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「あれは去年の修学旅行の時だった」
 
研磨の部屋で、黒尾は一昔前のことを思い出しているのか神妙な顔で言葉を紡いだ。
何故彼が研磨の家にてそんな話をし始めたかというと、研磨の「なまえの何処がいいの」というごく単純な質問からである。
研磨としては会話と会話を繋ぐためのただの話題の一つでありそんなに興味があるわけでは無かったのだが、黒尾がニヤリと笑い「聞きたいか?」なんて言うので思わず頷いてしまった。
まぁこれが二人とも自分の知っている人だし、多少なりとも面白そうだと思っている自分がちょっと前までは居たのだ。そう、数分前までは。
いざ家に着くと日常や部活の疲れがどっと体を遅いなんだか面倒だなと思い始めた。後日にしてくれないかな、今日疲れたし。その意味を込めて黒尾の方をチラッと見たがそんな研磨に気づくことなく自分の家のようにさっさと階段を上がる自身の幼馴染の姿を見、諦めた。
部屋に行く途中、母親に「鉄朗くん今日うちでご飯食べるの?」と聞かれたので「多分」と答えておく。ついでにお茶も持たされた。
 
「俺はそれまでみょうじの名前は愚か顔すらあやふやだった」
 
クロって一目惚れするタイプだったっけと思ったが、話が長引くのも面倒なので黙っておく。対する黒尾の目はどこか遠くを見ているようだった。
 

 
 
 
大体の高校は二年の十一月に修学旅行がある。音駒も例にもれず新幹線で奈良、京都、大阪を回った後関西空港から沖縄へ飛ぶという謎のハードスケジュールであった。
関西方面ならば中学の時にも行ったのだが、高校に入り日本史を細かく勉強した視点から見ればまた違うものを感じるだろうという教師たちの計らいで日程に組み込まれている。一部の生徒にとっては嬉しいことだが、すでに現地を経験している大半の生徒にとってはありがた迷惑であった。
黒尾もその大勢のうちの一人であり、クラスの仲の良い男子と「いらねーよな」と笑いながら話していたくらいである。
そんな黒尾が最初になまえを意識したのは、研修班各自で何処に行くか話しあうLHRにてだった。
 
「えーっ銀閣寺行くの!?金閣寺じゃなく?」
 
ざわざわと騒がしい教室でも、ハイトーンな女子の声は教室に響いた。少々この時間に飽きていた黒尾は班の話しあいに構わずそちらに視線を向ける。
クラスの中でも派手系女子に分類されるであろうそのグループは、よってたかって一人の女の子を質問攻めにしていた。
基本女子に興味がない黒尾は、さきほど触れたようになまえの名前すら明確に覚えておらず彼女に抱く印象は「なんかクラスの女子」ぐらいのもの。
 
「最近カメラ新しいのにしたんだよ!超高性能なの!」
「だからってさー、普通行くなら金閣寺じゃない?」
「マジお願い!他の行くとこ、私何処でもいいから!」
 
どうやら京都の自由時間に金閣寺に行くか銀閣寺に行くかで揉めているらしい。
あまり神社や寺院に関心が無さそうな彼女らにしては意外だが、確かに行くなら"銀"というにはあまりに地味な銀閣寺よりも豪華な金箔が見どころな金閣寺だろう。写真に映える方を選ぶならばなおさらである。
しかし譲ること無く銀閣寺を押した彼女は結局願いが叶ったらしく、嬉しそうな顔でパンフレットを眺めていた。
何故銀閣寺なのだろう。当然湧きあがる疑問だ。
 
「なぁ黒尾聞いてる?」
「あ?わり、聞いて無かった」
 
あまりにぼーっとしていたのか、班員の友が京都のパンフレットを顔に押しつけながら聞いてきた。
どうやら皆京都にさほど入念しておらず、沖縄へと目がいっているようだ。
 
「他のやつら何処でもいいって言うからさー、黒尾どっか行きたいとこある?」
「んー」
 
正直言えば黒尾自身も何処だっていい。そう言おうとして、ふと口を噤み友の手からパンフレットを奪うとパラパラと捲る。そしてあるページでその手を止めた。
 
「ここ行こうぜ」
 
 
 
 
 
 
修学旅行3日目。奈良から旅してきた一行は京都にて自由研修という名の一瞬の開放時間を味わっていた。
黒尾自身の要望で慈照寺、通称銀閣寺に来たはいいもののやはり一般の男子高校生たちを魅了するものは何も無い。
確かに教科書に載ってる寺をこの目で見るのは感慨深いものがあるし、パンフレットのオススメポイントとして紹介してある庭園や本堂前の銀沙灘は美しいと思う。
それでも他に数多の有名寺院がある中で、どうしてもここを訪れたいという気持ちにはならなかった。
 
どうして彼女はここが良かったのか。
彼女はどんな風景を望んでいるのか。
 
少し離れた場所にいる女子グループ、もといなまえを見ながら黒尾は首を傾げた。
彼女以外は到着10分、もはやこの場所に飽きているようで次の目的地の確認をしている中、彼女はただ一人真剣な目で銀閣を見つめている。
 
「ねぇなまえ、ちょっと早いけど次の場所行こうよ」
 
グループの中の一人がパンフレットを片手に彼女に話しかける。なまえはうーんと唸ると腕時計を確認すると、驚くべき一言を放った。
 
「あたし、夕方になるまでここにいるわ」
「はっ?」
 
その言葉に女子グループ全員が彼女の一斉に方向を見る。盗み聞きしていた黒尾も思わず携帯で確認した。時刻は3時とまだまだ夕方まで時間がある。
もちろんのことこの自由研修は団体行動が前提であり、一人でも勝手な行動をすると班の連帯責任となるのだ。
おそらく彼女もそれを分かっていながらも、友人に頭を下げ別行動させてくれと頼んでいるのだろう。この銀閣寺で、夕方を迎えるために。
結局彼女の友人たちは「5時30分に必ずホテル前のコンビニに集合すること」と「班全員にハーゲンダッツを奢ること」の二つを約束することで折れたようだ。
笑顔で友人たちと別れを告げたなまえは鞄から何やらごそごそと取り出し組み立て始めた。女子にしてはやけに大きな鞄だった理由はそれかと納得する。
 
「黒尾ー、次行こうぜー」
 
友人に声を掛けられ黒尾は振り返った。手にお守りを購入した袋を持っているところを見ると、案外彼らもこの銀閣寺を楽しんだのかもしれない。
黒尾は少し考えたそぶりを見せると、袋を鞄の中に閉まっている友人に向かって言った。
 
「わり、ちょっと別行動するわ」
 
 
 


 
確かに修学旅行に置いて一人行動は禁止されているが、実はそれを実行する生徒は珍しいことでは無かった。その多くが恋人と二人で見て回りたい、というなんとも青春真っ盛りな欲望によるものだった。
何かを察した顔をする友人たちは、「お前が彼女作るなんてな!」「夜詳しく聞かせろよ」などと笑いながら黒尾の背中を叩いて行った。
黒尾が別行動を希望したのはそんな高校生らしい理由ではなく、単にねこの様に気まぐれな好奇心が彼を動かしたからである。
 
どうして彼女はここを選んだのか、知りたかった。
 
友人との会話のうちになまえは定位置を決めたようで、そこから微動だにせずじっと銀閣を見つめていた。
黒尾は簡単に彼女が自分を視界に入れないような場所まで移動すると、彼女を観察する。
修学旅行なんかに行くくらいだったらその時間全て部活に充てられたらいいのに、と思っていたほどである。単純な疑問を解消するためのこの時間をさほど無駄だとは思わなかった。
紅葉が終盤なこのシーズンには珍しく、人があまりいない。たまに老夫婦がのんびりと黒尾の横を通り過ぎていくくらいだった。
 
時刻は4時30分。さきほどまで輝いていた太陽は今はもう真っ赤に燃え、その役目を終えようとしていた。冬に近いこの時期は日没が早い。
銀閣前に広がる池、錦鏡池がその色を反映して酷く幻想的な光景を作り出していたのだがそれでも彼女は一度もシャッターを切ることをせずただ一眼レフのレンズを覗いていた。
 
冷たい秋風が吹く中、何羽の鳥がばさばさっと飛び立った時。
彼女が一瞬鋭く目を細めたかと思うと、一度、たった一度親指を動かす。木の葉が揺れる音にかき消されそうになりながらも、確かに黒尾には小さなシャッター音が聞こえた。
なまえは大きくため息を吐くと撮った写真の確認もせずカメラをしまい、三脚をたたみだす。
腕時計を確認した彼女が慌てて銀閣寺を去った後も、黒尾は動くことができずそこにいた。
 
 

――時が、止まった気がした。
 
 

そういうと大げさかもしれないが、彼女がシャッターを切る瞬間周りのもの全てがその刹那動きを止めたように見えたのだ。
その光景よりも黒尾を魅了したのは写真を撮った直後の彼女の顔だった。ほっとしたような満足したような、何かに勝利したような、そして自分の見た世界を愛でるようなそんな顔。
黒尾はその顔を何処かで見たことがあると思った。何処か、もっと自分に身近な場所で。
その夜脳裏に焼きついた彼女の顔を思い出し、友人が皆寝ている中一人考えそして真夜中の2時を回ったあたりにようやく思いついた。
 
縦18m、横9mの長方形のコートで戦う、自分たちに似ている。
 
必死の思いで相手の攻撃を拾って、ブロックして、ボールを繋ぎ繋いだ後に相手のコートにボールが落ちた瞬間。
彼女のシャッターを切った瞬時の顔は、得点を決めた瞬間の仲間の顔によく似ていた。
なるほど、と真っ暗な部屋の中黒尾は一人呟く。
 
 
彼女もまた自分たちと同じように戦っているのだ。自分が見たことの無い風景を見に行くために。
 
 
バレーボールと写真。一見するとまったく正反対の相居れない分野に共通点を見出すのと同時に、黒尾はあることを自覚した。
一目惚れしたわけでもなければ、会話をしたわけでもない。名前ですら曖昧だ。
なのにまるで心の中にカメラがシャッターを切ったかのようにあの瞬間の彼女の顔が頭から離れない。
 
「あー…こりゃ駄目だわ」
 
その後の沖縄では彼女の水着姿をこっそり携帯で撮り、近づこうとした男共には持ち前の目付きの悪さと身長で無言の圧力を掛け、彼女に好意を持っているという噂の男子にはひっそり悪魔のささやきをしておいた。
唯一の心配はクラス替えだったがそれも杞憂に終わる。クラス替え発表の日は、前日に近くの神社に5円玉を入れておいてよかったと初めて神様に感謝した日でもあった。
もちろんクラスの男子に牽制も忘れない。そのお陰と言ってもなんだが、それがきっかけとなり彼女と話せるようになったのはラッキーだったと彼は語る。
 
「でもクロ殴られたんでしょ?」と尋ねる研磨。イメージと違うと裏切られた気分にはならなかったのかと問うと、黒尾はさらりと「惚れなおした」と答える。
殴られて、惚れなおす。幼馴染といえど研磨には彼の思考がまったくもって理解できなかった。




 
「で、その時みょうじが撮った写真がこれな」
「…いつも持ち歩いてるわけ」
 
幼馴染の鞄から取り出された一枚のポストカード。銀閣の後ろから顔を出す2羽の鳥を投影した夕日から織り成される、絵具を零したかのような鮮やかなオレンジ色の光と影のコントラスト。
きっとこれが銀閣ではなく金閣であったのなら、池の水だけでなく金箔までもが光を反射し目が痛いことになっていただろう。落ち着いた雰囲気の銀閣の持ち味を生かした見事としか言いようが無い一枚だった。
文化祭時になまえの勢いに負け自分がポストカードを買いに行った時にはこの写真は無かったはず。それを黒尾に言うと、彼は「ああ、俺が全部買い占めたからな」と当り前だろ?と言わんばかりのドヤ顔で返された。
ちなみにその買い占めはなまえが店番をしていない時を見計らって行ったらしい。その当時店番をしていた3年生は酷く困惑した表情だったとか。
 
研磨は幼馴染にそのポストカードを返しながら思う。
 
 
――クロ…なんか、気持ち悪い。
 
 
幸か不幸か、彼がその言葉を耳にすることは無かった。



 




 
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