昊天の彼方*
珍しく雲のない夜だった。 夏の終わりは三日月を伴い街へ降りて、虫の音ひとつさえ聞こえぬ物寂しさを演出していた。色付く街路樹もない石畳の街、そこへ迫る秋の足音、冬の気配。花が実を結ぶ間も無く風が冷気を孕み始めた。薪を割らずに過ごせる季節は瞬きの間に過ぎゆく。霊災以降冬が支配するエンピレアムの短い楽園は、早くもその幕を下ろそうとしているのであった。 ——それでも、まだ。この物語は、続いているから。 家族のいないその日に、咎める者が不在の夜に。星空の下へ出たいと誰にでもなく希った。雪の向こうに透かす光とは違う、茹だる夏の夜の星。 幸いにもここは過ごしやすい気候であるから、不愉快な湿度とも縁がない。寧ろ少し肌寒いくらいだけれど、痛みを齎す程でもない。だから羽織るものすら持たないで、けれどお気に入りのタイは綺麗に結び鏡の前へ立つ。うん、これなら夜降ちの宴に相応しい。 そうして重い扉を開いた先で、からんと鈴の音ひとつ。 それから、 「……ただいま」 ころんと君の音、もうひとつ。
★昊天の彼方
珍しく雲のない夜だった。 昊天の下、君は左手で逆の腕を抑え、荒波を押し殺す様な静けさでそこにいた。唸りに似た挨拶を投げ寄越し、そのくせ続く言葉は一つもない。極度に張り詰めた感情の糸。触れたなら、きっと容易く切れてしまう。 そんな硝子の鎧の向こう側、君は瞳を鋭く光らせ顔を背けながら、けれどその色ばかりは僕をきつく睨み据えていたのだった。 夏の夜、熱を秘めて凍る君。流れ降りそうな程の星を湛えた、天と地の交差するその場所で。 綺麗な身なりの、それでも満身創痍と察せられる妹分が此処にいた。 「おかえり、ステラ」 その姿を見て、彼女もまた血濡れた指で歴史を繰る者だと思い出す。僕らは交わらぬ道を行き、同じ運命を綴る旅人だ。故に僕はその傷を知っていた。けれど僕は何を訊ねるでもなく、ただ普段と同じ笑みを浮かべるに留める。 それは彼女が変わらぬ言葉で帰還を告げたからで、同時に僕が彼女を怒らせるのもまた、日頃から見られる一場面でしかないからでもあった。 君が僕に望んだのは、そんな日常の延長であると理解していた。ならば僕は鏡合わせの演者として、虚構の戯曲すら謳ってみせよう。 だからね、うん、いいよ。嘘を吐くのは得意だもの。きっと今日の僕にはまだ過失なんて無いけれど、それでも。全てを僕のせいと詰っても、君の全てを赦してあげる。 君が望まないのなら、僕は君の空には踏み込まない。 「こんな夜更けに、独りで来たの」 代わりに他愛もない疑問を音にしてみれば、彼女はこくりと頷いて、それでもやはり言葉を継ぎはしなかった。不機嫌さを綺麗な横顔にありありと滲ませて、それでも玄関前から動く気配はなかったのである。 慰めも優しさも痛みでしかなくて、けれど止まり木の温もりは手放せなくて。 ステラが持て余しているであろうその感情の波は僕にも覚えがあるもので、故にこそ僕に出来る事なんてそう多くないと知ってもいた。 だから僕はやはり特別な慰めを差し出したりなどしなかった。ただ彼女の横をすり抜け、金属の門扉を押し開く。ぎいと軋む音は宴への誘いに他ならない。君はまだ、そんな事思いもしないのだろうけれど。 「これから、星を見に行くから。君も来るでしょう」 代わりに投げ返すのは、否定を許さぬ勧誘が一つ。是非を問わぬ微笑で君から選択肢を奪う。僕に出来ることなんかない。けれど、その顔のまま君を帰したりなんて、しない。 「……うん」 ステラは珍しく僕の物言いに腹を立てる様子もなく、またこくりと頷いた。瞳から苛烈さが消えれば、残るのは人形の様な静かな美しさだけだった。平坦な声は普段と変わらず、けれど燭台に灯した炎のように頼りなく聴こえた。 ——僕ら英雄たる者に、その灯火を絶やすことは許されない。 じくりと同じ傷が疼く痛みを想起する。僕もまたそれを瞬き一つで飲み込んで、いこうか、と囁いた。僕の声は夜に溶けて、雪もないのに積もって消えた。 それでもまだ、大丈夫。だってそう、進めば後ろから君がついてくるのだから。 石畳を叩く足音、二人分。 かつん、かつん。門扉をぬけて南西に歩いた。小さな石橋を越えれば大通りが僕らを出迎える。僕の後ろ、君は不審そうな表情を隠しもせず石橋を叩き割るように渡り始めた。そんなに心配しなくても、僕の言葉に裏表なんて無いのに——そう、今回はね。 夏に見合わぬ寒々しい道を、ぽかりと空いた広場へと向かう。けれどその手間で、足音が一つ、止まった。 振り返る。橋の上に迷子の惑星、ステラ。 薄闇に浮かぶ橙の明かりが、滲んでゆらりと彼女を包んでいた。その柔い夜空を浴びながら、君は影を落として斜めに視線を突き刺すばかりだった。 全く、仕様がない。 「そんなに穿っても、視線では石を貫けないと思うけど?」 「……は? 意味わかんない」 くすりと笑えば、その鋭い光が漸く僕を見る。研ぎ澄まされた意思は刃に変わり、僕は突き刺さる痛みの全てを受容した。ふわり、ただ微笑む。蕾が花ひらくように、星が煌めくように。 かつん、かつん。足音が一人分。相変わらず動かぬ君の元へ、ならば僕が歩み寄ろう。 橋の上に、星ふたつ。 自慢の庭を背景に君が立っている。エーテルで気候に逆らい咲かせている花が、風に揺れてその花弁を降らせていた。淡く光る藤の花。桃と紫が橙と混ざり合い、君の色を溶かして澄んだ昊天を彩っていた。僕の世界の中に、惑星。 一等煌めく光は僕を射抜く。君に見えている世界は何色だろうか。僕が背負うものは、堅牢なる皇都の義勇門、それから丸く荘厳なステンドグラス。随分と威圧的な景色かもしれない——それならそれで、構わない。 風がふわりと駆け抜けた。そこに混ざる、鉄の香り。 「——ねぇ、ステラ」 「ッ! やだ。離して」 途端に顔を背けた彼女の、庇われた右腕を掴み上げた。手首の下を握ると、肘下あたりから伝ったのであろう血でぬるりと指が滑りかける。ぱたり、石畳に赤い雫が降った。レースが施された革のジャケットの下、長袖のブラウスはもう悲惨な状態に違いなかった。 「傷が開いたならちゃんと声をかけてよね。それは流石に、見逃してあげられない」 「べつにこれくらい、」 「このくらい、なに」 振り払おうとでもいうのか、ステラが腕に力を込めた。その気配を察して、僕は己の生命力を汲み上げる。エーテルを操作し一時的に強化して仕舞えば、彼女にだって張り合えるのだ。 ステラの星がまんまるに見開かれ、僕の星と交差した。僕はやはり微笑を崩さず、そしてぴくりとも腕を動かさせやしなかった。 「……モヤシのくせに。なんで」 「僕だって両手剣を扱う事もある。君が知らないだけでね」 そのまま、更にエーテルを引き摺り出す。掴み上げた手から花緑青の光が溢れ、引き攣れた傷に滲んで消えた。きっともう傷跡一つない。けれどその心はまだ引き攣れた痛みを抱えたまま。 だからまだ譲れなかった。君がそのつもりなら、僕だって。 ステラは動かなかった。正確には、動こうと力を込め続けた。瞳が苛烈に輝いて僕を貫くから、僕もまた浮かべた微笑を崩さない。軋む力が均衡し、あぁ、意識的にその苦痛を意識の外へ逃す。ぐらりと世界が揺れて、けれど僕自身は揺らがない。大丈夫、何ともない。 すると途端、ステラがぐいと強く腕を引いた。 「——ッ、う、」 「やっぱモヤシ、痩せ我慢じゃん」 「うる、さいな……」 強制的にステラの方へ引き寄せられ、僕は石畳の小さな段差に躓いた。急に動いた視界に、世界が回る。そう、僕の力は一時的なまやかしに過ぎない。永続させようと思えばその分だけの燃料を要するし、補充が叶わぬのなら僕自身の生命力で賄う他になかった。 それでも争えば意地は酷い頭痛を連れてきて、あぁ、吐きそうだ。 「もう笑ってらんないね。自分の心配すれば」 「君が、最初から素直にしてくれたら……っ、こうはならなかったんだけど?」 「は? アルスがしたんじゃん」 確かに選んだのは僕自身だけれど、君も悪びれなさすぎじゃないの。 自分の全てを棚に上げ、ステラはやっと口元に笑みを浮かべた。悪戯な表情で、けれどまだ目が笑っていなかった。紛れもなく静かに僕を責めている。 僕のせいにしていいとは思ったけれど、僕のせいでもあるけれど、何処か腑に落ちない。その意地のまま、小瓶を割りたい衝動を耐える。 「つらいって言えば」 「べつに、そんな……、こと」 「そんなって、なに」 立ってるだけでやっとのくせに、とステラが吐き捨てた。だって、そんなのは、仕方がなくて。まだ天の果てから戻って間もない身体は、僕の意のままになんて動いてくれない。 腹立たしい事にその指摘は事実だから、僕は至近距離から彼女をきつく睨んだ。余裕なんて、もうない。そのまま息を詰める。呼吸が、鼓動が、世界が、揺らぐ。 あぁ、認めよう、酷く苦しいと。いつの間にか僕が抑えていた筈の腕は、彼女に掴み直されてしまっていた。これでは追い込まれているのは僕だ。 「さっきの逆。仕返し」 「っ、僕は自覚してるけど。君のその性格も……、大概だよ?」 「アルスが悪い」 「——ッん!」 いっそ賞賛に値するほど綺麗に明言し、ステラが何かを僕の口に押し込んだ。突然奪われた呼吸、代わりに液体が身体の中へ入り込む。 「っ、けほっ、ごほ……ッ! ちょっと、君ね……!」 「アルスが、悪い」 冷たい感触——硝子の小瓶。それはぱりんと悲鳴をあげて砕け散った。清涼な流れが内腑に染み、滲む視界が明るくなる。全く、何て乱暴な事を。痺れを切らした彼女は、反論に開きかけた僕の唇をこじ開けるようにして、無理矢理エーテルの小瓶を含ませたのだ。 咽せる苦しみと共に、世界に均衡が戻ってくる。 僕が両足で石畳を踏み締めるのを確認したのだろう、ステラが唐突に僕を解放した。けれどねえ、そんな不意に力の均衡を変えられたら。 本当はまだ監禁に近い療養を終えたばかりだったから、ふらりふらりと僕は後ろへたたらを踏んで、それを悟られまいとし、やはりもう一度彼女に支えられた。あぁもう。あまりにも格好がつかなくて嫌になる。 「意地っ張り。アルスって、バカ?」 「——僕にも矜持があるからね」 結局そのまま地面へ墜落するようにへたり込んだ。合わせて隣にステラが座る。二人で見上げる空。こんな中途半端な場所じゃなくて、もっと高い所まで上がろうと思っていたのに。 僕は全てを諦めルーシッドを炊いた。もう取り繕う体裁すらもなかった。荒い呼吸を雪みたいに降らせるけれど、夏の石畳には何一つ積もりやしなかった。追加で小瓶を割れば、ぱりんと砕けて透明な光が散る。星空みたいだ。昊天にそれは咲く。 そんな僕を見て、ステラがくすりと笑った。今日初めての純粋な笑みだった。 「ほんとバカ。プライドじゃ腹は膨れない」 「ん、そうだね。けれどその誇りがなければ、人は己を律する事すら出来ない。それもまた真理だよ」 「うざ。屁理屈ばっかじゃん」 「でも君には届いた。そうでしょう、僕の惑星」 「ねえ、調子戻ってきた?」 「……まあ、ね」 あーもう、と僕は顔を覆った。何を言っても無駄なのに、どうにか虚勢を張ろうとする己が滑稽で仕方がなかった。全て見透かされての対応が、恥ずかしくて、同時に擽ったい。 そんな僕をステラが覗き込む。もう君、僕のこと揶揄ってるんでしょう。 アルス、と遠慮なくその鈴の音は鳴る。 「結局、それで?」 「ん……、やっぱり僕、馬鹿かも」 「知ってる」 「腹立つ……」 「自分がされて嫌な事って、人にしちゃいけない。知ってた?」 「うるさい……」 都合悪いとすぐそれ。ステラがぱたりと後ろに倒れながら言った。すうと彼女の右腕が上へ差し伸べられる。滑らかな白にはもう傷もなく、けれど未だその名残で赤く染まっていた。 「あのさ。腕が石になったら……痛いかな」 ぽつり、夜に囁きが降った。僕は顔を上げて彼女を見遣る。表情はなかった。ただ、静かだった。 脳裏に蘇る、蒼い水晶の煌めき。 僕は、あぁ、と吐息を零した。彼女が今どの頁を綴っているのか手に取るように分かる、そんな気がしたからだった。 「ん、どうかな。石になるときは……痛そう、だったけど。硬化した後の部位については」 「わかんない。なった事、ないし」 だから、と彼女は言った。だからか、と僕も思った。 「腕なんか、ほんの少し、掠めただけ。それで大騒ぎして、バカみたい。痛いかって、そんなの、こっちの、」 「……うん」 「アルスも。他人の事ばっか。似てる。ムカつく。サンシーカーのオスってムカつく」 「手厳しいね。それとも、もしかして僕褒められてる?」 「殴るよ」 ごめん、と僕は言った。君は顔を顰めるだけで、うん、別に僕は悪いなんて思っていない。彼女が思い描くもう一人は、慌てふためいて謝るのだろう。それは心底申し訳なく思った顔で、けれどその行動を正す事はしないまま。 結果その物語は終わり、そして続きが生まれた。その一つの幕引きを僕は酷く美しく感じているのだから、彼を真の意味で咎められなんかしないのだ。僕の世界線で繰り返してきた事は、同族への自己嫌悪が混ざった揶揄の投げ合いでしかない。僕らは互いが理解していて、それでも虚勢を張りあった。 けれど、ステラは。彼女が描いた物語は。 「——痛かった。痛かった。痛かったのに。痛くないって。バカじゃん。みんなバカ、ほんとバカ」 「そうだね……」 「でも。言ったって、どうせ聞かない」 今度こそ僕は何も言わなかった。僕は痛みを封殺し、彼女はその存在を指摘して憤慨した。それは物語の外で、物語の頁の中で。心の底から非難してくれる惑星を、僕らは暗い夜空に抱くのだ。 ——君もまた、その道を征くのだろうに。 「ねえ、ステラ」 「……なに」 「君だって、どうせ本当に痛い時ほど言葉を閉じ込めるんでしょう。だから、そういう時は。また一緒に星を見よう」 僕もまた手を空へ透かした。血の気の失せた青白いそれは、彼女の血で所々鮮やかに染まっていた。向こう側に、夏の空。星満ちる昊天。やがて秋が来る。 「君は今、僕の後ろを走っている。僕は君に手を差し伸べる事が出来る。けれど、君はすぐに僕に追いつくだろう。そしてすぐに、僕を追い抜くだろう」 「……アルス、」 「そして君は僕より遠くへ歩くだろう。その時きっと、僕はもうその手を取る事が出来ない」 「——ッ、アルス!」 「ふふっ、そんな顔しないでよ。本当の事だし、僕はそれを悲観している訳でもないんだから」 痛い程の怒りを孕む視線を、僕はやはり微笑で受け入れた。それは仮面の笑みでなく僕の真実であったのだけれど、果たしてそれは君に伝わっただろうか。わからない。 「でも、だからこそ。僕がまだ君の前にいるうちは、僕は君を甘やかすし。君が僕の前へ進み出たのなら、僕はその惑星を目指して物語を綴ろう。そして君が不意に立ち止まったなら、僕は何も訊かずに君の隣へ追いついてあげる。何処にいても、違う速さの時間の中を生きても。僕らの頭上にはこの星空がある。今日のこの、昊天のように」 だからね、と僕は言った。だからか、と君も言った。 「それなら。星を、見てあげてもいい」 「うん。また、いつでも此処へ。この星の下で会おうね。君が彼方へ行っても、僕が彼方へ逝っても」 込めた意味の半分に、きっと君は気付かなかった。うん、と頷く横顔は仄かに嬉しそうだった。僕はそれでよかった。約束がある事が、僕らの間に小さな絆を紡いだ事が、全てだったから。 「……生意気な顔してる」 「ん、べつに、何も企んでなんかないよ?」 「嘘つき」 そんな僕の頬を君はぐいと引いた。僕はその指を外して首を傾ける。まだ不満そうな君は、まあいい、と言葉だけは放り投げるのだ。 「すぐ、追いつく。それで、追い越すから。その時泣いても、許してあげない」 「ひどいな。僕は君の全てをゆるしてあげるのに」 「嬉しくない、ぜんぜん」 ステラが溜め息をつきながら立ち上がった。あぁ帰るのだなと、僕はその気配を読む。案の定帰ると簡潔に述べた彼女は、踵を返そうとし、けれど一度動きを止めた。そして鞄の中を漁ると何やら木を放り寄越す。 「お土産」 ぽつり、一言。僕が困惑をのせた視線を遣れば、ステラはまた大仰に溜息をついた。まるで出来の悪い子という顔をされて、でもねえ、これで察しろなんて、そんな、無理だよ。 「あげる。余った木で作った」 「なんで木べら?」 「家にあるか分かんなかったし。それ、リグナムバイタ。売ったら殴る」 「いや売りはしないけど」 「売ったら、紅蓮の極意桃園結義乾坤闘気弾」 「えっと、なんて?」 そんな他愛もない台詞で逢瀬は終わりを告げた。小さな物語の幕が降りる。結局やたらと長い呪文の正体は分からなかった。だって、君は返事をしなかったから。 面倒くさそうに片手をひらりと振って、彼女は今度こそ夜の中へ歩き出した。君の背中が遠ざかる。 珍しく雲のない夜だった。 夏の終わりは三日月を伴い街へ降りて、虫の音ひとつさえ聞こえぬ物寂しさを演出していた。そこに唯一、君の靴音。君が物語を生きる音。巡る季節にその惑星は輝く。 美しい夜だった。素晴らしい、夜降ちの宴だった。
やがて皇都に秋が来て、雪が積もる。その下から芽吹いた花は若葉に変わり、それから。
ころんと鈴の音、星の歌。 君の得意げな顔が昊天に咲く。君は軽快な足取りで石橋を渡り、僕を追い越して、くるりと振り返った。その手に乗船券を握ると、高く掲げて揺らす。 「勝った。黄金郷は先に行く。もう——、追い越した」 「——っ、……ふぅん? 君がそのつもりなら、受けて立つけど」 「追いかけてくればいい。追いつかせなんか、しない」 台詞だけ置いて走り出す。けれど、その背中は僕の道を照らしたまま。 夏の盛りがやってくる。僕らは夜空の彼方へ飛び出し、その旅の果てに星座を結ぶのだ。 珍しく雲のない夜だった。心に一つの曇りもない、満天の宴だった。
——それでも、まだ。この物語は、続いているから。
綴る物語、捲る頁。重ならぬ舞台は同一の曲を奏で、世界線の緞帳が緩やかに旗めいた。 その昊天の彼方、始まりを告げる、星ふたつ。
[ 36/118 ] [mokuji]
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