虚像と万華鏡 ★前
あらゆる出会いは偶然の中で生まれる。 しかしその物語を紡ぐものは、紛れもなく運命なのである。
男はその青年を、破天荒な採掘師であると思った。 出会いの日、男は砂嵐が吹き荒れるサゴリー砂漠の南端で霊銀鉱を切り出していた。モールとピックを振るい続けること半日。吹き出す汗が止まることはなく、煽る水は焼け石に溢すかの如くで、濡れた口元に砂が張り付くのが何とも不快だった。 焼け付く太陽がじりじりと肌を焦がしていく。かと思えば夜は途端に冷え込むので堪らない。 そんな劣悪な環境も男にとっては日常である。どんなに過酷でも辞めることは出来ない。ここで採った素材を職人たちへ売り、その成果でやっと日々生活しているからだ。 男が裕福であったことなど生まれてこの方一度もないが、この仕事は成り上がるためにやっと掴んだ契機だった。何が何でもしがみ付いてやるつもりだ。その為なら多少の無茶も厭わない覚悟である。 ――が、今回ばかりは、実を言うと少々途方に暮れていた。 男は遂に手を止めて溜息をついた。俯いた顔を伝う汗が砂に落ち、一瞬で攫われ消える。それが何とも馬鹿らしく、今度は空を仰いだ。見遣った住処の方角はすでに暮れ始めている。もう一刻半もすればここも闇に閉ざされるだろう。全くもってお先真っ暗という他になかった。それは太陽の傾く空よりも。 その時である、空からあの人が降ってきたのは。 不意に、頭上に影が差した。そう認識すると共に影はかき消え、代わりに現れたのは黒いライダースーツの、おそらくは……青年だった。これは一体どういう事だ。男が呆気に取られている間も、現実は止まらない。 彼は文字通り降ってきて、とんでもない高さから何気なく着地を試み、 「――わ、ぁ、まっ……!」 そんな小さな悲鳴と共に尻餅をついた。柔らかに美しく地面へ触れた爪先はしかし細かい砂に逃げられ、その重力を御しきれなかったのだ。 男は突然現れた青年をまじまじと見つめた。尻尾と特徴的な瞳に因り種族はミコッテだと分かる。黒いキャップの下の顔は大袈裟なほど厳重に布で覆われ、その割にゴーグルを着けているわけでもない。手元にはまだ綺麗なピックとモール。それは奇妙な出立ちの同業者だった。 男は青年に親近感を覚えた。こんなつまらない失敗をするなんてと恥ずかしそうに呟く彼が、男と同じ目的でこの場所に来ており、その上年齢も同じ位に見えたからである。 「だから砂漠とか嫌なんだ……暑いし埃っぽいし」 青年の柔らかい声が拗ねた調子で足元へ向かっている。男は苦笑して彼の元へ歩を進めた。その青年には、つい言葉をかけたくなるような不思議な魅力があったのだ。 「そこのお兄さん。随分と高い所から落ちたようですが、大丈夫ですか」 男は似合わないと評判の丁寧な口調で声をかけた。その行為は男の信念に基づいていたが、それ以上に、青年の凛とした空気感がそうさせたのであった。 「立ち上がれますか。砂は危ないから、気をつけて――」 男は青年のすぐそばで手を差し伸べ、そして、たじろいだ。正面から見た彼の瞳が、余りにも美しかったからだ。 それは宝石か、あるいは夜空で瞬く星の光か。 男は一瞬にしてその輝きに魅せられた。 内心動揺する男の前で、青年はどこまでも穏やかであった。彼の花緑青の星が、手を差し出す男を写し込む。それから青年は苦笑してこの手を取った。小さく薄い掌だった。 「うん、大丈夫。ありがとう」 「――いいえ、とんでもない。それより今から作業をするのは危ないですよ。そろそろ暗くなってくるし、夜の砂漠は別の意味でまたつらい」 立ち上がった青年は男よりずっと背が低かった。男の焼けた肌に覆われた筋肉質な肉体と比べると、華奢な彼の容姿は砂塵に浚われてしまいそうなほど頼りない。護ってやらねばならないと思った。 それほどまでにその星は眩く、そして儚く見えたのだ。 「あの、よければ、ですけど。本当に危険なので、自分が貴方のガードを請け負いましょうか?」 美しいこの光を、玲瓏なこの煌めきを。騎士のように護り通してみたい。 男は衝動のまま、彼が作業している間の警護に名乗り出た。 「あ、えっと、護るって……君が、僕のことを?」 男の言葉は青年を大いに驚かせたようであった。しかし男にとってそれは当然の申し出だったのである。 「ええと、それは、なんで?」 「だって、貴方は砂漠にも採掘にも、慣れているように見えません。加えて襲ってくるモンスターまで警戒するなんて」 剣の心得ならある、まだ半人前だが貴方一人くらいなら守る事ができる。男は必死に言い募った。 すると彼はぱちくりと星を瞬かせ、それから一拍おいた後、ふわりと纏う雰囲気を和らげた。 「ふふ、ありがとう、勇敢な採掘師さん」 布の隙間から覗くのは、あどけない少女のような、蕾が花開くかのような、静かで悪戯な笑みだった。 「全くもって君の言うとおり、僕は砂漠が好きではないし、採掘も得意な方ではないかな。なんとかこのくらいなら採れそうだから来てみたはいいけど、着地から既に出鼻を挫かれて残念な感じになっているし」 「ならば、なおのこと自分を頼ってくれませんか?」 「――でも、僕はちょっと必要なだけだから、大丈夫。すぐに街へ引き返すよ。それよりも、君は? その荷物を引いていくにはあまりに時間が遅い。そして、君に野営の準備があるとは思えない」 途端、男は言葉に詰まった。彼の言う事は頭の天辺から爪先まで真実で、男を悩ませる問題を綺麗に言い当てていたからである。 暮れゆく空、失われた移動手段。心もとない財布。 男は現実を思い出して肩をすくめた。 「そう、実は途方に暮れていた所です。連れてきたチョコボに逃げられて、帰る術がないんですよ。この山を人力で引いてイシュガルドまではあまりに無謀と言うものでしょう。納品先が決まっているので放り出す訳にも行きません」 「うん、なんとなくそんな気がしたよ。ええと……そのチョコボって、何羽?」 「一羽です。それ以上は調達できなくて」 「それはあまり感心しない。この量なら二羽で引いて、君はちゃんとチョコボを御さないといけないね。重労働が過ぎる」 青年の声に責める調子はなかったが、透明であるからこそ身に染みた。男は素直に頭を下げ、情けなさに眉根も下がった。 僕に謝らなくても大丈夫だよ、と彼は気持ちよく笑う。 「さあ、この先の話をしようか。僕に一つ提案がある。こちらの作業はすぐに終わるから、僕はバイクの後ろに君を乗せて、荷車をイシュガルドまで牽引しようと思う。だから君は運賃として、霊銀鉱を三つ分けてほしいんだ」 その言葉に今度は男が驚く番だった。バイクで引けば確かに動くであろうが、それでも荷車は相応の重量で、イシュガルドまでは相当に遠い。だというのに、無いにも等しい報酬で請け負おうというのだ。 男はつい青年を観察した。キャップもライダースーツも黒い革製の高級品だ。滅多にお目にかかれるようなものではない。 更にバイクなんて恐ろしく高価なものを所持しているくらいだから、金銭の感覚が違うのかもしれない。だったら問題ないのか? いやそれにしても、幾ら何でも……ああもう、そんなに真っ直ぐこちらを見ないでほしい! 「どうしたの? 何か不都合があった?」 「寧ろ、その逆だから困っているんです」 「そう? なら問題ないって事だよね。じゃあ作業を始めるから、君も支度しておいて」 「じ、自分はまだ返事をしていませんよ!」 「ふふ、そうだっけ? いいんじゃないかな、もう」 くすくすと彼が小さく笑う。 その目に損得勘定の色がない。物の価値を知らないかの如く提案してきた青年には、やはり裏があるようにも思えず、男はただ慌てることしか出来なかった。 「でも……ありがたい事ですが、やっぱり報酬が軽すぎます! 霊銀鉱をたった三つだなんて」 「僕がいいって言ってるんだから良いんだよ。ここで君を放り出す方が寝覚めが悪いし、どうせ僕もこれからイシュガルドに帰るんだもの」 「それでも、せめてあともう少しお礼をさせてください」 「うーん。じゃあ、僕の仕事にアドバイスを頂戴。道具を見ればわかると思うんだけれど、実はてんで素人なの、僕」 正直どうしようかなって感じなんだよね、と青年が小さくぼやいた。その困りきった様子は、台詞が文字通りの意味である事を如実に示している。 軽く振られたピックはまだ新しく、その手つきの余りの適当さからも彼の実力が伺えた。 男は思わず吹き出した。そりゃあそうでしょうとも。返す言葉に青年が拗ねた様子で砂を蹴った。分かりやすく緊張をほぐそうとしてくれている姿に、男は有り難く甘える事にしたのだった。 さて、と青年が聳り立つ岩場に向かい合う。 「僕が欲しいのはね――これ、ヘリオドール原石。ここ、この位置の鉱石だ。だからここから崩していく。ねぇ、合っているでしょう?」 「はい、問題ありません」 黒い革手袋に包まれた指先が、迷いなくその岩壁の一部を指差した。慣れぬと言いながらも、物を見抜く眼は一流のそれである。 指摘した事に対し、見慣れてはいるからね、と彼は軽く返事をした。 「それなら、あとはもう崩していくだけですね」 「うん、任せて。見ててよ――」 それから青年は、どこか得意気な表情でピックを振りかぶった。未だ傷も少ないそれを勢いよく振り下ろし、そして。 こつん、と音がした。 「…………」 「…………」 岩壁に僅か残る、猫の爪の引っ掻き傷のような跡。 ピックの反動で半歩下がった青年と、その渾身の成果とを、男は何も言えないまま見比べた。 こんな、こんな事があっていいものだろうか。 「ねぇ」 「はっ……はい」 隣の青年が、傷を凝視したまま男に声をかける。男は震え上がった。穏やかな声の調子が少々下がっている。抑揚がない問いかけには威圧感があり、男の背筋を真っ直ぐに伸ばすだけの迫力を持っていた。 「これ、どうするのが一番いいと、君は思う?」 「やっ、その……き、筋トレ、ですかね?」 「――なるほど、そう。筋力。筋力が足りないっていうんだね、君は」 「あっ、いやその、まあ、はい、ええ」 「正直者は嫌いじゃないよ、僕はね」 ふぅんそう。そうなの。彼は足元へ目線を向けながら呟く。男はただ縮こまった。内心で冷や汗をかく。まさかここまで酷いとは思わなかったのだ。 その間も隣からは、僕だって飲料の蓋くらい開けられる、という耳を塞ぎたくなるような独り言が聞こえてきていた。 「そういう事なら……うん、仕方ないよね?」 やがて彼は顔をあげ、岸壁を睨み、その後男を振り返った。花緑青の綺麗な星は、最早暗く据わっていた。 「わかった。なら僕もとっておきを出すから。そっちがその気なら手加減はなしだよ」 「あの、岩はモンスターか何かではないんですが」 「危ないから離れていて? あの辺まで」 「いや遠っ」 思わず声に出しつつも男は岩壁から離れた。ほんの数歩ではなく、荷台を三つ並べられるくらいの距離だ。大袈裟な事この上ない。 大人しく見守る男の前で、青年が顔を覆う布を取り去った。それから彼は鞄を漁り、小瓶を取り出して蓋を開ける。その動きには躊躇いがない。百合の様に白い喉に黄色の液体が飲み込まれていき、ぱりんと残骸が散る。こほ、と彼は咳き込んで、同じことをもう一度だけ繰り返した。ぱりん、砕ける音。 次いで、軽い音を立てて彼が白いコート姿に変化した。天球儀を片手に空へ優雅に指を伸ばす。そこから溢れた煌めきが彼に降り注いだ。そこだけが一瞬の夜空だった。 その眩しさに目を瞑り、また開けた頃には服装含め全てが元通りであったから、或いは幻を見たのかもしれない。 「準備よし。いくね」 そして彼は、相変わらず綺麗なピックを再び振りかぶる。その動作は先程とまるで変わらない。男は再演を覚悟した。 しかし、何もかもが違ったのだ。 男はその現実の前に悲鳴をあげた。 「だめだ、危ない――!」 ピックが触れた先から、大きな亀裂が走った。男は震え上がり、青年を助けに一歩前に出ようとし、しかし叶わなかった。そこに行けばただでは済まない。最悪命を失うかもしれない。現実的な恐怖が男をその場に縫い留めたのだ。 だって、こんなのは悲劇に他ならないじゃないか。 運悪く脆いところに突き立ったピックは岸壁を割き、災害を引き起こした。すぐに巨大な巌が彼を押しつぶすだろう。 そう思った時には、彼の手元が動いていた。淡く光を放ちながら、ピックを更に奥へ押し込む。先端がより深く岩に刺さり、蜘蛛の巣のような罅割れが走った。 そして上空で弾けたのである。 巌は礫にかわり、青年の上へ降り注ぐ。隕石の如き災いが次々に落ちる。 しかしそのメテオは星の光に弾かれ四方へ散った。青年には傷一つ残らない。 彼はあの眩い一瞬で、占星術を使い己に星の加護を与えていたのだ。星のヴェールが盾となり、夢を現実に変えたのだった。 礫と光の中心で、彼は再び小瓶を割った。ぱりん。小気味良いその音と共に青年が振り返る。 「ね、出来たでしょう?」 そして晴れやかに笑うのである。 はは、と男の口から声が漏れた。もう止まらない。湧き上がる衝動のまま男は天を仰いだ。なんて事だろう、彼は意図してこの状況を引き起こしたのだ。だってそうだろう、度胸があるにも程があり、偶然にしては下準備が良すぎる。 「ははは、あははは! すごい、こんな事があるのか!」 鉱石に囲まれ微笑む青年はやはりどこか得意げで、それもまた堪らなかった。確かにとっておきだ。この距離まで離れなければならない筈である。 それにしても凄まじい。これら全てを荷台に積む事が出来るのかを心配しなければならなそうだ。そのお金で少しくらい奮発しても――いや、それは無理か。男はその成果を前に肩をすくめた。こんな事は一回きりの奇跡なのだ。 そう、奇跡だ。他の者が夢の様な収穫に心を躍らせたとしても、普通ならば死んでいるに違いなく、真似しようと思って出来ることでもないだろう。足元に転がったピックはその一回でへしゃげていた。故にその存在が眩しい。 ああ全く、なんて破天荒な採掘師だろうか! 感嘆する男の前で、しかし当の本人は当たり前の静かさでそこに在る。 ぱん、と彼が手を叩いた。革の柔らかい音がした。 「――よし。それじゃあ、帰ろうか。君、何処かに宿はとってる? 流石に一晩で動くつもりはなかったでしょ」 「ええ、ウルダハで一泊しようと思って砂時計亭に部屋をとりましたが……」 言いつつ、青年が軽快に鉱石を荷台へ積み込み始めた。軽く放っては小瓶を割る。男はその作業に倣いながら答え、その先を言い淀んだ。そこはウルダハで著名な宿で、いまから駆け込んで青年の部屋を取れるかどうかは分からない。そして男の賃金でなんとか取れた部屋は大変に狭いのだ。とても二人は眠れない。 しかしやはり、青年は笑うのである。 「大丈夫、何とかなるから。それよりも君、これ急いで積まないと夜になっちゃうんだから、そっちの心配をしてよね」 ならいいか。簡単に納得して作業に集中する。だってそう、男はこの時点ですでに学んでいたのだ。彼が大丈夫と言う時は、本当にその通りなのだという事を。
実際、彼の言葉は違わなかった。 青年のバイクに揺られて暫く、夜が更ける前には無事ウルダハに到着した。驚いたことに、心配した部屋は予め確保されていた。そもそも彼が泊まりにきた時の為に部屋が空けられていたのだ。しかも最上級の部屋だった。一体何者なのだろう、この不慣れで類を見ぬ採掘師は。 首を傾げる男の隣で、彼はきっちりその分の料金を払おうとしてフロントに怒られ、せめてと普通料金を最早押し付けていた。その騒ぎはかの有名店長モモディをも巻き込み、その上かなり気安い様子であった。何なんだこの人は。本当に謎だ。 聞いたところ、昔この土地で色々とあり便宜が図られているらしい。お詫びと言われれば断れないのだとか。何に対してかは知らないが、結局よくわからない話だった。 唯一分かるのは、只者ではないという事だけ。 そんな相手から同室にしてもいいと提案された男は、千切れんばかりに首を振って辞退した。許されざる事だとすら思ったし、その光景の後見る狭い部屋は何故だかひどく落ち着いた。 次に二人はマーケットに寄った。そこで不必要な分の鉱石を売りに出し荷を軽くすることが出来た。これがかなりの金額になった。宝石類をカットしてから手放したからだ。 誰に何を頼んだのか、またいくら払って加工してきたのか、それを男は知らない。彫金ギルドへ行ってくると顔を出して、戻ってきたと思ったら、その手元の石が全て輝きを放っていたのである。これは一体どういう事だ。男がロビーで待った時間はそう長くないというのに。 しかもそれを有名な宝石商が纏めて買い取ってしまった。流れるような作業だった。男からすれば目が飛び出るような金額がやり取りされ、結果として現在、クイックサンドで夕飯をご馳走になっている次第である。 ああまったく、なんてついている日だろう。目的は必要以上に果たされ、財布はこれまでになく潤い、とんでもない美人と食事を共にしている。男だけれど。 男は盃を傾けた。強めの酒が喉を通り、焼けるような熱さが堪らなく心地よい。 その向かいでは件の美人が頬杖をつき、どこか気怠げにコーヒーカップへ口を付ける。 「君、お酒強いの?」 「弱くはないくらいです。自分実はこのあたりの出身で、ウルダハのお酒はなんかこう、心惹かれるものがあるんですよ」 「そうなんだ。それはやっぱり郷愁というものなのかな」 「どうでしょうね、ここに居たのはほんの子供の頃で、そもそもお酒が買えるような余裕も全然なくて」 青年は白いコートに着替え、それっぽっちで足りるわけもない食事をかろうじて突きながら、静かに相槌を打っていた。男はそんな姿に促されるように、ついあれもこれもと話して聞かせてしまったのだ。 だからそんな身の上話が始まったのも当然で、その相手が彼であったのもまた、やはり必然なのであった。 「自分は、ウルダハ近郊のスラムの出なんです。貧しくてたまらないのに立派な城壁ばかりが見える、惨めな暮らしだった。親もいない、兄弟もいない。地を這うようにただ生きた時代。いい思い出は一つもない、ただ辛かった。霊災があって、それからは最悪だ、人が死に、物資が不足し、綺麗な街の外に捨てられるごみすらも減った。漁る滓すらなくなったのに、野党は増える。野党に襲われ、野党が増えるんだ。俺もそうだ、それ以外になかった。ボロ布と枯れ枝で出来たスラムはあっという間に燃えて消え、俺の前に残ったのはその男達だけさ。奴らを前に、俺は石を研いだナイフで斬りかかり、傷一つ付けられず転がった。それを面白がったオヤジは俺を拾った。オヤジ達は生きていければ何でもよかった。俺もなんでも良くて、だからそれがスラムを燃やした奴でも構わなかった。生きているだけで精一杯だ、綺麗事なんか言えなかった。そんな時代だった、なあそうだろう」 男は一息にそう吐き出した。それは男が道端の小石だった頃の物語だ。荒くれ者の中で生きてきた。生き延びる術は目の前のただ一つだけだったのだ。奪わねば奪われる。そこに正義なんていうものが介入する隙間なんかなかったのだ。 青年はただ静かに、そうだね、と言った。 その声は神聖なまでに透明で、男の胸に染み渡った。ふと懺悔したいような衝動に駆られ、そんな事をしても仕方がないから、代わりにまたその酒を煽った。故郷の味は、知らない香りで喉を滑り落ちていく。 「それから暫く、俺は野党の一番下っ端として各地を転々とした。当時の俺はまだ十にやっと届くかというところで、戦力として役に立った事なんぞなかった。水汲みや火おこし、そんな仕事ばかりさ。ひょっとしたら、ガキが人殺しをしなくて済むように、なんて気遣いだったのかもしれないが、今となっちゃ何も分からない。オヤジは死んだから」 「そっか。君にとって彼は、優しい人だったのかな」 「そうだな、そうかもしれない。おかげで俺の手は綺麗なままさ。……ある日、オヤジは狩先から戻らず行方不明になった。どうやら大怪我をして身動きを取れなくなっていたらしい。帰ってきたのは数ヶ月後だ。その頃には俺たちは飢える寸前だった。仲間は俺よりいくらか歳上の連中ばかりだったが、それでもまだガキだったんだ。オヤジはそんな奴らを拾って、皆で奪って生きてきた。俺達はオヤジに依存した生活で、オヤジなしでは襲う場所も手順も分からなかった。事実その数ヶ月の無茶なやり方で、何人も死人が出たくらいだ」 言いつつ、男はソーセージにフォークを突き立てた。じゅわりとあふれる肉汁は幸福の象徴だ。当時はご馳走であったそれが、今はこんな簡単に手中に収まっている。 「戻ったオヤジは大いに慌てた。あいつはゴロツキだったが、それでも頭としての情をもった人間だった。皆すぐにでも何か食べたかった、けれど周りには大きな街と深い自然しかなくて、俺たちでは手も足も出なかった。その頃街の方で、飢えた仲間が殺しの現場を抑えられそうになって、証拠の隠滅を図ったばかりだった。やり口が派手になり目をつけられた俺たちは、逆になす術がなくなった。飢えるばかりだった。オヤジはしばらく悩んで、それから一人でまた出て行った。帰ってきたオヤジはご馳走を持っていて、俺たちは泣いて喜んだ。最後の晩餐だった」 オヤジはその後一週間ほどで死んだよ、と男はかつてを振り返って告げた。オヤジは罰を受けた。罪が明らかになり、野党の子分全員の罪を己のもとして申告し、その上で逃亡した。最後は討伐部隊に討たれたと聞いている。男はそれを当然だと思える程度には利口で、理不尽だと思うくらいには子供だった。 「こんなのはよくある話で、あの時代何処にでも転がっていた人生だ。だが俺たちが恵まれていたのは、その後急に環境が良くなったことだった。あらゆる街が開放的になった。どうにもならない問題が、小さな事から大きな事まで、徐々に解決していった。余裕が生まれはじめて、慈悲が罪人にまで及ぶようになった」 保護者が子分を守って死んだことくらい、頭の悪い野党の集まりにだって理解できていた。だからこそ名乗り出た者達を、街の人間は処刑しなかったのだ。まだ子供と言っていい年齢だった一味は保護され、試験的に更生のための授業を受けることになった。そこで学んだのは手工業で、そのおかげで今もこうして生活が出来ている。 きっと、あの時代のままならすぐに殺されていた。全ては運が良かったからだ。世界が温かな方へ向かいはじめた、その時だったからだ。 その変化には後に英雄と呼ばれる誰かの尽力があったと聞くが、一民草でしかない男は彼の名前も顔も知りはしない。 ただ感謝している。おかげで生きてこれたし、きっと今男と同じ苦しみに喘ぐものは減っているはずだ。 「だから俺は――自分は、今度は奪う側じゃない、守り慈しむような生き方をしてみたいと思ったんです。今は、イシュガルドの騎士を目指しています」 そう言って男は頬をかき青年に笑みを向けた。言い切ってしまうと妙に恥ずかしい。こんな初対面の相手に何から何までぶち撒けてしまうなんて、どうした事だろう。 しかし彼はそんな男を嘲笑するでもなく、ただ興味深そうに首を傾げた。その目は悪戯な光を帯びて男へ向かう。 「学んだのは手工業で、いまの生業は採掘師なんでしょう? どうして騎士を目指そうと思ったの?」 「はは……そうですね。素材の為にクルザスの魔物を皆で狩っていた時に、深追いしすぎて窮地に陥ったことがあったんです。そこを騎士に助けてもらいました。暫くドラゴンヘッドで生活をして、その時に色々考えることがあって、まあ、自分もこういう風でありたいと、似合わないって言われますが言葉も改めて――」 照れを捨て切れないながらも男は夢を語った。そう、男が笑われながらも言葉を丁寧に丸めるのは、憧れた世界があるからだ。野蛮な盗賊ではなく、紳士的な騎士でありたいと、いつか必ずそうなると、心に決めた事があるからだ。 「その後竜詩戦争に巻き込まれて、イシュガルド内部のスラムにまた転落したんですが、国や英雄様の計らいで蒼天街が出来た。おかげで今は仲間みんなで一軒の家に住み、手工業で真っ当に生きています。自分はあの時のような騎士になりたくて、今は修行をしながらお金を稼いでいるんです」 その騎士は戦争の折に亡くなったと聞く。かつてイシュガルドは閉ざされた国だった。騎士の分け隔てない優しさがなければ、当時の自分達が助かることは無かっただろう。いつも誰かの慈愛でこの命は護られている。 だからこそ、その英雄たちに憧れた。まだ経験のない、その生き方に憧れた。 男は胸中を余すところなく彼に告げた。対する青年はそっと目を伏せる。 「そうか……そうだね。こうやって、みんな繋いできたんだ」 黙祷を捧げるかのように、小さな祈りを紡ぐかのように。睫毛の向こう側でもその星は煌めきを失わない。 顔を上げた時、やはり彼は穏やかに笑っていた。彼にもまた飲み込んできた過去があるのかもしれないと、ふとそう思う。しかしお互いそれを口にはせず、彼はただ頷くのだ。 「うん、そうして今の君があるんだね。お金が必要なのは、装備を整えるため――かな」 「はい。今回は蒼天街からオブジェ作成のために霊銀鉱の大量納品リーヴが発行されていて。もう少しで貯金が目標額なんです。いつか自分が持ち込んだ霊銀鉱で作られた装備を着る日も来るかもしれない。そう思うと多少の無茶でも頑張ってみたくなりまして」 「ふふ、それでこんなに無理をしてしまったんだね。気持ちはわかるけど、まずは自分の身を大事にしないとダメだよ?」 そう言って、青年は指先を男のささくれだった手に向けた。するとそこに小さな星の光が宿り、新しい傷を包み込んだ。光が消えた頃には傷も共に掻き消え、気のせいでなければ古傷の跡すら薄れたように見える。 「……ずっと、思っていたんですが。貴方は本当は何者なんですか?」 その見事なまでの業は至極当然といった風に成され、男は思わずそう呟いた。流れの治癒術師にしては手際が鮮やかすぎるのだ。そういえば砂漠でもそうだった。 「うん? 僕は……そうだな、不慣れな新人採掘師、っていう所かな?」 「そんなまさか、それが本業じゃないでしょう、貴方は」 ふふ、とまた青年が笑った。控えめなその笑みはしかし酷く鮮やかで、男は続く言葉をつい飲み飲んだ。あぁ、こんな事ばかりだ。その鈴の音に逆らえない。 「でも、そうだね。確かに僕の本業は占星術師――と、いう事になるのかな。けれど、君と過ごした時間も、採掘を試みてこんな事になった僕も、何一つ嘘じゃない。だから君から見た僕はきっと非力な新人採掘師で、多分、それで何も間違いじゃないんだと思うよ」 僕はそれ以外の何者でもなく、それ以外である必要もない。だってそう、今この瞬間は全て真実なのだから。 そこで彼は一度言葉を切り、ぱくりとガトーショコラを口に運ぶ。鎚分と幸せそうだ。きっちり口の中を空にしてから、だからね、と彼は言った。 「君もまた、かつて厳しい事情を抱えて生き抜いた日々も、いまピックを振り上げる時間も、獰猛な獣相手に剣を振り下ろす鍛錬も、全てが君の真実でしょう。だからそれでいいんだと僕は思う。全てに意味があって、だから君は今ここにいる」 今君の目の前にある現実、それを信じてみてもいいんじゃないの。それは僕にとっても真実だよ、だから。 呟くように言って、彼はカップを傾けた。ああ、確かにその通りだった。広い砂漠で奇跡の様に出会い、今は同じ卓を囲んでいる。その事実が全てだ。そこにはきっと意味がある。 男は青年の言葉を肯定し、長く短い人生の詩を終いにした。 かわりに山になった戦利品の分配について話し出す。霊銀鉱三つどころではない宝の山を、その他素材を売った金銭を、どうしようか――。
結局彼がどこの誰なのか、男は名前すら尋ねなかった。彼もまた訊いては来なかった。この小旅行はそんな、煌めきと偶然の物語だったからだ。
しかしその全ては運命により紡がれた物語であると、後に男は知るだろう。
――さて、舞台は揺れ動く。イシュガルドの蒼天街、各地から職人が集まり腕を振るう、新進気鋭の区画にて。 蒼天街のとある彫金工房、その場所こそが次の運命の一幕を飾るのである。
さて、星の彫金師という呼称を聞いた事があるだろうか。 工房を経営する男は、その名前を凄腕彫金師の銘として知っていた。 小さく華奢で、仄かな温かみをもつ作品を生み出す者。 彼が生み出す装飾品は繊細で美しく、それでいて丈夫。どこか儚げな意匠は星の光を思わせる。数が出回る事はなくて、気が向いたかのように不意に新作が流通するものだから、希少価値も高い。 作品を見掛けることが多いのは、やはり本場のウルダハだ。女王直属で動く事もあると聞く。時に専属講師として、時に王宮御用達の彫金師として。普通は滅多にある話ではない。 いつか同じ職人としてその作品を手に取ってみたい、そう思った事だってあったのだ。 その銘が刻まれているというだけで価値が上がる。そんな彫金師の名前として、男は彼を知っていた。 まあ、会った事はなかった訳だが。 「あっ、の、これ……っ、どこ置けば、いいかな?」 突然、本当に突然、その人は現れた。 金属の山の向こうから柔らかな声がした。それが彼への第一印象だった。木箱とそこへ積み上がった大量のミスリルインゴットがゆらゆらと動いている。 「ほぉ。こりゃまた随分見事な加工品だな」 「そのまえにっ、これっ、置かせて! 僕もう、腕がもげるっ」 光を反射して煌めくその金属塊は宝石のようで、通常持ち込まれる物と比べ明らかに異質だった。つい手を伸ばそうとした手を、しかしその声が制する。 成程たしかに彼を見遣れば、木箱を掴む黒い手袋に包まれた手が震えていた。この細い指で支えられる重量ではない。 男はひょいと荷物を取り上げて、近くの机へ下ろした。これで存分に検分できると思い、その前に。 「ねぇ、何でその木箱が軽く持ち上がるの? こんなの絶対におかしい……」 「はっはっは、ルガディンをなめるなよ小僧」 男は豪快に笑いながら、何か小瓶を煽る青年を観察した。黒い洒落た華奢なスーツに身を包み、頭には同じく黒い小さな帽子が鎮座している。フレームの細い丸眼鏡の向こうには花緑青の煌めきがあり、それはまるで、ああ、星のようだ。そんな彼の姿は。 「……そんな小洒落た彫金師がいるかよ」 「んえ? ああうん、僕も筋力補正のかかるジョブに着替えてから運ぶんだったなって思ってた」 「そういう意味じゃねえよ、さては天然だな」 彼はまた、うん、とよく分かっていない顔で首を傾げた。これは駄目だ、まだ午前中だし寝起きかもしれない。 男は諸々諦め、お楽しみのインゴットへ向き直る。さあ、この宝の山を思う存分見てやろうじゃないか。 普段なら鷲掴みにするその素材という名の作品を、しかし今回は気が引けて、手袋をはめ宝飾品と同じように検品する。このまま飾りたいくらい見事だ。これをこのやたら美人な青年が製作したというのか。いいや、納入を請け負っただけかもしれない。そこらの人間にこんな仕事ができるものか。お前は出来るのかと言われれば、ああ、無理だとも。 男は一つを手に取り、裏返した。銘を確認し――。 「あ……ッ、アルス・セルティス!?」 思わず裏返った悲鳴をあげた。取り落としそうになり慌てて丁重に布で包む。それからもう一度その名前を見た。間違いない。なんてこった、これは滅多に市場に出回らない、伝説の彫金師の作品だ。 アルス・セルティス。彼にはゴッドベルトのような爆発的知名度はないものの、その作品の精巧さは界隈に広く認められている。繊細な細工が特徴で、本人の顔を知るものは殆どいない。そんな彼についた呼び名は。 「星の彫金師――」 悲鳴とも呟きとも取れぬその一言に、傍の青年が答える。 「ん、なに?」 そう、星の彫金師という呼び名に、隣の青年が答えたのだ。 「――ん!?」 「えっ、どうしたの? 何かおかしかったかな」 目を剥く男の視界には、自ら検品しだす若い青年の姿が写っていた。彼が手にするインゴットの全てに同じ名前がある。本当にとんでもない。一体どのくらいの価値を秘めた木箱なのだろうかと、目眩がするような心地だ。 「これ、リーヴを受けて持ってきんだけど……もし何か不備があるようならここで製作し直すよ。確認してくれる?」 リーヴを受けて、今ここで。彼自身の手でそれが可能だと言う事だ。ああ、つまり、そういう事なのだった。目の前にいるのだ、あの、星の彫金師が! 「お前――いや、貴方、星の彫金師殿」 「ふふ、そんな仰々しくしなくていいよ。なんだかそれ恥ずかしいし」 「なら、アルスさん」 「普通に呼び捨てでいいんだよ?」 「じゃあ小僧」 「君ってすごく極端だってよく人に言われない?」 親方には一か百かしかないと弟子から言われるのは事実であるが、それはさておき。 男は改めて目の前の青年――星の彫金師アルスを観察した。そう思ってみれば、仕立ての良いスーツがよく似合う洒落た姿は、ウルダハ王宮に出入りしていたとしてもなんら違和感がなかった。小さな手のひらと華奢な体つき。 静かな佇まいが何となく彼の作品の在り方を思わせる。そういえば、彼の作品は小さく儚げな宝飾品ばかりだった。 成程、星のような奴だ。男はうむと頷いた。 「――よし小僧、そこへ座れ。そのテーブルの――違う向こうだ、そんな隅に行くな。一番片付いてるそこ、そう、そこだ。そこへ座って待て」 「ああうん、わかった」 そんな神の手の持ち主を小僧呼ばわりする事に決めて指示を出す。相手も異議を唱えず従った。小僧――アルスが大人しく作業机につく。そこだけは何とかぎりぎり、来客用テーブルと呼べる場所だった。 それからぐるりと作業場の奥へ向き直り声を張る。 「おぉい、お前ら! 茶を淹れろ、とびきり一番に上等なやつを、今すぐにだ!」 「ええっ、ウチにそんなもんないですよ! あるのはほら、そこに転がってる親方の酒瓶だけですって!」 「なんだとぉ? じゃあ今すぐ買ってこい、向かいの雑貨屋にそれくらいあるだろう!」 その怒号を受け弟子の一人が外へ駆け出して行った。湯を沸かせぇ、と指示を出し、暖炉の上にやたら綺麗なヤカンが乗った。なにせここは彫金工房である。金属類が磨かれているのは矜持なのであった。 「なんか、リムサの海賊みたいだね?」 その様子を見てアルスがくすくすと笑う。それは男の過去を振り返れば当たらずと雖も遠からずといった指摘だったが、あえて男は何も言わずに肩をすくめてみせた。誰しも秘密を抱えているものだ、そうだろう。彼もそれ以上追求してこず、ただ少女の様にあどけなく笑っている。 それで、と男は向かいに立ち煌めく金属の山を指差した。 「これだが、俺はいくら報酬を払えばいい。こんなもん丸ごと買い取れる資金なんぞウチにはないが」 「普通のミスリルインゴットなんだから、その通りの値段でいいんだけど」 「普通〜? これが普通だって、そりゃとんでもねぇな。小僧、さっきも思ったがお前まだ寝ぼけてるのか? じきに昼だぞ」 「本当に君って素で失礼じゃない?」 まあいいけどね、と返すアルスの声はふわりと柔らかく楽しそうだ。男は豪快に笑い返した。 「それはともかく、僕もその話をしようと思ってたんだ。リーヴの内容を見たよ。モニュメント製作の旗頭はここなんだってね。そのために君は前回霊銀鉱の大口納品リーヴを発注し、今回はその加工の手を募った」 「ああ、その通りだ。もともと材料を蒼天街で働く内外の人間に調達してもらう事は決まっていて、地域活性化の為に予算もついていたからな」 「うん、この事業にはアイメリクからの援助もあった。君はそれを最初のリーヴの報酬に充て、以降の作業は仲間内で仕上げていく予定だったのだろうと僕は推測している」 「その通りだが小僧、いくら星の彫金師殿でも、政治的に偉い奴にはさんくらいつけた方がいいと思うぞ」 「君にだけはその台詞言われたくないな……」 まあいいけどね、ともう一度偉大なる彫金師はぼやいた。拗ねてしまったかと思ったが、彼の瞳は宝石のように煌めき揶揄うような色を浮かべている。これは気にしなくてよさそうだ。 「お前の言う通り、本来これはうちの工房内で仕上げるつもりだったインゴットだ。しかしお得意先からの大口の発注が被っちまった。今後の為にも反故にはできねえ。だから俺は山のような霊銀鉱を夢のようにインゴットへ変えてくれる奴を求めたのさ。まさかこんな大物がつれるとは思わなかったが」 そして夢には代償が付きものなのだ。リーヴを手配した事により両方の納期は守られるが、工房の経営としてはかなり厳しい。なんせ、モニュメント作成自体が慈善事業なのだから。 そこで、とアルスが手を叩いた。ぱふ、という間の抜けた音が明るく響く。 「僕はこのインゴットの納品について、君に対し金銭の要求をしない」 「ああそりゃ有難いな――て、は? 何だって?」 「だから、お金を払わなくていいよって。だってこれ、孤児院であるロランベリー・フィールド前の東屋に設置するモニュメントの材料でしょう? 僕もあそこには縁があって、何か力になれたらなって思ってたから」 「小僧、お前いい奴だな……」 「えっ、何でこれだけで泣いてるの」 いい奴にはいい腕が宿るのかもしれない。これだけでと言うがこれ以上などあるはずもなかった。己の作品がどれだけの価値を持つのか彼は正しく理解していないに違いない。 一般的な職人の手による作品であろうと財務を圧迫することに変わりはなかったので、どちらにせよその申し出はありがたかった。これはもう甘える他無いに決まっている。 しかし、それで終わらないのが星の彫金師であった。 「でもね、代わりに僕は二つの事を君にお願いしたいんだ」 「おう、なんだ」 ふむ、やはり全くのタダでとはいかないか。男は腰に手を当てて胸を張った。出来る範囲の事ならどんとこいという事だ。 男に対し、その彫金師は夢を紡ぐ指を立て、魔法をかけるように軽く振って見せる。 「まず一つ。数日後くらいに、ミスリルインゴットを大量に買い求める男性が現れるだろう。君はその人に、定価で、僕の銘がはいったものを売ってあげてほしいんだ。僕のこれはその人が切り出した霊銀鉱を加工したものだから、彼の夢に届けてあげたくて。そのインゴットはこの山の――えっと、この分で、これについても料金を取らず君に渡す」 「んん、まて、それじゃあ売り上げはどうなる? 俺が得をして終わるぞ」 「君はそういうの嫌い?」 「いいや全然、善意には甘えるのが礼儀ってもんだ」 「ならそれでいいとして」 本当に至極どうでも良さそうに、彼は報酬の話を流した。こんな状態でまともに生活できているのだろうかと心配になる。 それでもまあ、くれるものは貰っておくべきだろう。 「それでね、もう一つ。その男性が買い物に来た時に、この箱を彼に贈って欲しい。僕から彼への門出の祝いとしてなんだけど――ああ、名前は出さなくていいよ。僕、その人に名乗らなかったから」 そう言って、彼は鞄から小さな化粧箱を取り出した。差し出された箱には美しい装飾が施され、当然のように彼の銘が入っている。 「――あ、開けてみても?」 「ふふ、いいよ。見たいって顔に書いてあるもの、君」 「そりゃ見たいに決まってるだろ、星の彫金師の作品だぞ! おい、お前らも集まってこい! 滅多にない機会だ、見て学べ!」 待ってましたとばかりに集まってくる弟子達を後ろに従え、そ、と箱の蓋を開けた。その中にはヘリオドールを使ったアクセサリーが、一式綺麗に収納されていた。 その煌めきといったら。 「こりゃあ……、とんでもねぇな!」 ああ、本当に、なんてとんでもない腕だろう。 そこにあるのは、初心者でも制作可能なありふれたアクセサリーだった。まあ市場に出回っているものにはこんな繊細な彫り込みなど無いが。美しく光を反射する様はまるで別物にしか見えない。本来はもっと無骨な印象だったはずだ。 儚くも凛と煌めくそれは、まるで夜空に瞬く星のような。 ひぇー、という声が背後から上がる。 「えっとあれ、親方には、馬鹿野郎とふむと、とんでもねえ、これしか無いんだ。とんでもねぇが出るなんて本当にとんでもない事だぞ」 うちの一人が頬杖をついている本人にそっと教えるのを耳だけで確認しながら、夢中でアクセサリーを検品する。今はこれで手一杯だが、よしお前はあとでシめよう。 「しかしだなあ、小僧、お前そいつの財産消し飛ばす気か? 王宮へそのまま納品できるようなもんポイと寄越されちゃ、そいつ財布ごと消し炭になるぞ」 「だから、お金はとらないってば。元々僕が個人的に面倒を見ている子に同じものを作っていて、今回はそのついでだもの。これくらいの事でそんな金額とってちゃ仕方ないでしょ」 「はぁ〜……」 「えっ、なにその溜息。そんな目で見ないでくれる?」 「いや、なんで星の彫金師の作品がろくに市場に出回っていないのか、その理由を知った気がしてだな……」 成程、ごくごく個人的に作成して身内へ渡し、そのついでに生まれたものが気まぐれにマーケットに流されていたという事だ。今回はその気まぐれが、偶々遭遇した誰かへと向いたのだろう。 ああ全く世話が焼ける。男は頭を抱えた。青年は心外だと言わんばかりだ。それはいっそ不思議そうにすら見え、ため息が出る。この様子だと、普段から適当に定価で売り払っているに違いない。その後価値を知る者の間で競売を繰り返し値段が釣り上がっていくのだ。 この青年の懐には入らぬまま――いいや、彼のこういう性質を理解して公平に管理してくれる宝石商もいるだろう。如何にも天然の善人だ、周りが知らぬうちに彼を守っているのかもしれなかった。どうかそうであってくれと思う。 「それで、受けてくれるの?」 「そりゃ勿論受けるさ。というより他に選択肢なんて――」 ないだろう。その台詞は、しかし最後まで紡がれず霧散した。 ばたん、と。二人の間で取引がまとまった時、工房の扉が大きく開かれたからだ。そこから二つの人影が勢いよく室内に転がり込んでくる。 一つは茶葉を買いに出た弟子で、もう一つはそのまま男の足元へ駆けてくる――男の、幼い愛娘だった。 「おとうさん、おとうさん!」 「おお、どうしたフローラ」 彼女は脚にしがみついてわんわんと泣くばかりで、その先の言葉が出てこない。弟子に視線をやると、彼もまた困った顔をして肩をすくめた。 何はともあれ尊敬する客人を放置もできず、弟子には茶の支度を命じる。 男はそっと娘――フローラの手を脚から外し、目線が合うようしゃがんだ。頭を撫でてどうしたと尋ねれば。 「おかあさんの目、失くしちゃった!」 そう叫ぶように返事があり、男は頭を抱えた。それは彼女の宝物の事を指していたが、その小さな丸い宝石を探すのは随分と苦労するだろうと思ったからだ。 彼女が泣き止まない。宝物の石は手元にない。おかあさんも既に居ない。 「おかあさんの、目……」 すると、いつの間にやら隣に立っていた星の彫金師が、ぽつりと娘が発した単語を呟いた。彼は何やら考え込むような顔をして娘を見ていた。 男はそんな彼へ口を開く。 「おかあさんの目というのは、俺の妻の目の色に似た、丸い宝石の事だ。少し前に商談のため家族全員でラザハンへ行ったんだが、そこであの災いに遭遇した。間の悪いことに、俺は丁度仕事で妻子の元を離れていてな。娘のフローラとはラザハン市街で再開できたが、妻は亡くなってしまっていた。娘自身は竜騎士に助けてもらったんだと。再開するまでの間、市街で相手をしてくれていた奴が他にも居てくれたらしく、その時に宝石を貰ったようだ」 母を失って泣く幼子へ、その母の瞳と同じ色の丸い宝石を。 「娘はそれ以来、宝石をおかあさんの目と呼んでいつも持ち歩いている。最近はまた笑うようになってくれていたんだが――よわったな」 男は娘の頭を撫でながら、もう片方の手で己の頭部を掻いた。娘のその石は今でこそ傷だらけだが、もらった当時はそれは見事な作品だったものだ。制作途中だったのか銘はなく、恩人の正体は分からずじまいだ。 そんな宝物の代わりを用意することは出来ず、いや、きっと代わりの何かでは意味がないのだろう。代替品など存在するわけもないのだ。妻にも娘にも、縋るように握った優しさにも、全て。 ともかく探しに出なくてはと男が腰を上げた時、その彫金師は逆に腰を落とした。 「――そんなに泣かないで、小さなお嬢さん。僕がまた見つけてきてあげるから」 その声は穏やかで、あまりに透き通り、荒削りの工房に降った。美しい青年に傅かれる幼い少女。柔らかな微笑みと煌めく花緑青の星。ターコイズ・グリーン。 見慣れた場所が随分と神聖な場所のように思え、男は思わず首を振る。そしてまた視線を戻すと、娘の耳元には緑の煌めきが宿っていた。 「やっぱり君にはまだ大きいかな。それに緑が深すぎる――でもごめんね、いまは他に手持ちがないんだ。必ず瞳を探し出すから、それまでこれで我慢してくれると嬉しい」 そう言って彼は指先で耳飾りを軽く揺らした。いたずらに、存在を指し示すかのように。それは幼子の興味を引くには充分過ぎた。 彼は近くの姿見の前へそっと娘の背を押す。行っておいでと星の瞳が緩んでほどけた。 「君にまた魔法をかけたよ。さあお姫様、見てごらん」 「――うん」 娘はどこか夢現に頷く。そして我に帰った様に駆け出した。ほんの数歩でたどり着いた鏡に手のひらをつき、小さな耳飾りを凝視する。マラカイトイヤリングの深い緑が贈り主と似た優しさで彼女を彩っていた。 きれい。娘が言った。きれい。ただそれだけを二度、娘は呟いた。涙をぴたりと止め、その儚げな光を暫し見つめていた。 やがて彼女は振り向き、漸くその人の姿を視認し、そして。 「あれ、わたし、知ってるよ」 娘は母譲りの新緑の瞳を大きく開いて青年へ手を伸ばした。そう、つまり彼こそが。その人こそが、かの被災地で出会った優しさに他ならなかったのだ。 「あの時の、おにいちゃん」 「うん、また会ったね。だから、僕の言う事を信じて。ここでちゃんと待てる?」 星の彫金師が笑う。穏やかに、透明に、しかし何処か威圧感をもって。今や彼はこの場に君臨する王だ。 「ほんの少しの間。その光が君の隣にいるよ。だから大丈夫――そうでしょう」 彼が言葉を下賜する。それはお願いではなく確認だった。慈愛に溢れながらも有無を言わせぬ彼の姿は堂々として、そしてあまりに自然だった。 故に、斯く在るべきと娘もまた彼に従う。 「……わかった。おにいちゃんが言うなら、まてるよ。それに、おそろいだから」 「ふふ、本当だね」 二人はそう言って耳飾りを揺らし合った。確かに彼の耳先にも緑の石が宿っていた。それは星の瞳と同じ色をしていた。 男はそのやり取りに何も口を挟まなかった。 ――あぁ。男の感嘆は音にならず胸に宿る。ああ、きっとそう、これはそういう物語なのだ。 彼もまたあの災害の地に居たということ、そして娘に出会っていたこと。 それはもしや運命なのではと思ったこと。 男は何も口にせず静かに二人の会話を見守った。 星の彫金師、その華奢な手が優しく娘の頭を撫でる。 「……えっと、そうだな。まずは、何処で遊んでいたのかを僕に教えて」 そしてアルスという名の類稀なる職人は、小さな娘から巧みに情報を引き出していった。まるで普段からそういった事を生業にしているかの如く慣れた様子で――そう、熟練の冒険者のように。 あっという間に捜索箇所を絞り込んだ彼は、すくりと身軽に立ち上がり扉へ手をかけた。止める暇もなければ、茶を出す間すらなかった。 「一刻もしないで多分戻るから――行ってきます」 そう言って、その人は寒空の下へ出ていき――。
「ただいま、見つかったよ」 「まだ半刻だが!」 申告時半の半分で、実物を手にあっさりと帰還した。 男は半ば呆然としつつ彼を席へ案内し直し、出しそびれた紅茶を提供する。男渾身の一作であるティーカップが彼の手の中に収まっているというのは、何ともまあ贅沢なものであった。 「孤児院の子ども達が協力してくれたからね、思ったより早く見つかって――わぁ、いい香りだね。僕こういうの好き」 「あぁ、如何にもって感じだな」 「ちょっとそれどういう意味?」 二人の間を果物のような甘い香りが漂う。そのフレーバーティーに彼は角砂糖を二つも入れて、嬉しそうに味わった。喜んでもらえて何よりである。 「まあそれはいいとして、彼女は?」 「二階で寝ている。遊んだあと思い切り泣いたからな、疲れたんだろう」 「そっか、ならまだ時間があるね。だったら、ちょっとこの作業台かして」 「ああ。好きにすりゃあいいが、俺はお前の手元から目を離さないからそのつもりでいろよ」 星の彫金師がカップを置き、インゴットと道具を取り出す。男はその挙動を凝視しながら答えた。彼が軽く肩をすくめて見せる。 その仕草を了承と取り、向かいへ椅子を運び、そして。 「……見事なものだな」 「そうかな。そう言ってもらえると嬉しいよ――君の小さなお姫様への贈り物だからね」 暫く後出来上がったのは、石を包む丸い檻だった。傷だらけの石を守るように、周りを繊細な銀の蔦と小花が取り囲んでいる。優しいそれは鳥籠にも似ていた。 彼はそこへ同じく銀の鎖をつけた。たった一人、花の名を持つ少女への、特別な贈り物だった。 あの時。ぽつりとアルスと名乗る青年が呟いた。 「……あの時、ラザハンで。あまりにも多くの命が散った。間に合った事もあえば、取りこぼしたものもあった。君たちもあの時エスティニアンが来てくれなかったら――僕にもっと力があれば――そんな幾つもの可能性を考えては、救えたものとそうでなかったものの事を考える。何度夜を繰り返しても忘れられないもので、忘れてはならないものだ。これは真理で、条理で、人の限界だ。進むからには、生きていくからには、僕はこの痛みと向き合い続けねばならないだろう。時に、理想と現実を隔てるこの檻を、内側から瓦解させることさえ求められるかもしれない。悲鳴は止まず、僕にそれを拒む術はなく、とはいえこの手は小さくて、何もかも思い通りになると宣えるほど僕は傲慢ではない」 目線を石から外さないまま、語りかけるように。彼は己の蓋を開け、その手を再度血に濡らす。それは同じ痛みを持つ者に微笑みかけるためだ。隣に寄り添い手を取り合うためだ。分かる。共感が満ちた。互いの胸に塞がらぬ傷が見える。 「それでも、僕らに何もしないという選択肢はないんだ。逃げた先に待つのはそれ以上の地獄でしかない。だから今出来ることをする。今よりも進むために、痛くても、苦しくても、その先にあるものを信じている。小さな事でもきっと道を繋いでくれると信じて積み重ねている。ねぇ、君もそうでしょう」 そして彼はやっと振り向いた。暗い闇と明るい翠が溶けあい、光を受けて蒼く煌めいた。優しい夜の色をしていた。 一人の彫金師でしかないはずの青年が、悼みを湛えてこちらを見ている。 ああそうだな、と男もまた頷いた。この時間が己のために設けられたものだと理解していた。進むために今は必要な止まり木を、彼が己の腕を断って差し出した事に感謝した。 そう、娘の母はもういない。どんなに泣かれても代わりなど存在しないのだ。そして男は妻を失い、彼の地に駆けつけた勇士の者達がいなければ娘すら――。あるいは、娘がただ一人遺された可能性もあっただろう。 だから孤児院の子供達が他人とは思えなかった。なにか一つでも運命が違っていたのなら当事者だった。それは今回のことに限らず、そう、帝国との抗争でも、竜との戦争でも、全てにおいて。 何かをしたいと思った。何が出来るわけでもない。それでも何もしないでいる事ができなかった。生き残っているからだ。今ここに在り、この先へ歩んでいる途中だからだ。 そしてまだ歩いて行けるのは、この世界を照らす光が確かに存在するからに他ならない。 「――大丈夫。希望の灯火は消えないよ」 その囁きは、しかし凛として、一振りの剣が如く。 目の前の彫金師が、星の光を宿して男を見ていた。宝石のように静かな迫力をもつその存在は、どこか英雄然として――それでもやはりそう、穏やかな夜空なのだった。 だからね、と彼が言う。 「終末で多くの血と涙が流れ、僕らは喪失の痛みを抱えることになった。けれどそれでも、なくしたばかりじゃないはずだ。芽吹いたものもきっとあるはずだ。そこから立ち上がる強さを、僕らは持っているのだから」 そして彼は席を立った。向かう先の柱の影、いつからそこにいたのか娘がこちらを伺っていた。その人は娘のもとへ膝をつき、どこか恭しくさえある動作で首飾りを授けるのだ。 「僕は敢えてその石を磨かない。君が心に負った傷は、ときに酷く痛んだとしても、決してなかった事にしてはいけないものだ。それもまた君の物語の一頁であり、君の痛みは君の想いの強さそのものなんだから。傷付いても泣き濡れても、それでも失われない輝きを、君へ」 今を生きる、君へ。 娘はその祝福にそっと触れた。傷だらけの瞳はしかし美しく煌めいて、堅牢な蔦の向こうで穏やかに揺れる。 「――ありがとう」 静かに、ふわりと花が二つ咲いた。素朴な路傍の花はしかし美しく、玲瓏に咲く百合を見上げていた。 「それはね、孤児院の子たちが僕と一緒に探してくれたんだ。君、あの子たちと仲良しなんだね。後でちゃんとお礼を言うんだよ?」 「うん! 今度は絶対になくさないよ。おかさあんの目も、つらかった事も、楽しかった事も」 「ん。君のゆく道の導になれるよう、僕も願っている」 そう言って工房に咲く一番星がまた腰を上げた。扉に手をかけて男を振り返る。彼が控えめに、しかし鮮やかに笑む様は、あまりにも完成されてそこに在った。 「またね、この素敵な工房に幸多からんことを」 ひらりと振られるのは華奢な奇跡の手。小さな身体に宿る圧倒的な覇者の威光で悠然と扉が開かれた。 今度は戻らぬそこへ再会を約束する言葉を一つ残して。 男は閉まる扉を、その向こうに消える背中を、何を言うでもなく見送った。それしか叶わなかった。あまりにも遠く、しかし隣にあった光。その自由さと不自由さ。 ああきっと、彼こそが神の手による作品であったのだ。星光を纏い花が咲く。そんな時間だった。 姿を知る人はごく僅か、奇跡を産む星の彫金師。運命の交わる場所で、男は確かにその存在を知ったのだ。
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続き ★後編
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