「おい」 「……」 「おい」 「………」 「氷那汰!」 「…」 「あーもうダメだこいつ使えねぇ」 あの美しいひと、貯水タンクの上の麗人を見てから氷那汰はいつも以上におとなしくなっていた。 それが趣味なのではないかというくらい精力的に行っていたファイル整理も、全然進んでいない。 「ロマは居るか、用があるのじゃが」 「あ、もなか」 人がまばらなただっ広いオフィスに訪れたのは、ついこの間に長期任務から帰ってきたもなかだった。 辺境監視部はたびたびこうやって本部から任務を言い渡されることがある。それも面倒で、どうようもない任務ばかりを。 「おお氷那汰。何じゃ、らりぱっぱか?」 「ちょっともなかさんー、うちの氷那汰にアブナい言葉教えないでもらえますー?でもホントこれはな…」 おい、と言ってロマは氷那汰の頭を小突く。 しかし返事はない。 「まあ良い。用があるのはロマじゃ」 「おう。どうした?」 「スーが帰ってきたらしいな」 「…ああ。貯水タンクにでも登ってるだろ」 「ふむ。そうか…」 「!!」 勢い良く氷那汰が立ち上がった。 氷那汰のイスに寄り掛かっていたロマは転がりそうになった。 そのイスは盛大に倒れて大きな音がオフィスに響いた。 オフィスで仕事(という名の暇潰し)をしていたひとたちは一斉に氷那汰の方を向いた。 「いっ、今、貯水タンクって!」 次は、氷那汰の声がオフィスに響いた。 飽きたとでも言わんばかりに、ロマともなか以外もう誰も振り向かず、各々の作業を続行している。 「なんだぁ?!氷那汰、お前は恋愛対象に貯水タンクが含まれるのか?」 「…ふむ。あながち間違いでは無いじゃろ。その貯水タンクの上に、美しいものを見たのではないか?」 氷那汰の顔が恍惚に赤らむ。 「え…っ」 「図星じゃな」 「あーぁ…」 もなかはにやにやと嫌らしい笑みを浮かべ、ロマはばつの悪そうな表情を見せた。 「……で、もなか。用というのはなんだ?」 「あぁ…スーの存在を確かめたかっただけじゃ。若いのが騒いでおっての」 “美の化身を見た”とかなんとか。 ロマは納得したようだが複雑な面持ちで頷く。 “美の化身”というのには、氷那汰も同意した。一目見たとき、あのひとは“美”そのものなのかもしれないと思ったからだ。 「“美の化身”…ね。本当のヤツを知ったらどう表現するんだろうな」 「本当の…?」 ロマの表情は険しくなる一方だ。つられて氷那汰までもが眉を顰めてしまう。 「ふむ。例え神人の如く美しいものも、人の手で造られたと知れば蛆虫以下と化す」 もなかはまだ柔らかい表情で淡々と語る。そこには、誰に対するものかわからない侮蔑の念があった。 「人造…?まさか。あの人が」 「珍しく察しがいいな。奴は“デザイナー・ベイビー”だ」 図案。意匠。 その材質・機能及び美的造形性などの諸要素と、技術・生産・消費面からの各種要求を検討・調整する総合的造形の計画。 「人の手が加えられた能力者」 「その美しい顔も、麗しい髪も、優しい眼差しさえも、他から与えられたものじゃ」 誰も彼、もしくは彼女(どちらに判別もできない性別もこえた存在)のほんとうの顔を知らない。その母の体内に生まれたときから、狂った科学者の悪ふざけによって親から継ぐはずの髪の色も、目の色も、全て書き換えられた。 彼(彼女)が彼(彼女)だという証はもうない。 そこにあるのは、美しいものを模倣して作られたイミテーション。大衆は紛い物には価値を見出さない。 「俺たち能力者の間でも、奴だけは浮いているんだ。とんだ困ったちゃんだよ」 「だがロマ、氷那汰が奴を好いているのなら話は早い。そのうち他の能力者たちとも打ち解けるじゃろう」 ロマが声を出して笑った。氷那汰は辺境監視部のアイドルだからな、と。当の本人はそんなこと初耳だ。 「アイドル…って、その前に好きというのは語弊が…」 「違うのか?」 「それはアイドルの話ですか、好いてるって話ですか」 「好いてるって話に決まってんだろ。アイドルは固定なんだから」 「マジで!」 誰にも認められない子供。 誰にも求められない子供。 異色過ぎた彼(彼女)の存在。 まだ彼(彼女)に対して氷那汰がどのような感情を抱いているかはわからない。気付いていない。 でも確かに、氷那汰は惹かれてしまったのだ。 その美しい顔に、麗しい髪に、優しい目差しに。 「おれは…」 もう一度、会いたい。 back |