まだ日常ではないが最も慣れた日常

 アディの家に居候して、今日で20日目。家に帰る方法は未だ見つかっていない。そりゃあそうだ。私が今まで読んだお話に、異世界に行っちゃってまたすぐ帰れるなんてパターンは見たことがない。何か役目を果たさなければ帰れないってのが普通。だから私も何かしなきゃいけないんだよね。で、何を?
 心の中だけでため息をついて、八百屋の奥様と玉ねぎの値下げ交渉を始める。この日本では滅多にしない値下げ交渉も、この20日間ですっかり慣れてしまった。面倒臭いけど、これしてないとぼったくられちゃうからね。
 正直言うと、すぐ家に帰れると思ってた。だって、普通に高校から帰る途中だったからね。家から最寄りの駅までは確実に行き着いてたし。
 駅から家の道をぼんやり歩いていたからだ。道に迷って偶然異世界に来てしまったんだ。世界の行き来を操る神様的なポジションの人がうっかりしてたから来ちゃっただけで、気づいて元の世界に返してくれるって、そう思っていたのに。なのに二週間たっても帰れる気配は無い。
 値下げ交渉に勝ったので、買い忘れをチェックしながら帰路につく。
 そう。今はアディって人の家に住まわせてもらってるんだけど、そのの家にはちゃんと行ける。でも私の家には帰れず、アディの家に「帰る」という感覚になった。それほど、私はこの世界に慣れてしまった。
 市場の雑踏から離れ、裏道に入る。今日は近道をしようか。
 さっき、慣れて「しまった」とは言ったものの、私はこの世界が嫌いではない。日本ではありえないことがあったりもするが、それを正そうとする正義感も行動力も、私は持ってない。私はなにもせずただ流されるだけ。
 アディの家についた。扉を開けると、まだ慣れてないけど驚きはしない、濃い血の臭い。
 一般的に見ると、アディは殺人鬼だ。
 正確には、アディ自身は殺人なんてやる子じゃない。別人格のようなものだと思っている。詳しくは聞かされてない。アディが聞いて欲しいと言い出すまで、こちらからは訊かないことにしている。
 私が知ったのは、アディ自身は殺しが嫌いなこと。別人格の与える衝動を常に必死で抑えていること。週一で抑えきれずに殺しをすること。そのやり方はすごく残酷なこと。終わったあとは衝動は落ち着くが気分は落ち込むこと。そして、今日がその日だということ。
 台所で夕食の支度をしていると、アディが風呂から上がってきた。血を洗い流していたのだろう。家の中だというのに長い前髪とサングラスとで、右頬の古傷も特殊な紅い目も見えなくなしている。それでも、案の定暗い顔をしているのと、私の前でそれを隠そうとしていることがわかる。嘘をつくのが苦手なんだから、つかなきゃいいのに。
 私の手元を肩越しに眺め始めた。私と彼とは30cm以上の身長差があるから、私の後ろから手元を余裕で見ることができる。
「おかえり、リト」
「ただいま。傷の薬、ちゃんと塗った?」
 後ろで頷いたらしく、私の後ろ頭に、ぱさんとアディの髪が当たった。
 彼は、挨拶の類をすごく大切にしている。それにちゃんと応じれば、彼はとても喜ぶ。
「今日、なに?」
「カレー」
 アディに気に入ってもらえた料理の一つ。顔を見なくても、喜んでいるのがわかる。私の髪に顔をうずめた。作業がしにくくなったが、ほっておく。
 今、彼は泣きそうになっているのだろう。自分は人殺しだというのに人との会話で嬉しくなっている自分を責めているのだろう。それを私に見せないように我慢しているんだろう。彼は我慢をしすぎていると思うのだけれど、数日間しか一緒にいない私が言うことじゃないと思うから、まだ言わない。
 まだって。
 心の中で少し笑ってしまった。
 私はこの家に住むつもりなの?



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