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瞬きを波間に浚う




その人とはそれなりに濃い付き合いだ。時間としては僅かで、期間としては長い。それは薄いと言うのではないかと思うだろうが、これが薄かったら他の何もかもが運命になってしまうだろう。
では正面に座る彼との出会いは運命なのか。それは分からない。ただ一つ分かるのは、彼がこれから死地に赴く事は運命であると――彼はそこで命を散らすのが運命であると、そう彼自身が確信しているという事だけだった。
だから、それは運命だった。けれど、そんなものを認めたくはなかった。
星の瞬くその夜に。
「――ごめん、萬里。多分、僕はもう生きてここに帰れない」
おそらく運命ではなく共にいたその人は、真っ直ぐな瞳で己の刻限をそう告げたのであった。



幼馴染のアルスと共に暮らし始めてから、まだ一月足らず。度々外であっていた所を、まあ色々あって、折角ならばと誘われて彼の部屋に転がり込んだ。
今までずっと、養ってくれる誰か、一晩宿を貸してくれる誰かの元で眠り生きてきた。それは雪華であったり、そこらの女の子であったりもした。アルスがそれとどう違ったのかと言われればまだ分からない。
ただ、アルスの隣は居心地が良かった。同じ屋根の下に居ていいと言われて、断る理由などあるはずもない。気を許せる友はいつしか誰よりも近くなり、世界すらも移動していく。雪華の世界にいた萬里は、いつしかアルスの世界の一員となっていた。その事実を自覚したのは暮らし始めた日の夜だった。
二つの世界はこうして重なり合った。やがては完全に合流するだろう。そう思った。
ああ、それなのに。それからまだ一月も経っていない。彼は極力毎日部屋に帰ってきて、鍛え上げた料理の腕をふるってくれた。同じベッドで丸まって眠り、目覚める頃にはもう居ない。そんな日々は、まだ一ヶ月すら積み上げていないのだ。
「僕が死んだら、僕の名義のもの全てが萬里のものになるように手配しておいた。一緒にいてとお願いした責任はちゃんととるから安心して欲しい。家も、お金も、その先の人生も――萬里の好きにして。萬里らしく生きてくれるなら、僕はそれだけで充分だ」
アルスは静かにそう言って、微笑さえ浮かべてみせた。嘘偽りのない顔だった。アルスは嘘吐きだけれど、幼馴染にだけはそう在れない事くらい知っていた。だからもう彼は諦めてしまったのだ。あるいは、受け入れてしまったのだと思った。
こんな顔をして、本当は怖いくせに、つらいくせに。どうせ誰も見ていない暗がりの中で、一人震えて泣くくせに。
思った事を口にはしなかった。そのかわり、夜は彼を抱いて共に眠った。朝は珍しく早く起きて、最期だというその背中を見送った。
星の光は、暁の刻限に消える。
彼はいつもの白いコートではなく、黒を身に纏い朝日に照らされていた。そこだけがまだ夜だった。
漆黒の闇の中、その詰襟の下に隠した花に込めたものを彼はきっと知らない。
ああそうだよ、ばかなアルス、お前もまた望まれているなんて、きっと思いもしないんだろうな。
そこが彼らしさで、もどかしさでもあった。そう、実はわりと執着していたのかもしれない。それは僅かなりとも名残惜しさを産んだ。手を離れていく時に気付くなんて、馬鹿なのは俺もだったな。
いってきますと彼は言った。ただ、いってらっしゃいとだけ返した。そこには純粋な思いだけが篭っている。またおかえりと告げるのだと、それだけ。手は伸ばさなかった。
そうやって彼が出て行ってから、また一月ほどが経つ。共に過ごした時間を、一人で過ごす時間が上回るまであと少し。萬里はまだこの場所にいた。
アルスのいなくなった部屋は、急に広くなったりはしなかった。以前女の子が一人の部屋は広いのだと言っていたけれど、その感覚は一生理解できそうもない。だってさあ、広い方がよくねぇ?
涙も別に出なかった。思い返してみても、まともに泣いた記憶がない。アルスが本当に死んでしまったなら、それは当然悲しいことだ。しかしそれで自暴自棄になったりはしない。萬里はそういう性情の人間だった。
そしてアルスは、それが薄情という意味ではないという事を理解してくれる相手だった。彼も彼で悩む時期があったようだが、今では割り切り寧ろ図太いくらいだ。
――萬里が深いこと考えている訳ないし、お前は嫌なら嫌っていうし、もう悩んでた僕の方が馬鹿じゃない、こんなの。
彼はそう言ってどこか投げやりに、すっきりと笑っていた。うん、その通りだ。嫌なことはしないし、嫌じゃないってことは好きなのかもしれない。よく分からないけど。好きにするから好きにしなよと彼は言った。上々だ。それくらいの方が付き合いやすくていい。
そんな彼の、一番柔らかい所に萬里は居た。彼が招き入れてくれた場所は、仮宿ではなく彼の最も私的な家だった。いつも彼が帰ってくる半ば隠れ家のようなそこは、今まで秘められてきた彼自身を萬里に暴いて見せた。吐いて、泣いて、震えて。
流石の萬里ですら、その惨状から目を離すことは不可能だった。だってそう、目の前で傷付き血を吐いて泣く相手を、しかも体の弱い幼馴染を、どうやって見放せばいい。
他人に弱みを見せる事を好まない彼の、最後の逃げ場がそこだった。旅の仲間たちの前で隠した心身の傷を抱えて、転がり込んで眠る場所。そこで初めて、今まで呼び出された時に会っていた彼がまだ人の形を保っていた事を知った。こんなに隠し事が多いとは知らなかったのだ。彼がこんなに傷だらけだなんて、そんな事は。
例えば、玄関を開けるなり倒れ込んできた彼を支え起こしたら、手が真っ赤に濡れたことがあった。
アルスはそれを億劫そうに星の光で塞いで見せたが、その後血を吐いて気を失った。そうやって見た目だけ消してきた傷を彼は無数に負っている。あるいは夜中に飛び起きて、一人泣きながら震えている事もあった。何かの出来事が脳裏に蘇るのだろう、夜あまり彼が眠っていない理由はそれだった。
薄情と思われがちな萬里でさえ、その現状を放置できるほど心が鬼ではない。ましてや、相手は共にいる事を決めた幼馴染だ。だから出来る限りで、しかし付かず離れず、気が向く限り手を差し伸べた。いまではアルスの部屋の大きな薬棚の中身を覚えてしまっている。それほどまでに繰り返した。そこには彼が調合したものが詰まっていて、その明らかにきつそうな薬を指示されるまま手元に与えてやるのだった。
こんな風に何もかもを背負い、彼はこの世界で柄にもない英雄をやっている。
英雄である光の戦士アルスに対し、光の戦士雪華に庇護されていた萬里が深く干渉している。アルスが英雄であるからこそ起こる出来事に、萬里の存在が割り込んでいく。それこそが萬里の世界線が移動した事の証明だった。
アルスを想い、雪華を思い出す。同じ物語を生きているはずの雪華の、こんな姿は見たことがなかった。それは雪華が拠点を他にも持っていたからかもしれなければ、そもそもこんなに抱え込む性質ではないという理由かもしれなかった。そのどちらも真実と言い切る術を萬里は持たない。でもまあ、ねえさんは人間辞めてるからな。仕方ないな。
そう、萬里は英雄アルス・セルティスを見て初めて、光の戦士が生きた一人の人間であると認識したのだ。
心の柔らかい彼が、肉体の脆い彼が、こんなになってまで守る世界。そこに自分が含まれていることを、萬里は確かに知っていた。何も言わなかったけれど。
何も言わずに、ただそばにいた。震える夜は抱いて眠り、倒れた時は介抱した。ただそれだけだった。しかしそれだけでよかったのだ。
けれど、彼はきっと帰ってくるから、その時はもう少し何かしてやってもいいかと思った。
してやれる事は何かと考えて、職人稼業を選んだ。船に乗り、鉄を打つ。どちらも厳しい世界だった。
それで生活習慣なども多少は改善したと思う。成長したというべきか。己が途方もなく自由人である自覚はあったので。
そう、アルスがこれでもかと作り置いていった調和の取れた食事を摂取して、規則正しく寝起きする日々が続いた。驚いたことに身長も伸び、最近よく顔付きが変わったと言われる。何にしろ、俺は俺なんだけどね。
その日々はまだ一月だ。しかし、それぞれの時間は完全に同一にはならない。萬里とアルスはそういう存在だった。萬里はいまだ歪さを残す世界線の移動軌跡の中、己の時間でその技術を磨いた。だから実際にどれくらいの時間がかかったのか、正確な所は萬里自身にも分からなかった。
ただこちらは戦闘能力と違いセンスがあったようで、なんとかモノになってくれた。これならアルスの装備にも手を出せるだろう。
そんな思いで窓から空を見上げている。その先の、蒼。
結論から言えば、終末は払われた。そして思った通り、今や誰より近しい幼馴染は星へ帰還した。一応息があった。
彼が生きていると連絡を入れてきたのはアルフィノだった。アルスが有事の際の連絡先を残していたのだ。
知らせを聞いた時、萬里は驚きも喜びもしなかった。様子を見にいくこともしなかった。彼は意識のない状態でシャーレアンの奥深くに仕舞い込まれ、治癒術師や錬金術師に囲まれていたようなので、萬里が会いに行っても意味がない。
定期連絡はアルフィノとラハがくれている。その後覚醒してからは逃げ出さないよう石の家に監禁されていたようで、最近では普通に動く事が出来るようになったとの事だった。
本当に、弱った姿を見られるなんて、恥ずかしくて堪らなかっただろうな。無理したお仕置きはまあ、それでいっか。
そう、それだけだ。回復の速さとそれを可能にした力に感嘆はするものの、それ以外には何もない。感動で泣いたりする訳でもない。たださもありなんと思った。
だってお前さあ、そもそも死ぬ気なかったじゃん?
アルスは己の終わりを悟っていた。肉体も魂も限界だった。それは見ていた萬里にも理解できた。実際の彼は明らかな病人で、健康的な見た目は癒しの力で繕っているにすぎなかった。毒か薬かも分からないようなものを煽って最前線へ向かう彼の、その寿命が尽きかけていたということに対し疑問はない。だからこそ、どうやって生き延びたのだろうとは思うが。
そしてこの事実に反し、萬里はアルスが生きて戻るという確信があった。彼が向かったのは、想いが力になる世界だ。
死ぬ気がこれっぽっちもない人間が向かうのだから、当然帰って来るに決まっている。
萬里は、アルスに死ぬ気がないことを見抜いていた。だってそう、これから死のうという人間が、あんなに平常に過ごせるものだろうか。アルスは二人分の洗濯物をお手製の柔軟剤をたっぷり投入して洗い、きっちり干してから出掛けていった。もう使わないなら捨てればいいのに。それどころか私物の何もかもがここには残されているのだ。揃いのマグカップですら、棚の一番手前に鎮座している。
到底、決して戻れぬと思っている者の行いではない……と、萬里は思う。彼の行動はごく自然で、日常の延長でしかなかった。アルスの覚悟が嘘だったという事ではない。ただそう、本当は此処に在りたいのだと、そんな思いを押し殺している事に気付かぬふりをしているのだ。折れてしまわないように、自分の希望だけを、綺麗になかった事にしてしまっているのだ。いつもいつも、本当に願う事ばかり彼は切り捨ててしまう。
きっとアルスは、そんな自分を知らない。
だから萬里がその希望を信じてやる事にした。本当は未来を願う彼の心を、萬里が信じた。一つになりゆく世界の中で、一番近い場所をもらった萬里だからその背を支えられるのだ。そうだろう。彼が隠してきた何もかも、全てがもう目前に暴かれた後なのだから。知っている。知っているから。だからほら、下手な嘘はさあ、もう諦めた方がいいよ。
それは運命だった。だが悲劇の運命は、彼が望んだ結末でないという意味で受け入れ難かった。心のままに生きてみろよ。
決めたことは完遂されるべきだ。物語を綴り終えるならば。
その意志は形は違えど両者変わらず、彼は最前線へ行き、その片割れは帰る場所でただ待つ。悲劇は遠慮願いたいが、現実を悲観するでもない。そんな己が、投げ捨てられず何もかもを背負い込む人間のそばにいる事には、きっと意味があるのだろう。だからこの出会いが運命でなくとも構わない。分かるのはただ一つ、この瞬間が定められていたと、それだけでいい。
かちゃり。やけに軽い音でドアが開いた。
その向こうから光が差し込んで、隠れるように立つその人の相貌に影を落とす。
萬里は思わず笑った。隠れるようにじゃなくて、隠れてんだろうなぁ。あれだけはっきり言ったから気まずいんだろう、全くしょうがない奴め。
萬里は確信のもとドアを大きく開けた。その向こうに白いコート。細い腕を掴んで思い切り引く。
「――っあ、わ……! ちょっと、萬里!」
すると案の定、待ち人は不満そうに狼狽えながら躓いた。伸びた身長にものを言わせ、持ち上げるようにして支える。そのまま腕の中に閉じ込めた。あたたかい。命を刻む音がした。
「おかえり、アルス」
ただ、それだけを。ただその一言だけを彼に与えた。何もかもそれで充分だった。
アルスが目を見開いた。至近距離で青い海と花緑青の星が交わる。彼の瞳は朝日の中でも美しく煌めいていた。星の瞬きは消えていない。それを覆い隠すように、呑み込むように、もう一度腕の中に閉じ込めた。数秒留め、解放してやる。その行為になんの意味があったのか、自分でもよく分からないまま。
「――ただいま、萬里」
あぁそうさ、よく分からなかった。二人の関係が何であるのかも、この胸の内にある感情の名前も、今までと何が違うのかも、何もかもが分からなかった。だからきっと運命ではなかった。でもそれでいい。運命ではないからこそ、自分で決めて此処に居る。
見下ろした先では明るく星が笑み崩れていて、これでよかったのだと、ただそう思った。
だからドアに手をつき、どこにも行けないようにしたら、彼を見下ろして笑うのだ。
「ねえアルス、――お腹すいた」
そんな何気ない一言で迎えよう。だってこれは日常の延長なのだ。これからも続く日々なのだ。
「ふふ……、お前は本当に、待てが出来ないんだから」
お互いがわかっている。その証拠にアルスの言葉も特別ではなくて。
萬里は、にぃと笑い返した。さて、これから長らくいい子でいたご褒美を貰わなくてはならない。これだけ待たせたんだ、当然応えてくれるだろう?
いつの間にか随分と下の方にある耳に唇を寄せ、次の台詞を贈る。逆光の中その星が煌めき、そして――。


天と地の世界が収斂してゆく。物語が一つになる。
青い海と花緑青の星。その瞬きは波間に浚われ、泡沫の中ひとときの夢を見るだろう。





[ 11/118 ]

[mokuji]











 


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