないだろうに。
「あのね、わかる? 今は深夜なの。お前たちがそうやって大騒ぎするから僕は黙って静かに隠して支度してきたの。僕がこの時間に作業をしているのも、一人をわざと選んだのも。もう理由なんて言わなくても分かるよね。ならそれを咎めるなんてしないでしょう?」
「いやっ、でもししょー、」
「うるさい、黙れ」
「は、はい……」
柔らかく甘い声にしかし切り捨てられ、項垂れる。絨毯の切れ目、軋む冷たい床はしかし暖炉の炎で確かに温もりを宿していた。浮かせかけた腰を再度落とせば、そこはぎいと俺の代わりに文句を喚いた。やはり油を差す必要があるだろう。
それが彼の眠りを妨げぬ様に、その小さな悲鳴を彼が上げぬ様に。俺の思考はすぐ脇道に逸れ愛しい花の事ばかりを考える。結局のところ此処にあるのは愛なのだ。
それは冬の渇きを潤す油の様に、或いは寒夜を温める種火の様に。
きっと彼はもうその悲鳴を耐えることができないだろう。その罅割れそうな心に、しかしそうさせぬ為に、家族は存在する。
そう、家族という宝物を誰よりも大切にしているのは、本当は。
花の守人達は知っていた。彼の怒りは、その虚勢は長く続かない。大きな感情のうねりがそのまま押し殺してきた不安を示す事など、とうに――はじめから、分かっていたのだ。
飲み込んだ言葉、言えなかった言葉。口を噤む俺たちに代わり、その人の秘密が音を立てて溢れ出す。
「お前たちが好きな事、したい事は僕だって分かっているつもりで、組織の主として何かをしてあげたい気持ちもあった。でも言ったらそれで最後、毎日その話ばかりになる程楽しみにするんだって、それも分かってた。そうなったらきっと、二人ともたくさん努力してくれるって分かってる。僕の事を助けてくれて、そうしたら一人で無理なんてしなくてもよくて――けれど、いつ行けるかはまだ見通しが立っていないし、過度に期待させるのも悪いなとか、僕はこれでも色々考えたのに、あぁもう、それで結局こうなるんでしょ。そもそも僕が星の揺籃としての形に拘ったのは、僕らが個人で動くと簡単に解れてしまうからだ。行く先々で世界線は交わり、また別れ、物語は思わぬところで加速する。それを少しでも枠に押し込めて動こうっていうのは、僕の、我儘で。助けてもらうような事じゃなかった。頼るような事でもなかった。ある日ふと目の前にその選択を差し出すような、そんな程度の事でしかなかった。皆で何処かに行きたいっていう事自体も、君達と離れず遊びに行きたいっていう、僕の独りよがりな、だから……本当に、君たちに甘える気なんて、なかったのに」
それはまるで、月のない夜の様に。
最後、彼の声は頼りなく揺れていた。その様は机上に灯る炎と何処か似ている。花緑青は橙を宿し、藍を溶かして夜に滲んでいた。
星が物語を止め、故に聴き手も暫し沈黙を守った。冷たい床も鳴りを顰め、代わりに暖炉がぱきりと優しく歌を奏でた。
本当に、仕方のない。それはきっと俺たちも、けれどきっと何より彼のその在り方が。
「ばかだなぁ」
萬里が言った。向けられた相手は肩を震えさせ視線を彷徨わせる。ばかだなぁ、本当に。そこに込められた意味が分からないお前じゃないだろうに。
聡いその人はしかしそんな所ばかりに自信がなく、俺たちは代わりの様にからからと笑った。ほら、大丈夫だろう。伝わるよう分かりやすく冬を照らす。
立ち上がり、彼の背に手を添えた。彼は何も言わなかった。ただ所在なさげに曝け出された真実の前で星を滲ませていただけだった。
ならばその流星が零れ落ちる前に横から奪って仕舞えばいい。
「何度でも言うけどさぁ。お前のおねだりを俺が断ったことってあった?」
「俺も何度だって言う。ししょー、俺はどうすればいい。アルスが望む事なら、何でもする」
二つの太陽。だから、ほら。
差し伸べられた手に、彼はへにゃりと笑って見せた。下手くそな微笑みはしかしひどく美しく、瞳は暗い夜に一等輝く星だった。
ばかだなあと彼が言った。それは誰へ宛てた言葉でもなく、しかし誰もに当て嵌まる事実であり、ただ柔らかく橙に揺れた。あたたかな光が闇に滲む。
「――朔、ていうんだって」
穏やかな声でぽつりと告げられたのは、始めと同じ台詞だった。それは何処か張り詰めた玲瓏さを置き去りにして、照れたように睫毛を震わせ慈愛を孕んでいた。
「その強い光で、月が見えなくなってしまうくらいに。どんな闇の中でも、二人は僕を照らしてくれるんだものね」
ふわり。百合が咲く。俺たちはその花を摘む。けれどそう、それ故に。
星が夜を照らすなら、太陽はその星をあたためよう。彼が暗い夜空に一人きりの時でさえ歩き続けられるように。
「そりゃ、家族だからな」
「んまぁー、家族旅行だし?」
暖炉の向かい、柔らかな絨毯へ並んで座れば、彼は肩掛けで全員を包み込んだ。少し足りない丈は必然的に家族を中央に寄せ、その場所で美しく星が煌めいていた。
囁きが冬に積もる。明日は何をしようか。クルザスまで林檎を摘みに行くから、パイを焼いて欲しい。降る白を数えて春を待ち、桜の花弁を追いかけよう。青々と繁る葉が桃色を塗り替え夏が来たら、いよいよ皆で旅行に繰り出すのだ。そうしたら、その先で。
身を寄せて語る言葉は幼子の内緒話の様に。
「そっか、そうだよね。楽しい事なんだよね――皆で準備したなら、それはきっと、もっと、とても」
やがて彼はうんとひとつ頷いた。甘やかに溶けた砂糖菓子。
そう、そうだよ、俺の家族。俺たちの家族。降り積もるもの、過ぎゆく季節、迎える明日。その全てに道行が在る事、その幸福をもう知ってしまった。お前だけでなどあるものか。
だからそう、願わくばいつまでも。夢よどうか醒めないで。
「ふふっ、折角二人がそのつもりになってくれたのなら、仕事の割り振りをしないとね」
くすくすと溢すものは悪戯な色に変わり、夜が更けていく。
密やかに、静謐に、それでいて柔らかに。
机上ではランプの橙が揺れていた。三つ束ねた炎が暖炉に灯る。冬の夜に星と太陽が確かに浮かび、月は静かに目を瞑るのだ。
雪深い石造りの家の奥、木の温もりに満ちたそこは楽園である。現実に在って見る夢を部屋の中へ幾つも描いた。深い朔の夜、橙の滲む藍が硝子より差す紫に染め替えられる、その時まで。





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[mokuji]











 


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