夜鷹の星 | ナノ


 



テレビでだっただろうか。
 
かつて、"音楽は人生を変える"という言葉を耳にしたことがある。
当時は「そんな綺麗事なんて」と鼻で笑った。

もちろん流行りの曲を聞きカラオケに行って歌うのは好きだし、音楽の授業もそれなりにきちんと受けてはいる。
 
それでも、音楽は人を救うだとか、世界を救うだとか。
そんなんでこの世の中が上手くいくなら、歴史上にヒトラーやスターリンが暗い影を落とすことなんてなかった。
多くの人が犠牲になり死と哀しみの匂いが蔓延る戦争なんて、起こらなかった。
それは人類の大部分が思っていることであり、この先自分の考えが変わることは無い。
 
 
 
それなのに、何だろう。
 
 
彼女の音が鼓膜を揺らした瞬間に、ぶわりとたったこの鳥肌は。
彼女の声が脳に響いた瞬間の、どくりと脈をうったこの心臓は。
 
あの小さな体のどこに、こんなエネルギーがあるのか。
 
彼女の口から紡がれたメロディーは、零れおちた光の粒のようにキラキラと輝きを放ちながら跳ね、
池の底まが見えるまでにしんと澄んだ如く透き通った彼女の歌は、心の中に小さな雫を落とし大きな波紋を呼んだ。
 
 
人の声は楽器だと昔誰かが言っていたが、まさにそうだと思った。
 
 
そんな彼女は、ある言葉を彷彿させる。
 
 
―女神 歌の、女神
 
 
 
歌が終わりピアノの伴奏だけになっても、黄瀬は大きく目を見開いたままだった。
手にはうっすら汗をかいている。
 
すべてが終わった後も硬直している黄瀬を心配した夏川が顔を覗きこむまで、彼の意識が戻って来ることは無かった。
 
 
 
 
 

 
 
「あの、大丈夫ですか…?」
 
手渡された冷たいコーヒーをありがたく受け取る。そこの自動販売機で買ってきてくれたのだろう。
ぐびっと一気に飲むとじんわり苦い味が口の中に広がり、よやく現実に帰ってきた気がした。
何も言わない俺に対し何を勘違いしたのか、彼女は困ったように眉を下げる。
 
「やっぱりこの曲あんまりよくない、かなぁ…」
 
俺は思わず彼女の手をガシッと掴み叫んだ。
 
「そんなことないっス!俺、音楽聞いてこんなに感動したの初めてで…その、なんていうか、びっくりしちゃって…
 
めちゃくちゃよかったっス!」
 
 
本当はこんな平凡な言葉でなど形容し難いのだが、お世辞にも出来がいいとは言えない俺の脳みそはこれが精一杯の表現だった。
それにも関わらず、水色の彼女は一瞬驚いたように目を開いたがすぐに手をきゅっと握り返し、
 
 
「えへへ、ありがとう」
 
 
と照れたようにふんわり笑った。
 
誰だ、さっきそこまで可愛くないとか言ったやつ。可愛いじゃないか。
それにしても歌っている時と普通にしている時の差が酷い。
さきほどの衝撃は今の彼女のふわふわとした空気に溶け込んでいってしまった。
 
 
「あ、あの、お名前、なんて言うんスか?」
 
女性と会話することに久々に緊張感を覚えながらも、きりっと相手の顔を見据えながら言う。
この俺のキメ顔に落ちなかった人はいない。
決して彼女を落としたかったわけではないが、友好関係を気付いてもいいだろう。
だが水色の彼女は顔を赤く染めることもせず、至って普通の顔で
「あ、夏川杏珠です」と答えた。
 
 
「夏川杏珠さんっスね。夏川…杏珠……」
 
 
ん?どっかで聞いた名前。
頭の中で反復する。夏川杏珠。どっかで…
 
 
「ああああぁああぁああぁあぁあ!?!?」
 
思わず叫んだ俺に、彼女はビクッと肩を揺らした。

 
「夏川杏珠さん!!!!俺、知ってるっス!!!」
「え、あ、」
「俺の部活の友達とマネージャーがすっごいアンタのこと好きっスよ!」
「う、うれし」
「俺もラジオとかテレビで聞いたことあるっス!」
「ほんとで」
「俺、黄瀬涼太っス!今日からモデルとしてここで働くことになりました、よろしくっス!」
「あ、よ、よろし」
「杏珠さんって呼んでいいスか?」
 
「は、はい…」
 
「俺のことも涼太って呼んだくださいっス」
 
「は、はい……」
 
 
俺の勢いに押されたのか、茫然としながらこくこくと頷く。
嬉しくてにこっとほほ笑むとつられて向こうもにっこりとほほ笑んだ。
ほんわかとした空気が流れた瞬間、
 
ピロロロリーン
 
携帯の着信音が鳴り響く。俺の携帯だ。
ポケットに手を突っ込み確認すると、メールが7件着信が18件と凄いことになっていた。
どうやら彼女の歌に夢中で、気付かなかったようだ。着信元はあのムサいマネージャー。
 
「ちょっとすいませんっス」
と言いつつリダイヤルを押す。傍らで彼女が気にしないでと首を振っていた。
 
プル
 
『涼太ぁあぁああぁ!!お前、今何処にいんだ!』
 
ワンコールで出るマネージャーに少々驚きながらも、「なんスかぁ〜」と答えた。
 
『おま、何スかって、馬鹿やろう!!』
「え、何でそんな怒ってる」
『時間見ろ!!社長に挨拶に行く時間、とっくにすぎてんだよ!!』
「えっ!?」
 
ばっと壁にかけてあった時計を確認すると、針は確かに指定されていた時間からもう15分ほども後を指していた。
「うわわわわすぐ行くっス!」と言い電話を切る。
「どうしたの?」と首を傾げる彼女に、「待ち合わせ時間に遅刻しちゃって!」と言うと「あららぁ」と返された。
かなり呑気な声だ。
 
「あのっ今日は歌聞かせてくれてありがとう!」
 
ばたばたと約束の場所へ向かおうとして、ふと気が付き振り返ってドアの前で礼を言う。
あの有名歌手の歌を生で聞けるなんて、滅多にない経験だ。
杏珠さんはにっこり笑って「気をつけてね〜」と手を振ってくれた。
 

 
 
その後俺はマネージャーに今までにないほど怒られ、約25分遅れて高層ビルの一番上にある社長室の扉をノックすることになるのだった。
そして彼は噂通り、変人であった。
 

 
The miracle which run into you
(願わくば、また)
 
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