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歴世の詩、星の残響。*

夢を見たんだ、とその人は言った。星が紡ぐ時間の夢、星が歌う世界の夢。揺れる花緑青の瞳を美しく煌めかせて、その人はぽつりと言った。彼の夜空は哀憫の水を湛え、ぽろりと一筋流す。ただ静かに、暁光の中で星が降る。
「遥か遠く、彼方で、星が消える。その光は僕らに終焉の報せを降らすのだけれど、それには酷く時間がかかって、気付いた頃には古の夢に成り朽ちている。見上げた先にあるのは何時だって虚ろな幻だ。喪われたことを知らない僕たちが作り上げた、本当はもう其処にないもの。僕たちが見ている夢。そんな、夢」
透明な声だった。玲瓏な声だった。凛とした響きはしかし僅か震えて、彼がそこに重ね見た未来を想わせた。遠くない時間の先で消えゆく星。けれど届くまで遥か遠く、残る光、遺る物語。
だからね。赤いインクを心臓から零し、主人公は綴る。
「——まだ。僕には、まだ。やらなきゃいけない事が、残ってて。だから立ち止まったりなんか、僕は……っ、ぼくは」
彼は白い寝具の上に曝け出された、そこに滲んで溶けそうな血の気のない腕を持ち上げる。小さな掌を憎らしそうに星で射抜いて、あぁ、それは己を穿たんとするが如く。その人が本当に銀の刃を振り下ろす前に、冷えたその手を柔く握った。
冴え冴えと、白い三日月が仄かに彼を照らしている。僅かな光の中で、白くその星は瞬き返す。溶けて消えそうな光。煌めきには燃焼を伴う。焚べられた生命を成す霊脈。美しい英雄譚、それに伴う代償を知っている。
何もかも、全てを背負い、こんな夜更けにしか吐露できず。降る流星は痛みになんて因らないと、嗚咽も悲鳴も押し殺して走る。そんな英雄の、本当の姿を知っている。
白い腕に青く浮かび上がる血管。刻む心の鼓動。お前はまだ、そこに在る。此処に、居るだろう。それを知っていた。誰よりもよく、知っていた。
そして未だ、夜は明けない。




「は〜あ、でっか」
青い空、煌めく太陽、光を反射する海。白い石の街、でかい像。うん、最高だな。とくにあのじゃばじゃば水を溢しているでかい像。それらしく観光地っぽさがあって見応えがある。船から降りるなりそんなものが俺を出迎えたので、既に気分はとてもいい。やっぱり、遠出っていいな。言うほど遠くないけど。
ここはオールドシャーレアン、一般人は特に来る事もない場所である。特に俺のような勉学のべの字にも興味がない人間にとって、正直一生来る理由が生まれない場所でもあった。事実そこに纏わる話は、大学だとか図書館だとか研究施設だとか、耳に入った途端に潮風と共に吹き抜けていくものばかりだった。うーん、頭痛が痛い。
しかしなんだ、それがこんなにも散歩に丁度いいとは。我儘を言って天下のえーゆーサマの用事についてきた甲斐があったと思う。ああでも、実は前に来た事があるかもしれない。何せ水があるし、仕事柄というやつで。けれど記憶に無いのは自由時間を過ごしていないからに違いない。なんだかんだ、ゆっくりこの街を見て回る機会は今までになかった、たぶん。それは間違いない。たぶん。まあ何でもいいな。
ともかく、遠足はいつもわくわくする。そう言ったらアルスは怒るんだろうな。僕は仕事なんだけど、なんて涼やかに嘯いて、あの星の瞳で俺を睨むのだ。その向こうで嬉しくて仕方がないって笑っているのを、俺が分からないはずなんかないのに。まあ、それを咎める気なんて全くない。やっぱりこういうのは楽しんでいかないとね。
とん、とん。真新しい靴の、殆ど擦り切れていない靴底を鳴らす。あぁ、いい。土とは違う石の硬さがばねをしならせ、脚の筋が喜ぶ。跳ね上がった先でひらりと尾が宙を舞う。青く、澄んだ、高い空。たまらない。
漁師でもあるため船は好きだが、やはり自分の足で何処までも好きに駆け回れる感覚は特別だ。それから知らない街、知らない人も好き。深く関わるのは面倒で、それでも未知なるものとの出会いは嫌いじゃない。そう言ったらアルスは、僕なんかより余程冒険者らしい、と苦笑した。それはお前さあ、お前が冒険者と呼ばれるのは不可抗力じゃん?
故郷を燃やされ、家族を燃やされ、冒険者になる他になかった幼馴染は、既に帰る場所を得ている。とうに定住し家に籠るべき虚弱体質が未だ外を駆けずり回っているのは、そうなるまでに彼が得た地位が英雄という重責であったからだ。今や、その立場は国の長に引けを取らず——その実、誰より重い。
そんなアルスは、先に降り諸手をあげ飛ぶ俺を呆れたように見遣った。余裕を取り繕った様子で同じく陸地に足をつけ、途端に、
「——っ、」
「ほらなー。俺は無理すんなって言ったかんね?」
崩れ落ちそうになった華奢な体躯を、掬い上げて支える。うるさいばか、という小さな声が腕の中で上がった。その顔は蒼白だ。
まあ、そうだよなあ。吹き抜ける潮風に呟く。アルスは黙りこくって、いいや、これは喋れないだけだ。胸中で数多の文句を述べているに違いない。吐かないように黙っているだけ。
テレポで飛んだ方が楽だろうに、俺に付き合ってオールドシャーレアンまで長い船旅をしたのだ。こうなるのは分かりきった事だった。最近目に見えて体調を悪化させた彼は、それでもまだ大丈夫と言い張ってきかない。けれどそれも、——きっともう、そろそろ。
「そこでいー? 座って休むんだろ?」
「ん……」
綺麗な白い埠頭の隅へ寄り、角に足を下ろすよう腰掛けさせる。自分もその隣に並んで座れば、背後の喧騒はすぐに気にならなくなった。
脚を揺らす。ぷらりぷらりと、空と海の狭間に揺れる。潮風が髪をくすぐり、隣でアルスがぱちりぱちりと眼を瞬いた。花緑青の星が黄金の太陽を反射し、海面のようにきらりきらりと光る。からりとした北洋の夏に、その百合はふわりと咲く。
萬里、と柔らかな鈴の音が普段通りの強さで鳴った。
「ねえ、萬里。人って、終わりを迎えたら何処へ向かうと思う」
「終わりって、死ぬってことか?」
「そう。その人の物語を、綴り終えた、その時」
アルスは此方を見てはいなかった。温度も感情も宿さぬ、凛とした瞳だった。その星は光の向こうの夜空を探して、青く、高く、澄んだそらを見上げていた。
だから俺もそれに倣う。あぁ、ひどく眩しい。
「そーだな、それはさあ、星海じゃん? 普通に」
「ん、そうだね。じゃあ、萬里。その星海は何処に在ると思う」
ええ、と俺は不満の声を上げた。面倒くさくなってきた。適当に投げ出してしまいたくなって、けれどふと頭にいつかの景色が浮かんだ。それが俺の内に意思を留めた。
あの日、再会の日。俺はアルスにしつこく尋ねたのだ。太陽の色、その意味を。それが必要な事だと思ったからだ。きっとアルスも同じ感覚で言の葉を紡いでいる。だからそう、もう少しこの理屈っぽいお喋りに付き合ってもいい。
「海ってくらいだし、下の方にあるんじゃないのー? 知らないけど」
「ふふ、今日は鋭いんじゃない? 事実としてアイティオン星晶鏡を深く降れば、そこには幾つもの思念、魂が漂っている。だからうん、お前のいう事がきっと正しいんだろう」
「って事は、アルスはそー思ってないんだ?」
「そういう訳じゃ、ないけど。知識としては理解しているし。でも、僕は。星の海を探して、天を見る」
「上ってこと?」
「うん。そこにある小さな光の中に、大切な人の煌めきが有るんじゃないかって、深い闇の中へ目を凝らす。そうしている間は、上を向いていられる」
だから、僕は星空が星海だと思うのが好き。
アルスはそう言って、今度は一人で立ち上がった。安定した足取りで、少しもよろけたりなんかしなかった。馬鹿なやつ。意地っ張りはまだ白い顔で、太陽の光に透かされ消えてしまいそうですらあった。
それでもその星はまだ、確かにそこで煌めいている。その意思の固さは諸刃の剣で、鋭い切先で己が傷つく事さえ是とした。そんなお前の物語を、よく、知っている。だから何も言うまい。止めて辞めるようであれば、むしろこの道はとうの昔に途絶えていただろうから。
孤高の星、焚べられた純潔の供花。
潮風が彼の髪を波間へ浚う。物語が彼を時の向こうへ攫う。
「それじゃあ、行ってくるね。僕、呼ばれてるから」
「はいはい、いってらっしゃいませ〜」
「しばらく好きにしていていいけど。くれぐれも、人に迷惑はかけないように」
「わぁかってるってえ〜」
口煩い心配性に軽く手を振り追い払う。ほら、行けよえーゆーサマ。お前を求める連中がお呼びなんだろ。
今日は何たら議会に出て、大学とかいう堅苦しいところで講義とかいうのをして、委員会とかいう組織に顔を出して。時間は惜しむほど足りないはずだ。
律儀で真面目な彼が遅刻を己に許すはずもなく、結局は物言いたげな目線だけを寄越して踵を返した。そう、それでいい。自由に羽ばたけばいい。お前の背にはまだ、翼があるのだから。
今や知らぬ者は居ない、特にこの街には縁の深いその人を見送る。白い街へ溶ける、白い身体。見えぬ白い翼。やがて道はそらへ至る。そんな彼の後ろ姿を見つめる。
歩いていくその背中はひどく小さく、頼りなく、けれど凛として揺るぎない。英雄の、背中。数多の重責を負った、背中。
「は〜あ、全く難儀だね、あいつも」
ごてん、俺は何も背負わぬそれを地面に倒した。この両手には自由だけがある。伸ばした手を太陽に翳す。指先を透かせば、命の橙が煌めく。生きている。あたたかな光。背中合わせに触れ合うのは、硬くて冷たい、白い石。お前の固くて危うい、強い意思。見上げた先の青いそら。澄んで、高い。まだ、遠い。
「眩しくて、なあんも、みえないなー」
そこに在るのに届かない。彼方にある、星の光。




「は〜あ、うっま」
俺には真面目な空気は合いません。しんみりしたのも嫌いです。
所は変わりラストスタンド。オールドシャーレアンが誇る、海辺のカフェだ。味はまあ、正直、普通。けれど潮風に吹かれ海辺で食べてみろ、全然違うから。これほんと。
定番メニューを幾つか注文し、それに加えて交流で増えた特設メニューからも気になった物を拾い上げる。途端に机を埋め尽くす、皿、皿、それから皿。それをぺろりと食べてからんと積み上げた。激辛カレー、うんま。
「お待たせ致しました」
「はぁ〜い、待ってましたー」
若い店員が運んできたオムライスに諸手を上げて歓迎の意を表す。そんな俺を見たアウラ族の青年は、強面を子供っぽく染め熟れた果物そっくりに笑った。皿を持っている間は、オムライスを更に眼光で炙るかの如き気迫を見せていたというのに。角の横で細い三つ編みがぷらぷら揺れて、ははっ、なんか俺らのしっぽみてー。まあ、どうでもいいな。まずは飯。
「いっただきまーぁ、あ? ん?」
「い、いかがなさいましたか……?」
「あいや、これ、んん? なんかこれ、これさあ」
ぱくりと一口、こてんと首を傾げる。ふわりと溶けるとろとろのたまご、黄金の楽園の上からはビーフシチューのソース。生クリームが混ざり、繊細な模様を描いて垂れる。添えられたブロッコリー、綺麗に切られたトマトが鮮やかで美しい。その見た目を知っている。ていうか、この味は、昔からよく知るものとあまりにも似ている。
「なあ、もしかしてさ。えーゆーサマってここにレシピ提供してる?」
そう、調理師としても確かな実力を持つ彼のそれには及ばぬが、そのレシピと味がよく似ているのだ。
「ええ、実はそうなんですよ。メニューにも書いてある通り、これは英雄様のレシピです。英雄のとっておき、森のオムライス」
「だよね?」
やはり店員はあっさりと頷いた。彼の瞳に疑問はなく、パンが小麦から出来ている事を説明する時とまるで同じ顔をしていた。でも俺、ライ麦パンも好き。そういう話じゃないな。
早くも夕飯の内容に思いを馳せ始めた俺の前、店員は空の盆を片手に抱えて首を傾げる。
「むしろ、知らずに頼んで分かったんですか?」
「いやあ、家で食べてるのと同じような味がしたら、そりゃ気付くって〜」
「家で、って」
俺はその疑問が可笑しくて仕方がなくて、からからとラザハンを照らす太陽みたいに笑った。あぁ、ラザハンもよかった。なにせ美味い飯屋がある。飯が美味い場所を俺が気に入るのは当然で、だから俺の腹が無限に減るのも当然で、アルスが家族に飯を作るのもまた、あいつの中では当然なのだ。
音に聞く物語の主人公はただの人間で、家族もあれば家事もやる。当たり前の事だった。それなのに何故か、多くの人が忘れてしまう事だった。
蕩けた黄金、垂れ下がる白の模様。その人が流せぬ涙を一瞬だけ重ね見て、けれどそんな幻に意味なんてない。だから山を中心から崩した。ころりと鶏肉が匙の上へ転がり落ちる。柔らかい。仄かに甘く、あたたかい。
ぱくり、もう一口。
「これ、アルスの一番得意な料理。よかったねー、いいもん教えてもらって」
本当に、その意味をきっと彼らは知るまい。英雄が何を思いそれを託したかなんて、隠した真意を彼は語るはずもないのだから。何気なく差し出されたであろう一皿は、けれど、アルスを象徴する料理としてこれ以上があるはずもないものだった。
だってこれは、これはアルスの母から彼へ受け継がれた家族の証だ。木苺パイの方はあまりお目に掛からないけれど、その理由も察して余りある。きっと痛みの方が強いのだ。
故にこの一皿は英雄の強さそのもので、アルスの弱さそのものだ。それを知るのは、家族だけ。そこにある痛みと愛を知るのは、俺たちだけ。
失ったものと、得たものと。実家の味にアルスなりの改良を加えたそのレシピは、彼の人生の轍だった。
それはしつこさのない優しいバターが絡む、大きめに刻まれた玉ねぎの甘み。じゅわりと旨みを閉じ込められた鶏肉と、それが纏う独自に配合されたハーブの香り。
深い森と木漏れ日のようなその一皿を。よく、知っている。
「ってか、あいつこんな仕事もしてんの? んまー、えーゆーサマって大変ねえ」
「えっと、もしかしてご家族の方とか……?」
「んー、まー、そんなトコ?」
血は繋がってないし、本当は家族というかまあその、アレなんだけど。
店員が俺の耳を指差し訊ねてくるものだから、適当に頷いてオムライスをまた口に運んだ。冷めないうちに、想いがそこにあるうちに。ほら、うまーい。
しかしそれは、どこかアルスが作るよりも大雑把な味に思えた。アルスの料理はもっと繊細だ。元の形を留めつつ、誰でも作れるように手を加えているんだろう。相変わらず律儀なやつ。
お節介を焼いた本人を思い浮かべる俺の前、店員は自分の方が誇らしげに胸を張った。
「それなら知っての通りだと思うんですけど、英雄様は料理も本当にすごいんですから! 助っ人に来てもらって、その時にレシピを提供してくれたらしいんです。まあ俺はまだ新人なんで、その場には居合わせられなくて」
本当にすごくて、綺麗で。興奮した言葉が鼓膜を揺らす。
彼は声高に、空想の入った思い出を俺の前へ飾って見せた。それは憧憬できらきらと照らされて、ひどく高価な宝物みたいに両手の中にあった。同時に路傍の花のように、何でもない日常として青年の隣で咲いていた。
あーあ、またこんなにしちゃってさ。
ほんと、お前そういうところ。無自覚に、時に意識的に人を惹きつける、星のように瞬く英雄。そうやって人の憧ればっかりあつめて、いつか刺されんじゃねえの。
心配ではなく呆れて肩をすくめた俺と、肩を落としゆく者が一人。
「……でも結局、目の前ではまだ見れてなくて。気だけ厨房へ向いて、出来ることなんか皿を運ぶだけなのに、その日はその皿まで割って」
そのまま情念で燃えてしまうかと思ったのに、店員の朗らかな威勢は長く続かなかった。嬉しくてたまらない様子だった彼は、しかし後ろに行くほど言葉を濁して、最後はしょんもりと項垂れた。
そういえばこいつ、オムライスを睨み付けて現れたんだったか。どうせ頭の中は、何番の卓に何を置くかで一杯だったんだろう。
「あっは、新人さんなのは見ればわかるっていうかー。最初はみんなそんなもんじゃん?」
だから、そんな気にすることなんか何もないのに。なんでか誰もが怖がって、俺はその恐怖を理解できない。だって、当たり前のことじゃん?
始めから上手くやれる者は本当に少ないものだ。ちょっとの手本で即座にこなせてしまう奴を知ってはいる、けれどそういう奴はえーゆーサマになるし、大多数の人間が歴史の主人公になれる訳ではないってのが現実。
だからまるで意味がない。だから気軽に生きればいい。風のように、陽光のように、好き勝手に寄せては引く波と潮の流れのように。このへんのやつには法則性があるってか。しらん。
俺が知る事は多くなく、言える事など殆どなく、そして説教などする気もない。俺は俺のために動くし、今から紡ぐ言葉だって俺のためだ。それが誰かに届くかは俺の手には因らない。いつだって感情は個人のもので、それは自由という権利なのだから。故にこそ。
「ただまーなに? 緊張しすぎっていうかさあ、もちっとニコニコしてていーと思うよ?」
「あっ、その……まあ。すみません」
「そゆとこー。俺みたいなのに絡まれる仕事なんだからさあ、テキトーに笑ってりゃいーんだって。さっきみたいにさ」
「いやでも、俺は店員で、相手はお客様で、だから」
「あーもー、つべこべうっさーい!」
ほんと、どいつもこいつも生きづらそーなやつ。見てんのも面倒だし、てきとーにしてくれりゃいいのに。
「だからまあ、つまり?」
如何にも自信なさげなその青年の右手を引っ張り出して、強引に握る。それから上下にぶんぶんぶん、それからもいっちょぶん。んまあ、こんなもんだろ。
「はい、これで俺らトモダチー。硬いのナシー」
「えっ、あっ、と、友達って」
「ガチガチで来られると注文しにくいっていうかー。お前さあ、さっきもそこで皿落としたろ? 肩の力抜いたほうがいい。そんで俺の皿無事にここまで持ってきてー。作り直しなんてさあ、俺そんな待てない。腹減り」
「腹減りって、そんなに食べておいて今更?」
すると店員は瞬きを繰り返して、それから盛大に吹き出した。あは、俺面白くてごめんな。
きらきらひかる。太陽がぽかんと浮かぶ、青く、高く、澄んだそら。
彼の闇色の瞳は煌めかなくて、あいつの星空はやっぱり他では見かけないんだなんて、そんなくだらない事を思い描く。全ての夜に月が出る訳じゃない。月の照らさぬ夜の中、いつも星が見える訳でもない。
花緑青の夜空、そこに居ない者の温度を保つオムライスを口に運んだ。それはどこか物足りなくて、けれどやはり知った味だった。
みるみる消えてゆく黄色い山。たまごみたいに美味しそうな太陽。まぶしい。
等しく降り注ぐ光の下、出会いたての友人が笑う。
「了解っス。俺、頑張ってみます」
「砕けた結果がそれとか、おにーさん面白いじゃん」
「俺、多分貴方より年下ッス」
「そ〜お? ま、どうでもいいけどー。パフェ一つ追加で」
「お礼に俺からサービスするんで」
「え、らっき〜。ありがとー」
名前も知らない相手へウインク一つ。そうそう、こうやって上手い事していかないとね。処世術ってやつ、これ大事。
人は孤独であっても、誰かと縁を結んでも。結局は一人で生きる術を失ってはならないのだから。
全ての出来事は突然で、絶対なんてあり得ない。同じ日常が毎日続く保証なんか何処にもない。持てるもの全てを他人に委ねれば、ある日突然路頭に迷うことになる。それをよく、知っている。
けれどまあ、一人ではない時に側にいる者に寄り掛かるのだって、それはそれ、これはこれというやつなので。
「あっ、会計はえーゆーサマにツケで!」
去り行く背中に追加で声をかける事を、当然忘れたりなんかしなかったのだけれど。




「は〜あ、ひっろ」
腹ごなしを兼ねて、気儘に一人、白い石を踏み締め歩く。あっちへふらり、こっちへふらり。巻貝みたいなエーテライトと交感するのも忘れない。でっかくて綺麗だし、なんか美味しそうだ。来てよかったと思う。ああでも、その近くのマーケットは本ばかりで嫌になった。すると途端に、頭の中で読書好きの幼馴染が溜息をつく。お前はこれだから。いやあさ、向き不向きってもんがあるんだよな。
幻と現実の両方から目を逸らす。その先にでっかい像。じゃばじゃば溢す水瓶の中に魚が混ざったりなんかしないんだろうか。あ、壺焼き食べたい。
そうするうちに昼を過ぎ、空が赤く染まった。半熟卵みたいでまた腹が減る。そう思ったところで、予定の時間を大幅にすぎたことに気がついた。そのくせ、アルスからは何の知らせもありゃしない。
りんりんりん。梨の礫。応答さえしない始末だ。はあ、そしたら一応まあ、探すしかないじゃん。梨食べたい。
となれば目的を変えて、あっちへふらり、こっちへふらり。
少し逸れると土の匂いがして、けれどその先にあるのが図書館と知って寄り道をやめた。探し人はそちらに居るかもしれないが、木々の間をぬい本の山に埋もれるくらいなら、夕陽の下ぽかりとあいた広場で踊っていた方がまだ出会える気がする。いやこれは本当に、言い訳じゃない。
だとすれば取り敢えず、そこらへんの人に訊くしかないと判断して。
「なーそこの人。俺みたいなやつ見なかった?」
「君みたいなとは、ミコッテの成人男性ということかね?」
「あーそうそう。でもあれ、こうさ、ぱきって折れそうな感じ」
「何を言っているんだね、君は」
「うーんこれは俺の心がぽきって折れそうな感じ?」
「はあ、悪いが忙しいので失礼させてもらうよ」
「あ〜、待ってくれって紳士〜」
けれど、まあ。
森から引き返す道の途中、すれ違った厳しい服装の男性を呼び止めた。結果はこれだ。ふざけた事を言っている思われたようだ。探し人の特徴としては間違っていないはずなんだけどね。困ったもんだね。
それもこれも、約束の時間をとうに過ぎて、太陽が落ちそうになってなお現れぬ向こうが悪いのだ。そりゃあ、ほっとけばいい、わかってるんだけど。分かってるけど、今のアルスをほっとくと本当に倒れていそうで、それは目覚めが悪いっていうかさあ。
飯を美味しく食べる為には必要な運動という事だ。
「あー、そこのオネーサン。俺みたいにかっこよくて、あ〜っとうそ、なんかミミ付きのぽやんとしたヤツ、見なかった?」
「貴方、喋るのが下手ってよく言われないかしら」
「ぐ……オネーサンはさあ、言葉が鋭いってよく言われない?」
「私が理知的だと褒めても何も出ないわよ」
「てごわぁ〜」
更にもう一人、通りすがりの女性の手を掴んで引き止める。短く切り揃えられた髪と細い縁の眼鏡が怜悧な印象の彼女は、見た目通りの塩対応だった。彼女は俺の手をぱしりと振り払って、更にぺしりと嗜めるように甲を叩くから堪らない。俺はひりひり痛む手をぷらぷら振って、ふうふう息を吹きかけた。そこはちっとも赤くなってなんかなかったんだけど。
そんな俺を見て、彼女がくすくすと笑った。
「ふふっ、子供みたいな人ね、貴方って。それで、お求めの相手はどんな方なのかしら」
「俺は人なのにアルスは方って、格差ってやつ〜」
「アルス?」
眼鏡を中央から押し上げる彼女に頷いて見せる。彼は、黒と白と花緑青の人。星のように瞬く瞳の、流れ星みたいに生きている光。そんな存在。
どうしたって抽象的になってしまう言葉は、けれど多くの人が彼を形容する時に用いるものだった。それに気が付いたのは、目の前の女性が俺に呆れを表明した後だったのだけれど。
「それって英雄様の事でしょう? はじめからそう言っていれば早かったでしょうに」
「え、これでつーじんの? ほんとに」
「花緑青の夜空なんて、もう固有名詞と変わりはしないわよ」
「ふぅーん、そんなもん?」
「そんなものよ。それにここはオールドシャーレアン。彼とも縁が深い街なのだから、顔を知っている人も多いわ。それこそ、英雄様を見なかったかと訊いてまわればよかったのに」
俺はその言葉に目をぱちくりと瞬いた。彼女が唱えた言葉は当たり前の事であったけれど、俺にとっては物語の中の魔法と相違なかったのだ。
そっか、あいつ、英雄なんだっけか。
いやそれは知っていたのだけれど、その意味を俺がどれだけ理解していたかと言えばこんなものなのだ。場所が場所ならば、誰もがその存在を知っている。その存在の眩しさに目を細め、夜空の星に願いを託す。英雄。
そっかあ。俺はまんまるの目のままもう一度言った。彼女はまたくすくすと笑って、貴方ってお馬鹿さんなのね、と言った。地味に失礼だけれど、可愛いからどうでもよかった。
「てゆーかさ、おねーさん。可愛いんだからさあ、いつもそうやって笑ってりゃいーのに勿体なぁ」
「貴方って、本当にお馬鹿さんなのね。薬指に星の光を宿しておいて、私みたいな学生を口説くものではないわ」
「別にただ事実を述べたまでっていうか〜。まあつまり、しかめ面よりそっちの方が俺が尋ねやすいってだけ?」
「はあ、まったく。英雄様も大変ね」
「やあ、まったく。あいつのお守りも大変よ?」
違うわよお馬鹿さん、と彼女は溜息をつく。俺はそれがおかしくてけらけらと笑い返した。俺のお守りは大変だろうけども、アルスのお守りだって大変だ。みんなして俺の方を咎めるがこれはよくない。つまりアルスが狡いのは、我儘お姫様の顔を他所では隠してしまう所だった。まあそこが可愛さでもあるのでよしとする。よくなった。つまりいいって訳です。
そんなことを考えていると、呼び声ひとつ。意識を戻せば、彼女は来た道を振り返って建物を指差した。
「あそこ、見えるかしら? ここから上に登っていけば、帰り道の英雄様と会えるかもしれないわ。いま議員の方が退出し始めたようだから——きっと彼のその中にいるでしょう」
「あ、ほんとに? そんじゃ、あの偉そーなオッサン達に訊いてみますかね〜」
「偉そうなんじゃなくて、偉いのよ」
今度の彼女は溜め息もつかなければ、肩を落としもしなかった。静かにその白服を見つめたまま、ぽつりと何かを言った。俺の耳にすら届かない程度の声は潮風に浚われ、きっと水瓶の中に飲み込まれて海に降った。
「私、今日ついに賢人位をとったわ」
やはり強く凛とした瞳で告げる。
「数年後、私は絶対にあの中に混ざる。そして真理を追求しながら、人理の城砦としての智識を築きたい。それが私の願い。それが私の道。貴方は、きっと、」
彼女は俺を見て、また眼鏡の縁をくいと上げた。俺は首を傾げて、けれど彼女は言葉を継がずに首を振った。まあいいわ、そんな一言ともに柔く眉間の皺を解放する。
「貴方、きっと大物になるから。今のうちに恩を売っておきましょう。一番奥の方、髪を後ろで一つ編みにしている方に尋ねなさい。きっと望む答えが得られるでしょう」
「おっ、ありがと〜! 助かったわ。お礼は大物な俺のかっこいいダンスでいかが?」
今やすっかり命令通りに動くようになった自慢の肉体を見せびらかし、最高の提案を差し出す。けれど彼女はそれをぺいと横へ退け肩をすくめるのだ。
いらないわよ早く行きなさい、なんて呆れた声音で言われた日には、なんかカーチャンみたいで面白い。俺、カーチャンとかよく知らないけど。
そんな彼女が俺の背を押すから、その勢いに乗じて俺は走り出した。人の流れに逆らって進むのは、障害物を避ける遊びみたいで悪くない。
けれど、世話になったその学生を一度振り返ると。
「——今の貴方は、まだ大馬鹿者よ」
なんて呟いて笑ってやんの。わあ、ひでー!



あっちへふらり、こっちへふらり。
結局探し人は本の森の中に居た。ここに来ると頭が痛くなりそうだから嫌だったのに。けれどまあ実際に来てみるとそんな事はなくて、俺の興味が向かないそれは単なる壁でしかないのだった。
その壁と壁の間に、花緑青。薄暗闇のせいばかりではない顔色の悪さで、しかし座る事もせず、重厚な装丁に包まれた羊皮紙をぺらりと捲っている。黒縁の伊達眼鏡、文字を追う静謐な星。それはこの空間で一等眩しく煌めいて見えた。
「アールス、遅い」
「——っ、あ、萬里」
声をかければぴくりと跳ねる肩。余程集中していたのだろう。毎度の事ながらよくもまあそんな小難しい物が読めると感心する。俺なら読んでみようとも思わないね。
アルスはその学術書らしきものをぱたんと閉じて、それから俺に向けてその星をぱちりと瞬いた。ごめん、と小さく呟く。
「あの、会議が終わってから講義で。その後長引いてた会議にもう一度呼ばれて、そこで気になる事が出来て、それで」
「わかったわかったー。まあ通話に出れない時もあるし、忘れる時もあるの、分かるしいーよ。代わりに夕飯はアルスのオムライスにしてー」
「ん、それはいいけど。お前の注文がハンバーグじゃないのは珍しいね?」
「んま、気分ってやつ?」
まあ別にいいけど、とアルスが息を深く吐いた。嫌に重く地面へ落ちる。柔らかな絨毯が全部飲み込んでしまったから、音なんかひとつも立ちやしなかった。
「それで、お前はどうやってここへ?」
「んー、なんか髪の毛後ろでひとつにしてる、偉そーなオッサンにきいた」
「偉そうなんじゃなくて偉いんだよ、馬鹿」
ぱこんと俺の頭が鳴る。力が入らないへろへろのアルスに殴られたってちっとも痛くないのだ。でも言えば最後、寿命を汲み上げて対抗してくるから黙っておく。ほんと、負けず嫌いの大馬鹿者はアルスの方じゃんな。
そしてやはり、アルスがこほ、と小さく咳き込んだ。本を閉じて書架へ戻し、両手で口元を抑えて蹲る。ごほ、続いて重い音が降った。ごほ、止まらぬ音が彼の苦痛を物語る。今度ばかりは絨毯も仕事をせず、アルスの視線が恨めしそうに床へ刺さった。追いかけて、雫ひとつ、赤ふたつ。
生理的な涙と混ざる喀血はそれでも堪えたものなのだろう、頽れた背中が震えていた。
「家、帰る?」
「——っ、」
俺はアルスの肩に手を置き、覗き込みながら訊いた。アルスは俺を見ないで、ただこくりと小さく頷いた。それで充分だった。テレポの方が負担が少ないというその人を抱え、飛ぶ。彼自身もまたエーテルを練り上げるのが伝わって、うん、帰ろう。
大丈夫だ、気にする事なんか何もない。また遊びに来ればいい——なんて言ったら、やっぱり僕は仕事なんだけどって嘯くんだろうな。あと何回そんな事があるだろう。わからない。未来は誰にも予測できないから、俺にも神様にも分かることではなかった。もしかしたら、アルス自身はその予感を秘めているのかもしれないけれど。
冷たい風から塩の香りが消える。降る白と積もる静寂は変わらぬまま、分厚い雲が星空を阻んでいた。エンピレアム、冬の街。
瞬きの間に到着した我が家は、何故だか妙に懐かしく感じた。その門扉を開け、腕の中に閉じ込めた彼の部屋へ急ぐ。もう一人の家族は不在のようだった。それでよかったと思う。お願い見ないでとアルスは言うに違いなかったから。
そんな彼をすぐの水場で解放してやれば、英雄は耐えかねた様に血を吐いて泣いた。勝手に溢れ出たのであろう雫は、けれど酷く切なく見えた。きっとそんなのはアルスの本意と違うんだろうけれど、いいや認められない彼自身の心はきっと。
俺は何も言わなかった。何も言って欲しくないのだと知っていて、その上で徒労に気を遣うなんて面倒だ。アルスは俺のそんな性質を理解し、咎める事もないから楽だった。或いは彼の自罰的な性質が、寧ろ心地よいものとして処理してしまうのかもしれない。難儀だなと思った。いつも、そう思う。
彼は赤を吐き出して、言葉は一つも零さずに、床へ倒れ伏した。大丈夫かなんて言わない。だってそんなの、見りゃ分かる。
そのまま気絶した華奢な肢体をまた持ち上げ、寝台まで運んだ。まあ、よく堪えたと表現するべきか。あの場でこの醜態を晒す事はとても耐えられなかったのだろう。英雄は完璧で在らねばならないと、そう己に課して生きるアルスだから。
本当に、しょうがないやつ。
睫毛に残る雫を掬う。星の欠片を夜に透かして時を数えた。ぽろり、ぽろり、星が降る。
やがて僅か晴れた雲間から、白い月が覗き始めた。細い光は闇を照らすには頼りない。浅い眠りが訪れ、また覚醒した頃、それは空の高いところから既に滑り落ちかけていた。物言わぬ天体は、朝と夜の狭間で冴え冴えと俺たちを見下ろしていた。
「——ぅ、」
ふるり、睫毛が震える。その向こうに、星空。花緑青の煌めきは暗雲立ち込める薄明でさえ曇りなくそこに在る。目覚めた彼は視線で俺を探し、指で服の裾を掴むと、ふんわりと花開くように微笑んだ。溶けてしまいそうなそれは、やはり白。
「ばん、り。——萬里」
「なーに」
夢を見たんだ、とその人は言った。星が紡ぐ時間の夢、星が歌う世界の夢。揺れる花緑青の瞳を美しく煌めかせて、その人はぽつりと言った。彼の夜空は哀憫の水を湛え、ぽろりと一筋流す。ただ静かに、暁光の中で星が降る。
「遥か遠く、彼方で、星が消える。その光は僕らに終焉の報せを降らすのだけれど、それには酷く時間がかかって、気付いた頃には古の夢に成り朽ちている。見上げた先にあるのは何時だって虚ろな幻だ。喪われたことを知らない僕たちが作り上げた、本当はもう其処にないもの。僕たちが見ている夢。そんな、夢」
透明な声だった。玲瓏な声だった。凛とした響きはしかし僅か震えて、彼がそこに重ね見た未来を想わせた。遠くない時間の先で消えゆく星。けれど届くまで遥か遠く、残る光、遺る物語。
だからね。赤いインクを心臓から零し、主人公は綴る。
「——まだ。僕には、まだ。やらなきゃいけない事が、残ってて。だから立ち止まったりなんか、僕は……っ、ぼくは」
彼は白い寝具の上に曝け出された、そこに滲んで溶けそうな血の気のない腕を持ち上げる。小さな掌を憎らしそうに星で射抜いて、あぁ、それは己を穿たんとするが如く。その人が本当に銀の刃を振り下ろす前に、冷えたその手を柔く握った。
静かに夜明けを待った。窓の外、たなびく東雲。滲む三日月。橙と紫と藍の世界。英雄が愛する景色。消えゆく星々の中、彼は結局己のための涙なんか一つも零さなかった。馬鹿なやつ。
そして彼は、あのね、と柔く囁いた。最後の夜露が消えて、そこにはただ凛と百合が咲く。
「僕のいなくなった世界には、何が遺るんだろうと。そう、思って。今日——ううん、昨日かな、初めてその後の世界の事を考えた」
俺は何も言わず、彼の方を見もしなかった。手だけは繋いだまま、言葉もなく温める。
「僕は遠からず喪われる存在だけれど、その先の僕がどうなるかなんて、考えたことなくて。適当に埋めてもらって、そのまま忘れてくれれば」
「——は? 馬鹿じゃね? んな訳ないじゃん」
けれど吐き出された台詞があまりに明後日の空へ飛ぶものだから、ついそんな返事を投げてしまう。言葉と共に見れば、英雄はどこか照れたように苦笑していた。
「うん、同じ事言われた。大人しく埋葬なんかしてもらえないだろうって。死体の奪い合いが起こるかもしれないって」
「そんで英雄の蛮神召喚とかすんだろーよ。え、今更?」
「……うるさいな。僕もまさか、そんなにその、望んでもらえるなんて思ってなかったんだってば。四肢をもがれて呪物になるのも、全身水晶に閉じ込められて神殿を建てられるのも、どちらも嫌なんだけど……」
「うっわ、それ会議で出た案?」
「ううん、学者目線の雑談。でもこれが白熱しすぎて長引いて」
「つまり諸々ぜーんぶ、アルスのせいじゃね?」
「うるさい、知らない」
ともかく、と英雄は強めの語気で寝具をばふりと叩いた。迫力なんか微塵もなかった。なんなら、静かな朝の気配すらもう存在しなかった。
「僕は僕の物語を自分で綴り終えたいし、その続きで僕の望まないまま悪業を重ねたりしたくないの! 前例がたくさんあるの、お前も知ってるでしょ? 僕はあんなの、絶対、嫌だから。死体なんか遺さない、欠片もなく消してやる……」
「その方法探して本の虫になってたのか、馬鹿だなー」
「僕は虫でも馬鹿でもない」
分かっているくせに軸をずらした文句を言い、アルスは拗ねた顔をした。そこに居るのは最早英雄などではなく、我儘な姫君と化した幼馴染でしかない。だからこそ。
「でもまー、消えておしまいってのはやめといた方がいいんじゃね?」
「なんで。何か遺すより絶対いいのに」
そして俺は、そんなアルスだからまだここにいるのだ。本当にしょーがないやつ。昔からいつもこうだ。視野が広いようでいて、一番近い光ばかりが見えないのだから。
唯一無二の星は、己の価値を知りながらも理解はしていなかった。それこそ、こんな事を簡単に言えるくらいには。
「いやあさ、突然英雄が忽然と消えてみ? 絶対に探し回られるかんね? そのまま野垂れ死ぬ奴とかほいほい量産する気、えーゆーサマは」
「はあ? そんなことになる訳、」
「昼間と同じ議論、俺相手でもっぺんやりたい?」
「……っ、わかっ、た。もお、分かったってば! じゃあ死体は見せる、納得させてから消し飛ばすから! いいでしょうそれで!」
「俺が良し悪し決めるもんでもないでーす」
「もぉ、もお!」
馬鹿だなとまた俺は言った。そんな不満気に睨まれても事実は変わらない。ここにもう一人の家族がいたのなら、この場は既に地獄絵図だったろうに。
それ程求められていることを何故分からないのか不思議でならない。
けれど、彼はその後に小さく吐息を溢した。憂いを孕んでぽとりと落ちる。下から見上げてくる花緑青はどこか遠慮がちで、しかし確信を宿し煌めいていた。
「それでね、萬里にお願いがあって。その時が来たら、僕、かなり無理をすると思う。だからあの、ちびの事止めてくれないかな」
——あぁ、本当にタチが悪い。
俺は肩を竦めて笑った。そうする他に何が出来ただろう。つまりそれは、俺に争う意思がないことを示していた。アルスの確信はそこにあり、間違いなんてあろうはずもなかったのだ。
「おー意外、そこは自覚してるんだ?」
「流石にね。僕にその自覚がなかったら、あまりにもちびが可哀想でしょう」
「それでも辞めないなんて、酷いやつ〜」
「僕の物語を終わりにするのは、僕自身の手だよ。誰にも譲る気なんてない。それが、お前相手でも」
薫る百合、玲瓏たる星。
甘えを孕んだ視線から一気に温度が抜け落ちた。鋭い刃に変わった感情はとすりと俺を貫いて、けれど痛みも残さず通り抜けるばかりだった。それは俺が、突き出されたものが凶器であると認識していないからだ。その意思は天に瞬く星であり、英雄がアルスであることの証明に他ならなかった。畏れも震えも、あるはずがない。
だからほら、はいはい、なんて返事で彼は簡単に武装を解いてしまう。お前のそういう所が危ういと、きっとこれは物語を終える頃にも伝わらないのだろう。
「それを俺に頼むなんて、残酷な家族だな」
「けれどお前は、僕の願いを叶えてくれる。そうでしょう」
「はーあ、全く仕方ないお姫サマですねー。いいよ。俺、アルスのそういう所は好きだから」
「僕も、萬里の適当なところは嫌いじゃない」
「ホントは?」
「——すき、って、言ったら」
「あっは、知ってる」
それは覗き始めた太陽に隠れる様灯る星だった。仄かで儚くも輝いて、ぽつりと流れ降るものだった。
俺は全ての返事に変えて、おいで、と手を差し伸べる。ふわりと重なった手はやはり冷たく、けれど確かに熱い。
その、温度を。
「大丈夫、まだ……僕は。僕は未だ、生きている。今は——いまは、まだ。だからお願い、繋ぎ止めて、生を刻んで」
分かってるよ、馬鹿なやつだな。
白い腕に青く浮かび上がる血管。刻む心の鼓動。お前はまだ、そこに在る。此処に、居るだろう。それを知っていた。誰よりもよく、知っていた。
そして未だ、夜は明けない。


きらり、ふわり。
星が降る、流れ墜ちる、ひかりふる。


——密やかな夜明けだった。
白い月は満月で、まだかろうじてそこに在る。明るすぎた月の光に星が霞む宵を経て、暁光の差し始めるこの夜明け、その星はもう微かにしか感じられない。薄くたなびく白い雲が、昇り始めた朝日を映して紫に染まっている。空の反対側はまだ藍を留め、その狭間に楽園はあった。
けれど夢は必ず醒める。煌めきは砕けて散った。流れて消える、溶けゆく光。
星の雨が降る。一つの物語が終わる。その道の先、繋いだ朝に緞帳が旗めき、英雄譚は夜空に響く。
高くて青い、澄んだ天。
世界は何一つ変わらない。お前がその命を賭して守ったから、これからも続いていく。


その、世界の中で。


「さぁ〜て、いっちょやりますかねえ」
煌めく太陽、けれどそれは偽物のそら。青い天井は高くもなくて、そのくせ妙に澄み広がっている。
生命を保管する巨大な実験場、ラヴィリンソス。その手入れが行き届いた雑木林という矛盾する戦場で、とある英雄は金色の瞳を煌めかせ君臨していた。
それは、太陽とよく似ている。
その黄金の目前を、植物の蔓がざわりと薙ぎ払う。棘のついた鞭を、とんと軽く地面を蹴って躱した。攻撃は虚しく土を抉るばかりだ。こういう時、自慢のばねは期待を裏切らない。
すると相手はぐわりと大きく顎門を開き、硬い棘のような牙を陽光の下に見せつけてきた。その向こうに黒い穴のような袋。飲み込んだものが溜め込まれているのかと気になって、覗こうとして。
「英雄殿、気を付けて! ソイツはなんでも食う!」
「あいあい、だからデカく育ちすぎましたってね」
後ろから鎧を掴んで引き戻され、肩を落とす。別にこれくらいで死にゃしないって。それに、易々と噛み砕かれるつもりも、ない。
背中に担いだ斧を握り直し、前方の空間を薙ぎ払う。本来は無いはずの蔓が無惨に千切れ飛んだ。なんかパスタみたい。緑色のあれ、なんていうんだっけ。ジェノベーゼ? それはソースの名前だと、かつてぼやいた家族を思い出す。最期に彼と会話をしたのは、たしかもう五年は前のことだ。じゃあ料理の名前はなんだっけか、まあ、なんでもいいな。
「俺はッ、バジルより——ナポリタンの方が好き!」
「どうでもいいから、真面目にやってくれませんかねえ!?」
薙ぎ払った刃を続いて振り下ろしながら叫べば、背後からは英雄を叱責する声が上がった。引き連れてきた冒険者部隊の隊長だ。俺と組むのはもう何度目かも分からないんだから、どんなに言っても無駄だって知ってるくせにな。
叩き潰す勢いの一撃に、敵が大きく体勢を崩す。そこへ背後から味方のフレアが飛んできて、見事に巨体へ着弾した。植物なもんだからよく燃える。けれど森へ引火させる訳にもいかないし、逃げ込まれる前に事を終わらせてしまおう。
「これが終わったら、でっかあーい、パフェ!」
追撃、飛び掛かってのプライマルレンド。ここまでやれば後もう少し。最後の一撃は折角ならば格好良くきめたい。
欲張って地を蹴り、空へ跳ぶ。偽物の青。天蓋を裂くように、大きく斧を振り上げた。けれどその隙へ再生しかけた蔓が勢いよく突き出される。
防御姿勢を取るには間に合わない。出し掛けの技の都合、斧は遥か頭上で鈍く刃をきらめかせている。
——はぁ、だから僕、いつも言ってるよね?
途端。ふわりと柔らかな声が、場にそぐわぬ微風として耳を擽ったような気がした。それから、懐かしい星の気配。
分かってるって、油断するなってね。お前のそれ、もう耳タコ。
幻は返事をしない。本物なら万の屁理屈を寄越してくるところだろう。けれどこれはエーテルの残滓に過ぎない。
だからこそ、成し得る奇跡があるのだけれど。
腰にぶら下げた鎖、そこに連なるクリスタルが勝手にエーテルを汲み上げる。身体中のリソースを強引に引き出されるその感覚は、まるでいつもの我儘みたいだ。その勝手さは星の光に変わり、花緑青がきらきらと溢れ出す。きれいだ。
星は闇を纏い、眼前に黒々と深い夜の盾を形成した。ブラックナイト。星の英雄のジョブクリスタルが暗黒騎士の技を顕現させる。
がつん、蔓が美しいエーテルの結晶を叩く。それだけで盾がぱりんと割れた。脆いのは、俺がうまく性能を引き出せていないせい。ま、俺は暗黒騎士じゃないし、別にいい。
青い空、高い天。偽物のそこで、けれど確かに星が降っていた。散ったエーテルが降り注げば、自動で変換し占星のクリスタルが呼応する。溢れ出る星光。綺羅星のヴェール、アスペクト・ベネフィク。相変わらず多重効果の贅沢仕様だ。全く、過保護にも程がある。
——でも、必要だったでしょう。そう記憶の中の幼馴染が得意げな顔をしていた。はいはい、お前のお節介はいつも的確ですよ。
だからほら、舞台はこんなにも英雄に優しい。
結局その僅かな数秒で形勢は大きく揺れ動いた。かっこいい俺の大技は育ちすぎたノーザン・スナップウィードの脳天をかち割って、此度の討伐対象は土埃を巻き上げて斃れたのだった。
とん、自慢のバネを利かせて地へ降りる。獲物を見物しにぴょいと近寄れば、最期の足掻きでがちりと噛み合わさる巨大な顎。今度こそ動かなくなる。おいおい、元気よすぎかよ。
「——ッうお、あっぶなかったわ」
「だ、か、ら! 真面目にって言ってるでしょうが! 星の英雄様の加護がなかったら、あんた今頃百回は死んでるんだから!」
「でも俺生きてるし〜。アルスが俺にって押し付けた便利道具だから、これも運も俺の実力の内ってことで、ひとつ。報酬減額されたら泣いちゃうんでそこんトコ証言たのむよ〜! 俺のオムライスう〜」
「はいはい、わかりましたから、だからその顔でこっち来んな! ほら、なんだ、今日も太陽の英雄殿はご立派でしたー」
「ほんと、俺とアルスの扱いの差ぁ〜」
ぼやきながら踵を返せば、当たり前でしょう、とその男は肩を竦めた。ぱたりと本を閉じ、冒険者部隊を率いる学者は追加で溜息さえ吐いて見せるのだ。
「あんたとアルスさん、比べるのも烏滸がましいです。うちの隊長は本当に、非の打ち所もなく見事な英雄でした」
「うわっ、出た隊長贔屓」
「贔屓じゃなくて事実ですが。彼の方は其処に居てくれるだけで導になる星だった。いつも後ろで天球儀を片手に俺たちを見守ってくれた。的確な指示が選ぶべきものを教えてくれるから、俺たちは安心して未来を描けた。それでも間違えると、すかさず白は黒に変わって、大剣が俺たちと敵の間に立ち塞がる。教師としても、冒険者としても、あの人は完璧だった。その美しさが、悲しくなるくらいに」
近くて遠い人でした。かつてアルスが率いた冒険者部隊で、最年少だった男が呟いた。
彼は数年前に三十を幾らか過ぎて、かつての英雄の享年を超えた時は声をあげて泣いた。アルスよりほんの二つ三つ年下であった筈の男は、時を止めた者の先へと歩み始め、最早青年を越え、壮年期の熟達した冒険者となっていた。そんな人間が大きな体を震わせて泣く姿は、けれどきっとかつてのそれと違わなかったのだろうと、隣で酒を傾けながら想像した夜を覚えている。
ばかだなぁと、あの日も天に呟いた。何故忘れられると思えたのか。星を喪くした世界の深くて暗い藍の空にも、確かに満天の光が煌めいているというのに。
「ま、なんでもいい。報告いこ、俺もう腹へり」
「ほんと、あんたって仕方のない人ですね」
ばふりと背中を叩いた。彼は術士である必要などないほど厳しい身体つきをしていたから、少しもよろけなんかしなかったのだけれど。
歩くその先に、進む頭上に、真実のそら。青くて高い、澄んだ天。




「遅いわよ、この遊び人が」
オールドシャーレアンが知神の港。相変わらずじゃばじゃばと水を溢し続ける巨像を背景に、議員の制服を纏った女が腕を組みこちらを睥睨していた。短く切り揃えられた髪に、細い縁の眼鏡。歳の頃はやはりもう三十を半ば以上も通り過ぎた彼女は、釣り上がった眼に深い知性を宿してその場に君臨している。
「うぇー、相変わらず辛辣っていうかぁ」
「予定時刻をとっくに過ぎているじゃないの。また寄り道してたんじゃないでしょうね」
「いやいやほんとに、きょーのは大変だったんだって!」
「ええとですね、今日のは本当です。事前資料より更に過剰に育っていた。土壌の管理者が気合いを入れすぎたんでしょう」
「……はぁ、なら、いいけど。貴方、前科が多すぎるのよ」
太陽の英雄と呼ばれるやはりもう壮年期の冒険者——つまり俺だが、そんないい大人の俺もしおしおと指摘を受け肩を落とした。頑張ったのにあんまりだ。もうしょんぼりだ。ハンバーグもなきゃやってられん。隣の頼れる本日の相棒に報告を任せ、ええいと石を蹴る。ぽーい。
やけに子供っぽいと皆に笑われる仕草だが、まあ、英雄とかいう方が性に合わないのだから許して欲しい。年齢に見合わないというのは、まあ、それも許して欲しい。
見守るうちに石はかつかつと硬い音を立てて跳ね、とぽんと波の上へ落ちた。魚が食いつく時の音によく似ている。そろそろのんびりしたい。釣った魚に大喜びする家族はもう離散しているけれど、そもそもがぼんやりと水面を眺める時間だって、そんなに嫌いじゃなかった。意外とよく言われるけれど。
食べたい魚料理を思い浮かべているうちに、隣の報告もひと段落ついたようだ。仮の相棒がちょいちょいと俺を手招くから、俺はぴょいぴょいと彼らの方へ駆け寄った。
「……なるほど、そういう事ね。それは確かに調整がおかしかった可能性があるわ。見直しを次の議題へあげましょう。——それで、そこの貴方、貴方よ英雄殿」
「あっ、はい」
「はい、報酬」
「はぁい、はあい! ありがと〜バンバーク!」
「私はハンバーグじゃないわよ、この大馬鹿者が」
ずっしり、手に乗った革袋の重みが嬉しい。そんな俺に目の前の二人がまたしても溜息をついた。いいじゃん、嬉しいじゃん。
更にまた重ねて溜め息。
「そんなんしてたら、幸せが空っぽになっちゃうってえ」
「……貴方、本当に大物になったくせ、そんな所は変わらないのね」
だって俺は俺だし、変わる必要なんかいっこもないじゃん。
それぞれの立場は確かに大きく変化した。けれど、伴って精神のあり方まで歪める必要が何処にあるというのだろう。
かつて道端で出会った学生は、立派な議員として俺の前に立っていた。それだけの年月が流れて、今では時に俺の雇い主となる。流れの傭兵もどきをする羽目になった俺に、手頃な仕事を回してくれるのは彼女が多かった。
隣に立つ半べそばかりだったという駆け出しの冒険者は、英雄のお守りを押し付けられがちな隊長へと成長した。本人曰く貧乏くじとの事だが、何でか彼の立場を羨む人も多いと聞く。事実としても貧乏くじなんだけどな。
そして、俺は。
「まあ、いいわよ。ほら、食事に行くんでしょう。着いてきなさい、席ならとってあるから」
「えっ、ほんと!? さすが有能議員サマ〜っ、ありがとありがと〜」
「こら英雄殿、顔引き締めて! 皆見てますからね」
「ほんとまあいい笑顔でこっち見て〜」
「苦笑してるのよ、貴方がいつまでもそうだから」
ほーん、言うねえ皆。だって俺は変わらない。今までも、これからも。けれど何だか悔しくて、前を歩き出した二人を追いかけ様に振り向いた。体と顔を斜めに半分だけ後ろへ向けて、ぱちり、片目を瞑り軽く手を振る。そうすればほら、黄色い悲鳴も上がるってわけよ。俺もまだ捨てたモンじゃないな。
昔から顔と声だけはいいって評判だった。おちびさんなんてこの世の苦いもの全部を煮詰めた様な顔をして褒めてくれたもんだ。嬉しいなあ。
くだらなくもかけがえのなかった世界を想起する。そのまま続きの世界へ駆け出した俺を、半熟卵みたいな太陽が見守っていた。あー、オムライス、食べよ。
暮れゆく空。赤く染まるその向こうには、もう藍が滲み始めている。その狭間に、星、ひとつ。
——ほら、早く追いかけて。はぐれるでしょう。
わぁかってる、分かってるって。ホントしんぱいしょー。
途端、腰にぶら下げたクリスタルが煌めき花緑青の星を降らせた。時折そうやってさり気なく光を溢すそれからは何となく恣意的なものを感じて、その度に空気を震わせぬ声が耳朶を擽るのだ。
おかげで全く離れたような気がしない。ほんと過保護だな。うるさくない、都合が悪くなるとアルスはいつもそれ。俺は全然平気、だってほら、目的地はすぐそこじゃん?
辿り着いたラストスタンド、海辺の一番いい席にて。
そこには既にハンバーグといくつかの料理が鎮座していた。どれもこれも俺がいつも頼むものばかりだ。支度をしていてくれたのは、いつか注文を取りに来たアウラ族の店員である。
「いらっしゃい。準備なら出来るッスよ」
「はいはーい、腹へりなので助かる〜。食前酒のハンバーグがないと始まらないってね」
「はぁ? なんですかそれ……」
「気にしない方がいいわよ。どうせ後でデザートのハンバーグを頼むのだから」
皆さんよくお分かりで。返事はせず椅子へ飛び乗るように腰掛け、両手にフォークを握った。行儀が悪い馬鹿、そう何度でも俺を嗜めた鈴の音は、真実、もうない。蘇る声は俺にだけ星降る魔法なのか、鮮烈すぎた記憶が成す過去の残像なのか、本当のところは何一つ分かりやしないのだ。
でもまあ、アルスならクリスタルを媒介し星海から干渉するくらいの事は出来るかもしれない。英雄という存在はそのくらいの奇跡を宿していて、だからこそ彼は己を物質として保存する危険性を憂いたのだった。
一方、隣にいる悪友たちは肩を竦めたけれど、それだけである。何度も俺に付き合って漫才をするつもりはないって、つまりそういう。あいや、別にボケてる訳じゃないんだけどね。
そんな俺の前にメニューが差し出される。店員が強面に笑みを浮かべて礼をとった。角の横で三つ編みがぷらぷらと揺れるのが、あぁ、やっぱり尻尾みたいだ。
「ほんじゃあ、森のオムライス。あーっと、仕方ないんでアルスのハーブティーも」
「珍しいッスね、萬里さんがそれ頼むの」
「なんとなく。線香的な? 今日はやたらと主張するからさあ」
「センコウ?」
東方のなんかアレ、つまりくよー。答えると店員が更に首を傾げて、まあうん、何でもいいってことで。彼もまた微笑み直して踵を返す。去り行く背中は堂々として、やはり時の流れを思わせた。
刺さる疑問に答える必要性は感じないから、流して料理に取り掛かる。海鮮のドリアも、ハンバーガーも、ちゃんと美味しい。硬いパンはちょっとパスで。これ全部タンスイカブツってやつ。いや俺は知らないけど、そんな記憶が甦った。別の栄養でステーキにがぶり。これなら文句なくね? 野菜? にんじーん。
そんなの隣、今日のパトロンが周囲を見渡して目を瞑った。また開き、眼鏡の向こう側に思案を覗かせる。
「まったく。こんなのくせに英雄なんて、本当に分からないものね」
「ふへ? ほへはほほはへほ」
「まず飲み込んでもらっていいですかね、全然わかんないんで」
こくりと頷いて、追加でハンバーグを口に入れた。その時点で二人は俺に話しかけるのを諦めた様である。そういえば俺の家族は、ある程度まで食べ切るのを待ってから話し始めていた。俺が何を優先するのか、何を幸とするのか、知り尽くしたが故の行動だったのかもしれないと今更ながら思う。
貴方人気はあるのよね、と彼女が言った。俺は集まった人らに手を振る。アルスもこうだったのだろうか。いや、アルスはそもそも目立とうとしていなかったから、うまく溶け込んでいたのかもしれない。
俺は挙動がうるさいらしいので、何処にいてもすぐ人に知られてしまう。すると勝手に顔面は有名になり、今や太陽の英雄なんて呼ばれてしまう始末だった。
全くと彼もまた肩を竦める。
「やってる事は漁師とか、鍛治とか、傭兵なんですけどね。やっぱりアルスさんが後を託したという事実は大きいんでしょう。星空をなくした夜は不安で、寂しいものです。どんな形であれ朝日が恋しくなる」
「——や、俺別に託されてないけど?」
「でも貴方、暁の血盟に眠る彼を引き渡して、その後の処遇の会議に参加した上、結局その後籍を引き継いだりしたじゃない」
「死体を放置も出来ないし、話しかけられたから返事してただけだし、気が付いたら雑用押し付けられてただけー。英雄やりますなんて俺言ってない。ただ、魔女サマ、怖すぎ……」
「でも、その雑用ってアルスさんがしてた事の一部ですからね。世界の中心があんたを彼の家族として受け入れた。だから世界はあんたを英雄として受け入れた。だからあんたは英雄なんだ、こんなのくせに」
ひどー、両手を上げて嘆く。二人はくすくすと笑って俺を見た。優しい顔をしていた。俺はそこに何の感慨も抱かない。
仲間と呼ぶには遠く、顔見知りと呼ぶには近いこの面々への呼称を、俺は持たない。俺が思い出の中の二人を家族と呼ぶ方が余程珍しいという事を、英雄と黄金を指差す人のどれくらいが知るだろう。
俺がそんな器でないということを、世界はきっと知らない。
「別に俺は、世界がどーこーとか、きょーみないし。ただ生きていくために依頼を受けて、生きているから美味いもん食って、楽しいから快楽を追いかけて、気が付いたらここにいるって、ただそんだけ」
ことり、懐かしいオムライスが目の前に並ぶ。隣にラベンダー薫るハーブティー。星の気配。紡がれた星の英雄譚、次の一幕の脚本はこの手の中へ転がり込んできた。
だが、いつ俺がその通りに踊ると言った。
「責任なんか頼まれたってお断り、俺にんな義理なんかない。俺とアルスは家族だったけど、べつに、互いの人生を縛りあった訳でもない。あいつの人生はあいつのもの、俺は俺の好きに生きる。文句言われたってしらん、聞く義務もない」
だから俺は顔をあげたりなんかしなかった。オムライスを崩して、ころりと溢れる鶏肉を匙で掬う。とろり、黄金が垂れ下がる。美しい世界。
「俺はただ、アルスのお願いを聞いてやっただけ。アルスもただ、俺に生きていて欲しいだけ。俺たちはそれでよくて、でも世界はきっと許さないって、アルスは知っていた。知っていて俺を望んだのは、あいつのワガママだな」
星に連なり空に輝けば、その光を世界が手放すはずもなく。
アルスは英雄の責務が移動する可能性を承知の上で、それでも太陽を望んだ。責めようとは思わない。何もかもを差し出した英雄が、一人の人間として望んだささやかな幸せを、彼が英雄でない頃から知る身で否定しようとは思わなかった。
人並みの幸せすら彼は望まず、それでも譲れぬものがあった。彼は英雄であったけれど、唯一家族を求める指先だけが迷える幼児の様に頼りなく彼本来の脆さを晒していた。そしてそれこそが彼の真実だった。本当の、願いだったのだ。
「アルスだってきっと、それだけだった。よかったんだよなあ、それで。生きていて欲しくて、でもきっと前線に引っ張られると分かってて、だから俺にクリスタルを押し付けた。もっと欲しがる奴に内緒にしてまで、無理矢理にも寄越してきた。まあお陰で俺は生きてるし、お陰で俺は逃げようもなく英雄って訳だ。やってること、ただの便利屋討伐部隊だけど。逆に言えば、だからそれでもやってられる。これ以上はお断り、ご大層な英雄譚には責任と痛みがついて回るって、多分この世界で俺が一番詳しいからね〜」
世界に残された、濁流のような不安と渇望。英雄を亡くした世界に残る暗闇、求められた光。かつてその星は、願いを受けて己を燃やし尽くした。
——それでも。お前はお前の道を、どうか、歩んで。
いつか、彼がそう希った。忘れてなんかいない。全力でそうさせてもらうつもりだし、アルスだって選んだ道に後悔なんてなかった。俺も、あいつも、結局のところは真に貫ける道しか歩まない性質なのだから。
そうだ。その人生を選んだのは他ならぬこの手だ。そして、世界の思惑と己の意思はまるで別物なのだ。従う気なんかない。己を治めるのはただ一人、自分自身だけだ。故にこそ。
「俺が英雄なのは、アルスが英雄だったからだな。いや、あいつは多分まだ、英雄なんじゃないの、俺なんかより全然さ?」
笑ってカップを持ち上げ、揺らした。立ち昇るラベンダー、白く霞む湯気が、いつの日か燻らせたものを想起させる。
「——そうね。忘れられる訳なんかない。私たちが生きているのは、彼が英雄として生きたからに他らないのだから」
「そうですね。彼は鮮烈な星空で、その光は遠いからこそ眩かった。そして近いからこそ温かかった、忘れられる、わけ、なんか」
あぁ、ああ。星が降っていた。透明なそれを直視すれば言葉を探すしかなくなって、そんなのはごめんだと視線を空へ逃した。その先はもう暮れて、闇に光が美しく瞬いていた。
「ほんと。眩しくて、なあんも、みえないなー」
澄んで高いそら。星瞬く空、星揺蕩う天。遥かに遠く、そこに在るのに届かない。彼方にある、星の光。
オムライスはあっという間になくなってしまった。それはひどく懐かしい味で、けれど明らかに大切なものが欠けていた。決定的な欠落は、その人の不在をより鮮明に浮かび上がらせ、同時に彼が歴史の中鮮烈に生きていた事を物語っていた。眩しい。
人々がその星天を忘れることなど出来る訳がなかったのだ。
「……ばかなやつ。こーんなに、色んなモノおいてっちゃってさあ」
故にこそ彷徨える子羊は星の足跡を追う。英雄が遺したものは数多い。きっとそれは本人の想定を超えるほどに、自覚もなく彼は其処彼処に足跡を深く刻んでいたからだ。
英雄に預けられた双蛇党の冒険者部隊の隊員たちは、もうそれぞれが各隊の隊長を務めるまでに成長している。彼らは時に森をも飛び出し、各地の治安維持に協力していた。
英雄を師と仰ぐのは冒険者に限らない。ウルダハから始まった彫金工房にも未だその名は残っているし、或いは革製品のブランドにも名を冠されて久しい。
英雄が残した調合レシピの茶葉は一つの銘柄として指定され、園芸、錬金、調理のギルドが協力して守り流通させている。
そのどれもが決して彼の生み出す技には至ることが無く、けれどそのどれもに彼の息吹が宿っていた。故にかえって、人々は遺された星の残響を愛した。
英雄のいない世界にさえ、その英雄譚は鮮やかに響き遺った。流星はそれを知るだろうか。お前はこの世界を、どこから見ているのだろう。
「だからそうやって、みんな、空を見るんだな」
なに、と二人が視線を俺に戻す。その二対の眼は俺の向こうに夜空を映して、やはり星を宿して空間に揺蕩うものだ。
ことり、美しい硝子のカップを置いた。繊細な装飾が施されたそれには見慣れた酩。星の彫金師の精巧な作品が、彼のレシピで調合された茶をたぷんと揺らして煌めいた。
「——魂は旅の終わりに星海へ向かう。そこで休んで、また次の巡りに旅立つ。なら、その星海は何処にあると思う」
「それは、アイティオン星晶鏡の底よ。深く地殻へ潜ると、そこに巡りの中心がある。そんなのはここで生活する学者や議員にとっては常識でしかないわ」
「まあ、そうだな。それは事実だ。でも、アルスは。星の海を探して天を見るんだってさ」
天、と二人ともが繰り返した。高くて澄んだ、青い空。遠くて眩しい、花緑青の天。
何故と彼の隊員が問うた。好きだからだって、と返す言葉は酷く軽い調子で食卓に降る。けれど事実だ。そしてそれは、彼を知る人であればそうかと言葉を引くような現実でもあった。
ただ好きだから、言い訳の様に呟いてその人は星天を見上げた。そうでもしないと挫けてしまいそうな自分を、彼はきっと自覚していたのだから。
「んでさ。俺もそれ、嫌いじゃない。めそめそ泣いて、それで腹が膨れる訳でもないからさあ。だったら見上げてた方がいいじゃん?」
アルスだってそう、願った。それは己と世界、両方へ向けた心だった。
反対側の空で星が降る。たった一筋のそれを受け、クリスタルが柔く光を溢す。白い月は真円に程近い。あの日のように、眩しいそら。あの日よりも、眩しいそら。
「遠い空の先で星が燃え尽きる。その光は散り際の炎でしかないけど、でも、綺麗だ。誰かの最期を俺たちは見上げて、時に道標にするだろう。終わりの光は届くまで永く時間がかかるから、それは幻で、同時に現実だ。もう無いはずのモノ、そこに居ないけど、ここに在る。時間の交差する天、まるで夢を見てるみたいだな」
耳元を擽る声、揺れる風。幻と現の境目に奇跡は成る。英雄という魔法がかかる。星と呼ばれたその人はもう何処にも居らず、けれど確かに此処に在った。遥かに遠い英雄譚は、星の残響を以て現在という歴史書を紡ぐ一節となっている。
その詩を、世界は愛しているのだ。
「そしてそれは、貴方もね」
掛けられた言葉に肩を竦めた。太陽は好き勝手に燃え続け、時に周囲を巻き込み焼き尽くすだろう。いつまでその空を照らすことが出来るのか、そんなのは俺の知ったことではない。けれど、それでも。
生きているから歩いている。そして歩いた道に物語は成り、英雄が歩む其れの名は覇道といった。
かつて暗闇に瞬いた光は、苦難の中で足掻き道を敷いた。その先で美しく燃え墜ち、地上に海を遺した。片割れの太陽はまだ空に在る。
俺が好き勝手に走り抜けて行く物語は、歴世の学者に覇者の征く英雄譚と編纂されるのかもしれなければ、あるいは路傍の軽石として海へとぽとんと落ちるのかもしれない。何方でも構やしなかった。それでも生きていくという事に、変わりなどあろうはずもないのだから。
その全ては、俺の掌の外側。全ては、世界の大いなる流れの中。俺はその海を泳ぐ自由な魚で、同時に天高く眩い太陽だった。
「あーあ。えーゆーサマって、大変ねえ」
誰に譲る事もできぬ会計、その明細がふわりと風に乗って空を泳ぐ。その風は百合の香りを伴って、ぱたりと羊皮紙を塩味に染めた。じわり、インクが溶け出し海に還る。きらり、天の星が波間に降った。


そうして今宵も紡がれるのは歴世の詩。そしてそれは紛う事なく、星の残響であったのだった。




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[mokuji]











 


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