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 目の前に王子様がいる。待ちに待った、私の王子様が。

 目をできうる限り見開いて目の前の人物を頭の中にスキャンする。少し癖のある艶やかな黒髪は本日の雨のせいかしっとりしているように見えて、私に影を落とすような上に長い身体は細くとも筋肉がありそう。何よりその瞳、その気だるそうでもどこか鋭い光を放つその瞳が今まで私の中で存在したことが無かったような熱い感情を掻き立てる。人が電車のキャパシティーを大幅に超えているのではないかと思われる人口密度の中、不自然に私と王子様の間に開けられた一歩より少ない距離は、彼の優しさを表していた。お父様の反対を押し切ってでも電車というものを体験してみた価値があった。最初こそその異様な人の人数、しかもそれが動く電車の中で近くの人の毛穴まで観察できそうな状況に具合が悪くなりそうになったものの、今では目の前の彼のお蔭でそれもない。何より王子様が、私の王子様と出会えた。もうそれだけで、この誰も口を開いていないのに騒音が鳴り響く異様な鮨詰め状態だとか、背後にある少し湿気を含んだ鉄の感触だとか、明らかに人数分に足りていない酸素の量だとか私にとって不慣れな場は童話の中で王子様とお姫様が出会う、そう、華やかな舞踏会へがらりと変貌したのだ。私にもついに来たのですね、ガラスの靴を履く瞬間が、りんごの毒を溶かす瞬間が。ああ主よ、私と彼を祝福する天使たちのコーラスが聞こえます。ありがとうございます、ありがとう、私は彼と幸せに――…
 
 遠くで何やら機械を通した低い男性の声が聞こえたかと思うと、背後のドアがぷしゅうという音と共に開いてそれと同時に沢山の人が私の方へ雪崩れ込んできた。抗議の声をあげようにも、それに逆らうことは叶わず押し出される大量の濁流に結局は流されてしまう。ふと目の前にある看板を見ると、それはお母様に言われた私の降りるべき駅であることを示していた。ああ降りてよかったのか、と安堵したのもつかの間、さきほどの王子の存在を思い出し急いであたりを見回したものの、知らぬ間に閑散としていたホームに彼の姿は見当たらなかった。それでも私は焦らずふんっと一度大きく深呼吸をする。片方の肩だけに感じる鞄の重みなんて今は気にならない。大丈夫、大丈夫よ、きっと、いえ絶対、またすぐ会えますわ!なんたって王子様と姫は運命の赤い糸で結ばれているんですから!
 
 
ひと気の少ない駅のホームで仁王立ちして高笑いする少女を通報するか否か、彼女を見た駅員は酷く悩んだという。
 



*


 
 
 昨日顧問から渡された新入生歓迎会に行われる部活紹介についてのプリントを朝電車でもう一度見ようと思って忘れていた、と赤葦は黒板に書いてある自分の出席番号と一致する席の椅子を引いた瞬間にふと思い出した。まぁたとえ電車の中でそれを思い出していたとしてもあの満員電車で何かを立ち読みするのは不可能だろう。それより年上のくせして自分よりずっと幼い部活の新主将の方が気がかりだった。ちゃんとこのプリントに書いてあることを読んだだろうか、ずらりと並んだ一年生の前で彼らに向けマイクに向かって話す内容をきちんと考えただろうか、いやおそらく99%の確立でそれは無いだろうな、と瞬時に判断を下した。今日は先ほど述べた行事の装飾のため、いつものように朝練で体育館を使うことが許されず彼には会っていない。来るとしたら新入生歓迎会の直前の昼休み頃だろうか、「赤葦ぃ〜何言えばいいんだ!?」と大きな声と体を揺らし慌てて教室に入ってくる姿が容易に脳裏に浮かんで、思わずため息をつく。今のうちにスピーチ内容をメモ用紙に書いておくか。暗記なんてあの木兎さんができるはずがないんだから、今急いで書いて3年の教室まで届けるにしても直前に渡すにしても同じことだろう、そう考えながら無意識のうちにシャープペンの頭の部分をかちりと一度押した時のことであった。すぐ隣でどさりと誰かがおそらく鞄を落とした音がした。もう少し静かに置けないものかと少しばかり眉を顰めながら顔を上げる。そのかばんの持ち主を目が合う。普通ならばこれから隣同士の席でやっていかねばならない相手なのだから一応挨拶くらいは、と思うのだが、口を開くことさえ躊躇うほど見知らぬ目の前の女子は自分のことを凝視していた。

 
「……」
「……あの」

 
 非常に落ち着かないこの状況を何とか打開しようと、仕方なく自分から声を掛けた一瞬、ふと甘い花の匂いが鼻を掠めたかと思うと相手の顔が自分のゼロ距離の位置にあり思わず仰け反る。それにも拘わらずずいとさらに顔を近づけてきた彼女は、ぽつりと何か呟いた。何を言ったのか、なんてよりもこの不可解な体制をなんとかしたくて先ほどよりずっと強い口調で「あの、」と言ったもののそんな平凡でなけなしな言葉は目の前の人物によってかき消されてしまった。
 
 
「王子様!」
「……は」
「やはり運命だったのですね、私の王子様!」
「は、はぁ?」


 普段部活の掛け声以外ではまったくといっていいほど出さない自分の大声に反応したのか、それとも彼女の素っ頓狂な発言に自分と同じように驚いたのかは分からないが、周りの生徒が何事かと自分と彼女とを息を顰めて見つめているのを感じた。俺だって何が起こっているか分からないんだからそんな目でこっちを見るのはやめてくれ、と言いたくなったが、興奮で頬を上気させた彼女の潤んだ瞳が目を逸らすことを許さない。


 
 高体連バレーボール男子大会において幾度となくその歴史に名を刻んできた強豪梟谷高校の副主将兼正セッターという名誉ある地位に身を置くこととなった赤葦京治は、年の割にその泰然自若冷静沈着の性格さゆえ、落ち着いている、大人っぽい時には渋いとも言われたことがあったが、『王子様』と称されたのは生まれて此の方これが初めての体験であった。

 
 彼らの背後で静かに窓を叩く雨だけが、密かに笑っていた。
 
 
 

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