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「…ん?」
ちょっとの間、私がぼんやり立ち尽くしていると、幸村先輩はこっちに気づいて立ち上がった。そして少しこっちのほうに足を動かした。
こうして真正面から見ると間違いなく幸村先輩。さっきのは気のせいだったんだろう。
「あ、お邪魔してすみません」
「やぁ、こんなところでどうしたの?」
「ちょっと探してる人がいて」
「探してる人?」
幸村先輩とは、たぶんあの手術日と屋上ランチの日とで、数えても5回ぐらいしかしゃべってない。だからまだまだ慣れたようには接せれないけど。
「丸井先輩に、仁王先輩のこと探してきてって頼まれたんです」
「仁王?コートにいなかった?」
「はい、いないみたいで。幸村先輩どこか思い当たるところありませんか?」
「うーん、そうだなぁ…」
幸村先輩は腕を組みながら仁王先輩の行方を考えてくれてるようだった。
なんだろう。幸村先輩とは全然まだ普通に会話できないはずなんだけど。普通にできるというか。むしろ心地良く感じる。
半面、ドキドキもする。それは緊張からなのか。幸村先輩へは恋じゃないとはっきり断言できるし。でも緊張とはまた違うような気もする。不思議な感覚……。
「………ダメじゃ!」
そう不思議な感覚になっていた私の耳に、ものすごくデカい声が響いた。ビクッ!となったと思う、私。
それは目の前の幸村先輩からだった。なんだか頭を抱えて唸ったかと思うと、そのまましゃがみ込んでしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
一瞬、幸村先輩の具合が悪くなったのかと思った。まだ完治とまでは言えない時期で、それでもリハビリをしたり、無理が祟ったのかと。
私もしゃがみ込んで恐る恐る先輩の肩に触れた。その私の手を、先輩の手が掴んだ。
「幸村先ぱ」
「すまん、幸村じゃない」
先輩は私の手を掴んでる手とは逆の手で、自分の頭のてっぺんを掴んだ。
そして、スルッと音が聞こえたかと思うぐらい。スルッと、取れた。いや、脱げたが正しいかも。
「……カツラ?」
まさか幸村先輩がカツラだったとは。そう思ったのはほんとに一瞬。
青みがかったツヤツヤの髪の毛(カツラ)の下に、きれいな銀色の真っ直ぐな髪の毛が現れた。
こんな髪は立海の中で一人だ。俯き加減だった顔がゆっくりと上がり、それを見つめると。
「…え?……仁王先輩?」
仁王先輩(仮)は静かに頷いた。さっきまでは確かに幸村先輩だった。
でもそういえば、仁王先輩のあの横顔とも重なったんだった。
…なるほど、これが噂のイリュージョン。まるで魔法だ。顔が変わる瞬間がまったくわからなかった。
「ごめん。俺、最低なことしようとしたんじゃ」
どうして?って、私がうっかり呟いちゃったからだと思う。仁王先輩はわけを話し始めた。
「どうしても青木さんに、幸村からの感謝を、聞かせたくて」
「……」
「でも青木さんは幸村に言ってほしくなさそうじゃったし。じゃあ俺があいつに変装してって、思って。だから」
「……」
「……だからって騙そうとするなんて、最低じゃな」
でも結局、そんなことしていいのか迷って、どうしよーとここで考え込んでいたら、予想外にも私が現れたらしい。そこまで話してから、仁王先輩(たぶん本物)は、私を掴んでた手を力無く落とした。
どうしてって、うっかりさっきは言っちゃったけど。それがきっと仁王先輩には、不満のように伝わったのかもしれないけど。
心の中で、何かが繋がったような気がした。しゃべってて心地良かったのも、ドキドキしてたのも、きっと仁王先輩だったからだ。
「先輩」
「……」
言い訳が終わって、気が抜けたのか自己嫌悪なのか、仁王先輩は再び俯いて私よりも小さくまとまってる。
それを見たら何だかすごく、心が温かくなった。
「ありがとうございます」
「…え」
「言ったじゃないですか。仁王先輩にありがとうって言われて、満足だって」
「……」
「おまけにこんな気遣ってもらっちゃって。うれしいです」
頑張ってそう言い終わると、仁王先輩は慌ててまたごめんって言った。私が膝に顔を伏せたからだ。
「傷つけるつもりはなかったんじゃ、ほんとにごめん。申し訳ない、二度としない」
「傷ついてないですって」
「泣いてるじゃろ」
それは間違ってなかった。顔を上げられないぐらい、膝にぽたぽた落ちてる。でも傷つけられたのは違う。だって悲しみも怒りもまったくない。うれしさしかない。
幸村先輩にありがとうと言われること、それはたしかに私の夢だった。たとえ恋じゃなくてもそれは否定できない。
でも仁王先輩がそれを叶えてくれた。叶えてくれようとした。そんな仁王先輩の優しさに、うれしい気持ち以外出てくるはずがない。
そう思うとまた涙が出そうな気はしたけど、手でゴシゴシ目を擦って、なんとか顔を上げることができた。
「ちょっと仁王先輩優しすぎますね」
「え?俺が?どこが?」
「他の子にはそうじゃないといいな」
ずいぶんと言えるようになったな。こんな直球で。
でも先輩が優しいから、ついつい甘えたくなる。愛想がない私で、素っ気ないと思われてるかもしれないけど。
「青木さんだけじゃき」
その優しい仁王先輩の声とともに、優しく頭を撫でられた。
「言いましたね。約束ですよ」
「する。だから嫌わないで」
嫌いになるはずないのに。食い気味に仁王先輩は誓ってくれた。もう涙は出そうもない。代わりにあまり使わないほっぺたが痛いぐらい、私最大の笑顔になったからだ。
時間としてはたいして経ってなかったはずだけど。自分の中でいろんなことが腑に落ちて、余裕が出てきて。
あー、足が痺れてきてる、なんて呑気に思った。
「すみません、足がちょっと」
「ん?ああ…」
二人で同時に立ち上がり、二人で同時によろめいた。急に立つとよくないね。
でもさすが仁王先輩。私をがっしり支えてくれた。
「大丈夫か?」
「大丈夫…です」
が、こんな身体的接触は、男子とは初めて。ドキドキしてやっぱりうれしい。
ふと、私の腕を掴んだ仁王先輩の手のひらが気になった。仁王先輩の手は、指も長くてきれい。
でも、さっき私の手を掴んだとき、頭を撫でたとき、腕を掴んだ今、その手のひらは見た目と違ってゴツゴツしてると気づいた。きっとずっとラケットを握って頑張ってきた証拠だ。
私がじっとその手を見ていたことで、仁王先輩はまた嫌われると思ったんだろう、馴れ馴れしくてすまんと言って慌てて離した。
「仁王先輩」
「ん?」
「全国大会は応援行きますね」
二人でコートに戻る途中、そう伝えた。頑張ってきた仁王先輩を見たいと思って。こないだの決勝戦も見に行けばよかったと改めて後悔した。
「ああ、絶対来てくれ。絶対」
「はい」
「今度こそ、楽しみにしとるから」
それは純粋な仁王先輩の気持ちと、前に写真部として練習を見に行ったとき声をかけなかったことへの皮肉が含まれてるようだった。
優しいけど、仁王先輩もちょっと欲張りなのかなぁと思いながら笑った。
「はい。私も約束します。あと…」
これは言っていいのかどうなのか。ちょっと馴れ馴れし過ぎるかもしれないけど。別に先輩の好きにしていい部分ではあるけど。
続きをじっと待つ仁王先輩に、思い切って伝えた。
「私のことは呼び捨てで大丈夫ですよ」
「え」
「私後輩なんで、さん付けしなくて…」
「よしじゃあひかりちゃんって呼ばせてもらうぜよ」
一瞬固まった仁王先輩だったけど、その仁王先輩の言葉に今度は私が固まった。
呼び捨てでいいと言ったのは名字のことだったんだけど。青木さんっていつも丁寧に呼んでくれるから、先輩だし青木って呼び捨てでもいいのにって、ていうかそれじゃ結局呼び捨てじゃなくてちゃん付け…。
そんなことはもう付け足せない。うれしそうに仁王先輩が笑うから。
「仁王先輩がよければ…」
「それがいい。ずっと不満だったんじゃ。なんで赤也が名前で俺が…」
「え?」
「いや、なんでもない」
スキップでもしそうなぐらい、仁王先輩は喜んでるように感じた。それを見て、私もスキップしかけた。柄でもなく。
仁王先輩といると、今までとまったく違う自分が出てくる。なりたいと思っていた自分に、近づいている気がする。