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「赤葦〜、お前今日女子にすげェ告白されたんだってな〜!?」



 体育館に入ってきたばかりの木兎の言葉に、サーブのため高く上げていたボールを打とうとした手はまさかの空を切り、向こうのコートへ飛んでいくはずだったボールは赤葦の目の前を通って、てんてんと軽い音をたて足元に転がる。もしやと思い近くにいる同じ二年の部員らに目を走らせると、案の定彼らは勢いよく顔ごと自分から逸らした。あいつらまた余計なことを、これまた面倒な人に喋ったな。同じくサーブの練習をしようとしていた木葉も何やら面白そうな話題だとニヤニヤしながら赤葦の肩を叩く。



「どういうことだよ赤葦〜、俺は聞いてないぞ」



 当然だ。言ってもいないものを知るわけがない、というより赤葦自身自分の身に何が起こっているのか未だ正しく理解はできていなかった。本日の新一年生の前で行われた部活紹介の主将挨拶で短いスピーチの中七回も噛んだことを彼は無かったことにしたのかそれとも単に忘れたのか(おそらく後者)、靴紐を締めつつ後輩から聞いたであろう赤葦の災難についてとても楽しそうに話している木兎の姿を横目に見ながら、赤葦は小さくため息をつく。どういうことかなんて、俺が知りたいと言いたくなるのを抑えながら。




*




 新学期始まって初めてのHRといえど、一年のようにクラスメイト全員が己の自己紹介をするわけでもなく、後教科担当は国語、特に古典だという草臥れた新聞紙のような匂いがしそうな担任は今日のスケジュールを手早く確認した後そそくさと教室から出て行ってしまった。さっさと主将挨拶の内容を考えてしまおう、とペンを手に取ったはいいものの、最早定型文化されたはずの出だしが一向に思いつかない。隣から感じる、射抜くような視線が自分の思考をこれでもかというほど鈍らせていたからである。
 あの謎な「王子様発言」後、どうしたらいいのか分からなくなった赤葦はとりあえず周りの視線をどうにかしようと見ず知らずの女子に向かって「よく分からないけど、そこが君の席なら座ったら」と少々低めの声で話した。少女は一度びくりと肩を揺らしたかと思うと、こくこくと素早く何度も頷き驚くほど従順に彼の隣の席へすとんと腰を下ろし、その後ちらちらとこちらを伺いながらも話しかけてくることは無かった。それに多少安心した赤葦がとにかく目を合わせるのを避け、前の黒板を見た瞬間チャイムが鳴った。もう何もありませんように、という赤葦の願いも空しく、ガヤガヤと煩い他の生徒の笑い声に混じって隣から「あ、あの」という声が聞こえた時、彼は少しだけ不思議に思い顔をそちらへ向けてちょっとだけ動かした。それは最初彼女から発せられた声色とは打って変わったか細いもので、恐る恐るといったようだったからだ。


「さ、先ほどは大変申し訳ありません。朝のお礼も申し上げず、言いたいことだけ言ってしまって……」
「お礼?」
「は、はい。あの、えと、今朝は電車の中で助けて頂き、本当にありがとうございました。あなたのお蔭でわたし、ひ、人に潰されずに済んだものですから…」


 今朝の電車、と言われ自身の薄い記憶を無理やり呼び起こしてみる。通勤ラッシュ時、しかも雨の中の人混みは相当きつかった。そういや自分よりももっとあの人口密度に参っていて、今にも膝から崩れ落ちそうな青い顔をした少女が目の前にいて、電車の中で倒れられたら困ると思い彼女をサラリーマンの群れから多少庇った――…ような気がする。あの死にそうな女の子は彼女だったんのか、と少し驚いた。彼女の言うように”運命”とまではいかなくても多少の縁はあるのかもしれない、と思ったが頭の中で即却下する。部活や勉強だけでも大変なのに、これ以上面倒なことは赤葦としては避けたかった。


「別にお礼を言われるようなことじゃないよ」
 

 だから今朝の出来事は忘れてくれ、俺も君の意味不明な発言は忘れるから。そんな意味合いを込めて言ったのにも関わらず、その意図を違う方向へ捉えた少女は頬を赤く染めながら「お、お優しいのです」と笑った。違うそうじゃない、と言おうとして口を開いても先手を打ったのは彼女の方であった。


「王子様は、あかあしさまと仰せらるのですね」
「ああ、うん…」
「ど、どのような漢字を書くのか、お聞きしてもよろしいでしょうか…?」


 ちらりと自身の手元のルーズリーフを見る少女に、赤葦は心の中で大きなため息をつく。なんだってこの子のスペースに乗せられるんだ、しっかりしろ自分、と思いつつもしっかりペンで自分の名前を書いてしまう己が憎かった。目の前の少女はそんな彼の内を知るはずもなく、記された漢字二つを見て「まぁ、王子様にとてもお似合いな素敵な名前です!」と手を合わせて喜んでいた。この苗字のどこに一体魅力があるというのか、赤葦には彼女の言うことがまったく理解ができず思わず怪訝な顔で見てしまう。それに気づいた少女は彼に向って小さく微笑んだ。


「”人間は考える葦である”」
「?」
「17世紀のフランスの思想家・数学家のブレーズ・パルカルの残した言葉で、人間は思考してこそ意味がある、ということの比喩です。ルイ13世の絶対王政下を生きたパスカルと今を生きる王子様のお名前との間に共通点があるだなんて、とても素敵なことだと思いませんか?」
「はぁ…」


 やはり彼女の言うことは砂漠にあるもやもやとした白い蜃気楼をあれが天竺ですと言われてるかの如く、まったくもって分からない。自分の苗字がそんな昔の哲学者だか数学者だかと何か接点があろうと、そんなの自分にとってどうでもいいことだ。しかし彼女の王子様呼びは大変頂けない。赤葦がため息にも近い曖昧な相槌を打ったにも拘わらず、何処に思いを馳せているのか少女はただ嬉しそうに笑った。
 

「あのさ、普通に名前呼んでくれていいから」
「え、えと、あ、赤葦さま…ですか」
「何で様を付けるんだよ…」
 

 何が楽しくて同じ高校生に様をつけられなきゃいけないんだ、こんな木兎さん以上に面倒な人種とこれから隣同士でやっていかなきゃならないのか、と赤葦は頭を抱えたくなった。そんな彼の苦悩も知らず、「じゃあ、……赤葦くん、と、お呼びしても」と近くでなければ聞こえないような声で少女は問うた。やっと出たまともな言葉に、赤葦はハァとため息をつきつつ「うん、それでいい」と頷く。彼女は二、三度口をぱくぱくさせ何度か言葉をつっかえながらも、そっと呟く。



「あ、赤葦、くん……」



 少女の睫毛は俯き気味だったせいかうっすらと影を落としていて、薄い唇はきゅっときつく両端に結ばれていた。忙しなく動く瞳は薄く膜を張ったように濡れていて、頬は化粧もしていないのに淡い桃色に彩られている。まるで大切な宝物を失くしてしまわぬよう宝石箱にそっとしまう小さな小さな子供みたいだ、と赤葦は思った。たとえそれが他人にとってはどうでもいい、ほつれた古いうさぎの人形だとしても。
 




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