その背に燎火を託す*
重ならぬ運命がほんの僅か交わった、奇跡のような世界の中。 そんな物語の外側だからこそ、護りたいものがある。
「——約束の時間から、遅れる事二時間。さて、君の言い訳を聞こうか?」 寒空の下。静かで柔らかな声が、しかし明確な圧をもって降る白と共に地へ落ちた。 だってさあと上がる声をぴしゃりと諌めるのは、とある世界の英雄。でもさあと追加でぼやくのもまた、とある世界の英雄である。 「ししょーって細かくて面倒臭いってよく言われそう」 「うるさい、そういう君はだらしないってよく怒られるでしょう」 その二人の関係性は、師弟であった。 そう、アルス・セルティスは己の世界線の外に、一人だけ弟子をとっている。 叱責を受ける当人は、両手を腰に当てたアルスの目の前、その自宅門扉に立ち拗ねたように雪を蹴った。 「やーだよ、修行なんて。だるいもん。寒いし、遊びたいし」 「ちび。僕はお前の今のお気持ちを聞きたいんじゃなくて、遅刻の理由を訊いているんだけど。分かるよね」 アルスは下から弟子を見上げた。この困った弟子はアルスより随分と背が高く、ほんの少し歳が上だった。 名前はちび。黒髪に白いメッシュが印象的なサンシーカーの男性で、名前に反して立派な体躯を持っている。加えて渋めの顔付きすらも裏切り、随分とやんちゃな青年なのであった。 そんな矛盾を抱えた愉快な弟子が、ぷーんとそっぽを向く。 「イダと一緒にパパリモさんにイタズラしてただけだし」 「ふぅん、そう。それがお前にとって、僕との約束より大切なのはまあ仕方がないよ。友達は大事だものね」 「そ、そう! 大事で。だからその、仕方ないっつーか、あのぉ」 「うん、それで、何?」 「……な、何だよ、そんなに怒るなよ」 アルスが問う口調は穏やかで、優しい笑みすら浮かべている。しかしそれを受けるちびの挙動は怪しくなる一方だ。耳が忙しなく動き、尻尾が不安に揺れる。横を向けた顔はそのままに、視線だけが伺うようにアルスへ向く。 ちびが怯えた様子を見せるのは、アルスが用いる二人称が変わるのは警告の意味だと分かっているからだ。そして懲りずに何度も叱られてきたからだった。 全く仕様がない子だ。いつまで経っても子供のように純真で、それを守りたいと思うと同時に、不安でたまらなくなる。 アルスは肩をすくめた。今はこれ以上言っても伝わらないだろう。それなら時間を無駄にせず予定を完遂する方がいい。 ——ところで、ちびの長所は相手の様子をよく見ている事だとアルスは考えている。相手の感情の機微を捉えて、上向かせようと試みては事件を引き起こしたり、不器用に慰めようとして失敗したり。 共にいて気苦労は絶えないが、その在り様を好ましく思う。 しかしそれが、いつも良い方向に向く訳ではないのだ。 つまりどういう事かといえば。ちびはアルスの諦めを、赦しを、目敏く察知していたのだ。 「っしゃ、いまだ! じゃあなぁ、ばかアルスー!」 脱兎の如く逃げる背中が、その結果という訳で。 つい絆され甘やかそうとした結果が、これな訳で。 「——ふぅん?」 アルスは低く呟いた。星の瞳が昏く煌めく。 へぇ成る程ね、そういう事をするんだね、お前は。 「べつにね、僕との約束より大切な事があるのは、それでいい」 軽い音を立て、アルスの白いコートが一瞬で黒く染まる。それを振り返りつつ視界にとらえたのだろう、ちびの肩が跳ね上がった。げ、と彼が叫ぶ。そう、まだ会話ができる距離に居る。 「けれどね、」 一歩、踏み出す。その一歩が致命傷である事など、幾度も繰り返してきたちびだって知っているだろう。ああそうだ、何度もだ。 何度言っても分からないなら、僕にもそれなりの考えがある。 顕現した大剣がアルスの両手に収まり、黒いコートが翻った。繰り出すのはプランジカット。 一瞬で詰まる距離、迫る花緑青、空に舞う白。切り裂いて黒が走る。描く曲線。芸術的なまでに、精密に。獲物を目掛け斜めに突き刺さる。そして。 「——お前の命を、お前自身が守る事。それ以上に大切な事って、ある?」 星の瞳が冷たく弟子を見下ろした。 氷の温度を向けられた弟子が肩を跳ね上げる。それでも師匠は微笑まない。 「見てご覧。僕は、いつでも。その気になれば、お前の命を奪えるんだ」 「——っ、そん、なの、わかんねーじゃん」 ちびが言い返しつつも視線を脇へやった。白に大剣が突き立つ様を確認したのだろう、彼はひくりと震えた。 アルスが無表情に、無感動に振り下ろした剣。それは振り向き様に尻餅を付いたちびの横を掌一つ分程度あけ、深く雪を抉っていたのである。 「お前が背を向けて油断をした、その瞬間に。僕はお前の事を殺せるよ? お前は今まで何度僕に殺された。ねえ、お前は何のためにここに来たの」 淡々と、静かにアルスは言う。ちびは立ち上がらない。アルスもまた、手を差し伸べない。 その一撃は、避けようと思えば避けられたものだ。迎え撃つ事さえ可能であったはずだ。だって、その様に打ち込んだのだから。 これは外れたのではない。外したのだ。 「——さっきも。振り向く際に意識を他に取られすぎている。退路を開く時、何よりも背後への注意をおろそかにしてはいけない」 ちびは避けなかった、剣を持つこともなかった。本当に振り下ろされる事などないと思っていたのだろう、きっと反撃するつもりすらなかった。 「重心が完全に後ろに落ちているね。お前の意識が前に向いていない証拠だ。だから反転できない、反撃へ繋がらない。ただ倒れてしまう。言ったはずだ、気を抜くなと。いかなる時でも、最低限は気をつけていろと、僕は何度も」 あぁ、分かっている。それは信頼で、師匠への甘えで。 そして相手の怒りを笑いに変えようという行為でもあって、つまり優しさなのだと。アルスはその全てを理解していた。 理解した上で手折ろうと思った。その無垢なる笑顔をこの手で。 だって、そう、その無邪気さで信じた相手が本当に彼を狙っていたのなら。その純真さ故に、彼は命を散らしてしまうかもしれないのだ。 「——っ、う、だって、俺は、アルスのこと」 ちびの声が震えている。それでもここで微笑んでしまったらいつもと同じだ。それでは意味がない、それでは変わらないから。それでは護れないから。 その為には試練も必要な事なのだ。だから怯えた顔を向けられても悲しくない、苦しくなんてない。 じわり、じわりとちびの目に光が溜まってゆく。 「う、う、う、ぅわぁあぁん!」 己に言い聞かせるアルスの目の前で、ちびがついに泣きだした。 でも、大丈夫。どうかこのまま折れないで、その茨の道を歩くなら、どうかここまで——。 そう、アルスはちびを信じている。その無垢さを愛している。故にこそ必要な厳しさもあると理解している。己の言葉が齎す事への覚悟も出来ていて、その上で。 「んんー! もおしらない、きらい! ばかアルスなんて嫌いだ! わぁああぁん!」 だから、彼がそう叫んでまた逃げ出した瞬間に。 アルスなんて嫌いだ。その一言が突き刺さった瞬間に。 「——っ、あ……」 その一言に己が動揺したという事。その事にこそ動揺しただなんて、まさか、そんなこと。
寒空の下、自宅門扉の目の前。降る白にコートを染め替えられながら、アルスはただ呆然と遠ざかる背中を見つめていた。
「なるほど。それでアルスくんは、今こうしてへこんでいる訳ですね」 口に詰め込んだフライドポテトを飲み込んで、らっこまりーはそうアルスの話を締め括った。それから彼女は左手でカップを掴んで中身を煽る。コーヒーではなく甘い炭酸飲料だ。 ここはオールドシャーレアンのラストスタンド。彼女に大量のハンバーガーをご馳走しながら、アルスは昨日の遣り取りを語って聞かせていた。つまり食事は対価であり、口実であった。 正直どこに誘い出そうか悩んだのだが、様子を見る限り大変気に入っていただけた様で安心した。コーヒーカップのみを机上に置くアルスの前で、彼女がまた別のバーガーに手を伸ばす。うん、次も何かあったらここにしよう。 「ごっくん。ふむふむ、分かりました。予想していた結果が思ったよりショックで、それがまたショックだった、と」 「——うん」 そんなまりーに——あれからかなり仲良くなり、今では愛称としてファミリーネームを呼んでいる——アルスは小さく頷く。 「何だかんだ、嫌いって言われた事は、多分なかったと思う……そういえば」 「ふふふ、アルスくん何だかお母さんみたいですね」 「そっ、それはあの、えっと、妙に信憑性があるからやめて欲しいな……?」 「息子が反抗期、うん、そうじゃなくてイヤイヤ期なんですねぇ」 「もぉまりー、やめてってばあ……」 アルスはへにゃりと歪む顔を机に伏せて隠した。その間にもまりーがもっもっと食べ物を口に入れる。しっかり飲み込んでから話し出す彼女の仕草は、豪快ながら上品さを失ってはいない。 「おもしろい」 「面白がらないでよ……」 拗ねた様子を見せた途端、またまりーが気持ちよく笑った。アルスもそれに笑い返す。全く、何をやっているんだか。 まりーがポテトを頬張り、指についた塩を器用に舐めとる。 「まあ話は分かったんですが。なんで私?」 「え、それはまりーしか居ないでしょ。まりーは僕の師匠みたいなものじゃない」 「私はアルスくん育ててませんよ? 一人で大きくなれました」 「それが育てた人の台詞ってものなんじゃない?」 「ん? そうかな?」 「ん、そうなんじゃないかな?」 他に人が居たら指摘されたであろう諸々を置き去りにして、二人は揃って首を傾げた。 それぞれ鏡合わせにカップを傾け、無感動に机上へ戻す。 「というよりアルスくん、その様子だと暗黒騎士としての闘い方は形になったようですね」 「おかげさまでね。相談に乗ってくれてありがとう、まりー。僕の本職はあくまでも盾役ではないから——そう、そうなの、面倒見てる子がナイトで、今後暗黒に転向したいって言ってて。危なかっかしいから、僕としてはこのまま盾を手放して欲しくないんだけど」 「おお! 紛う事なき師匠じゃないですか」 「一応そういう事になるんだけど、なるんだけど、本当に柄じゃないんだよ。ねぇまりー、分かるでしょう?」 身を乗り出すと、まりーがまたふふふと笑みをこぼした。そうですねぇ、と返される言葉は同意である。アルスが指導者に向いていないということではない。なにせ英雄である。ただそう、子育ては初めてなので勝手がわからないのだ。 「自分で認めちゃうんですか? 子育てだって」 「あの子、本当に無垢なんだもの。そういう気持ちにもなるよ。だから余計心配で厳しくしちゃうっていうか、でもこんな事初めてで加減もわからないし」 それでも、した事に後悔はない。何せあの子が選んだのはこの運命だ。アルスが守ることが出来る枠から外れてしまっている。この腕の中の世界に収まらぬ彼は、己自身が英雄としてこれから先全てを守っていかねばならないのだ。大切な人を——世界をも。 「僕はね、まりー」 アルスは星の瞳を煌めかせ、正面を見据えた。まりーがポテトを食べる手を止めて、静かに視線を合わせる。 彼女はアルスが何を言うか理解しているのだろう。彼女自身が教え導く立場にいる事が多く、そしてまた、彼女も英雄だからだ。 「あの子が歩む道の険しさを知っている。あの子の前に立ち塞がる壁の高さを知っている。裏切りの苦しみを、喪失の悲しみを、無力さを噛み締め眠れぬ夜も、隠すしかない体の震えも、全て、全てを知っている。けれど僕はそれを伝えてあげられない。その物語を変わってあげる事もできない。それがあの子の物語だからだ。そしてそこで出会うもの全てが、かけがえなく愛おしいものである事もまた、僕は知っている、だから」 弟子を取ることになった理由。それは、あまりにも無垢な瞳に絆されたからだった。この純粋な優しさが悪意に手折られる前に、例え運命の中で何も出来なくとも、せめて立ち向かう力の一助になれればと思った。 人を信じすぎるあの優しい子が、その優しさゆえに裏切られ傷付いていた、出会いの日の事を覚えている。 これから先何度でも訪れるその場面で、いつも盾になることは出来ない。だから、全ては愛故だった。 「どうか、幸せに生きて欲しいと、どうか、折れないで欲しいと。僕はただ願っている。僕らの手では全てを救うことなんて出来ない。これからあの子はたくさんのものを喪って、でもそれ以上のものを守っていくんだろう。僕は追われるものであり、見送るものだ。本質的な干渉は許されない。でも、だからこそ、その背を支えられるように、一歩踏み出す時に、その背を押せるように。あの子の希望の灯火が、この先どうか途絶えないようにと、願って——僕は」 そのためになら慣れない振る舞いもする。普段は避けるような厳しい言い回しも、表に出す。それで相手が泣いてしまっても、それで自分が嫌われてしまっても。 「だからね、まりー。僕は後悔なんてしていない」 そうですね、とまた彼女が笑った。繰り返す台詞は真理そのもので、端的なその返事にはしかし万感が込められている。アルスはそれを感じ取り、やはりただ小さく微笑み返した。 そう、追い来る者へ願う事は同じ。どうか、どうか幸せに、折れてくれるなと。ただ、それだけを。 「私たちが通ってきた道の、絶望を、怒りを、それを超え立ち上がれるだけの歓びを。守れる力を、アルスくんはその子にあげたいんですね」 常に仲間の先頭で盾になってきた英雄が力強く言う。 「僕たちには関与できない、絶望を、怒りを、それでも立ち上がるだけの歓びという名の強さを。守れる力を、あの子に」 常に心身の傷に寄り添い癒してきた英雄が力強く言う。 「だからね、僕はあの子が大切って、それだけ」 「ふふふ、じゃあ、ちゃんとそう伝えてあげればいいんじゃないですか?」 「そうしたら甘やかしちゃうかも」 「それは加減というものです」 つまり、もう怒ってないよって言えばいいのかなあ。 くすくす、と。静かで穏やかな笑みが満ちる、北洋の大地。ここはオールドシャーレアンのラストスタンド、英雄達の集う席。 一つだけ空いた椅子を眺め、アルスは優しい笑みを溢してぼやいたのだった。
一方、ウルダハには駆け出しの英雄が一人。 ちびはクイックサンドのカウンター席に座り、足をぷらぷら軽快に揺らした。その緩さを裏切り眉間には皺を寄せ、表情だけは年相応の落ち着きを見せている。内心は兎も角として。 「うぅーん、やっぱ俺、多分失敗した……」 「そ、大変ね」 「モモディさん冷たい! 俺は悩んでるんだぞっ!」 「はいはい。人生相談じゃなくて、恋愛相談なら受け付けているわよ」 どうしよっかなぁ、と思う。何ってそりゃ、師匠の件だ。 捨て台詞を残して逃げてきてしまった、大好きな人についてだ。そう、師匠のことはとても好きだから会えるのはたまらなく嬉しくて、けれどお勉強ってやつは嫌いなのだ。そこが難点だった。 師匠との修行がつらいかといえば、つらくはない。しかしきつい。だめになる程ではない。だって、アルスはその辺りの調整が上手いから。 アルスが教えてくれる事は、攻めるよりも守る方に重点を置いている。何度もその剣戟を盾と剣を使って受け止め、反撃を試みては弾き飛ばされてきた。向けられる一撃はいつも鋭く、しかし驚くほど花緑青の星は穏やかに澄んでいるのだ。 その星の煌めきを覗き込む事が好きで、その奥に優しさを見つけるたびに嬉しくなった。まだまだ頑張れると思った。 けれど、今日の星は。今日の彼にはいつもの甘やかな優しさがなかった。煌めく瞳はただ静かで、いっそ苛烈でさえあった。 だから、つい。本当に、つい。嫌いだなんて叫んでしまった。 アルスが零した、吐息のような一言が。 ——っ、あ……。 聞こえるわけもない距離で聞こえてしまった、その泣きそうな声が。 「だってまさか、ししょーがあんなに傷付いた顔をするなんて、思わなかったんだよ」 はいはい、とまたモモディが手元から目線を外さずに頷く。 「いやでもまてよ? アルスのやつ、あんな顔するくらいには俺の事好きってそういうこと? へへっ、そーいうこと⁉」 「あらその辺の話詳しく聞かせて頂戴」 少なくとも嫌いだからあんなに怖い目をしていたわけじゃないって事だ。そう立ち上がった途端にモモディの視線がこちらへ向いた。 「恋愛相談なら、大! 歓迎よ」 「モモディさん、手のひら返しすごっ」 「あたりまえじゃないの、女の子は幾つになっても恋の話が大好きなのよ。覚えておきなさい」 ていうか恋の話をしてるわけじゃないっつーの、という反撃は最早彼女に通らない。冒険者としてこのウルダハから始めたての身であるちびは、基本モモディには頭が上がらなかった。 「嫌いなんてうそだって言えばいいか?」 「それだけで落とそうなんて甘いわね。同じ甘いでも大切なのはこっち、女の子には贈り物も必要よ」 そう言ってモモディが可愛らしくラッピングされたガトーショコラの箱をカウンターに置く。白い箱に黒いリボンが大層可愛らしい。 「や、ししょー別に女の子じゃないし。可愛い顔はしてるけど」 「あらその辺も詳しく聞かせて頂戴」 「だからそういうんじゃないし、落ち着けって!」 なんだつまらん、とモモディがまたグラスを磨き始める。しかしまだ目線はこちらに向いているのでちびは肩をすくめた。 いやまあ、多分アルスそれ好きだけどね。 アルスは甘いものが好きだ、と思う。可愛らしいものも多分、好きだ。そんな事ありませんと澄ました顔をしているが、正直隠しきれていないのでよく見れば分かる。 だから喜んでくれると思う。喜んでくれたら、嬉しい。 うん、アルスが喜ぶなら俺、頑張れる! 「ねっ、ねっ、プレゼントって、やっぱり大事?」 「当然、あと少しのロマンチックがあれば尚のこといいわね」 「そっかぁ、そっかー! じゃあ手土産作戦で行く! モモディさんそれちょーだい!」 「構わないけど、どうせそんなに所持金ないんでしょう」 ゔ、とちびは潰れた猫のような声を上げた。財布の中をちらりと覗く。そこにはアルスから貰ったお小遣いの残りが少し。全くもって否定しようがない。 しかしそこで終わらぬから彼女は名物女将なのだ。 「という訳で。お使いしてくれるならそれあげるわよ」 「ち、ちゃっかりしてるなあ……」 「あら、不要かしら」 「やります! やらせていただきますモモディ様!」 よろしい、とモモディが笑う。 それから彼女は小さな包みを取り出して机上におき、ちびの方へと押した。 「これを青燐精製所まで届けて欲しいの」 「うわっ、遠!」 「今のあなたになら行ける距離でしょう、ねえ、エオルゼアの英雄さん?」 それともやっぱりこれは要らないかしら。わざとらしく悲しげにモモディが箱を下げるから堪らない。それを縋り付くようにして引き留め、ちびはへーへーと応えた。 いつまでもアルスにあんな顔をさせたままではいられない。背に腹はかえられないのだ。 「わかった、分かったやります! 英雄にお任せください!」 「ありがとう。それ、中身は食料なのよ。物資が足りていないのに、まだあの辺りに近づける人は殆どいなくて——正直、とても助かるわ」 そうか、そういえばそうなんだった。当たり前か。戦争したばかりなんだから。 苦渋の滲む言葉を受け、ちびは頭に地図を思い浮かべる。 青燐精製所といえば帝国の拠点のすぐ近くだ。この間制圧したばかりだからよく覚えている。確かにあそこはまだ帝国兵の残党も多く、この世界では他に頼める人がいないことも理解出来た。 ——まあそう言われちゃ頑張るしかないよな。だって、俺の世界のエオルゼアの英雄は、俺しかいないから。 「そういう事なら張り切っていかなきゃだな」 ちびは荷物を鞄に入れ、纏う衣装の裾を翻した。いいさ、行ってやる。最近はあの辺りを一人で歩くのにも困らなくなってきたし、修行の成果をみせてやるよ。 なにせ、英雄はお使いが得意なので。
意気揚々とした足取りでキャンプ、精製所と回ったちびは大層歓迎された。モモディから預かった包の正体は日持ちする干し肉で、これが文字通りこの人達の命を繋ぐのだ。 それだけではない。制圧したとはいえ不安定な時勢の中最前線に詰める不安を紛らわせるのに、まさに捻り潰した当人である英雄という存在はうってつけであった。その惨状に、ちびは己の私物からも食料を分け与えた。それはアルスが作ってくれたものであったけれど、優しい師匠もきっと同じ選択するだろうからまあ大丈夫。 むしろアルスなら全部あげちゃう所を俺は自分の分残してるんだから、褒めてくれたっていいと思う。 ——誰かを護りたいのなら、まずは何より自分の身を守ること。 それは事あるごとにアルスが口にする台詞だった。時に祈るように、この前は、切り裂くような冷たさで。 告げる彼の星があまりにも真剣に煌めくから、肯定以外の応えはあり得なかった。わかっている。だから、大丈夫。 ついでに周囲の敗走兵の見回りと、未だ刃を研ぐ潜伏兵の討伐を請け負った。これくらいならば一人でもやり遂げられる。 そんな中で。 「お願いだ、殺さないでくれ。戦うしかなかったんだ、家族を守るには仕方がなかったんだ」 ひっ捕えた兵が下からちびの膝に縋った。その敗走兵は血に塗れて、剣を突きつけた途端泣き崩れたのだ。 ちびにはそれを見捨てられるような冷酷さがなかった。アルスならどうするだろう。助けるだろうか、斬り捨てるだろうか。分からない。頭の中の師匠は答えをくれなかった。 「なんでもする、帝国の情報だって話す。お願いだ、殺さないで、家族のところへ返してくれ」 それでも結局、ちびにはその情を手放せない。 「——わかったよ。わかったからさ、そんなに泣くなってば……」 ちびは剣を納め、代わりに手を差し出した。敗走兵は可哀想な程ほっとした笑みを浮かべてその手を取った。分厚い革グローブの下にあるのは同じ人間の手だ。 ちびは己が殺した者の事を思った。きっと、彼のような人だったのだろう。 ——英雄って、難しいな。護りたい者のために、誰かの大事な人を殺して、殺して、殺すんだ。 何かが少し違えば、この人を殺したのは己自身だったのかもしれない。いいや、既にこの傷はあの日駆け抜けざまに己が負わせたのかもしれない。考え始めれば終わりのない迷路、その入り口が見え胸がざわついた。 それからは男を護りながら歩いた。警戒すべきは帝国兵ばかりではない。この辺りは獣も獰猛なのである。ちび一人ならば危なげなく歩けるようになったとはいえ、全くの——言い方は悪いが、足手纏いを護りながら戦うのはそれなりに神経をすり減らす作業だった。 ああ、本当に、なにもかもを護れたらよかったのに。 戦の気配を強く漂わせる荒野。そこを男の証言を頼りに進む。あそこに隠れていた、あそこに斥候がいる。その証言は全て正しかったが、すでに全員が事切れていた。無惨な死体だった。殺したのは、殺されたくなかったこちら側の人間だ。 目を逸らすことが出来なかった。逸らしてはならないと思った。けれど見ているのが辛かった。泣きそうだ、でも泣く権利がない。泣きたいのは死体になった彼らの方だろう。 ——アルスは。こんな想いをしてずっと歩いてきたのか。 あんなに穏やかな顔をして、あんなに澄んだ目をして、その奥に幾つの傷を隠しているのだろう。どれだけの血を流してきて、どれだけの涙を超えてきたのだろう。あるいは、今もまだ。 そうだ、痛くてたまらないはずだ。だってもう既に、俺だって、こんなにも、こんなにも。 ここまではただ走っているだけでよかった。何もかもが人助けの延長だった。けれどきっとこの先は。英雄という肩書きを背負って歩く道は。酷く険しいに違いないのだ。 「次はあっちか……次こそは、生きていてくれよ……」 簡単にいかないことなど分かっている。数多の理不尽が立ち塞がる崖を登るかのように。それでも、だからこそ、今は出来る事を全力で頑張るのだ。目の前の誰かに手を差し伸べるのだ。 それが敵であっても、信じると決めたのならば。この心が望むのならば。それしかないだろう。そう信じるしか、走り続ける術などないだろう。 固く信じて、走り抜いて行きたいのに。 ちゃき、と金属の軽い音がした。それは嫌に重く耳に届いた。 「武器を捨て、両手をあげろ。さもなくば殺す」 案内された茂みの先。そこでは完全武装した帝国兵四名が、エオルゼアの英雄を待ち構えていたのである。 「え、いやまってくれよ。俺は」 揃う銃口の前でちびは言葉を詰まらせた。俺は。俺はなんと言おうとしている。お前たちの仲間を助けて、お前たちを殺すつもりはない、だから落ち着いてくれ、と。 いや、俺が請け負った仕事って、こいつらを殺すことだよな。 英雄って難しい。 ちびの頭はそれ以上思考してくれず、つい一歩足を引いた。すると後方からも同じ音が鳴る。ちゃき。 「まって、まってくれよ。お前、なんで」 わるいな、と彼はまるで悪びれもせず言った。嘲るように歪んだ口もとが見える。先程まで手を繋いでいた敗走兵が、後ろから頭に銃口を押し当てていた。 「だって、もう戦えないって。痛くて仕方がないって、そう言っただろ。だから俺は」 「はっ、とんだお人好しだな。俺たちがお前たちなんかに屈するわけないだろう。命乞いをするくらいなら己の喉を掻っ切るさ」 さあ武器を手放せ。彼らが言う。ちびは呆然と助けた者を見遣り気付く。ああ、その血は、返り血だ。騙されたのだ。 初めから信用させて、こうして刈り取るつもりだったのだろう。悔しさに拳を握るも現状は変わらない。 また、騙された。 ——前も似たようなことがあった。 同じようにウルダハからお使いを頼まれて、あの時はもっと近場だったものの、やはりまだ不慣れでどこか覚束なかった。それでも目の前の人に手を差し伸べたくて、モンスターの群れに苦戦する道すがらの商人たちに手を貸したのだ。 モンスター討伐は何とかなった。疲れ果てても笑って振り向いた所に向けられたナイフ、それが問題だった。彼らは商人ではなく盗賊であると、ただそれだけのつまらない話だ。奪えるものは全て奪う。その上場所がウルダハ近郊のスラムだ、よく考えれば分かることだったと今では思う。 それでも当時は流石に肝が冷えた。まだ何もかも駆け出しで、捌き切る技量もなかった。そんな中、凍り付いた所に飛び込んできた、黒い影。 ——君、少し下がっていて。 それがアルスだった。 彼は男達との間に割って入り、腰を抜かした盗賊を上からあの綺麗な瞳で睥睨した。冷たく獰猛な光を湛えて大剣を突きつける、ただそれだけで敵は蜘蛛の子を散らすように立ち去った。 恐ろしいとすら感じた。それ以上に美しく、触れた瞬間に貫かれそうな玲瓏な背中だった。 しかし振り向いたアルスはひどく穏やかに、大丈夫、と首を傾げたのである。 その強さに、優しさに。護る力に。いいや、或いはあまりにも貴い星の瞳に。弟子にしてくれなんて頼んで、それから先はずっと——。 思い出すのは、あまりにも境遇が似ているからだ。 信じては裏切られて、それでも信じることはやめない。やめられない。人の善なるを信じ、信じる力を糧にまた立ち上がる。それがエオルゼアの英雄、ちびという者だから。 迷うちびの目前で、信じたものが引き金に掛けた指に力を入れるのが分かった。同じくらいの年頃で、血に塗れて、こんな荒野に一人きりで。結果はこれでも、繰り返すのなら何度でも同じ行動をとる自信があった。だからこれで充分だ、きっと。 こちらからは手を差し伸べた。それを振り払われたのなら。 ——誰かを護りたいのなら、まずは何より自分の身を守ること。 わかってる、理解っているよ、アルス。 なのに、なんで。 「なんで、俺」 こいつを殺すのがこんなに辛いんだろう。 泣きたかった、泣けなかった。泣いてしまってもいいだろうか、いやそんな暇なんかない、死体になったら何も叶わない。分かっている。生きるとはそういう事だ。 だからもう、殺るしか。 ちびが剣を掴むのと、男が引き金をまさに引かんとしたのは同時だった。そして、彼がここに辿り着いたのも。 ど、と。突然黒い壁が二人の目の前に現れた。いいや、男の立つその位置に高い壁が聳え立ったのだ。黒い炎。ゆらめくエーテルが敗走兵をやきつくす。あの嘲る笑みが苦悶の表情に変わり、それから燃え尽きるまでは本当に一瞬だった。 それからもう一つ、ちびと他の帝国兵との間にも同じ壁が現れた。その黒がちびを庇う様に二つの勢力を隔てる。苛烈なその力はしかし温かく——ああ、味方識別されているのか。 「——ッ、ふ」 聞き慣れた透明な息遣いを耳が拾う。あの時と同じ様に黒い影が飛び込んでくる。紫と黒の世界の中、浮かび上がる翠が酷く美しい。彼の色。闇に瞬く星の光。 かつてと同じ凜としたアルスに、ちびはやはり見惚れて立っていた。描いた曲線が帝国兵の胸に直線軌道の致命傷を作り、死体がもう四つ出来上がる。迷いのない太刀筋だった。あぁ、ああ。 す、と炎が消える。その向こうに冷ややかな師の背中。怒られると思った。だってそうじゃないか。そうだろ。 なのに、こんな。 「っ、は——ぁ、ちび!」 剣を仕舞う事もなく。その美しい人は、焦燥に駆られた様子でこちらを振り向いたのだ。 そのまま駆け寄ってきた彼の手が腕に触れた。アルス、と思わず呟くと。 「よ、かっ……」 よかった、と。音にならない声でアルスは呟いて、そのままずるずると地面にへたり込んだ。黒いコートが円形に広がる様が綺麗だった。 ちびは彼を追いかけて膝をつく。立っていても座っていても下にある彼の目線へ合わせると、星の中に情けない顔をした自分の顔が確認できた。 「えっと、アルス、あの」 「——っから、」 「アルス?」 アルスの黒いハーフグローブからでた指先は可哀想なくらいに真っ白だった。ああ、全身が小さく震えている。初めて見る姿。小さく、儚く、あまりにも綺麗な。夜空に瞬くそれ。 同じく蒼白な顔色の中、星がぐにゃりと歪んで光を湛えていた。 「おねがいっ、お願いだから! お願いだから、自分の事をちゃんと守って……ッ!」 そこから、ぽろりと溢れる雫。それが次々と丸い頬を伝い、乾いた荒野を潤しては消えてゆく。 細い眉を落として、星を必死な色に染めて、しかし顔を歪めることも出来ない彼の、不器用な泣き顔がそこにあった。 「僕はっ、君のこと……っく、護って、あげられないんだから、」 ああ、そうか、と。 「だから、お願いだからっ、自分を大切、に」 アルスは、俺が傷付くのが本当に嫌だったんだな。 震えて泣く彼を見ていたら、そんな答えがすとんと胸に落ちた。そう、それはあまりに明白な彼の願い。 しつこく身を守れと言う理由も、修行が厳しいのも、守りに重点を置いた指導も。全て、大切であるからに他ならない。 傷付いて欲しくなくて、笑っていて欲しくて。それはちびがアルスに向ける願いと同じだ。 それなのに、いま大切な人が自分のために、自分のせいで、こんなにも追い詰められて泣いている。つまりはそういう事なのだ。 誰かを守るには、まずは己の身を。 「ごめん。ごめんな、アルス」 ちびは震えるアルスを包み込むように抱きしめた。冷えた身体に温もりが伝わるように。軋む心に熱い想いが伝わるように。生きてここにいる事が分かるようにと。 同じくグローブから出た己の指先で、彼の雫をそっと掬う。 「俺は、大丈夫だから。ちゃんと、理解ったから。なあ、だから——笑ってくれよ、アルス」 にこ、とその花緑青に向け微笑んで。いつも彼が向けてくれるような優しさと穏やかさで。 緩んで光る星の中、英雄はもう覚悟を決めた顔でそこに在る。 アルスの手が緩やかに伸びて来て、その顔に触れた。する、と滑らかな指が頬を撫でる。彼の慈愛が擽ったい。 美しい瞳に安堵がじわりと広がってゆく。 「——いきて、る」 「ああ。生きてる。俺はこんなところで死んだりなんかしないぞ、ばかアルス!」 それでも不安そうなアルスに、今度はにか、と笑ってみせた。それで彼が安心すると知っているから。いつもと同じ台詞で彼に届くようにと。 目の前の星がきらきらと瞬く。やがてそれは最後にもう一雫だけ溢して、幸せそうにふにゃりと溶けた。 「——っ、ふふ……、よかった、よかったぁ……」 ほどけるように彼が微笑む。或いはそう、花開くように。やはりそれも日常と変わらぬ仕草だった。 「そっか、そうだよね。ふふ、そっかあ、君も英雄だものね」 ちょっと過保護だったかなと呟く彼の、その優しさが身に染みる。彼の言動に宿る願いを知ってしまったら、もう後戻りなど出来はしないのだ。 それでも、まずは。 「——なあ、」 「——ねぇ、」 二つの声が重なった。きょとんと瞬く星が更に深い緑を写している。鏡合わせで同じ表情をした師弟は、それを認めて吹き出した。 何を考えているのか分かってしまう。そう、俺も仲直りがしたかったんだよ、ししょー。 「アルス、嫌いだなんてうそだ」 「僕も、もう怒ってないよ」 二人は至近距離で肩を揺らした。その振動でお互いがぶつかるのがまた堪らなくおかしかった。またこうして笑えている事が、たまらなく嬉しかった。 しかし無粋な事は重なるものだ。 ぴくりとアルスの耳が揺れた。同時にちびもまたその音を拾う。僅かな草陰に誰かがいる。重い、武装している。ひりつくこれは、殺気だ。 先程の兵士達は応援を呼んでいたのだ。 しかしもうちびの中には覚悟が育っている。大切なものを見失わないための覚悟。そのために血を浴びる覚悟。信じる事をやめる気は全然ないとしても——それはそれ、これはこれ。 ていうか今アルスとイイところなんだから、邪魔すんなよ。 致し方ないのでまずは場の制圧だ。迅速かつ圧倒的に、その上で成長をこの人に見てもらわねばなるまい。 「さぁいくぞ、蹴散らしてやる!」 「うん、不埒な子にはお仕置きをしないとね?」 英雄たちは同時に立ちあがろうとし、 「——っ、う……」 そしてそれが叶わず躓いた。 「アルス⁉」 師匠の方が、頭に手を当ててまた崩れ落ちたからだ。 「っ、あ——ごめん、ちょっと、」 その先を言葉にする事が叶わずにアルスが空気を求め喘ぐ。 彼は突き刺した己の大剣に体重をかけ何とか倒れ込むのを阻止しているような状態で、その急変にちびは顔色を変えた。 体調不良というにはあまりにも異様だ。 「アルス、アルス! 大丈夫か⁉」 こくりと彼が頷く。しかしとても大丈夫には見えない。 ——もしかして、どこか……悪い、とか。 いいや、彼からそんな申告は今までに無かった。けれどアルスは嘘つきだ。ちびはもうそれくらい知っている。ならば放っておいていいはずがない。 すぐさまアルスに合わせて屈み、荒い呼吸を繰り返す彼の背を優しく撫でる。 「どうした、何か毒でも受けたのか。それとも」 「だい——っ、はぁっ、は……ッ、きにし、な……ぃで」 ん、と彼が言葉を詰まらせて丸まった。軽い過呼吸を起こしているように見える。顔を覗き込んでも視線が噛み合わない。 たちくらみ、と彼は胸を押さえて理由を吐き出す。目の前が真っ暗になるやつ、あれは確かに経験があるがこんな重いものだっただろうか。ちびには分からない。 「すぐ、もとに……、もどる、から」 アルスが手探りといった様子で鞄を漁る。何かを取り出そうとした、その時。 ——分かってんだよ、そう、今が好機だなんてそれくらい! 帝国兵が二人を取り囲むように駆けてくるのが見えた。一番近いやつは銃剣のような武器を既に抜刀している。 ちびは速やかに、鍛え上げた筋力で以てアルスの方へ飛び出した。そう、護りたい者の方へ。 誰かを護りたいのなら。 「——ッ、まずは自分の身を守る事、だろ!」 がきん。上方に振り向けた盾と相手の剣がぶつかった。その向こう、まだ動けないアルスは無傷だ。ちゃんと庇えている、大丈夫。そして己の身にも傷一つない。大丈夫。 再度相手の剣が降り下ろされるが、それもまた盾で受け流す。アルスよりも軽いこんな剣に屈するわけ、ないだろ。 「くそ!」 画面の向こうで相手が顔を歪める様子すらよく見えた。 そんな遅い攻撃で勝てるとでも思っているんだろうか、迷いを捨てた英雄に。 だってそう、もっと重くもっと速い剣戟をずっと受け止めてきたのだ。この盾で。そして何度も弾き返されながら、その間から反撃する術を磨いて来たのだ。この剣で。 「覚悟も実力も足りないそんな鈍で——」 前方へ向かい丸く薙ぎ払うように、一閃。 「俺を倒せると思うなよ……!」 初撃。放ったトータルエクリプスが範囲内の敵の生命を奪い去る。その奥から駆けてくる命知らずに向け再度振り抜く。第二撃、プロミネンス。 数ばかりが多い敵戦力は、二人の間に円形の空白を残して銃を構えていた。近寄るのはもう辞めたってか。は、それで何とかなるって? 馬鹿にするのも大概にしろよ。 ぺろりとちびは唇を舐めた。表情は狩人のそれで、英雄の色だ。相手はまだ分かっていないのだろう、先程までとは何もかもが違うという事を。 更に、その背に並び立つ者。 「——大丈夫なのか」 「——うん、ありがとう」 剣を構え、振り返らずに訊く。彼もまた振り返らず、大剣を構えて返事をよこした。 「ちょっとね、一度に消費しすぎちゃった。ふふ、焦りすぎだよね、僕」 何をとアルスは明示しなかった。ちびもまた尋ねない。 彼の事は何でも知りたいが、今は目の前の敵を倒すのが先だ。 せめてと目で確認した彼の足元には空の小瓶が三つ転がっていた。それはちびの視線の先でぱりんと割れて、幻のように消え去った。 「——いこう、僕の弟子。この背を追う英雄よ」 見た現実を撃ち抜くかの様に、アルスが強く荒野を踏み締める。 数多の憎しみと苦しみの連鎖の中歩いて来た、その重みで以て。 「ちび、君は強く、優しい英雄だ。僕はそれをよく知っている。君の背中をずっと見て来た。意志の強い瞳をずっと、誰よりも近くで。だからこそ君に告げよう」 その声は、優しくなく、冷酷でもなく、ただ凛として。 「僕の背中、君に預ける」 この道を征く者へ。薙ぎ払い進む者として、お前を認めよう。 英雄は星のように玲瓏に、太陽のような英雄へと燎火を託す。 「あぁ——お前の命、預かった!」 進む道の険しさを知っている。見えて来た崖の高さに怯む事もある。けれど、それでも。ここに願いがあるから。向けてくれる祈りがあるから。 だから燃え盛る想いと共に、切先を研ぎ澄ます。 その師弟は互いの鼓動を背中に託し、同時に武器を振り抜いた。
星の光のように、太陽の温もりのように。 師弟はただ互いの行先を想い、その光に惹かれあう。 翌日ちびはいつもの門扉の前で師にケーキの箱を突き出し。 アルスは弟子にカップに入れたクラムチャウダーを渡して。 食べ物で懐柔しようだなんて似た者同士だね、なんて微笑み。 しかしそれでもお勉強は嫌いなので弟子が逃亡を試みて——。 いつもと同じ時間、いつもと同じやり取り。 しかしそこに宿る願いをもう互いが知っている。 護りたいと思うものがある。だからこそ、日常を繰り返すのだ。
歩む道の険しさを知っている。立ち塞がる壁の高さを、裏切りの苦しみを、喪失の悲しみを、無力さを噛み締め眠れぬ夜も、隠すしかない体の震えも、全て、全てを知っている。だからこそ。 通ってきた道の、絶望を、怒りを、それを超える歓びを。他者には関与できない、絶望を、怒りを、それでも立ち上がる強さを。守れる力を、愛する者に。
その強さに、優しさに護る力に憧れた。強さを求めたのは、護りたいと願ったからだ。傷付いて欲しくなくて、ずっと笑っていて欲しくて。信じては裏切られ、それでも信じ続けよう。人の善なるを信じ、信じる力を糧にまた立ち上がる。それが英雄。目指すものの姿。愛する者をこの盾で。
一つの物語の後ろから、もう一つの物語が生まれ出づる。
進路はこの手で切り拓き、創傷の道をも踏み締め歩む。 時に信ずる者へ鼓動を預け、重ねたその背に燎火を託す。
[ 15/118 ] [mokuji]
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