夜鷹の星 | ナノ


 


※微グロ注意 
 
 
 
 


えっと、こういう場合どうしたらいいのかな。
ちょっと手を動かせば満月の夜に響くじゃらりという金属と金属が擦れる不快な音。手首と足首に纏わりつく今まで経験したことのない冷たい温度と重い感触に、思わず眉を顰める。少しでも体を動かせば、目の前の体格の良い男がまるで自分を囚人のように素早くぎろりと睨みつけてくる。もちろん彼も怖かったが、杏珠にはそれ以上にこの先の未来が想像できないことが一番恐ろしかった。映画で見た中世の牢獄のように鉄の檻とひんやりとした石でできた鉄格子の中で体育座りをしている自分は本当にここに存在しているのだろうか、なんて馬鹿な考えが頭をよぎるがその問いに対し誰かが答えてくれるはずもない。
どうしてこんなことになったんだっけ。今日は確かお店をいつもより早く閉めて、店長がお疲れ様って言いながらお酒を注いでくれたんだ。お酒は弱い方じゃないし一杯くらいなら有り難く頂こうかなと思って飲んで、その後の記憶が無い。思い出そうとしても頭ががんがんと鳴り、考えるなと自分に警告しているようだ。誰か、音を。こんな無機質な音じゃなくて、もっと暖かい人の音を私にください。
 
「あ、あの…」
 
自分でも驚くほどの掠れた声は、牢獄のような狭い地下室の中で反響する。恐らく見張りであろう男は、相変わらずの眼つきでこちらを睨んできたが喋るなとも言われなかったので、「お聞きしてもいいですか」とどうにか震える声を喉の奥から絞り出した。やはり、男は何も言わない。
 
「ここは、何処ですか…?」
 
男はほんの一瞬だけ目を伏せると、一生開かれることは無いのではないかと思っていたその薄い唇をとてもゆっくり動かし、とても静かな声であんたも災難だな、とだけ言った。杏珠にはその意味が分からず、何がですか?と返す。男はまたもや杏珠の質問には答えず、今度は視線を宙に投げ出して一人ごとのような声の大きさでぼそぼそと呟いた。
 
「でもあんたは、傷が無いし器量だって悪くない。運さえよけりゃあ、まだマシな貴族に買い取られる」
 
貴族?買い取られる?なに、それ。
きっとこれを聞いたところで、きっと彼は教えてくれまい。黙った杏珠に呼応するかのように、男もまた視線を前に戻し息を潜めた。
それからいくつの時が過ぎたのだろう。ほんの数分だったのかもしれないし、あるいはもう数時間かもしれない。目の前の光景から逃げたくて閉じていた瞳は、かつんかつんという誰かがこちらに向かってくる足音によって開かれた。
やがてその足音は杏珠の目の前で止まる。伏せていた瞳を恐る恐る上へ移すと、そこにはマントを深く被った男とどっぷり弛んだ重そうな腹を持った中年の男がこちらを見下していた。
 
「これが今回の奴隷かね」
「はい旦那様。どこにも損傷はございませんし、中々聡明な娘です」
「ほほぅ」
 
中年の男の品定めするような舐める視線にぞわりと鳥肌が立ったが、それよりも杏珠にはその隣の男の方が気になった。店長の声と、よく似ているのだ。思わず後ずさりしそうになる杏珠を気にかけること無く、二人は会話を続ける。 
 
「なかなかの上玉だなァ。他に持っていくのは少しばかりもったいない」
「それではどのように?」
「そうだなァ…」
 
ねっとりした視線が、杏珠を爪先から頭のてっぺんまで絡む。言いようのない吐き気に襲われながらも、瞳だけは逸らさなかった。やがて中年の男がニヤリと口角をあげる。
 
「私が直々に買おう、こいつは使えるぞォ。例えば、」
 
性奴隷とかなァ。
 
彼の言った言葉が一瞬頭の中で変換することができず、それができた時にはもう鉄格子を開けられマントの男の腕を掴まれていた。がたがた震える足でどうにか抵抗しようにも大の男の力に叶うはずもなくずるずると引きずられる。すれ違い際、見張りの男の目には僅かに同情の色が浮かんでいた気がするが助けを求めもう一度見た時にはもう跡型も無く消え失せていた。
人間本当に恐ろしい出来事が起こると声が出なくなる、なんて言葉を誰かから聞いたことがあるが、それは本当だと思った。地下室から冷えた階段をのぼりながら地上に出たときでさえ、叫べばもしかしたら誰かが助けてくれるかもしれないのにそれを命令する脳はただ一つ、あることに支配されているからだ。
 
怖い、怖い、こわいこわいこわいこわい。
 
地上に出たすぐそこにあるのは一台の馬車。高級そうに見えるその馬車の後ろには、まるで家畜を乗せるような荷台がついていた。マントの男が木製の格子を開こうとしたが、中年の男がそれを制止する。
 
「こいつは私と同じところでいい。そっちの方が、可愛がってやれるからなァ」
やだ、やだやだやだ気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いこわい怖いこわい、誰か、誰かだれか
 
中年の男が杏珠の首にぎらつく手を伸ばした時、杏珠の目が中年の男の後ろに居たマントの男の声を僅かに聞いた時、そのマントの男の後ろからほんの少しの残像が動いた時。それらは全て同時に起こった。
 
鈍い音と共に、目の前に真っ赤なものが舞い散る。その赤い物を撒き散らしている本人である中年の男は、劈(つんざ)くような悲鳴をあげた。べちょり、と何かが頬に張り付く不快な感触に反射的に手で拭おうと利き腕を持ちあげたが、重苦しい金属が手首に食い込むだけでそれが叶うことは無くぶわりと一気に鉄の匂いが周り一体を包む。
その間にも沢山の赤い血潮はどくどくと周りを染め、何かが斬られるような鈍い音が重なっていく。悲鳴が三人に増えたその時、ふわりと誰かによって杏珠の視界が遮られた。足と手についている冷たく硬い鎖とは対照的に、少しごつごつした、それでもじんわり暖かい誰かの手。そして、耳元で囁かれる優しいテノール。
 
「君は見なくていい。君は知らなくていい。君は、」
 
何も考えなくていい。
暗示のように繰り返されるそれに一筋の涙を流しながら、やがて杏珠はゆっくりと意識を手放した。
 
 
 
 
 
 
あれから2日。宮中の方には犯人を捕まえたから事後処理にあと2日ほどほしいとの報告を送り、明日には自国シンドリアに帰国予定のシンドバッドは窓の外の暗い景色を見てはぁと大きなため息をついた。
無事奴隷商人を捕まえられたのは多いに結構なことだ。結局あの後芋づる式のように他の奴隷商人も浮上し、その中でシンドリアに奴隷の売買を持ちかけていた商人には永久国外追放の重い刑罰を科す予定である。そこに問題は無く、むしろ順調にいってよかったと言えるほどだ。シンドバッドが悩んでいるのはそこでは無く、彼らを捕えられるきっかけを作ったといってもいい少女、杏珠のことであった。
彼女はあの事件から2日間食事を摂ることも喋ることもせず、ベッドの上でただ黙って外を見ているらしい。今日も何も食べませんでしたという報告を受けるたび、シンドバッドの胸はずしりとした石が積まれていくかの如く重くなっていった。普通であれば、まぁ気にはかけるものの一国の王である自分が自国に帰る直前まで少女の面倒を見る義理は無い。だが、シンドバッドの心中にはあるものが蔓延っていた。
 
それは、罪悪感。
 
彼女に奴隷商人が店主をする店を紹介したからでは無く、それに気付いた後も尚彼女を彼の元に置き続けたことである。しようと思えば店長が怪しいと思った時点で彼女を連れ出すことだってできたのだ。それをしなかった理由は、今となっては嫌というほど自覚していた。彼女を餌に奴隷商人を釣り上げようとしたのである。
見事その計画は成功したが、その代償は全て彼女が受けたようなものだ。杏珠とはほんの短い付き合いだが、彼女が裏の世界、ましてや奴隷や殺人とは無関係な場所で生きてきたのであろうことは彼女の会話や態度から容易に想像できた。杏珠には、警戒心というものがカケラもない。それを分かっていて自分は彼女を犠牲にした。あのおぞましい光景は、さぞや彼女の心を深く深く抉ったことであろう。
一国の王としては正解なのかもしれないが、一人の人間としては最悪最低である。その負の感情からか、シンドバッドはあの夜以来一度も彼女の元を訪れていない。もう深くなった夜の景色を見つめながら、彼はもう一度ため息をついた。
やはりこれではいけない。杏珠には、謝っておくべきだ。そう思いながら重い腰を上げたのとドアが勢いよく開かれたのはほぼ同時のことである。
 
「王!あの女の子がベッドから抜けだしたみたいで何処にも、」
 
シンドバッドは一瞬大きく目を見開くとシャルルカンの最後の言葉も制止の声も聞かず文字通り部屋を飛び出した。
何処に行ったかなんて、本来は皆目見当もつかないはず。しかし彼にはなんとなく分かっていた。彼女の笑顔を見た場所なんて、この街には一つしかないのだから。 
 
 
 
 

 
 
 
一本の百合に似たの花をうっすらと手錠の跡が残る手で持ちながら、ふらりふらりとやはり跡が消えない裸足で夜の街を歩く。前に見た月とは違って、今夜の月は僅かに欠けている。街のざわめきが、何処か遠くに感じられた。
繁華街の角を曲がってちょっと歩いたところ。低い屋根が並ぶその中にぽつりと一つだけ暖かい光を放っていたあの店は、今はもう焼けただれた残骸と化し異臭を放っていた。彼の存在すら無かったことにしてしまおうと、おそらく誰かがこの店に火を点けたのだろう。誰も近づこうとしないであろうその場に、杏珠は膝をつきそっと花を置く。
あの夜から次の日の昼、杏珠はシンドバッドの部下から今回の事件の一部を聞いた。全てを話さなかったのは彼女のショックを考慮したからといより、自国に悪い影響をもたらすかもしれぬ可能性がある部分を省いたからと言った方が正しい。それでも杏珠は、そこでやっと自分が奴隷として売られそうになっていたということを理解した。自分を雇ってくれた店主が、街の恥さらしとして住民に殴り殺されたことも。
 
奴隷。平和な日本では有り得ないことだ。殺人だって、目の前で繰り広げられるなどそうそうあることじゃない。でもこの世界では珍しくないと、彼の部下は語った。まるでそれを知らないことの方が不思議だと言いたげに。
自分がどれほど生ぬるいお湯の中でぬくぬくとしてきたか、初めて自覚した。それと同時に、やはり帰りたいと思った。帰って、大切な人と、大事な弟と一緒に今までと変わらない暮らしをしたい。帰りたい。だがそれと同時に杏珠はあの夜、あることを悟った。
 
後ろの方で、誰かが急いでやってくる足音が聞こえた。微かに息を荒げ、速足だったその音は自分に近づくにつれ段々と遅くなりついには自分の横で止まる。杏珠にはそれが誰だか分かっていたが、あえて確認することはしなかった。その代わり、視線は花に留めたまま彼に語りかける。いや、それは独白に近いかもしれない。
 
「あのね、シンさん」
 
呼びかけられた男は、一瞬驚いたように杏珠を見たがやがてゆっくりと自分も膝をついた。シンドバッドが杏珠を見つめる中、杏珠は彼を見ることなく相変わらず花を見つめながら、それすらも目に入っていないような何処か遠くをその瞳に写す。
 
「店長ね、最後私にすまないって言ったんです」
 
まるで赤子に語りかけるかのように柔らかい声で話す彼女は、やはりシンドバッドの方を向くことは無かったがそれでも言葉を続けた。
 
「店長は悪い人じゃない。何か事情があったんじゃないかなぁって」
 
 
だから向こうで元気にやってほしいと最後は祈るように囁く。シンドバッドは杏珠が泣いているのではと思ったが、彼女の瞳から涙が零れていることは無く、その代わり声は今にも泣きだしそうなほど震えている。月光をその色素の薄い髪に反射し、淡く幻想的な彼女を抱きしめようとしたが自分の中の罪悪感がそれを許さなかった。恐らく彼女も、それを望んでいない。
店長にお礼の歌をうたおうと思って、という彼女の言葉にシンドバッドはそこで初めて声を発した。何故、と。何故自分を売ろうとした相手を想って歌うのか、恨んでいないのか。シンドバッドのその問いを聞いた後杏珠はゆっくり時間を掛けて瞬きをした。そして今度は旋律を辿るような軽やかな声で言葉を紡ぐ。

 
 
「私の歌、好きって言ってくれたんです。きっと、きっとあの言葉は、」
 
 
 
――嘘じゃないと思うから

 
 
炭と化した木材と煤が夜空にふわりと舞う中、月光は白い花にまるで死者を導くかのように仄かに光を灯し、切ないような、それでも優しい不思議なリズムを含んだ彼女の歌声は彼を慰めるように夜の街にじんわりと溶けていった。
 
 
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