第10話


年が明けて少し経った。あたしは受験に向けて本格的に勉強漬けとなった。部活ももう全然行けてないし、休み時間も暇さえあれば図書室で勉強。
クラスの人たちも気使ってくれたり励ましてくれて、あともうちょっと頑張ろうって思った。

でも。あともうちょっと頑張っても、待ってるのは今の環境との別れだ。特に勉強に関しては、努力をすればそれだけ目標へ近づくはずだけど。
頑張っても目標を達成出来たとしても、何も報われない気がする。大事なものをなくす気がする。


「お疲れさん」


昼休み、図書室でガリガリ勉強してたら、静かに声をかけられた。顔を上げると羽山先生だった。


「頑張ってるな。休み時間も勉強して」

「いやー、あとちょっとだし。頑張らなきゃ」

「そうだなぁ。受験終わったらまた部に顔出せよ。後輩も寂しがってるぞ」


そう言って羽山先生は、机にそっとキットカットを置いた。


「“きっと勝つ”だ。俺は縁起とか担ぐ方でもなかったけど」

「……」

「受かって欲しいと思ったら、小さなことでも何でもしたくなるもんだな」


先生はこの立海の教師の中で最も若い。そもそも立海は受験生がほとんどいないし、受験生を受け持つのは初めてなんだって。

おまけにご近所さん。昔から、ちっちゃな頃から知ってるあたしだからって、付け加えてくれた。


「…先生」

「ん?」

「あたしの初恋は、羽山先生だったんだよ」

「……マジか」

「マジです」


それは知らなかったなーと、照れるように笑ってくれた。左手に光る指輪がすごくきれいでお似合いで。だからもう胸は痛まない。


「先生に会えなくなるの寂しいなあ」

「そうだなぁ。また落ち着いたら遊びに来いよ」

「それはもちろん」


“さらっと言えんやつもいるってことは、わかってやりんしゃい”


それはあたしにも当てはまることだ。あたしは、先生にはもう言えちゃう。好きだったことも、寂しいってことも。
きっと言えないのは、ただ一人だけ。

昼休みももう終わりかけだったから先生は先に職員室へ戻り、あたしも片付けをして教室へ向かった。
今の教室は割と居心地が良い。ブン太と、まったく話せない顔も見えない距離の席順になってるから。

変なの。一学期はブン太が隣で居心地良くて、二学期は離れて寂しいから屋上に一緒についてって。今は離れて居心地良いなんて。

そんな自分の矛盾に嫌になりつつ、教室への道を急いで、階段を上がって曲がり角を曲がったら。


「ジャッカルー!英語の辞書貸してくれ!」


すぐそばのI組の教室の入り口で叫ぶ人がいた。ブン太だ。ものの数メートルの距離。

引き返そう。そう思っても、足が動かなかった。
毎日同じ教室だけど話せなくて、顔も見れなくて、たまに聞こえてくる笑い声に苦しくなってた。でもほんとは見たかった。その相手のブン太が、今そこにいる。


「わりーな」

「ったく、いい加減自分の辞書買えよな」

「持ってるけど持ってくんのが面倒なんだよ。ジャッカル持って来てるし」

「は!?おま、俺は必要ねぇのにお前が借りに来るから持って来てやってんだぞ!」

「だから悪いって!」


久しぶりなのに全然変わってない。相変わらずのブン太だ。横顔だけど、あの明るい笑顔も久しぶりだ。うれしい反面、苦しい。

ダメだ、と思って、固まる足を無理矢理動かして、元来た道を引き返そうと思ったら。
抱えてたペンケースを落としてしまった。

しまった…こっそり去ろうとしたのに!散らばったペン類を一目散に拾った。


「なーにやってんだよ」


最後のシャーペンを拾おうとしたところ、上履きが視界に入った。そのシャーペンは、前にブン太に貸したやつ。目に入った上履きは、かけられた声はブン太のもの。

見上げると、ぷくーっと、ガムを膨らませるブン太がいた。
思わずまたペンケースを落としてしまった。再び転がるペン類。


「2回も落とすなよ。縁起悪いじゃん」


そう言って屈んで、あたしが落としたペンを拾い上げてくれた。


「はい」

「…あ、ありがとう」

「どういたしまして」


立ち上がろうと思っても顔が俯いたままで動かない。ブン太もそのまま、あたしに合わせるように屈んだままで。


「勉強頑張れよ」

「…え」

「まぁ、もう十分頑張ってっか」


顔を上げると、まさにいつも通りの、あの明るい笑顔があたしに向いてた。

やっと言ってくれた、頑張れって。その言葉を待ってたはず。
なのに、うれしいよりももうずっと、苦しい気持ちが強くなってる。

ブン太の笑顔が揺れて見えづらくなった頃、タイミング良くチャイムが鳴り始めた。
すぐ立ち上がった。動かなかったはずなのに。見づらいのに、ブン太が物凄く驚いた顔をしたのがわかって、やばいって。

そのブン太も同時に立ち上がって、あたしの腕を掴んだ。


「…光希」

「い、行こう、ブン太」

「光希、俺」

「急ごう。授業が」

「俺ずっと」

「早く行かないと…!」


掴まれた腕を強く引っ込めようとすると、ブン太は、力を緩めた。


「言わせてくれねーんだな…」


ブン太から顔も体も背けたと同時に、涙が落ちてきた。間に合って良かった。

背中越しに聞こえたそのブン太の声は、今まで聞いたこともない、あの夏の大会後よりも楓先輩のことのときよりもずっとずっと、辛そうだった。悲しそうだった。


「…悪い、今のは独り言」

「……」

「よし、早く行くか。次羽山だから、遅れたらうるせーもんな」


次に聞こえた声はもう、いつもの明るいブン太の声。顔は見れないけどたぶん、笑ってる。
先を走るブン太の背中がまだ滲んで見づらいけど。今はもうこれでいいんだと思った。

それから2週間経った日。もう受験も直前で、朝、勉強するために早めに学校へ行くと、あたしの下駄箱に一つ紙袋が入ってた。

なんだろうって思って中身を見ると。途端に足に力が入らなくなって、しゃがみ込んだ。


「どーした?」


頭上から聞こえた声に見上げると、仁王がいた。また何でこんな早くに来てんのって、言いたいけど声が出ない。


「腹でも痛いんか?気持ち悪いとか?」

「……」


声は出さず首を振るだけのあたしを心配したのか、仁王もしゃがみ込んだ。
そしてあたしのお腹に抱えられているものを見ると、ああって、声を漏らした。


「逆じゃろ、普通は。でもたぶんむちゃくちゃうまいぜよ」

「……うん…っ」

「ついでに俺も逆で」

「…え」

「ハッピーバレンタイン」


笑った仁王の顔は、やっと見れたのにやっぱり涙で見えなかった。
はい、とお守りを差し出されたから。


「あーあ、せっかく早く来て、下駄箱に突っ込んどこうと思っとったのに。先客がいたとはのう」


今日はバレンタインで、普通なら女の子が男の子にチョコとかお菓子とかプレゼントを渡す日。
でも女子のあたしの下駄箱には、桜餅が入ってた。“合格しますように”って見慣れた汚い字のメッセージカードも。そしてこの仁王からもお守りを。


“何でもしたくなるもんだな”


何度も救われてきた。なのにあたしは今、何も出来ない。
でもこんなあたしの今を、きっと5年後、あの手紙が彼らに伝えてくれる。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

卒業式を迎えた今日は、14日で、世間一般ではホワイトデーって日だった。今年のバレンタインは全部受け取らなかったから、お返しもなくて気が楽だ。

結局は部活も同級生もほぼ来年からも一緒だから、そんなに感傷的になることもない。
ただ、あいつだけはいないんだ。


「丸井先輩!」

「よー、赤也。ヨダレのあとついてんぞ」

「うっ…だって眠かったんスよ!」


その卒業式の後、校庭でみんなで写真撮ったりワイワイやってたら、さっきまで寝てたんだろう赤也がヘラヘラやって来た。敬愛する先輩方の卒業式になんつーこと言いやがるんだこいつは。
まぁでも、高等部は中等部との合同練習もしょっちゅうだし、そもそも併設されてるから、たいして変わんないんだよな。


「この後謝恩会っスよね」

「おう、せっかくだから俺らの門出に泣け」

「泣くわけないじゃないっスか!どーせ来年も一緒だし」


だよな。でも俺は、何でか。感傷的になってないはずなのに、何でか、泣きそうなんだ。


「ブン太」

「ん?」


赤也やジャッカルとギャーギャーやってると、仁王も寄ってきた。さっきなんか冴島さんにボタンくださいって言われてて、らしくなくすんげー迷ってた。
…あ、でもボタンがない。やったんだな。


「光希、この後の謝恩会出れないって知っとるか?」

「…え?」

「引っ越しが今日って」


その言葉を聞いて、すぐ周りを見渡した。ちょっと前には女子テニス部のやつらとかと写真撮ってたから、後で可能なら俺も…なんて思ってたんだけど。
姿が見えない。もう帰った…?


「さっき冴島に聞いたんじゃ。俺も知らんかった」

「……」

「それとこれ。今朝、光希から預かった。ブン太にって」


差し出されたのは、ピンク色の小さな袋に詰め込まれた大量のガム。それと、3年間という時間を感じさせるようにところどころメッキが剥がれたボタン。


「逆じゃろ、普通は。両方とも」

「……」

「ちゅうか、ホワイトデーのお返しとしてどうなんじゃそれは」


そうそう、光希はお菓子なんか作ったことないんだもんな。だからこんなガムなんて、手抜きしやがって。
このボタンも逆だろぃ。普通は女子が好きな男子に貰うもんで。


「丸井先輩?」


赤也が後ろの方で呼ぶ声が聞こえた。ただ聞こえただけ。俺は止まらなかった。

俺は引っ越しとかやったことねーからわかんないけど、そんなすぐ終わるわけじゃないだろう。早く、光希の元へ。今なら間に合う。

ガムとボタンを抱きしめながら考えた。
あの日、屋上で笑う光希に寂しいって言えば良かった。雨の中走って帰る光希を追いかければ良かった。
月がきれいなんてカッコつけなきゃ良かった。言わせてくれないなんていじけないで泣いてる光希を抱きしめれば良かった。
合格した後、約束した水族館に連れて行けば良かった。
後悔ばっかじゃねーか。

ただひたすらに走って、間に合う、絶対間に合うって言い聞かせてたけど。
光希の家の前に着くと、もう人気はなかった。家の中、入れないけど見える窓にカーテンとかもなかった。


「もう行っちまったんかのう」


後ろで、俺と同じく息を切らす仁王の声が聞こえた。ついて来てたのかよ。


「…なぁ仁王」

「ん?」

「何で冴島さんにボタンやったの?」


冴島さんは、わかんないけどおそらくずっと仁王が好きだったんだろう。
仁王も、前はそうだったけど今はわかんない。ただ、もうとっくに終わったもんだと思ってた。

ただねだられただけ、ホワイトデーのお返しで、光希の引っ越しを教えてくれたお礼、それならそれの方が良かったんだけど。


「好きだから」


やめろよそういう追い討ち。仁王も、光希も。


「あいつのことは忘れんようにな」

「…わかってるよ」


笑いながら俺の肩をぽんぽん叩いた。なんだよ、前に冴島さんフったときは、すぐ忘れるじゃろーとか他人事のように言ってたくせに。
目にいっぱい溜まった涙を袖で拭って、歩き出した。この後謝恩会だから戻んないと。でも体が重い。

俺のブレザーのポケットに入ったまんまの手紙のせいだってわかってた。
俺は結局、自分の気持ちを素直に書いたこの手紙を、出せなかったんだ。

こんなに後悔が強いくせに、それでも出すことは出来そうもない。だからと言ってきっと捨てることも出来ずにずっと持ち続けるんだろう。
この先あいつが幸せであるよう願いながら。


そしてこの5年後、中3の光希から未来の俺へ、あの手紙が届くんだ。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -