はつよくふとい


 最近ふと気づくと、どこからか視線を感じる事がある。

 自惚れでも誇張している訳でもなく、それは紛れもない事実で。図書館内での穏やかな空気にそぐわない、首筋にチリリと走る不快感。敵意は無いと思うが、何故か狙われているような、自分の心中が騒めくのは相手があいつだからか?

 見つめる先の向こう側、つまり視線を放つ相手が志賀直哉と判明したのは、最近になって分かった事。以前の俺なら安吾かオダサクの背を壁にしつつ、速攻で向かっていく所だが、奴にはこの間の借りが一つある。それ故に未だ傍観を、気づかない振りを決め込んだ。後は面倒でわざと放置したのも否めないが。

『本当、一体何なんだよ……変な奴』


 いつもの様に不眠に悩まされ深夜の図書館内を当てもなく漂っていたら、よりによって見つかった相手が志賀だった。揶揄われるかと思ったが、特に何も言われる事なく手を引かれるまま着いていく。

 辿り着いた先は食堂で、目の前に出されたのはマグカップに入った甘い香りのする温めた牛乳。いつもならガキ扱いするなジジイと滑らせていただろうけど、弱っていた俺はつい、それを受け取った。器から伝う体に染み入る温かさと、口に広がる蜂蜜の優しい甘さは幾分か俺の憂いを慰めてくれる。

 黙ってホットミルクを口にした俺を見た志賀は、片付けだけ言い残して立ち去ろうとしたのが無性に寂しくて、つい目線で行くなと縋ってしまう。震える唇から懇願が滲まなかったのは、ただただ頑なな、己の小さい矜持からに過ぎない。

「それ飲んだら大人しく部屋に帰れ。飲み終わるまでは……ちゃんと側に居てやるから」

 相手が誰だったかを深く考えずについやってしまったが、意外だったのは向こうも同じで、新緑の目を瞬かせて俺を見つめる。大きな溜息を落としてから、飲み終えるまではと告げられた。

 特に何も話しはしなかったけど、居心地の悪さは感じない。向こうの意思は知らないが、少なくとも俺は悪くなかった。だから、今回は感謝を込めて簡潔に礼を述べる。相手が志賀だからとかは関係ない、それさえも出来なければ俺は本当に人間失格だろう。さすがに部屋まで送られるのはお断りしたが。って言うか、なんで断られてほっとするんだよお前は! と、内心苛ついたが先程の手前ぐっと堪えた。

 そして悔しい事に、その日は自分でも知らない内に緩やかに寝入ったらしい。固く閉じた瞼を開くと、視界に映る眩い光。もう朝なんだと、頭に朧げな言葉が浮かんで消える。

 眠れた。それが単純に嬉しいと思えるくらい、我ながらあの時の俺はどうかしていた。嫌いな筈のあいつを頼りに、拠り所にしてしまう程。

 それ以降、何度か同様の事を繰り返し、心は志賀に縛られた。だって俺は弱いから、優しくされたら靡いてしまうし、醜態を見せても変わらぬ対応に安堵を覚える。安吾やオダサクには知られたくない姿も、こいつの前では隠す必要も無い。だから俺は勝手に自身を委ね、戻れない深みへ溺れていく。

 そして、志賀も自分の内に入れた者は、決して見捨てない。それを知っているから、俺の手を離せず惑う様を見ていられる。

 今更、今更逃がすものか。俺の心を攫って置きながら中途半端に放り出すなんて許さない、例え気紛れからでも、始めたのは志賀、お前からだ。俺は眠れぬ己の身であいつを絡め、あいつは情けを通り過ぎ、熱を帯びた視線で俺を捕縛する。


 今日も真夜中の逢瀬は変わらず続き、柵がしゅるりと絡みつく。己の愚かさを嘲笑いながら荊の如くその棘で、相手を絡め互いを傷つけ、決して離れぬ楔に変えて沈みきるまで離さぬと言わんばかりに。

2018/01/22
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