綺麗なひとを見た。 見たんです。 一日の仕事を終え(といってもひたすら書類整理と雑用だけど)、辺境監視部の本部から寮に戻る道。 その日はいやに月が綺麗で、目が離せなくて、ずっと上を向いて歩いていた。 深い森の中、揺れる木々の間で存在を主張する月は本当に美しかった。 そのままずっと歩いていると、寮の屋上が見えてきた。 屋上。 ベッドのシーツ干すためとかに、行ったことはある。柔らかめのタイルが敷き詰められていて、野晒しで汚いというのに寝転がって日向ぼっこしたくなる場所。 でも、こうして離れたトコロから見るのは初めてだった。 ここからでも、物干し竿が見える。 木製のベンチが見える。 ラジオのアンテナが見える。 階段に続くドアが見える。 その上には、貯水タンク。 そう。 貯水タンク。 屋上で、というかこの寮という建物の中で、一番高い位置に存在するそれ。 それの中には、水が貯めてあるよね。断水とかになったときの為にさ。 じゃあそれの上には? なにもないよね。危ないし。 ないはずなんだよ、普通は。 さて、冒頭でおれは綺麗なひとを見たといった。 月なんか、比べ物にならないくらい綺麗なひと。 おれが見た綺麗なひとは、その貯水タンクの上に独り佇んでいた。 思わず足を止める。 魅入ってしまう。 艶やかに垂らされた髪はまるで銀糸のよう。 深い森の色をした瞳は遥か遠くを見詰めている。 貯水タンクのへりに座り、投げ出したつまさきさえ、美しいと思った。 気付いてくれないかな。 いつの間にかそう望んでいた。 おれがこの距離からあのひとの姿が見えるのは、とくべつ目が良いからだ(能力の類ではない、たぶん)。 あのひとが、おれの存在に、気付ける訳がない。 だけど、そのひとは、おれを見てくれたんだ。 間違いじゃない。 控え目にも微笑んでくれた。 新たな欲求が湧き出す。 近くで、見たいなぁ。 そう思ったらもう走り出していた。 「氷那汰ではないか。急いでどうしたのじゃ?」 あ。もなかさん。 でもごめんなさい。 あのひとを、どうしても近くで見たいんです。 寮のエントランスでばったり出くわしたもなかを無視して、非常階段へ直行。 ぼろいエレベーターなんて待ってられない。横目で確認したただ一台のエレベーターは3階から下へ下がるところだった。 それに、エレベーターでは屋上に行く事は出来ないのだ。どこかで降りて、やはり階段を登る必要がある。 全力で階段を登る。 こんなに必死になったのは、辺境監視部に来て、いや、生まれて初めてかもしれない。 何故ここまで、本気なのだろう。 階段を駆け上がってる間では、答えが出なかった。 勢いよくドアを開ける。 屋上に続くドア。 それから数歩前に出て、振り向いて上を見る。 階段の上の貯水タンクの上のひと。 とても綺麗なひと。 「来ちゃったんだね」 ああこれは、恋、というやつかも知れない。 叫びたいその衝動を、ひとは恋と呼びました。 back |