夜鷹の星 | ナノ


 


 
「お姉ちゃん、今日もねる前におうた歌ってください」
「いいよ!何がいい?」
 
 
 
 
東京の暑さというのは耐えがたい。
30度を越すのは当たり前だし、通勤ラッシュ時の電車は地獄である。
そんな悲劇を回避するには建物の中に逃げ込むしかない。
 
杏珠はスタジオに忘れ物を取りに来るついでに涼んでいた。
忘れ物というのは、まさかのレポートが入っているUSBメモリー。
大学に着いてUSBメモリーが無いと分かった瞬間の杏珠の青い顔は、フランケンシュタインもびっくりであろう。
本当はすぐ大学に戻るつもりだったが、明らかこちらのほうが涼しい。 

朝の講義を終えてしまえば、次まではあと2時間もあるし。
何より大学暑いし。
3駅で行き来できてしまうスタジオは、体を休めるには最適な場所だった。
今日はこの部屋を使う予定がなく誰もいないのをいいことに、
エアコンの温度を24度に設定するとソファーにごろんと寝ころぶ。
気持ちのいい冷風に思わず目を閉じかけたが、視界の端でテーブルの上の携帯が光るのを発見し手にとった。
 
 
愛しの弟からである。
 
 
そういや朝愚痴メールを送ったんだった。
たった2文の、そっけない文章。
それでもあんなくだらないメールに返信をくれるなんて。
 
込み上げてくる愛しさに思わず自分の頬が緩むのを自覚しながらも、かこかこと返信を打つ。
携帯を閉じる音がやけに響いた。
今度こそ目を閉じる。
 
今日の晩ごはんどうしようかな。
あ、でも今日私遅くなるんだっけ。
やだなぁレポートなんてやりたくない、ずっとてっちゃんとテレビ見てたい。
てっちゃん今日の夜ごはんちゃんと食べれるかな。
一応冷凍ハンバーグがあるとはメールしたけど。
練習で疲れたときはいっつもすぐ寝ちゃうからな、心配だな。
 
悩みのネタは尽きない。
一人うんうん唸っていると、ドアが静かに開く音がした。
誰か来たのだろうかと確認するために上半身を起こした瞬間、
 
「ひゃっ」
 
首に冷たいものが押しあてられ反射的に目を閉じる。
 
「なーに一人で百面相してんの」
「ミヤちゃん」
 
自分の頭のななめ上の顔はしてやったり顔だった。
ミヤちゃんこと宮下は、今日も暑いねと杏珠に自販機で買ったのであろうお茶を渡す。
杏珠はそれをありがたくうけとると、彼女が座るための場所を作った。
  
「杏珠は今日は仕事ないんだ?」
「うん、そー。ミヤちゃんは?」
「私は午後から」
「そっか、暑い中大変だね」
「本当に大変なのは照明浴びるモデルさんだけどね」
 
それもそうかと貰ったお茶に口をつけながら思う。
 
宮下は主にモデルのスタイリストさんだ。
杏珠が世間に顔を晒すことはあまりないが、
新曲を出す暁には宣伝用やらインタビューやらで写真を撮ることは避けられない。
あまり自分の写真を使うことが好きではない杏珠にとっては、あまり嬉しいことではないのだが。
撮影の際、宮下はほぼ毎度杏珠の衣装やら髪型を考案してくれる。
オシャレの知識は皆無な杏珠にとって、宮下は尊敬すべき人物だった。
その上2人は年が近いのもあってか、気が合うのだ。
スタジオで会えば話すし、2人で食事に行くことも少なくない。
彼女のさっぱりした面倒見のいい性格が、杏珠は好きだった。
 
「で、何考えてたの?」
 
自分の前髪具合を鏡でチェックしながら宮下が聞いた。
その光景を見てさすがスタイリストさんは違う、と思いながら答える。
 
「てっちゃんの将来について」
「…あっそ」
 
聞かなきゃよかったとため息をつく宮下。
それを聞いた杏珠はぷうっと頬を膨らませた。
 
「私は真剣に考えてるんだよ!」
「あーはいはい」
 
杏珠のブラコンっぷりは業界でも有名である。
裏では「ブラコン歌姫」なんて呼び名がつくほどだ。
以前彼女にそれとなく教えたことがあるのだが、至極真面目な顔で
「いいなぁそんな風に呼ばれる人。私も呼ばれたい」
なんてのたまった彼女に対し、
宮下はお前だよ!と叫びたくなる衝動を抑えそう、とだけ答えた。
 
宮下はそれ以降、この話題について触れまいと誓った。
 
 
「じゃあ私そろそろ行くわ」
「あれ、仕事午後からでしょ?」
 
もうちょっといればいいのにと不満を顔を現す彼女の頭をくしゃっと撫でると、
 
「Mionに新しい男性モデルさんが来るから、その打ち合わせがこれからあんの」
「ふぅん…どんな人?」
「なんか最近売れてきてる中学生らしいけど。まだよく知らない」
「中学生かぁ、てっちゃんも中学生なんだよね」
「はいはい」
 
Mionとは宮下が専属でスタイリストをしている雑誌の名前である。
撮影スタジオと録音スタジオが混在しているわりと大きめなこのビルでモデルをするということは、
割と売れてるモデルさんなんだろうなとぼんやり思った。
 
「頑張ってね」
「おう」
 
それだけ言葉を交わすと宮下はドアに手をかけ、思い出したように「あ、」という声を出した。
 
「新曲、よかったよ」
「…み、ミヤちゃん!」
 
感動を表す暇もなく、宮下は去って行ってしまった。
残された杏珠は彼女の出て行った方向を見ながら、嬉しいなぁとぼやく。
 
ふと時計を見ると、時計はスタジオに来てからかれこれ40分は経っていることを告げていた。
 
「…少しでも早くレポート終わらせますか」
 
テーブルの上に置きっぱなしの携帯を掴み鞄の中に入れると、脱いでいたパンプスを再び履き
重い腰をあげてエアコンを止めた。
とたんにむわっと暑くなった気がする。
 
「…早く家に帰りたい」
 
叶うことのない願望を呟くと、スタジオの電気を消した。
 
 
 
ブラコン歌姫の憂鬱 03
(弟の可愛さは正義)
 
 
 
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