物語よりも鮮烈な
ここはウルダハ、物も人も流動する街である。 その活気ある街の裏通り、いつくか並ぶ店のうちの一つ。さして有名でもないそのバーにて男は酒を飲んでいた。 隣にはひと席空けて、今宵限りの晩酌相手が悪戯に微笑んでいる。その手元に煌めく繊細な化粧箱。百合のように白く華奢な首を傾げれば、その艶やかさが香り立つ。しなやかに長い指をグラスに絡め、星のような花緑青の瞳を瞬かせる者。 「ふふ、随分と変わった体験をしたんだね、君は?」 擽るように笑うその声は高く柔らかい。肩にかかりそうな髪は、毛先が瞳と同じ色をしている。他は細身のスーツも含めて黒。闇の中に浮かび上がる夜空のようだ。 そんな様子であるから、女性だと思い声をかけたのだ。寂しい夜を共にする相手を求めて、不埒な思惑を隠しもせず近付いた。 まあ彼は――そう、彼だ。彼は男性であったのだが、今となってはもうそれでよい。名も知らぬ彼はあまりに話し相手に丁度よく、何よりとびきりの美人だった。愛でる花が可憐であるに越した事はないのである。 故にこそ、提供する話題も特別でなければならない。 「あぁ、そうだとも。他にはそうだな、こんなとっておきの噂はどうだ。そう、かの高名な英雄殿の話さ。俺は流石に顔を知らないが、どうやら英雄殿っていうのはどえらい甘党で、そのためなら何でもする奴らしい。ある時英雄殿は、幻の砂糖を求めクガネの座敷へ単身乗り込んだ。その座敷でオダイカンサマと勝負をし、最後まで勝ち残ったものに賞品の砂糖が与えられる。英雄殿は野球拳を勝ち上がり、最後はその鍛え上げられた肉体に優勝の証である砂糖をまぶし――」 「ねぇ、まって。なにそれ。どこから出た情報なの」 「やっぱり気になるか? 情報屋はウルダハ随一の凄腕さ」 「へぇ。それで、その名前は」 「ペベル・ベル」 「よかった、僕は知り合いの喉を締め上げなくて済んだみたいだ」 瞳を冷ややかに光らせて話の腰を折ったその美人は、名前を聞くや否やその光景が幻であったかの様にまた空気を和らげた。一瞬の刺す様な気配もきっと気のせいだ。そうに違いない。 それから彼は白ワインのグラスを傾けた――あ、これ、この店で一番高い酒だ。値段も、度数も。 そんな酒を飲み干して、マスターへちらりと視線をやるから呆れてしまう。当たり前のように出てきたグラスには同じ酒が注がれていて、その金額に眩暈がした。 「他には何か面白い話ないの?」 こくり。小さな唇を淵に添えて離し、一言。そんなおねだりをされてしまったらもう腕の見せ所である。 男もまた追加でグラスを注文した。中身はなんて事のない安酒だったが、それはそれ、これはこれ。要するに気持ちの問題というやつだ。 「よし。それじゃあまた英雄殿の話でもしよう」 「えぇ、他にはないの? それはさっきも聞いたよ」 「焦るなよ美人、これはさっきとは違う話さ」 「何その二人称……」 呼ばれた美人は訝しげな顔をこちらへ向け、それからくすくすと笑った。それは明らかに自分が美しいと知っている人間の仕草だった。全くもって彼は蠱惑的な花であった。 「そう、これはイシュガルドで仕入れた話だ。何でも英雄殿はカレイドスコープみたいな奴らしい。しってるか? きらきらと色鮮やかに光る宝石箱みたいなモンらしいんだが。俺みたいな庶民じゃお目にかからん様な代物さ」 あぁ、と美人は頷いた。彼の顔には納得の色が浮かんでいる。 「ん、あの話ね。それなら僕も詳しいから、ね、別の話にしよう?」 「なんだ、やけに他にこだわるじゃないか」 「だって、何だか居た堪れないんだもの……」 酒と、おそらくは羞恥で彼の顔は赤く染まっていた。何が恥ずかしいのかは分からないが、きっと彼はそこまで酒に強くない。このグラスを何杯も傾けられる様な体質でないことは分かった。 しかしまあ、景色の素晴らしさに比例し男は大層機嫌がよかったのだ。ここで引く様な人間がウルダハで生きていける訳がない。 つまり男はしたい様にするし、今日はとても英雄殿の話をしたい気分だ。目の前の花の反応も、そう、悪くはない。 「でだ。カレイドスコープってことは、光るって事だ」 「……ん?」 「英雄殿は、光るらしい。七色に」 「っふは、」 そこで彼は小さく咽て咳き込んだ。それに端を発し嫌に重い咳が続く。彼は口元を抑え、懐から取り出した小瓶と錠剤を煽った。ぱりんと砕け散る頃に彼の病的な咳は止まったが、代わりにどうにも笑いが止まらなくなってしまった様である。 「ふふっ、ん、あはっ! え? 光るの?」 「ああ。発光するんだ、七色に」 「それはっ、その、お、面白いね? もうそれ灯台とか要らないんじゃない?」 「そういう話もある」 「ッあ、あるん、だ。それでいいんだ? ふふっ、あぁもう、そんな真面目な顔で、あはっ、無理」 彼はもう一度無理と繰り返しカウンターに突っ伏した。静かに肩が震えている。とっておきの話の何がそんなに笑えたのかはさておき、喜んでもらえた様で何よりだった。 やがて彼は腕から少し顔を上げ、男を見上げた。 「ね、ここまで来たらもう全部聞きたい。たくさん、僕に話を聞かせて?」 そんな台詞と共に上目遣いで見られたら。もう返せる言葉は一つしかないじゃないか。 もちろん喜んで。そうして夜は更けてゆき――。
それから暫く経ち、無粋な乱入者は突然に現れた。 がたり。剣呑な音がした。それは賑わいながらも静けさを保つ店内には到底ふさわしくない雑音だった。酔っ払いの喧嘩にしては大きな悲鳴が上がり、周囲が俄かに慌て出した。 途端。崩れた頬杖をついていた目の前の美人から蕩けた色が掻き消える。彼は剣呑に花緑青を煌めかせた。微塵も動かぬまま、冷ややかな星が視線だけ入口へ向く。 そして彼はそのままグラスを傾けた。度数も値段も高い酒が彼の細い喉へ滑り落ちてゆく。 「な、なぁ。逃げたりしなくていいのか。俺は昔ならコロシアムに出た事もあったが、今は膝を痛めちまって。守ってやれないぞ」 「ん、あぁ。いいよ、大丈夫」 「大丈夫って、何かアテでも?」 「うーんとね、それはないよ。僕は彫金師で、ナナ――女王陛下の所へその件で謁見に来ただけだもの」 彼のその返事はあまりにも堂々としていた。そしてそれは朗々と狭いバーの中に通った。宣う声は今日聞いた中で一番芯があり、聴かせるために放ったものだとすら思えた。丸腰であるという、ひどく都合の悪い内容を。 そんな不用心な彼の手元で、一生かかっても買えないであろう宝石の散りばめられた小箱が煌めいている。いかにも高価なものをこれ見よがしに机上へ置いて、彼は。 「ほんとーに、美味しいね。ワインといえばエールポートなんだけど、この白とっても好き。ウルダハのお酒もいいねぇ」 ふわふわと笑んでマスターに話しかける始末だった。勿体無いからぎりぎりまで飲む、と彼はグラスをまた揺らした。艶やかに、しかし無垢に。幼子の内緒話の様に彼は咲く。 或いはそう、嫌に余裕なその様子は、いっそ空気が読めない阿呆な客の様ですらあった――しかしその瞳だけは冷ややかなままである事を、背後から迫るものは知らぬだろう。 マスターはそんな彼に一つ肩をすくめて見せた。飲みすぎないでくださいよ。そう言いながらグラスを磨くばかりである。何なんだ彼らは。店の心配をしなくてもいいのか。 一人やきもきする間に、賊は一直線にこちらへ向かってきた。まあそうだろう。戦う術のない王宮御用達彫金師なんて、鍵のかからぬ金庫のようなものじゃないか。 「おい、そこの!」 先頭の賊が短刀を彼の後ろから突きつけても、彼は振り向きもしないでグラスを傾けていた。そこの、から続かないのは単純に彼の性別を判断できなかったのだろう。 そんな美人は相変わらずの空気の読めなさで、なぁにと返事をし漸く賊へ向き直った。 「こんな夜更けにどうしたの、君たちは」 「どうしたもこうしたもない。お前、王宮御用達の職人だな。その作品を大人しく寄越せば、命までは獲らないでやる」 「そんなにこれが欲しいの? もしかして、僕の知り合いが何人か同じような被害に遭っているんだけど、君たちなのかな。そうだったらどうしよう……僕戦えないのに。皆みたいに怪我したくないし、もしそうなら、これを渡すしかないのかなぁ……」 途端彼は儚げに俯き、マスターは吹き出した。俯く彼の声音は真に迫っていたが、あまりにも晩餐時と態度が違いすぎる。つまりそう、やけに芝居くさいのだ。この時間の彼しか知らぬ賊はそのあまりの美しさに騙されるであろうが、ある程度共に過ごしたこちらはそうもいかない。 なにせ彼はかすみ草などとんでもない、香り高く毒を撒く百合である。 しかし結局のところ、だから何だという話だった。彼が彫金師である事に変わりはなく、状況は依然として悪いままだ。最悪はこの痛む膝に物を言わさねばならないだろう。 賊はこちらの算段など知らぬまま、にたりと下卑た笑みを彼へ向けた。そして。 「あぁそうだ。俺たちが巷を騒がす金翼の帳さ。分かったら大人しく――」 「――そう。それはいい事を教えてくれてありがとう、指名手配中の盗賊団さん?」 そして、それが彼らに許された最後の見せ場だったのだ。 「こんなつまらない芝居につられてくれるなんて。君たちって随分と優しいんだね」 星の瞳の青年は椅子から身軽に飛び降り、柔らかく着地した。告げる声は平坦で、しかし明確な圧を以て場を制す。同時に彼の纏う黒いスーツが白いコートへ変化した。ちゃきりと音を立てて構えたそれは、天球儀だ。 「職人じゃなかったのか!? 何故武器を!」 「ん、僕はちゃんと彫金師だよ? しかも王宮御用達だから安心して欲しいな。ただそう、それは副業ってだけで、ね」 賊の頭が舌打ちと共に襲うよう指示をした。それからはあっという間だった。駆け寄る一団の足元へ彼が指先を向けると、即時着弾したコンバガが木目の床に穴を穿った。前後で悲鳴が上がる。 その威力に慄いた数名が後ろへ駆け出そうとしたところ、指先が今度は上を向き、直撃を受けたシャンデリアが落下して退路を塞いだ。また前後で悲鳴が上がった。 再度振り向く頃には詠唱が完了していて、全ての賊が一纏めに重力に絡め取られ膝をついていた。見事としか言いようのない業である。 彼は軽々と賊に手刀を落とし沈めると、頭だけ残したところでリンクパールを呼び出した。すぐ人が来るからねと微笑んだその表情は鮮やかで、艶やかですらあった。 なぜだ、と賊が叫ぶ。一体この余裕は何故なのか。これはこちらも知りたい事で、店中の視線が彼へと集まっていた。 「えっと……。ここ最近、ウルダハでは王宮御用達職人を狙った犯罪が相次いでいてね。まずは謁見し、そこから跡をつけられて、夜間酒が入ったあたりで襲われる、という流れだ。うん、狙いはいいよね。大きな依頼を受けたり納品をしたりした後は大体懐が潤っているもので、その夜は遊びに歩く人も多いんじゃないかな。今日もその例に漏れず君たちはここへ現れた」 まあ僕はあいにく全てを知っていたのだけれど、と彼は悪戯に片目を瞑ってみせる。 「僕はナナモから囮捜査を依頼されて、君たちの存在を知った上でここで待ち構えていたという事になる。場所も最初からここが指定されていたからマスターにも協力してもらって、ふふっ、お酒もつけてくれるんだもの、嬉しくなっちゃうよね。でも、君たちにとっては今日が運の尽きだったようだ。君たちは自ら盗賊団と僕に名乗ったし、今までの事件が君たちの手による物だと認めすらしたんだもの。それを以て僕は君たちの有罪を宣言できるし、今回僕にはその権限も与えられているんだから」 残念だったね。頬を桜色に染め、花緑青の瞳を鋭利に煌めかせ、彼は話を締め括った。もう一度リンクパールが鳴り、彼が小さく頷き、そして。 直後兵がバーの扉を開け放ち、未だ何か言いたそうな賊を連れて行ってしまった。如何にも偉そうな制服を纏った兵長が、彼に丁重な礼をとって扉を閉めた。するとそこには壊れた床と割れたシャンデリア、呆気に取られる客だけが残されたのである。 嵐が去った後の何とやら。それは突然始まり、突然終わった寸劇だった。喜劇と称するに相応しいとさえ思えた。 しかし結末に項垂れるものが一人。そう、制圧中悲鳴を上げ続けていたオーナーである。 オーナーは床へしゃがみ、破壊を行った犯人へ恨みを述べた。 「あー、俺のシャンデリアが……」 「それは、ほら、僕がここにあうものを用意するから。ねっ、ゆるして?」 「アルス・セルティス銘入り」 「えっと?」 「アルス・セルティス銘入り」 「えっと、うん、わかった。わかったから、ねっ?」 「ちゃんと作ってくださいよ、頼みましたからね……」 それで人呼んで名店になってやるんだ、と膝を抱えてオーナーが呪いのように呟いた。銘で客を呼べる程の職人の作品を調達出来るとは、やはり彼は只者ではなさそうである。 困ったように微笑む彼へ、オーナーは追加で床を示す。 「あとこれも塞いでくださいよ」 「それは僕の家族が木工出来るから、後日連れてくるよ」 「明日」 「うー、えっと……」 「明日ですからね。頼みますよ」 「んぅ……わかった、今日帰ったらお願いしておくからっ! 」 そこまで決めて漸くオーナーが笑った。圧に押し負けた彼は、これ僕今日寝れないやつ、と頭を抱えている。 ならばと席を立ち隣へ歩いていく。立ち上がった状態で並んでみれば、彼は随分と小さかった。とても戦う者には見えない。けれど先程の彼は間違いなく戦士であったのだ。 であれば、だからこそ。 「それなら直接攻撃すればよかったんじゃないか?」 「え、殺しちゃったら尋問できないでしょ?」 程よく恐怖感を与えてから動きだけ止めないとね。 呈した疑問に対し彼が寄越した答えはこれである。物騒な台詞は至極当然といった様子で提示され、出来る事といえば呆れて見せるくらいなものだった。 その時、もう一度店の重い扉が開いた。 「うわー。なにこれ、おもしろ」 面白くなどあるものかとオーナーは思ったに違いない。そんな台詞を放って現れたのは、金の瞳を持つ男性だった。彼はひょいひょいと身軽に残骸を跳び越え、こちらへ向かってくる。 止まったのはちょうど美しい青年の真横でだった。 「なーに、アルス。随分と暴れたじゃん?」 「……萬里。僕は暴れてなんかない。ちょっと壊しちゃったけど」 百合の香りの彼――アルスは、現れた男の名を呼びばつが悪そうに視線を逸らした。拗ねた様子と先程の冷ややかな立ち姿は、差が激しくすぐには結びつかない。 「人体じゃなきゃ壊していいとか思ってない?」 「べつに、そんな事。あ、萬里あのね、照明の取付金具だけ大きいから作って。ほら、天井にちょっと残ってるでしょ。あれ」 「お前そういうところー」 「作ったら運ぶのも手伝って。ちびも呼ぶから一緒に」 「ほんと聞いちゃいないのなー」 ね、お願い。そうアルスは萬里と呼ばれた青年の服の袖を引いて首を傾げた。あまりにもひどい。これを断れるような人間がいるなら今すぐ紹介してほしい、そんな光景である。 案の定、金の瞳の青年――萬里はただ肩を竦めた。それは了承に他ならない。或いはそう、彼はその可愛らしくも横暴なおねだりを断らない種類の人間であるのかもしれなかった。だからきっとアルスも甘やかに笑っているのだろう。 そのアルスはくすくすと上機嫌に萬里の腕をとって金を見上げる。そんなに楽しかったのと問われ、うんと花が綻ぶ様に肯定しグラスを指さすのだ。 「白ワインがね、とっても美味しくて。ね、ボトルで買って帰ろう? 魚介料理と合わせたらいいと思う。ちびもきっと喜ぶから、いいでしょう?」 「おちびさんが酒飲んでる印象、あんまないんだけど。アルスが気に入っただけじゃん?」 「ん。実はそーなの。僕これ、家でも飲みたいの。ね、いいでしょ」 いいって言え。そう腕を引く様には制圧した時の覇気など微塵もない。拗ねた色を瞳に浮かべて甘えるばかりだ。 「何があうかな、ねえ萬里、この間釣ってきてくれたのは何だったっけ。それによって作るもの変えようかな。うん、トマトはまだ残ってたから、」 「それなら今日おやつに食べたなー」 「はぁ? なんでおやつにトマト食べてるの? バカなの? お前の為にクッキー焼いといてあげたじゃん。馬鹿なの?」 「それも食べた。おちびさんに半分取られた……」 「もとから半分こって、僕言ったよね?」 今や、彼がぷりぷりと怒る様は我儘で可愛らしいお姫様と相違なかった。花緑青と目が合う。途端彼は思い出したように軽く両手を合わせた。黒い革手袋がぱふりと柔らかな音を立て、この人がねとまた鈴の音を鳴らす。 囀る声音はふわふわと浮いて綿菓子のように甘い。 しかしその内容といえば。 「ねぇあのね。きいて、僕ってね、七色に光るんだって」 「は?」 「発光するんだって。あはっ、ねぇ、灯台要らないんだって! もぉ、ふふっ、無理があるでしょ」 彼が語り出したのは、先程聞かせたとっておきの話の要約だった。英雄殿の話であったはずのそれは一人称に置き換えられ、可笑しくて堪らないといった様子で伝えられる。 「それからねぇ、砂糖が好きで身体にまぶしてるんだって。血液を飲むと寿命が三年も伸びるらしいよ。そんなの、僕が分けて欲しいくらいなんだけど!」 「それはお前さあ、シャレにならないからやめとけ?」 「あとね、料理がすっごい上手で」 「それはまあ、そうなんじゃん?」 「フルコースを三分で仕上げるらしいよ」 「いや、はっや」 「憎しみから九百も人参を乱獲して、絶滅を狙った事があるらしい。その理屈で行くなら他にもあと何種類か憎んでいる野菜があることになるね? えっとそれとね、カーラインカフェのテーブルを鮮血で赤く染めた」 「それはアルスが血を吐いたせいだなー? なんでさっきから所々に事実が混ざってんの?」 「それは別によくない? 誰が聞いても荒唐無稽な話が事実かのように拡散されている方が僕は問題だと思うけど」 徐々に雲行きが怪しくなり始め、思わず目を瞬く。彼は酒のせいか何処か舌足らずな喋りのまま、明確に話の中身を事実とそれ以外とで区別しているのだ。その根拠が酔っぱらいの妄言でない事は即座に反応を返す片割れが物語っている。 つまりそれはどういう事だ。答えに行き着きかけ、しかしそこで語り手が頬を染め笑い出してしまう。 「あと、足からエーテルを噴射して単身生身で宇宙まで行ったらしいんだけど、流石にそれが出来たらあらゆる努力が、ふふっ、なくて済んだっていうか、あはっ、ねぇ、そこまで出来たら僕もう寿命とかいう話じゃ、ふ、ふふっ、あはっ! だめ、笑いとまんな……ッ、ごほっ、けほっ、はぁ……無理」 「あー、お前さあ、実はかなり酔ってんね?」 萬里がマスターへ酒の度数を尋ね、その返答に深く溜息をついた。それは華奢なグラスに二杯という可愛らしい量ではあったが、金額も度数もえげつないというのは述べた通りである。 窘める空気を感じ取ったのであろう渦中の人がぷいと視線を逸らした。しかし彼のそれが虚勢であることを、即時皆が知ることになるのだ。 「僕は、おさけによわくなんか、ない、もん」 「お前の身体は、指摘されてやっと自覚したみたいだけどー?」 「――ぁ、れ?」 かくりとアルスの膝から力が抜ける。後ろに傾いだ華奢な肢体を萬里の腕が支えた。もう片腕が膝の後ろへまわり、慣れた様子で抱き上げる。 されるがままの花緑青はあっという間にどろりと蕩け、美しくグラスに絡んでいた指は萬里の服を縋る様に握るばかりだった。 「ほーらね。それじゃ帰りますよ、お姫サマー」 「かえる、の? ボトルは?」 「買いませーん。外でそんなになるなら無し」 「お前が来るまでは平気だった」 「まあそりゃね、その切り替えは凄いと思うよ? アルスの身体でこんなの飲んで、糸が切れるまで平然としてたっていうのは。それは俺も評価するっていうか、まーなんて矜持の高い偏屈」 「ん、それ悪口でしょ、お前が言ってるの。もお、ハンバーグ作ってあげない」 「おっ、やるかー? ならもう迎えに来てあげないよー」 「やだ……」 「じゃあもう寝ろー、明日寝込むつもり?」 萬里がアルスの目元に手のひらを当て、離す。それと同時に服に縋っていた細い腕が力無く垂れ下がった。現れた花緑青は、しかし瞼の向こうに消えていた。長い睫毛が下向きに性別の分からぬ顔を飾っている。精巧な人形の様に彼はそこで眠っていた。 頭を撫でる萬里の手が仄かにエーテルの光を灯し、じんわりと腕の中の宝物を温める。 それは手品か、或いは魔法か。 そこに佇む金の瞳王子様は、しかしひらひらと軽薄な調子で片手を振った。ポケットからコインを取り出し机上へ置く。それは充分な額で、その腕で護るお姫様が飲んだ高い酒の分を引いてなお余ると思われた。とても尻で踏む金額ではない。 「それ、担保ってことでー。好きにしていーよ。明日は来れない。この様子じゃこいつ、多分使い物にならないから。製作期間で一日は貰うとして、ま、来れるのは明後日じゃん?」 だからそれがその分、後は女王陛下が担保するってさ。そう彼は言い置いて歩き始めた。来た時と同様にひょいひょい瓦礫の山を飛び越える。眠り姫は目覚めない。 萬里は重い扉を背中で押して、その為にもう一度こちらを振り向いた。すると思い出したかのように金を瞬き、にやりと笑う。 「ウチのえーゆーサマが、どうもお世話になりましてー」 そして開く扉、閉まる扉。 とんでもない台詞を一つ残し今宵の嵐は完全に去っていった。 ごく自然に、純然たる事実として、鮮烈なまでの業と存在でその真実を証明しながら。 「――……は?」 つい口からそんな間抜けな音が出た。隣で見送るしかなかったマスターがこちらを見る。そして頷いた。肯定の動作だ。 あの美しい人が、英雄の話に恥じらったのも、そのくせ妙に詳しかったのも、やたらと笑っていた事も、それから最後一人称に置き換わっていた事も。 「英雄、アルス・セルティス……」 つまりは、そういう事だったと。そんな単純な話だったのだ。そしてそれは、星の彫金師と呼ばれる職人の名でもあるという。 途方に暮れて噂話を思い返した。どれも物語のようなそれらは、現実の彼とは大きく異なっている。 実際のアルスは人形の様に美しく華奢で、柔らかな空気と怜悧な星の瞳を持つ。それは時に悪戯に煌めき、時に苛烈に輝き人を翻弄する。凛と咲く百合の花。 しかし彼も、親しい人の前では少女の様にくすくすと甘えるばかりで、そこがまた毒の様に周囲を惹きつけるのだろう。 あぁ本当に、彼が笑う訳だ。英雄を知らぬ者の間で彼は厳つい冒険者の風貌に置き換えられ、その印象に合わせて噂も改変を繰り返されていたに違いなかった。 その裏で主人公は密やかに微笑む。時にふらりと民草の前に現れては、嘘よりも虚構めいた詩を紡いでゆく。そしてまた一つ噂話が生まれるのだ。 いいや、その存在は物語よりも鮮烈な――。
星の瞬く夜、どの宝石より鮮やかに英雄は煌めき、やがて。 とある軌道に乗り始めたバーには有名職人の作品が飾られ、奥のカウンターでは噂話に興が乗る。 ドマの童謡、ラザハンの儲け話、それより今日はとっておきの。
「今宵はそうだな、英雄殿の物語を一つ、教えようじゃないか」
[ 32/118 ] [mokuji]
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