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2月。冬の朝は、下手をすれば夜よりも寒い。
西谷ははーっと白い息を一度吐くと、ぶるっと体を震わせてマフラーの中に顔をうずめたが、特段暖かくなるわけでもなくもう一度ため息をついた。

 

プリントが無いのに気づいたのは前の日の夜だった。
予習をしなければ明日の授業で当てられるというのに、ついていない。
普段であれば予習などまったくと言っていいほどしないのだが、
昨日はあまりにも大胆に居眠りをしていたため教師に怒られ「明日お前を当てるからな!」などと実にありがたい宣言をされてしまった。
早起きは苦手ではないし、朝練があるのだから少しばかり早く起きればいい話なのだけけれど、
如何せん忘れ物をした場所が体育館から遠い視聴覚室であった。
 
寝ていた自分、忘れ物した自分、挙句の果てには怒った教師にすら軽く悪態を吐きながらも学校にたどり着く。
当り前のことだが、7時前の学校には人ひとり居なかった。
前日に部長から貰っておいた鍵で体育館に入り、鞄を置いて視聴覚室へ向かう。
しんと静まりかえった学校が、嫌に不気味に感じた。
視聴覚室も鍵が閉まってるのではと心配したが、幸いなことにドアは何の抵抗もなくするりと開きプリント救出に成功する。 
つらつらと書いてある英文を恨みがましく思う。こいつさえ居なければ。
まぁいい。早く体育館に戻って練習でもして気を紛らわそう。予習なんて、隣の席の女子に見せてもらえばいい。
西谷の頭の中には勉強するという選択肢など微塵も存在していない。
 
 
寒いのでアップがてら、たったったと廊下を走っていた時だった。
中庭に人影を見つけ、思わず急ブレーキをかける。
視聴覚室へと続く廊下の途中にある中庭には、許可が無い限り一般の生徒は入ることはできない。
僅かな好奇心に釣られ、廊下の窓からそっと中庭を覗きこんだ。
 
そこに居たのは、薄いピンク色のマフラーをした一人の女子生徒。
 
女の子は中庭にあるウサギ小屋の鍵を外すと、意気揚々と外に飛び出そうと跳ねるうさぎを捕まえ抱きかかえると、
 
「駄目だよー、ご飯あげるから我慢してね」
 
とうさぎを床に下ろし袋の中からキャベツを取り出すと寄って来た3,4匹のうさぎ達に差し出す。
もしゃもしゃとキャベツやら人参やらを食べるうさぎを、少女は愛おしそうに撫でていた。
 
 

うさぎを撫でる手は赤くかじかんでいて。
真っ赤な鼻はとても寒そうで。
時折風が吹くと、ぶるっと体を震わせて。
吐息は、うさぎに負けないくらい真っ白で。

それでも少女はとても幸せそうに笑っていた。
まるでそこにだけ、ひと足早く春が訪れたような。
ぽっと暖かな日だまりが、そこにだけあるような。
 
 
 
西谷は思わずその光景をぼーっと見た。
廊下からうさぎ小屋までは少し距離があるが、無意識のうちに少女の顔をしっかり頭に刻み込む。
何年生だろうか。なんとなく、同年代な気がした。
 
少女が立ちあがるのを機にはっと我に返り、ばっと近くの教室の時計を確認する。
時刻はすでに朝練が始まっていることを告げる。
 
「やっべ!」
 
体育館へ向けて走り出そうとしたが、一度だけ振り返る。
少女はのんびりと手袋を嵌めていた。声をかけようにも、時間が無い。
彼女の後姿が非常に名残惜しかったが、体育館へと急いで足を進める。
 
朝練はすでに始まっており、そこに居たのは穏やかな笑顔と黒いオーラを携えている我らが烏野男子バレー部部長、澤村大地であった。
 
 
  
 

 
 
「西谷、悩み事でもあるのか?」
 
朝練が終わり、HRが始まるまでのあまり時間が無い中、着替えをしながら菅原が聞いた。
騒がしく落ち着きが無いのはいつものことだが、今日は至極喋らない。
これは明日雪どころか、槍、いや包丁でも降ってくるのではと思えるほど恐ろしいことであった。
相変わらず見事にボールを拾うので澤村も何も言わなかったが、部員全員が気付いていた。
西谷は良いことも悪いことも、何かあったらすぐ表に出る。
これは部活の中では誰もが知っていることであった。
 
菅原の言葉に、西谷はぴたっと着替える手を止める。
いや、時間が無いから手は止めないでほしいんだけどと思いつつ、部活以外で稀に見る西谷の真剣な表情に菅原は
「これは只事じゃないな」と思い、ごくりと生唾を呑んだ。
 
「俺でよければ相談に乗るけど」
「スガさん…」
 
西谷はじっと菅原の顔を見る。
時間にして僅か数秒だが、菅原にはとても長いように感じた。
普段は絶え間なく動く西谷の口が嘘のようにゆっくりと開く。
 
「俺、」
「うん」
 
「女神、見つけました」
 
「…は?」
 
 
西谷の様子を心配し聞き耳を立てていた他の部員たちも、一斉に呆気に取られた顔で西谷の方を見る。
一瞬変な空気が部室に流れたが、西谷が「どうしたんスか?」と声を出すと我に返り着替えを再開した。
だが話しかけた本人である菅原はそういうわけにもいかなかった。 

「えっと、西谷」
「うっす!」
 
どういうことだろう。ついに頭が違う世界に飛んでしまったのだろうか。
昨日頭に当たったスパイクが変な作用を起こしたのだろうか。
いや普段から西谷は少し変わった所があったけど、とても素直で大事な後輩だ。
ここは先輩として、彼をこちらの世界に引き戻す義務がある。うん、俺がやらなくては。
 
 
ちなみに烏野の母と称される菅原にすべてを任せた他の部員は、もう更衣室から姿を消していた。

変な正義感と焦燥感に駆られ、菅原は意を決する。
きらきらした瞳でこちらを見る西谷が、実に憐れに思えてきた。 


「女神…って、どういうこと?」
「どうって、春の女神っすよ」
 
ドヤ顔で言われた菅原は、大地助けて!と心の中で叫んだが生憎彼は日直の仕事があるからと急いで教室へ向かって行った。
そんな菅原に気づかない西谷は、自分の世界に入りうっとりと顔を綻ばせる。
 
「心がぽーっとあったかくなって、心臓がどくどく脈打って、」
 
これって女神の仕業だよな?と一人呟く西谷の言葉を聞き、菅原はある一つの可能性にたどり着く。
まさか、いやでも、もしかして。
 

「それ、もっと詳しく」
「?分かりました」
 
西谷はこうでああでこうで、と今朝の出来事を詳しく話す。
ふんふんと、菅原は西谷の支離滅裂で少々幻想の入り混じった説明をHRの始まりを告げるチャイムも耳に入れることなく集中して聞いた。
興奮したようにすべてを話し終えた後、しんと静まる更衣室で菅原は今聞いた情報を頭の中でかちりかちりと整理する。
 
 
真実は、いつも一つ。
答えも、一つ。
メガネ名探偵(ショタ)もびっくりである。
 

黙ったままの菅原を疑問に思いこちらに首を傾けている西谷に向かって菅原は口を開く。
 
 
「西谷、それさぁ」
 
 
 
 
――恋じゃね?
 
 
 
 

 
その日から、菅原は烏野の母兼西谷の恋の相談役、またの名を西谷のお守役となったのであった。 




 

 

かぐや姫に逢いたいと兎が月へ跳ねたとさ
(はー)
(どうしたスガ、ため息なんかついて)
(大地、俺さ、)
(ん?)
(教え方間違ったかな)
(あー…)

 
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