花盗人と銀の鍵
「――は、えっ?」 思わずそんな声が出た。師匠であるアルスが手袋を取り払った、その瞬間に。 「ん、ちび、どうかした?」 「いや、どうかって、どうかしただろこれは」 常にはめている黒い薄手の革手袋、それが外される所を初めて見た。するりと出て来た手は白く、細くて、とても最前線に出る英雄のものとは思えない。 いや、そうじゃなくて。 その美しい左手の、薬指に。 「ゆ、ゆ、ゆびわ」 儚げな煌めきを放つ、小さなダイヤが散りばめられた華奢な指輪が。 「え? あぁそうだね?」 言ってなかったっけ。何でもなさそうに首を傾げる彼のきょとんとした表情が。 何でもない一日だった。いつも通り修行をして、それで、強くなったら告白しようだなんて今日も、きっと明日も、なのに。 ――まさか、一人の恋心を粉々に打ち砕いただなんて、お前は知らないんだろうけどさ! そう、つまり、初恋の人は既婚者であったのである。
アルスの弟子である俺がその想いを自覚したのは、彼の看病をしていた時だった。 その日も相変わらず逃げ回り、追いかけて来たアルスを川へ引き摺り込んだ。彼の調子はその時点で本当はあまり良くなかったのだろう。その小さな悪戯と引き換えに、高熱に浮かされたアルスは血を吐いて苦しむ事になったのである。 体が弱いだなんて知らなくて――いいや、多分知ろうと思えば知れるだけの余地はあった。甘えていたのだ、単純に。 彼が常時煽る小瓶、その中身がエーテルである事はもう知っている。意識のない彼にエーテルを奪われたあの時には、その事実すらまだ曖昧だった。しかし付き合いが深くなる程観察の機会が増え、その内に彼の肉体が何かしらの異常を抱えている事は察せられた。本来の体の弱さと、それからきっと、エーテルに関わる何かだろうと。 そう、その時に。その時にこの想いを知ってしまったのだ。見て見ぬふりをして来た想いだった。その蓋をこじ開けてしまった――こじ開けられてしまった。だって、アルスがあんまりに綺麗だったから。 柔らかな唇につい吸い寄せられて、それから、それから――。 いつか強くなったら。この人を護れるようになったら。そうしたら告白しようって。そう思って。 「――ごめん。ごめんね」 俺があまりにも取り繕えなかったから、何もかもを察してしまったのだろう。呆然とする俺の前でアルスは困ったように笑っていた。それは泣き顔とそっくりだった。 「僕は……君の気持ちに応えられない。ごめん、ごめんね、ちび」 告白する前に終わってしまった恋の、最後の頁を飾るに相応しい、美しい顔だった。下がった眉の描く線が、零れ落ちそうに煌めく水を湛えた瞳が、その全てが――。 俺のものでは、ないのか。 ずっと追いかけてきた背中は、独り占めしたくて堪らなかった瞳は、もう既に他の誰かのものだったのだ。きっと可愛いお嫁さんがいて、それで、あぁそんなの俺が敵うわけねえじゃん。 「――でも。俺、諦めない」 ぽろ、とその言葉が口から飛び出した。自分でも驚いたそれは単純な欲で、純粋な想いだった。 他人のモンだったら手を出しちゃいけない? は、そんなのどうだっていい。 ああそうだ、何でそれでこんな宝物を手放さなくてはいけないんだ。星に向かって手を伸ばす事の一体何が悪いという。 「ちび、だって、あの」 「だって、でも。そんなの知らない」 「君の事は大切だけど、でもっ――ん、」 教え込まれた戦法で、鍛え上げた肉体で、彼の細い腕を掴み上げる。アルスは少し顔を顰めたけれど振り解かない。 あぁ、そういうところだよ、お前。 明確に拒絶されればまだ諦めがついた。なのにアルスはそうしない。そうできない。俺の事が大切だからだ。少なくとも泣いて助けに来るくらいには。でもそれは恋じゃないらしい。そんなのアリかよ。 「そんなの、俺の気持ちには、関係ない」 「ねえっ、ちび落ち着いて、ちび……っむ、んん!」 尚も言い募るその麗しの唇に、獣の勢いで喰らい付いた。あの日、自覚してしまった日の躊躇いなんてもう微塵もない。突然突きつけられた事実が全て吹き飛ばしてしまったから。 「っあ、ふ……ッ、んん、む……!」 ただ、甘い。繊細な砂糖細工を牙で崩していく。なぁアルス、お前ほんとうに、俺に甘いんだよ。 すべて、全てが。 倫理とか、法とか。そんなものはどうだっていい。その瞬間確実にそう思った俺を、俺は否定しない。俺を堕としたのはこの星だ。お前を想うあまり俺は、お前が応えないのなら俺は。 襲いくる衝動そのままに、俺はひたすらに師匠の唇を味わった。危ない薬か何かのように、脳髄から溶けそうだ。実際に蕩けてしまったのはアルスの方だったけれど。 「ぁっ、あ……、はぅ、ん……っ」 満足する頃には、彼は自宅門扉横の街灯に背中を預け、ずるずるとへたり込んでしまっていた。真っ赤な顔、生理的な涙で潤む瞳。ほんっと、可愛い。 けれども、こんな状態で女性を抱けるとは思えない。 追いかけるように口付けていたものをやっと辞めると、はふ、と彼が息を吐いた。伸びる銀糸があまりにも愛おしい。 だから。 「――あわせろ」 「ん、はぁっは……、え?」 甘く上擦った声のままアルスが首を傾げた。そんな彼の横に上から手をついて閉じ込める。 「あわせろ、そいつに。見極めるから」 「ん、それは……っ、いいよ。お眼鏡に叶うとは思わないけどね」 アルスが呼吸を整えながら答えた。余りにもあっけない。なんだその評価は。そんなのと結婚するなら俺としろよ。その台詞を飲み込んで見下ろす。 彼は拘束されているような様子を気にもしないで耳元のリンクパールに手を当てた。それから僅かもせずに。 「――萬里?」 囀る名前。ばんり、と胸の中で繰り返す。その場所がじわりと焦げ付くような感覚が煩わしい。 「お前、ちょっと表出ろ」 しかし愛しの師匠から出た台詞がこれである。アルスの口からここまでぞんざいな言葉を聞く日が来ようとは。 俺は流石に怪訝に思い眉を顰めた。そんな誘い方があるか? 結婚した相手だぞ。一体相手はどんな奴なんだよ。 その疑問に答えたのは、直後開いた玄関ドアから出てきた者だった。 「なに? ――って、はは。なんか面白い事してんじゃん。俺も混ぜてよ」 どこか軽薄なその声音。紛れもなく男性のもので――ああ。 最悪だ、同じサンシーカーの男じゃん。 そいつを見て俺はつい顔を歪めた。あのさあ、せめて可愛い嫁を出してくれ。アルスの方がその立場か。成程抱かれる側ね、という仕様もない感想が、悔しさと共に浮かんだ。きっと日頃から――だからあんなにキスで砕けてしまうのだろう。こいつが仕込んだのか、それとも。くそ、腹が立つ。 「……お前、ししょーの、何」 「えー、旦那らしいよ? 一応」 なんだよ一応ってふざけるなよ。俺は全力で睨みつけた。そいつはアルスよりも少し背が高く体格が良かった。ムカつくが顔もよかった、声もいい。しかし軽薄である。 一方のアルスは俺に閉じ込められたまま、困ったように黙っていた。萬里という名の敵がそんな彼のところまで歩いてきて、俺の腕の隙間から手を差し伸べる。 「ほら立ちな。んな所でいつまでも座ってたら、まーた風邪引くじゃん」 「ん、ありがと……でもべつに、これくらいで崩れたりなんか」 それはあまりにも呆気なく。 萬里の手にアルスが奪われ、俺は思わずその人を視線で追いかけた。けれど彼の星は想い人に向けられている。なんだよ、何なんだよ。いつもは独り占め出来ていたのに。俺のだったのに。 いいや、俺のじゃなかったんだ。 「なんで、なんで、こんな」 つい溢れた俺の独白はひどく小さく、愛しい人には何一つ届かない。 代わりにその向こう。明るく青い海に似た瞳と目が合った。 視線が絡んだ途端、ぐい、とアルスの体がそいつの腕の中に引き寄せられる。 ――くそ、わざと見せつけて抱いてるだろ! にやりと萬里がこちらに向けて笑った。それは挑発ですらなく、完全に面白がっている顔だった。胸に収まってしまっているアルスには見えていない。くそ、くそ。 奴はすぐに腕をわずか緩め、アルスが顔を上げるだけの余地を作ってやる。そしてその花緑青を海が覗き込んだ。 はあー、とわざとらしく萬里が溜息をつく。 「何言ってんの? 熱下がったばっかりのくせにさぁ」 「っな、そういう事言わないでってば……!」 ちびの前なのに、とその人は舌打ちをして旦那である相手を睨み付けた。 その言葉の意味と、その行為に俺は唇を噛んだ。ここ数日も普通に彼に会っていたが、発熱しているようにはとても見えなかった。アルスは本当に嘘つきだ。それに、舌打ちなんて初めて見た。 「そういう事も何も事実じゃん。なに、弟子の前だからカッコつけたいって? しょーもなー」 「うるさい黙れ。僕にも矜持というものがあるんだ、この馬鹿」 その荒い言葉でさえも。 俺に見せない姿と、俺に向けないものを全て一身に受けるそいつが憎らしい。あぁそうだ、憎らしい。 悪いやつではないだろう。全ての力がアルスの負担にならないよう調整されている。俺にそれが出来るかというと、あぁ、難しいかもしれない。頭のネジが飛ぶと何をしでかすか分からない自分の性格を俺は自覚しているので。 「あの、えっと、ちび」 俺が想いを一身に向けるその人は、彼の想い人の腕の中から俺の名を呼んだ。本当に癪だが、俺はその鈴の音が俺の名を紡ぐ幸福に逆らえない。 「なに、アルス」 敢えて名前で対等に呼ぶ。そんな俺のちっぽけな――そう、この矜持に、彼はきっと気付かないのだろうけれど。 「取り敢えずその、会った訳だけど。えっと……、これでよかった、のかな」 「ああ、クズだってわかった」 んぇ、とアルスが変な声を出した。否定しようとして失敗した、まさにそんな様子だった。 困りきった顔をして彼は二人を見上げる。 「確かにコイツはクズなんだけど、付き合っている時はその、まあ、えっと、言いたくないんだけど、や、優しいから。そんなに心配する事はないよ?」 「そういう事じゃない、そいつはクズ。絶対俺の方が幸せに出来る。なぁアルスそんな奴やめて俺と結婚しようって」 「んっはは! お前面白いな。お前みたいな奴好きだよ」 「俺はお前の事嫌いだ」 あは、とまた萬里が笑った。その腕にアルスを抱いたまま。そういえば一度も彼はその姿勢に抵抗していない。 「まー確かに俺はクズだけど、そのクズを側に置きたがったのはアルスのほーだし?」 「お前、なんでそういう言い方しか出来ないの?」 溜息をつきながらもアルスがそれを否定する事さえなく。 アルスに心を許された、アルスの一番に選ばれた、同じサンシーカーのオス。 そいつがアルスの星を笑って見下ろす。 「あのさぁ、お前もお前だかんね? すーぐこうやって人の情緒引っ掻き回して、あーあ、コイツもかわいそー」 「は? 僕は何もしてないけど」 「無自覚って怖いねー」 それで、と萬里が俺を指差した。失礼だから辞めろとアルスがその手を叩き落とす。 「そのかわいー弟子にキスされて腰砕けさせてたのは誰?」 「えあっ、あっ、み、見てたの?」 海に貫かれたまま星が揺れた。かあと顔を赤く染め、俯く姿が可愛い。俺の腕の中だったら尚のこといい。 そう思った俺の目の前で。 「えと、萬里、ごめ――ッん!」 あいつが、アルスの唇に噛み付いた。 「あぅ、んっ!! ばん――ぅん、ふ……ッ」 ばしばしとアルスが抵抗するも止まらない。萬里の手がアルスの後頭部を固定する。そのまま上から溢れんばかりに与えられる口付け。雄々しいのに、何処か優しいそれ。 俺は目を離すことが出来ず彼らを見守ってしまった。アルスが甘く甘く啼く声はさっきと同じなのに、どろどろに蕩ける瞳の温度が違って見えた。なんだよ。 やがて離れた唇。そんなに長い時間じゃない、けれど永遠のようだった。最悪だ。 拳を握りしめる俺をよそに、敵は再び崩れ落ちそうになったアルスを腕で支えて立たせた。アルスを縋らせたまま、悠々と奴が笑う。 もう立っているだけでやっとな有様のアルスに対し、別に怒んないって、と前置きして萬里が肩をすくめた。 「見ちゃいないけど、状況とアルスの顔で分かる」 それから、そいつは明確にこちらを見た。青と深緑がぶつかる。笑っている。 「そこのおちびさんもやるなぁ。いいと思うよー、お前みたいな自分の欲求に素直な奴。同族って感じ」 「お前と一緒にするなクソ野郎」 あぁ、やはりそれは挑発ですらない。ただ面白がっている、本当にそれだけだ。それでも言い返さずにはいられない。 言葉を投げ付けると、その的は微風でも受けたように首を傾げた。 「なんで? 同じじゃね? 目の前に菓子があったから食った、花があったから摘んだ。それが欲しかったから衝動に身を任せた。お前がしたことってそれじゃん? なら俺と一緒だよ、同族」 なぁ、コイツはそんなに美味かった? そこまで敵が述べたところで限界が来た。もし、もし一緒なら。 「――ッ、一緒なら! 何で選ばれるのが俺じゃないんだよ!」 つい、本当につい、だ。 俺は大きく一歩を踏み出した。一瞬で詰まる間合い。拳を振りあげる。奴は驚いた顔をする事もなければ逃げる事もなかった。ただ軽薄にそこで笑っていた。 同時に、ぱしゅ、と軽い音がした。 黒い影が間合いに滑り込む。見慣れた外套――あぁ、ああ。 「――そこまでだよ」 俺の拳は師匠のグローブの中に吸い込まれ止まっていた。彼の顔はこちらを見ていない。静かに奴を睨んでいる。瞳を潤ませたままで。 「お前、煽りすぎ。わざと怒らせて何がしたいの。遊びすぎだよ、ちびに失礼だ。謝れ」 「――ッ、ししょー……」 アルスによって阻まれ、俺の怒りは奴に届かなかった。しかし庇われたのは俺の方なのだ。 はぁ、と萬里が溜息をついた。楽しかったのに。そうぼやくコイツは本当にクズだ。間違いない。なのにアルスが選んだ。 「はいはい、わかりましたよー。でも俺、コイツ気に入ったんだよね」 「そんなの見ればわかるよ。だからと言ってやりすぎ。謝れ」 「わかったってー、そんな怒るとまた熱上がるよ?」 「ッ、だからお前、しつこいっ!」 二人の様子を見て、成程と思った。こいつは、素直な反応を返すやつを揶揄うのが趣味なのだ。そうと分かれば絶対に反応などしてやるものか。 「ところでそこのおちびさん」 「俺はお前より背が高い!」 「あっは、そりゃ失礼」 ちくしょう、くそ。反射で言い返して俺は頭を抱えた。それに相手が爆笑するのが本当に最悪だ。 「えっと、どこだったかなー」 「は、ちょっと萬里何して――っあ!」 一方の萬里は俺の葛藤などお構いなしに自由だった。いきなりアルスのコートの中に手を入れ何やら弄る。散々二人から情欲を刺激され続けたアルスがそれに反応して小さく喘いだ。あまりにも耳に毒だ。ずく、と胸の奥がまた騒つく。 「おー、あったあった。これだ」 再びよろけたアルスをまた腕で支えながら、萬里が彼の懐から銀色の小さな鍵を取り出した。 それを。 「これ、お前にやるよ。んまー、お詫びってやつ?」 ぽい、と俺に投げて放るのだから堪らない。 俺は慌ててそれを捕まえた。華奢なそれはどう見ても家の鍵だ。多分俺の目の前の、この家の。 「それスペアキーだから。お前の気が向いたらいつでも来るといーよ。俺でもコイツでも、セックスでも何でもしてやるからさぁ」 「っ、えっ、萬里!?」 「はぁ!? お前何言ってるんだよ!」 可愛い嫁のアルスの前でなんて事を言いやがるんだ、このクズは! 発言の中身そのものより気になるのはそんな事実である。内容もあまりにも酷いのだが。 しかしやはり、そんな常識が通用する相手ではないのだ。 「だってさー、アルス。こいつはお前の腰が砕けるまでキスする程お前の事を求めていて。俺はきもちーコトが好き。俺もお前もこいつを気に入っている。そしたらよくない?」 「ん、それはいいんだけど……、ってそうじゃなくて!」 「ほら、別にいいんじゃん。あっは、ほーんと俺たちそのへんガバガバって感じ。安心しろって、他は全部お前だけだよ。約束したもんな?」 「――うん」 爆弾を投下した萬里はまず腕の中に視線をやり、それから俺を見てにやにやと笑った。 俺はその視線を受けながら今の言葉を何度も反芻する。 ……いやまて、アルス、俺とシてもいいって言った? 言ったよな今。 その意味がじわりと脳を侵食していく。しかし行動へ振り切れるには目の前の敵が邪魔だった。 奴は俺の前で楽しそうに笑っている。無駄に無垢なその笑顔は、俺の目にはどうしても軽薄に映るのだ。 「そんでそこのおちびさん。お前もさー、奪おうと思うくらいにはこの花が欲しくて堪らないわけじゃん?」 「――ッ、そもそも! 俺の、師匠だ!」 奪うも何も。俺からすれば奪ったのはお前の方だ。俺の初恋は終わってしまった。いや終わらせてなるものか。こいつに負けたくない。もう負けている、勝てるわけなどない。分かっていても認められない。認めたくないのだ。 それはきっと、俺が奴を恋敵と定めたからで。そして発言の内容があまりにも酷いからで。アルスが大切と言う相手なのに受け入れられないのは、俺がアルスの事を。俺のアルスの事を。あぁ。 心底こいつが憎らしい。そしてそう、二人の間で星を揺らすお姫様も、いっそ憎らしい。大好きで堪らず、その分だけ憎い。 俺の荒れる胸中など微塵も気にせぬその海は、こちらを見たまま俺の宝物の腰を撫でる。 「俺の、嫁が。俺を選ぶかお前を選ぶかはアルス次第だから、今はどーでもいいよ。俺が言っているのは、俺もアルスもおちびさんが望むなら肉体を差し出すことに抵抗はないって、そーゆーこと」 そこに心がなくても。快楽に溺れる事を良しとする。つまりそういう事だ。お前がそれを受け入れるなら鍵をとれと、そういう。 じゃあ、と俺はまた一歩踏み出した。今度は己の想い人に向けて。 「あ、アルスは! いいのかよ恋人がこんな事言って!」 「んん……えっと、萬里がこうなのは今更だから僕の心配はしなくて大丈夫。付き合ってからは萬里の方は今までの人全部切ってくれてるし――その上で、僕は他の人とシてもいいとまで、言われてる、し」 恥ずかしそうにアルスが言う。どんどん小さくなるその声で紡がれる内容はとんでもなく、この人は普段の凛と澄ました在り様の下でこんな内面を抱えていたのかと思うと、あぁ、くらくらした。 その彼の表情が陰る。 「でも、君の想いがあまりにも真っ直ぐだから。それを受ける僕は本当に、これで。いいのかな……って」 星が陰る。煌めきが濁る。零れ落ちるのは、ここに来て初めて口にする彼自身の葛藤なのだ。 「これが、正しい事だなんて僕は思わない。いつか後悔する日がくるかもしれない。けれどそれが現実的に可能で、その選択がいま誰かの想いを僅かでも満たすのなら、僕はそれに手を伸ばすかもしれない――その意味では、僕もまた萬里と同族の刹那主義者、なのかもしれない。それでも」 アルスの中にある罪の意識。誠実であろうとする彼の欺瞞。その全ての恩恵を受ける、俺。 「君がそれでもと願ってくれるのなら。僕にはその選択肢が存在して、そこに手を伸ばせる。これは君のせいではない、僕自身の選択として、僕はその扉を開こう」 それでも星は堕ちない。 愛しい人は彼の想い人の腕の中から抜け出で、己の足で雪を踏み締めた。その星がまた真っ直ぐに俺だけを見据えて輝く。揺れる光はどこか頼りなく。 「僕はちびの想いに応えてはあげられないけど。同意が全方向から得られているのなら。君が僕の肉体を求めるのなら。僕は――ん、いいよ。君になら、摘まれても」 その花が、あまりにも馨しく俺に微笑むから。 そしたら、そんなの、俺に選択肢なんかないだろ! 「――ッ! わ、分かったよ! これで詫びとして受け入れてやるから、だから! 後悔するなよ!」 俺はそう雪の降る空に叫び、その勢いのまま踵を返す。寒空の下、握りしめた鍵ばかりが熱くてたまらない。 星が光る。その花に、手が――届く。 俺たち三人をめぐる歪な関係は、この日ここから、こんな爛れた形で始まったのである。
「なあアルス、家の中入ろー。さすがに冷え過ぎだから」 「――萬里」 僕の大切な恋人が、冷えて白くなった手をとり玄関を指差す。僕はその優しさに頷きながら、それでも弟子が消えた先を振り返るのを辞められない。 だって、これは、あまりにも。 「アルス。ほんとそれ、お前の悪い癖だなー」 「くせ、って」 「またそうやって、何もかも自分のせいだと思い込んでる」 視線の先を確認した萬里が肩をすくめた。言い当てられた内容は正に胸中そのもので、僕は言葉を無くして立ち尽くす。 「あのなー、あいつだってもう大人だ。どうしたいかは自分で決めるし、決めた事の責任は自分で取る。俺だってそう。俺は今決めて自分でここに居るし――そう、今日は初めて、これは俺のものだって思った。俺のアルスだって。面白かったのも本当だけどさ。はは、びっくりだよな。俺、お前に執着し始めてるのかもしれない」 なあ、この先もっと面白くなるよ。 そう笑う萬里の、責任を語る彼の、あまりにも刹那的なその生き方が。それが僅かにも変化していく、その一つめの歯車が。 今日、この時であったとするのなら。 これは正しい選択なのか、それとも終わりへの序曲になるのか。 判断など出来ぬまま雪の中。誠実か不誠実か。嘘か本当か。その全てに答えなど出せはしない。降る白は何も教えてなどくれず、ただ美しいまま降り積もる。 これから重ねていく時間が、いつか君の心を歪ませるとしても。それでも、僕は。 それでも、せめて一つと君が望むのなら。それでも、その未来が欲しいと君が願うのなら。 応えようとする以外、僕に選択肢なんて、ない――。 尚も足を踏み出せない僕の隣、扉の鍵を開け放った者が言う。 お前に罪があるとするなら、それは。
「お前があまりにも綺麗に咲く花だった、それだけだよ」
[ 16/118 ] [mokuji]
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