解決編 目を開けた途端、それまで見ていた世界が汗と涙に変わり全身を流れ落ちていった。 まなじりには新しい滴が浮かんだままだった。 幾重にも重なった水の被膜に包まれた牧野の瞳はある一点を見つめていた。 牧野は確かめていた。あの天井が、自分の知るものなのか否か。そしてそれがようやく分かった瞬間、牧野の呼吸が再開を許された。急激にせり上がる酸素への渇望。浅くではなく、もっと深い呼吸をしたいのに、まるで今、水から上がった生物のように喉は喘ぎ、肺が呻いた。 牧野は、自分が今までいた場所が水の中だったのだとしたら、あれはあの男の悪意や性衝動を詰め込んだ汚らわしい沼の底だと思った。 かすかな振動を感じ取った涙が目尻から顔の横へと流れていき、いまにも耳の中に入ろうとしていた。ベッドに投げ出されていた右手が慌ててタオルケットで拭う。汗も涙も、全身にまとわりついた流れ出る体液のすべてが、あの男に汚された証拠のようで不快だった。 牧野はもう吸水の役割を果たさなくなった寝間着を脱ぎ捨て、胸や背中に伝う証拠をタオルケットで拭い始めた。表面が赤くなるまで力を入れて擦ってもその痕跡はなぜか無くならない。 ベッドを下りた牧野が初めにすることは、玄関の施錠と室内の確認だった。 分かってはいる。鍵も替えたし、寝る前にも繰り返し確かめたのだから誰かがいるはずがない。けれども体はまだあの悪夢を引きずっている。死体のように重い体と喉元を圧迫されるような息苦しさ。目の前の光景より記憶にこびりついたあの夢の方がよほど生々しくて現実のようだった。だから牧野には夢と現実を区別するためにその作業が必要なのだ。 あの夢は現実ではないし、現実はあの夢のようにならない。牧野は悪夢にうなされる度に、こう自らに言い聞かせていた。 けれど最近は、夢から覚めても以前ほどの安心感が少なくなっていた。徐々に区別がつかなくなっている、ということなのかもしれない。夢と現実の二つを比べたら果たしてどちらがましであるのか――― 大学も、バイトも、宮田と話している時でさえも、男のことを完全に忘れることはできなかった。日常のどこを切り取っても男の影がよぎる。もはや牧野の身の周りで男が関わらない出来事は無くなっていた。 『はい、生活安全課○○です』 「あ、あのすみません……以前お世話になった牧野といいますが」 『ああ、どうかされました?』 「今朝、痴漢にあって……」 『痴漢?……なに、これ通報ですか?痴漢されたのって今?』 「いえ、だから今朝……」 『今朝ですか』 担当の年輩男性の声が急に不機嫌になった。はあ、とわざとらしいため息がマイクを通して息を吹きかけたような音になる。 『あのねえ、すぐに連絡してもらえないと困るんですよ。追いかけられないでしょ?』 「でもどうしても抜けられない用事があって……」 『用事と命とどっちが大事なの。こっちだってねえ、ちゃんとした時に呼んでもらわないと困るんですよ。触られたってだけじゃ証拠がないでしょ?』 「でも防犯カメラとか……」 男性は「防犯カメラねえ」と繰り返した。 『防犯カメラってね、調べても意味ないことが多いんですよ。よく見えないし、いつも来る人に変装されたら区別なんてほとんどつかないんです。 だいたいね、そういう愉快犯はそれ自体が目的だから、警備を張ってももう違うとこに行っちゃってたりするんですよね』 逆に迷惑、というような言い方だった。 牧野は逮捕の決め手になる貴重な情報源だと信じていたのに、彼にとってはむしろ、これがあるせいで被害者が口うるさく言ってくる、ああもう早く話が終わらないかな、と面倒臭くなる材料のようだった。 ストーカー法というのは同性であっても被害者が恐怖を感じたら適応されるのではないのか、牧野がそのことを口にした時も、男性はますますうざったそうに言った。 『ですからねえ、尾けられてたっていってもたまたま会っただけでしょ?服可愛いとか、それが好きとか、正直ねえ……あなたの自慢としか取れないですし、勘違いなんじゃないの?』 さすがに牧野もむっとして反論した。 「そうじゃありません、今回ばかりは本当に危険だと思ったから電話したんです」 そもそも、牧野は初めからあの男が危険だと思っていた。だけど警察がまともに取り合わないから我慢していただけだ。 スーパーで対峙した時だって簡単に言い返したのではなかった。足が震えて、今にも反撃されるのではないかと心の中では恐れていた。 たった一人で立ち向かった半年がどれほど長く感じたか、そしてもう二度と怖い目に遭わないと信じていた矢先に絶望する自分の気持が分かるだろうか? あの男に襲われそうだから助けてほしい、たったそれだけのことなのに、どうして理解してもらえないのか。男性の答えはこうだった。 『そんなの別に大したことじゃないでしょう?世の中もっと悲惨な事件があるんですよ。 牧野さんも男なんだから、そのくらいでいちいち目くじら立てないで、今度は仕返ししてやるくらいに思っとけばいいじゃないんですか』 「今度って、今度何かあったらどうするんですか!」 牧野の怒鳴り声が相手の受話器から再び音を拾って、二重に重なった。 電話の近くに婦警でもいたのか、男性に対して「大丈夫ですか?」と尋ねる女性の声がして、「ああ、うん、大丈夫だから」と男性が応えている。 これだけ真剣に話しているのに、電話の向こうのやり取りに緊迫感はなく、男性の声にも今牧野に怒鳴られたというショックや申し訳なさという感情は微塵も見当たらない。 牧野は心底みじめになった。自分ばかりが何とかしないと、と思って声を大にしていたが、向こうは少しも聞く気がないのだ。 ほんの一端でも自分を理解しようとしてくれる人だったら、自分が声を荒げることの切迫性を理解してくれただろう。しかしこの男性はそんな気持すら持ち合わせていない。 もしもし、という声が戻り、男性がさっきの牧野に対して何かを言っている。 『辛いのも分かりますけどね、牧野さん。ヒステリーの女じゃないんだから。 そんな風に言われてもその時に電話してくれなきゃなんともならないんですよ。 こっちだってね、本気で捕まえようと思ってるのに、あなたたちが協力してくれないと探しようもないでしょ。闇雲に探し回るわけにもいかないんだから』 だからカメラが……と言いかけたが、もう一度そのことを説明しても無駄だと思った。再びみじめな気分を味わうために話をつづける気にはなれなかった。 『じゃあ何かあった時は必ず連絡してくださいね』 男性署員はこう言って通話を切った。 牧野は静かに携帯を置いて、テーブルに突っ伏した。 何かって、何だ。 これ以上の何か、とは。 殺されろとでもいうのか。 私が血を流して苦悶の表情を浮かべれば、被害者の苦しみを理解するのか。 無残に殺された屍を前にすれば、自分の過ちに気づくのか。 あの男性が一生自分の死を引きずって生きるのなら、それもいいかもしれないと一瞬思ってしまった。 でもそんなことであの男性署員が自分のせいだ、と心を痛ませるような人物には思えなかった。 そうなったら、きっと自分は死ぬ。 人知れず、道端に捨てられてゴミと一緒に横たわり。それでも男性は「あーあ、あれほど言ったのに」と言っているかもしれない。いいやそうに違いなかった。 死にたくなんかない。 弟と支え合って生きてきた日々を、あんな人間たちのために失いたくない。 自分は生きるのだ。 宮田のために、生きる。 牧野は涙をこれきりにしようと思った。宮田を悲しませないために、泣くのはこれで終わりにする。そして明日からは絶対に前だけを向いて生きていく。 しかしその日を境に、牧野の決意を打ち崩すような嫌がらせが始まった。 ある時、牧野が帰ってきて郵便受けを開けると、親指ほどの太さの毛虫がボトボトと落ちてきて、牧野はその日以来、郵便受けを開ける度に何かが出てくる恐怖におびえるようになった。 またある時、牧野が自転車に乗ろうとかごを見ると、体長三十センチ近いドブネズミが放りこまれていて、牧野を見たネズミは凶暴な歯を剥いてかごの中で暴れまわった。 悲鳴を上げて飛び退いた牧野は、そのまま自転車に乗るわけにもいかなくて、その日だけタクシーを使って大学に向かった。 どこから調べたのか、携帯電話には毎日無言の留守電メッセージが入れられていた。着信拒否をしても毎回知らない携帯番号から掛かってくる。携帯を開く毎に着信の件数が増えていくのが怖くて、知り合い以外の全ての番号を着信拒否にせざるを得なくなった。 あの男がしてくることは十割中九分九厘までが嫌がらせなのだが、中には嫌われるとは別の目的でそうしたのでは、と思いたくなることがあった。 例えばマンションの清掃。管理人が「皆さんの心づかいには非常に感謝しております」というビラを掲示板に貼っていたが、住人にそんな殊勝な人物がいた記憶はない。牧野はそれも男の仕業なのではないかと思っていた。 またバイト先の保育園について、つい最近多額の寄付があったと園長が喜んでいた。話によると「バイトの方にたいへんお世話になりました」と手紙を添えていたらしい。バイトは牧野一人である。その人物の書いた手紙も見せてもらったが、牧野は男の筆跡が分からなかった。 他にも、帰って来たらドアノブに流行りの服が入った紙袋がぶら下がっていたり、誕生日に花束が贈られていたりすることもあった。 何も知らない住人の彼女はそれが宮田だと思って「アンタ、恋人に愛されてるねえ」とからかってきたのだが、牧野はまともに応じられなかった。 宮田は自分が華美に着飾ることを好まないからそんなことはしない。仮にそれが純粋な好意だったとしても、こちらに応じる気が無い限り、単なる悪意よりよほど気持ちが悪かった。 贈答品は私生活の暴露を意味している。自分しか知らないサイズの服が送られてきた時は、それを廊下に投げだして数日部屋から出られなくなった。 君のことは知り尽くしているんだ、今度のプレゼントは喜んでくれたかい、そんな男の声まで聞こえてきた。中身に関わらず贈られてきたものは全部捨てていていたのに、一度手にしたことで男の目を持ち帰ってしまったかのようだった。 そうして嫌がらせが過熱する一方、あの男が直接牧野に接触を図ろうとすることはぱったりと無くなっていた。 以前は行く先々で自分の前に現れていたのに、これだけのことをしておきながらあの男の姿を見ることはない。それはせめてもの救いでもあったのだが、姿が見えないとどこかに潜んでいるのではないかと思えてきて、逆に不安になった。 もしも宮田にそのことを尋ねたら、「兄さんに好きになってもらえないから、嫌がらせて自分のことを考えさせようとしているんじゃないか」と言ったのかもしれない。だが牧野は、嫌がらせのことも、悪夢のことも黙っていた。 教育実習と違って医者は何度も実習に行かなければならず、その一つ一つが落とせない重要な単位なのだ。こんな目に遭っていると言ったら、宮田は今度こそ飛んできて自分を離さないだろう。休学するとまで言いだすもしれない。 自分より二年も長く大学に通う宮田の進路の妨げにはなりたくない。余計な心配はかけないように、いつもと同じようにと、電話も欠かさずかけた。時に弟はあまりにテンションが高い自分の様子に「どうしたの?何かあった?」と訊いてくることはあったが、それがあの男のことだとは決して気取られないように注意を払った。だから宮田はきっと今も、自分が元気にしていると思っている。それでいいと思った。 季節は冬を迎え、しかし宮田は春先まで実習のために年末年始もそちらに行くことはできない、と言っていた。もとよりこの状況を知らないのだから当然か、牧野は今宮田に来られたらばれてしまうかもしれないと恐れていただけに、その言葉を聞いて少しホッとした。 一月半で、牧野は傍目にも明らかな段階までやせ細っていた。 色々言って周りには誤魔化していたけれど、憔悴の域まで落ちていた。原因は嫌がらせと、嫌がらせのあった日に必ず見る悪夢である。 肉が削げ落ち、女というより老人のようになった手足。少し丸みのあった頬も角度によっては影を作るほどにやつれてしまった。友人ならともかく、バイト先の園長にはそろそろごまかしが効かなくなるだろう。現に筋力の下支えを失った関節は体を動かす度に悲鳴をあげていた。 その日は帰りの遅い園児を見ていたために、九時を過ぎても牧野は園舎で保育室の掃除をしていた。 「あー、牧野くんちょっと」 呼び止めたのは保育園の事務長だった。掃除はもういいからと言われて、牧野はほうきとちりとりを片付けてから事務室に向かった。 「いや、前から君に言いたいことがあったんだけどね」 牧野は以前からこの事務長が苦手であった。温厚な園長と違って、事務長は典型的なワンマンだった。保育に関しては素人にも関わらず、園長や他の担任の保育方針にまで口を出し、自分の思い通りにならなければ徹底した罵詈雑言を浴びせて相手を叩きのめす、という人物だった。 「あー、園長、君もこっちに来なさい」 事務長は園長より十以上年下である。しかしわざわざ偉ぶった態度で園長を顎で使うことも少なくなかった。保育者の長といっても所詮は雇われの身なので園長も強く出ることができない。「はい」と言って園長は先に来ていた牧野の隣に並んだ。 「来週からまた新しく二人来ることになるから、それを牧野くん、君にお願いしたくってね」 その言葉に驚いたのは園長だった。 「事務長、あの二人を取るんですか? あの二人は二人とも夜遅くまで見なければならないし、牧野くんにこれ以上お願いするのは可哀想です」 「なに? 可哀想とか何を言ってるんだね、取れるものは取る、そうしないと今の時代、他の園との競合に勝ち抜いていかれないんだよ。この二人が来れば補助金が下りる、そうしたら一人頭十万近くの黒字になるんだ」 「でもそれじゃあ牧野くんが……」 「君は黙ってなさい。牧野くん、君はどうなんだい?」 「えっ……私は……」 今でも八時か九時の帰宅だった。これより遅いと十時、帰るのは十時半になる。嫌でもあのコンビニであった出来事を思い出さずにはいられない。 「私は……その、来年度は就職や国試もありますから……」 牧野の返事を聞いた事務長は、肘を置いていた机をドン、と拳で叩いた。 「いいかね?私はそんな返事を聞きたいわけじゃないんだよ、君にやってほしくてお願いしてるんだ」 お願いと言いながらほぼ命令だった。先ほどまでは若干牧野に気を遣っていた素振りの事務長だったが、反応が芳しくないと見るや、口調を威圧的なものに変えた。 「だいたい君は以前、十時まで働いてくれていたそうじゃないか。前はできたことがどうして急にできなくなるんだい。勉強が難しいって、そんなのは言い訳にはならんよ。そんなことを言っていたら、君は将来誰にも雇ってもらえんだろうな」 事情を知っている園長が助け舟を出そうとしている様子が伝わってくるが、黙っていろと言われた手前、彼女も口を開けないようだった。 「そんな腰掛けのつもりで君はウチで働いていたのかね?ちょっと父兄にちやほやされたくらいで何でも自分の思い通りになると思ってそんなことを言ってるのかもしれんが、私はそう甘くはないんだ。やることはキッチリやってもらわなきゃ。それが社会人ってもんだよ」 牧野はグッと唾を飲み込んで、一段低い事務長の睨みつける視線に耐えた。それを反抗のしるしと捉えたのか、 「文句があるのかね?人に使われる分際で文句なんて口にできる立場じゃないんだよ。教育のきの字も知らない青二才が、悔しかったら使える人間になってみたまえ。使えないんだよ、今の君は。態度といい、さっきの言葉といい……園長もどうしてこんなやつを入れたんだ。俺の知らない時に勝手に面接なんてするから、こんな使えないやつを入れることになるんだ。居たって意味がないだろ、え?」 使えないと言われる毎に、牧野の心臓がズシン、ズシンと重くなっていった。これは怒りなのか悲しみなのか、ただ涙が零れそうで、牧野はそれだけはいけない、と必死に目尻に力を込める。 怒りの矛先を向けられた園長は「はあ、すみません、すみません」と平謝りするばかりだった。 「もういいよ、君は帰りなさい。返事は明日までに、いいね?」 言葉を絞り出して、牧野はロッカーへ向かった。 真っ暗なロッカー室のドアを開けた途端、牧野は崩れ落ちた。 使えない、使えない、事務長の言葉が頭の中で巡る。 居ても意味がない、私は居ても意味がない人間なのか。 人の言葉で死にたくなったのは二度目だった。しかもそれはあの男とも何の関係もないことだった。 あの男がいてもいなくても、私が生きていける保証なんてなかったんだ。仕事で辛い目に遭って、人に嫌われて、でもそれは私自身のせいだったんだ。 牧野はもう決して流さないと思っていた涙を堪えることができなかった。堰を切ってあふれ出した涙は頬を濡らし続ける。 「牧野くん?いる」 背後のドアがノックされ、牧野は慌てて涙をのみ込んで「はい」と言った。 「ごめんね、さっきの……事務長の言ったこと、気にしないでね。でも私も事務長にはさからえなくって……もしできるなら来週からお願いしたいんだ…無理ならいいんだけど、でもそしたらきっと牧野くん……」 辞める。辞めさせられる。 自分の都合ではなく、解雇という形で。 牧野は自転車を押しながら園長の柔和な笑顔を思い出していた。 彼女は優しいから自分の味方になってくれると思っていた。事件のことを話した時も、ああこの人で良かったと思えたのだ。 でも彼女には力がない。権力という意味の力ではなく、大切なものを守りきる力である。事務長の言葉も思い出すのも辛いくらい辛辣な言葉であったけれど、事情を知りながらそれを切り捨てることを選択した園長の方が、ずっと罪深いように感じられた。 所詮、自分はその程度の人間だったということだ。すげ替えの利く駒にすぎない。自分がいなくてもまた別の誰かを雇えばいい。その方針に従った園長がさらに刃を自分に向けた、それだけのことだ。 結局自分は初めから必要となどされていなかった―――…… もう投げたい。何もかもやる気が起きない。 男にレイプされたって、そのまま殺されたって誰も悲しまない。宮田だって自分がいなければもっと楽に生きられるはずだ。自分は足枷なのだから、早く消えた方がいい。 ……けれども牧野の心はそうは言っていなかった。 本当は必要とされたい、人に愛されて、生きていたい。あなたが好きだと言ってくれる人のために、強くなりたい。 でも私はなれなかった―――司郎、司郎―――! 夢中で弟の名前を呼んでいた。会って抱きしめてほしかった。怖い目にあったあの時に以上に、今、弟のぬくもりが欲しかった。 牧野は携帯を取り出して、しかし再び手を下ろした。 どうせ繋がらない。今は実習中なのだから、明日まで声すら聞けない。 マンションの入り口までやって来た牧野は、郵便受けも無視してエレベーターに乗り、今後ろからあの男が乗り込んで来たら、私はこのまま死ぬんだろうと思いながら、それを苦痛に感じることもなかった。 到着を知らせるブザーが鳴り、牧野は顔を上げた。網目状のガラスの奥を見た牧野は目を見開いた。自分の部屋の前に誰かがいる。 あの男かと思い、牧野は咄嗟に「閉」のボタンに手をかけた。だがあの横顔、あの姿。それは間違いなく 「司郎!!」 慌てて袖で涙をぬぐい、牧野は走り出した。声を聞いて宮田がこちらに気づいて小さく手を振ってくれる。関節の痛みも鞄の重みも忘れて、牧野は宮田に飛びついた。痩せたとはいえ成人男性一人分を受けとめた宮田は軽くよろめく。 「どうしたの?実習中じゃなかったの?」 「いや、兄さん最近様子が変だったろ、何かあったんじゃないかって心配して来たんだよ。悪い?」 牧野は思いきり首を振った。 「でもどうやって来たの?まさか実習休んで来ちゃったの?あとで指導教官に怒られない?」 「大丈夫だって、ちゃんとしてきたから」 肩を抱き寄せられ、牧野は宮田の首筋に顔をうずめた。 その時、ふわりと何かが香った。 「……? 司郎、香水なんて付けてるの……?」 「ん? ああ、そうだよ。これ、良い匂いだろ?前に兄さんが好きって言ってたやつだよ」 「え……?」 そんなこと言っただろうか。牧野は少し思案して、そういえば友人たちと何の香水が好きかという話で最近盛り上がったような気がする。その日に宮田に電話したのかもしれない。 「それより、早く開けてくれよ。ずっと待ってて寒かったんだから」 「あ、ごめんね」 廊下に落とした鞄を拾い上げ、サイドポケットに無造作に突っ込まれた数個の鍵から一番大きな一つを見つけ出す。 「それ、キーケースとかあった方がいいんじゃないか? キーリングでもいいけどさ」 「キーケース?別にいらないよ、下手に何かに入れると失くしそう」 鍵を開けた牧野は宮田が先に入れるようにドアを大きく開けた。 「ああ、いいよ、兄さんが先に入って」 「どうしたの?なんか急に優しくなっちゃって、気持ち悪いなあ」 いつもの応酬のつもりで言っただけなのが、宮田は意外にも眉間に皺を寄せ、表情を曇らせた。言い過ぎた?と思いつつ先に部屋に入る。 玄関灯のスイッチは向かって右、手探りでそれを探すのだが、なぜだかすぐに見つからない。そうこうしている間に後ろから扉が閉まる音が聞こえた。廊下の明かりがなくなり、辺りは真っ暗闇になる。 「ごめんね、スイッチがここら辺のはずなんだけど……もうちょっと待っ…」 背中に軽い衝撃の後に牧野の体は小さくなった。伸ばしていた腕を抱き込むように、牧野は宮田の腕のなかに閉じ込められていた。 「ちょっ……」 どうしたの?と言おうとした時、臀部に触れた手がゆっくり上に撫で上げた。一瞬であの時のことがよみがえり、牧野は慌てて体をよじった。暗くて宮田の体勢が分からないから、闇雲な動きになる。宮田が嫌なわけではないのだけれど、その触り方はあの男を思い出すから嫌だ。よもやあの男に触られているのではあるまいかと思わず腕から抜け出そうともがく。 パチンと音がして明かりがついた。柔らかいオレンジ色の光に浮かび上がったのは宮田の顔だった。牧野はいつの間にか後ろを向いて、宮田と向かい合っていた。 「どうしたの、兄さん。 俺、どこか変?」 宮田はいつものように片眉をあげた。 「気になることがあるなら言ってよ」 「ううん……そういうんじゃないんだけど……」 どうしてだろう。どこを見ても宮田なのに、どうして自分は不安な気持になっているのだろう。 久しぶりに会ったせいでいつもの宮田を上手く思い出せないだけなのだろうか。あの男に追われる内に、宮田にすら心を開けなくなってしまったのだろうか。それとも、弟は初めからこんな顔をしていたのだろうか。 見つめ合うことに耐えかねて牧野が顔を背けようとすると、ぱっと顎を掴まれた。 「せっかく一緒になれたんだから、もっとこっちを見て」 その台詞にまた不安を感じた。 どうして今さらそんなことを言うのだろう。自分と宮田はずっと一緒だ。分かっているから宮田も口に出さないのだと思っていたのに。 ふと先ほどの宮田の言葉が頭をよぎった。急に来た本当の理由は何なのだろう。今すぐ来てくれと電話越しで泣いて懇願しても、すぐには行けないと苦しそうに言った、あれは何だったのだろうか。来ないことに意味があるからそうしたのではなかったのか。 何かを訊きたそうにしながら黙っている牧野の顔を見た宮田は、ゆっくりと口角をあげて笑った。 ← back ここまでお付き合い下さりありがとうございました。 以下、伝達力と表現力のない自分による弁明タイム(オチの解説)です。 Q.最後にやって来た人物の正体は A.宮田さんではない誰か。ヒントは例の男が直接顔を見せなくなった時期。 Q.嫌がらせが急に始まった理由 A.男が牧野さんの状況を知ることができたから。 Q.いつからそんなことになっていたのか? A.男は初めから牧野さんだけを狙って身の回りをうろついており、だんだん見ているだけでは我慢できなくなって徐々にプライバシーを犯す行為に出始めた。スーパーで男がビビッていたのはそのことを怒られたと思ったため。 Q.初めから男はそういうやつだったのか? A.男が一線を超えるに至った決定的な出来事があった。好意を寄せた人物に対してショックを受けるようなやり取りが本文中のどこかにある。 Q.宮田さんはどうなったのか? A.秘密 長々続いたシリーズでしたがとても楽しく書けました。元ネタは某歌手の同タイトルの見事なストーカーソング。所々登場するモブキャラはSIRENのキャラをモチーフに。 |