※やや暴力表現あり 暗室のような部屋に、パソコンの明かりだけがモニターに向かう男とその周囲を仄白く照らしている。 レンズ越しにモニターを見やる顔に気味の悪い笑みが浮かんでいる。緩んだ口元、右手はマウスを動かして、時々カチカチとマウスのクリック音が聞かれる。 画面には様々な病院のホームページが映し出されており、特に求人情報が載っているページに限って表示されていた。 それとは別に開かれたウィンドウにカーソルが合うと、男はキーボードを叩き始めた。 メモ帳としてしばしば活用されるそのツールの上部には、病院名がタイトルとして付けられており、中には男がたった今打ち込んだ文字が次々に羅列されていく。 何も知らない者がそこに書かれた文章を見ても、それだけでは分からないかもしれない。 だが、文章はもういくつかのデータファイルと組み合わせることで意味を持つものになる。 「11月10日 2時47分:若くてバカっぽい声、質問には答えなかったが自分から切らなかった、脈あり―――」など、細かく分析された情報を打ち終わると、同タイトルの音声データがあるフォルダにそれを保存する。 パソコンのハードディスクには同様のフォルダが数えきれないほど存在していて、容量のほとんどをそれらが占めていた。 一仕事終えたかのように男がふぅと息をつく。 数回首をまわして凝り固まった筋肉をほぐし、ゆっくりと椅子の背にもたれる。 だがすぐに思い立って体勢を元の猫背に戻した。 操作するマウスは淀みなく動き、似たタイトルだらけのフォルダの中からたった一つを選び出す。 手慣れた様子でアイコンをダブルクリックすると、脇に置かれたヘッドホンから小さな音が聞こえてきた。 『…あぁ!……だ、めっ……あ…』 何者かのあえかな声であった。 誰かと話しているようだが、聞こえるのはその者の声と、かすかに混じる衣ずれの音だけ。 声は少しずつ、見えない階段を上るように段々艶を帯びていく。 それはここ最近で聴くことがすっかり習慣化した音声データであった。 タイトルには「羽生蛇村、宮田医院」と書かれている。 久々に完璧にはまってくれた対象者だった、男はそう振り返る。 脱げと言えば脱ぎ、触れと言えばためらいながらも従った。 次はきっと秘所に指を入れることさえ叶うだろう―――。 男は夜毎様々な病院の当直や夜勤担当者を狙って電話をかけてはわいせつな問答を繰り返す変質者であった。 音声データはすべて、対象とされた哀れな看護師たちの反応の記録だった。 中でも現在の声の主は別格である。 久方ぶりに男を十二分に満足させるまで付き合ってくれた、引っかかったという方が正しいか。 男は当初、この行為に直接的な性的興奮はさほど求めていなかった。 うろたえたり激昂したりする女性をもてあそぶことが愉しくて、油断している心の隙をついて思い通りの反応のさせた時の充実感といったらなかった。 それがいつしか自分には特別に人を支配する力が備わっていることを知り、もっと上手くコントロールできる方法を独学で学ぶようになって、男の悪質性は加速度的に増した。 わいせつな言葉を投げかけられるだけで女性たちは心の傷を負うというのに、そうとは知らずに職場で欲情させられたり自慰行為までさせられた場合のショックは如何ほどであろうか。 誰かに見つかっても見つからなくても、対象者の精神は確実に動揺し生活に影響を及ぼす。 それがたまらなく面白かった。 手近な病院をほぼ狩り尽くした後も掛ける先には困らない。何せ全国にはごまんと医療機関が存在するのだ。 この頃は対象先を選ぶのにもすっかり慣れて、警察に連絡しなさそうな、万一ばれてもテレビや新聞のニュース等大事になりにくい田舎の小さな病院、医院をターゲットにしてきた。 もちろん、どこへ掛けても当然ながら相手の当たり外れというものはあるが、男の感覚では田舎の人間の方がそういった対処に不慣れで、無防備であるという印象が強かった。 宮田医院の対象者に当たったのは男にとって幸運だった。 ここまで気持ちよく術中にはまる人間は稀だからだ。 しかもこの声の主は、余程その手のことに疎いのか天性の才能なのか、自分から相手の情欲を煽るような行動をとってくれた。 こいつならもっと過激なこともさせられる――― 過去の実績から確証を得ていた男は、ヘッドホンの向こうで絶頂に達した対象者を愛でるように、マウスでアイコンを撫で回した。 ふいに、静けさに場違いなほど甲高い玄関のチャイムが鳴った。 ヘッドホンの片方を外して聞き耳を立てているとチャイムはもう一度鳴った。ゆっくり押されたのか、後半がやや間延びする。 ワンルームマンションのこの部屋にインターホンは無い。 仕方ない、とばかりに立ち上がるとさらにチャイムが鳴らされた。 段々いらいらしてきた男は、玄関に立つと覗き穴も見ず投げやりに尋ねた。 「はいはい、どなた?」 「宅配便です、――様宛てのお荷物が届いております」 扉の向こうからは配達業者らしいはきはきとした声が返ってくる。 今日届く荷物があっただろうか、一瞬疑問に思ったがまあいいかと鍵を開けてノブを回す。 真っ暗な世界に一条の光が流れ込んできて思わず目を細めると、扉はいきなり全開になった。 「う、わっ!」 前にバランスを崩した男の体は、両肩が弾かれると共に後方へと吹っ飛ばされる。 「ってぇ…何すんだテメ――」 言い終わる前に男は腹を蹴られた。 ついで胸や肩も、土足で何度も蹴り飛ばされる。悲鳴を上げる隙もない。 腹をかばって向けた背が踏みつけられ、痛みに悶絶する。 こみ上げた胃液をフローリングに少量吐き出したところで男は動けなくなり、それに応じて暴力もぴたりと止んだ。 「だ…れだ……」 かろうじて出した声は元が分からないほどにしゃがれていた。 相手は質問を無言で一蹴し、男が着ていたTシャツの襟首を掴んで乱暴に奥の部屋へと引きずり始めた。 パソコンだけが明るい部屋に入れられると同時に喉元の圧迫が解け、新鮮な空気を少しでも取り込もうと痛む肺が懸命に収縮を繰り返す。 うつ伏せで喘ぐ姿がおもむろに蛍光灯で照らされた。 伸ばしっぱなしの不潔な長い髪が根本から掴み上げられ、眩しさに瞬く瞳が覗き込まれる。 男は玄関を開けてからここに来るまで出来事の一切に対処できないまま、相手の顔を見た。 ―――どこにでもいる普通の男に見えた。 凶悪そうな面をしているわけでもない、普通の身なりに普通の顔、特徴といえば右頬のほくろ程度。 普通ではない点を挙げるとすれば、その者の表情は全くといっていいほど見られなかった。 先の凶行の後にも関わらず息一つ乱れていないなど通常ならあり得ない。 一見して平凡な人間がいとも簡単に殺人寸前の行為をすることが、逆に得体の知れない狂気を感じさせた。 「どこで知った」 抑揚のない声が尋ねる。 「は…ぁ……っ?」 「宮田医院の当直だったやつのことだ」 「何のことだ、俺は何も゛っ」 直ちに男の顔面が加減なく床に叩きつけられる。 ゴキッと自分の顔から醜い音が聞こえて鼻があり得ない方向に曲がり、大量の血液が鼻の穴から噴き出す。 「答えろ」 「で…ぎどうに掛けただけ…っ、あ゛とは知らない、何も…」 「データがあるだろう、電話の内容を保存したデータだ」 「あ゛…あ゛…」 「さっさと答えろ、でなければ殺す」 「ひい゛…っ」 男はゆるゆると手を持ち上げてパソコンを指差した。 「他は?」 「え゛…」 「他はどこに保存している」 襲撃者の目的はあのデータフォルダだということが初めの質問で既に明らかだった。 宮田医院の当直とは自分のお気に入りを指しているに違いない。 だがあの者に限定して尋ねられ、そのためにここまでの仕打ちを受ける意味が分からない、これまでの犯罪歴全てを洗いざらい訊かれるならともかく。 「あの女が…何だって…んだ…」 「女?」 「た…だの女、だろ…っ何で俺がこんな目に…」 自分が犯した行為を棚に上げて、男は理不尽だと襲撃者の来訪に涙した。 それを見た襲撃者は女という言葉に瞬きをするわずかな間だけ黙ったが、すぐに頭髪を掴む手に力を入れ直した。 「いいから早く言え、指先から釘を打ち込まれたいか」 「い゛っい゛う゛!い゛う゛がら!」 恐怖にゆがんだ顔は血と涙と鼻水と涎でぐじゃぐじゃで、男が激しく震えるのと強く掴まれているせいで束になって抜けていく髪の毛がバラバラと床に落ちる。 数多の女が聞き惚れたそれとは似ても似つかない声で、男は最終的にデスクトップパソコンの他に、携帯電話とノートパソコンの存在を白状した。 尋ねてもいないのにネットには流してないとか、ウェブ上でのデータ保存もしていないことまで男は語り、必要な項目を一通り聞き終わったと判断した襲撃者は、まだ喋っている頭から突然手を離した。 床に顔を打ち付けることになった男は汚い悲鳴を上げ、立ち上がった襲撃者に顔を向けると再び泣き叫んだ。 「や゛めっ…言ったのに…っ!」 懐から取り出されたのは鈍色のネイルハンマーだった。 刃物でも拳銃でもない、日曜大工のただの工具が何よりも恐ろしいものに見える。男の脳裏には先の発言で恐ろしい拷問器具としての認識が植えつけられていた。 空いた左手がいつ釘を取り出すのか、指の一本一本に打ち込まれる苦痛はどれほどのものなのか、想像の中で男は一度激痛を味わった。床にアンモニア臭の漂う液体がじわりと広がる。 「だすげでっ、だすげでっ…」 うつ伏せから首だけを上げて命乞いをする男を見て、しかし能面のような顔は眉ひとつ動かさないままで、釘を抜くための尖った部分が男の方を向き、狙いを定めて振りかぶるように腕が後ろへ引かれる。 尖端が頭を割る幻覚が男の視界によぎったが、ネイルハンマーは男ではなくパソコンの胴に突き刺さった。 持ち手部分が一部めり込むほど深々と刺さっている姿からどれほどの力で打ち込まれたかがうかがえる。 ハンマーは外殻を完全に真っ二つに割り、それが力任せに引きはがされると内蔵されていた部品があらわになった。配電盤や種々のケーブルの中から取り出されたのはハードディスクであった。その原型がなくなるまでハンマーは振り下ろされた。 後にノートパソコンと携帯は、風呂場から聞こえてきた水の流れる音で何をされたのかが分かった。 伝う涙が何のために流されているのか、男自身にも答えを出すまでにしばしの時間が必要だった。 突然の来訪者に殺されかけたこと、これまでの功績が水の泡になったこと、そのどれもが間違ってはいないが正解でもなかった。 「…お前、医者になりたかったのか」 体液と共に生気まで流しつくした男を眼下に、小汚いベッドに腰を下ろした襲撃者の意外そうな声がした。 窓には目張りされたカーテンが陽光をわずかたりとも入れることなく室内を常に暗闇の世界としていたが、何年振りかに作動したシーリングライトの下には雑多なAV機器や部品のほかに、目に留まるものがあった。 初心者と銘打たれた表紙の心理学の本は違うだろうが、臨床医学や組織学、その他医学を志したものにしか分からないような専門性の高い本が本棚の大半を占めていながら、存在感をほとんど放たずにひっそりと仕舞われていた。 「…だったら…なんだ…」 背表紙に積もった埃の量からそれは長らく使われていないことが一目して分かる。しかし教科書にしてはやけに綺麗な状態が保たれていることから、男の行動の根拠がようやく見えてきた。 「腹いせか」 「う…せぇ……使われる立場のくせに…あいつら…」 あいつら、とは看護師のことであるのだろう。 男がどこで看護師たちとどのようなやり取りを経て恨みを抱き、犯行に手を出さざるを得ないほどに追い詰められていったのかは知らないが、医師として見返すことも勉学に打ち込むこともせず落ちぶれていったものに同情の余地などない。 それが同業を目標としていたものであるなら、余計に侮蔑の念が湧き上がる。元より誰と比較しようと宮田は自分以外のものたちを可哀想などと思うことはできなかった。 心を動かすのはただ一人の存在だ。そして男はその唯一の存在を汚した。制裁の理由などそれで十分事足りる。 しかし神代家の命は「牧野に関わる情報の削除と犯人の確保」だけで、殺害は指示されていない。 男に幸運があるとすれば、行く末が自分以外の者の手にゆだねられているということか。 少なくともここで命を落とすことは定められていないのだ、まだ人生の折り返しにも到達していないだろうが、せいぜいこれからの期間は懺悔と後悔に当てるといい。 はなむけも兼ねて、男の意識を奪う最後の一発は特別に力を込めてやった。 ← back |