見つめている3 | ナノ


※一部痛い表現あり




 牧野のマンションではささやかな祝杯が挙げられていた。
 目の前には発泡酒。つまみは先ほど購入したスーパーの惣菜。電話の先には勿論、この件で誰よりも力になってくれた宮田がいる。
『マジかよ、兄さんもやるな』
 宮田は牧野の成果をこう言って素直に褒めた。
 さすがの弟もあの展開は予想できなかったらしい。そうだろうと思っていた。だから牧野は宮田の反応が待ちきれなくて、いつもより一時間も早く電話を掛けていた。
 若干ろれつの怪しくなった声が高らかに語る。
「もうね、めちゃくちゃスッキリした!あれから何にもなかったから、自分でももう平気だと思ってたんだけど、やっぱり知らないところで溜まってたんだね。本当、溜め込むってよくないよ。 司郎は大丈夫?何かあったら私が聞いてあげるよ?遠慮なんかいらないって、今はとにかく気分がよくってさあ。そうそう、それがどんな気分に一番近いかって、さっきからずっと考えてて、なんかこう……バッティングセンターでホームラン出した気分なんだよね、私野球できないけど」
 ところどころ兄さんが言うのかよ、といいたくなる箇所はあったが、宮田は笑うだけとどめて、すぐに再開される兄の武勇伝に相槌を打った。
 初めから牧野のテンションの針は振りきれていた。この饒舌も大半がアルコールでなく先の高揚感によるものだった。おかげで宮田は電話が始まってから二言以上を口にできていない。興奮と喜びと誰かに自慢せずにはいられなかったのは分かるが――――――分かるから、まあそれもいいか。
 宮田は珍しく楽観的だった。

 壁のカレンダーを見るとちょうど六か月。最初の出来事から半年が経っていた。
 宮田の部屋は安いマンスリーマンションで、家具も備え付けのもの以外ほとんど置かれていなかった。その代り難しい専門書が机やベッドの脇を固めており、いかにも医学生という雰囲気である。宮田はベッドに背を預け、殺風景な部屋を見わたした。
 半年―――。まだ半年しか経っていなかったことに我ながら驚く。実習と牧野の件が交錯するように代わる代わるやって来たから、気がかりがずっと胸に居座っている感じだった。その間、牧野はどうだったのだろう?
 トラウマ、いわゆる心的外傷後ストレス障害というのは簡単に消えるものではない。時には逃避や気分転換が重要な場合もある。しかし自分はそれを許さなかった。
 もう大丈夫だろう、もう安心してもいいのでは、そんな雰囲気を電話越しに伝えてくる兄に、油断してはいけない、犯人が分からない限りどこかで狙っているかもしれないと言い続けてきた。今思えばその関わりが良かったのかどうか。
 牧野がやり方に異を唱えることはなかったけれど、自分でさえ重苦しい気分を感じていたのだから、当人の心中は考えるまでもない。
 結局のところあの言葉は本当だったと思う。自分はせいぜい金とアドバイスを与えるだけで、何もできなかった。怖い目に遭ったのも牧野で、這い上がる努力をしたのも牧野だった。だからこそ、その苦労と努力が報われる結果が訪れたのは奇跡だった。
 もし男が牧野の剣幕にひるまなかったら、出会った場所がスーパーではなく暗い路地裏だったら、こんな結果はあり得なかったのだから、牧野が直接審判を下せる機会が与えられたと考えてもいいのかもしれない。だから今だけは無粋な突っ込みはなしで、彼が眠るまで話を聞いてやりたい。
『本当に良かったな、兄さん』
 耳朶をくすぐるような低音に、牧野は受話器越しに口づけをされたような気分になった。思わずローテーブルに頬を押し付け、下ろした手でバンバンとラグを叩く。
「ああ、もう…司郎が傍にいないのが寂しいっ!こんな時は徹底的にお祝いするべきじゃないの?電話じゃなくて、肩並べて朝まで飲み明かしたりしてさあ」
『やっぱり飲むのかよ……ったく、兄さんの喜び表現は“飲む”しかないんだから。大して飲めないんだからほどほどにしとけよ』
「なんだよぉ、司郎もおんなじだろ?双子なんだし」
 牧野が横を見ると、つまみとして出したパックの中華クラゲが目に入った。割り箸でちょっと弄んでから摘まんで持ち上げる。薄黄色のクラゲの先に見えるタンスが遠近の関係でぼやけて見えて、そこに今居てほしい人の姿も見えたような気がした。
「―――ねえ、ほんとにさあ」
『うん?』
「来れないの? 一日だけでも」
『一日って』
 宮田はバッグから手帳を取り出し、書き込まれた予定を見て頭を掻いた。一日といっても来て帰ることを考えたら会ってどうこうの時間は半日くらいになる。その半日のために……思わずううんと唸ってしまう。
「実習で忙しい?お金なら私が出すからさ」
『いや実習は中休みに入ったから、来週一週間は大学行くだけだけど』
 中休みとは名ばかりで、一週間はびっしりレポートを提出しなければならない期間だ。翌週の実習の計画も立てなければならないし、ヒマではない。本音を言えば無理っぽい。
『そんなに会いたいのかよ……もう心配ないなら俺が行かなくても大丈夫だろ?』
 宮田がやんわり断りを口にすると、
「そういう問題じゃないよ、心配ないから会いたいんだよ」
 と牧野は断言する。
『会って何するんだよ、ずっと酒飲むのかよ?』
「それだけじゃなくて……会ったら他にも色々できるだろ」
『色々ってなんだよ』
「色々って―――……色々だよ!」
 宮田の受話器からテーブルを叩く音が聞こえた。何を言わせるんだ、言わなくても分かるだろうと。宮田は携帯の通話口を塞いで、声を殺してくつくつと笑った。兄は相変わらずこの手のことを直接口にできないのである。
 遠くで何か文句のようなつぶやきが聞こえたので、
『はいはい色々な、分かったって。じゃあ俺もう電話切るから』と言うと、「えっ、何で……」と途端に寂しそうな声になる。
『こないだみたいに物件探して帰るだけの時間じゃ嫌だろ?せっかく行くなら俺だってもう少しいられるようにしたいし』
 そう言って土曜日の予定を×で消し、金曜日に書き込む。本日の祝宴ももう終わりだ。残っているレポートを少しでも終わらせなければならない。
「そ、そっか、じゃあ切る。うんまたね」
 牧野は分かりやすく急にそわそわした態度になって、普段だったらそんなところは絶対からかわずにはいられないのだが、今はなぜか「あ、俺って愛されてる」という実感になった。
 なぜだろうと思ったら、自分も兄も半年間まともに触れ合っていなかった。さっきまで会いたいとか寂しいとか言われても「まったく仕方ないな」くらいにしか感じていなかったのに、半年分の欲求を刺激されたと思った瞬間、宮田にも期待が伝染してきた。
「そんなに会いたいんだ。兄さんは俺としたいんだ」
 兄と愛し合う喜びを言葉にしたという意識はなかった。
 しかしすぐさま、ぎゃあという悲鳴が聞こえ、ガチャーンと携帯ごと放り出された音が宮田の耳をつんざき、ブツッという音を最後に通話が切れてしまった。
 ガンガンと音が耳の中で反響を続けている。
 牧野は以前、誰かに聞かれたら死ぬ!と言っていたが、宮田は今、強烈な耳鳴りで人が死ぬこともあるんじゃないだろうか、そうしたら騒音で死んだ一人目の症例になるに違いない。





 街路樹は夏の緑から黄や赤のグラデーションに色を移し、歩道は同色の絨毯を敷きつめたように落ち葉で覆われていた。その上を歩く人々の足音は、高いヒールの音さえ柔らかい音に変わる。二月の間に牧野の住む街もすっかり様変わりしていた。
 冷たい風が吹き、牧野は襟を立てて首を竦ませた。この日はたまたま講義もバイトもなかったので、逃げ足の速い太陽が沈みきる前に帰路についていた。
 いつものように入り口で暗証番号を入力して自動ドアを開けようと思ったら、玄関のガラス戸の奥で誰かが立ちどまっているのが見えた。
 それは三十代前半の髪の長い女性で、マンションの住人の一人であった。牧野と同じ一人暮らしで、一見してブランド物と分かる高級感あふれるコートに揃いのバッグを携えている。
 彼女は出かけるのも帰ってくるのもバラバラの時間なので、会える時は決まっていない。しかし牧野は会う度に彼女がどこで働いているのか、どうして一人暮らしなのか、という疑問を抱いてしまう。
 切れ長の目がシャープな顔だちを引き立て、体型もすらりとしている。彼氏くらいはいそうなのに誰かといる姿を見たこともない。口を開けば粗雑な物言いなので、そのせいで独り身なのでは……なんて邪推を働かせてしまう時もあったが、今では大分印象が違う。
 エレベーターで一緒になった時には「疲れたわあ」を連呼する彼女に「お仕事お疲れ様です」と牧野が言って、「アンタもよく毎日毎日決まった時間に生活できるよね」というようにちょっとした会話になる。
 玄関ですれ違えば「これから学校?勉強頑張んなさいよ」と声をかけてくれたりする。
 根は良い人なのだが、ならばなぜ独り身なのだろう。余計気になりつつ、下手に女性のプライバシーをつつくのもあれなので、牧野はいつも想像だけに留めている。

 牧野が自動ドアを開けて歩いていくと、彼女は「ああ、アンタ」と困り果てた表情で振り向いた。
「どうかされたんですか?」
「ひどいのよ、私の郵便受けが誰かにいたずらされたみたいで」
「悪戯?」
「開けようと思ったら開かないの」
 これ見て、と彼女はダイヤル式の鍵が付いた取っ手を引っ張って、開かないことを実演してみせた。中で郵便物がつっかえたり、鍵の接触のせいかと牧野が代わりに引っ張ってみるも、取っ手は手前にビクともしない。
「本当だ……何かでガッチリくっ付いてるみたいな感じですね」
「でしょ?それでさっき管理人の人に電話したのよ。もう少しで来ると思うけど、いったい誰がこんなことしたのかな」
 この人なら元カレや好意を抱く人がいるかもしれない。だけどオートロックのマンションでそんなことをするなんて、どうやって入ってきたんだろう。そう牧野が自分の郵便受けを開けようとすると、カチッとダイヤルが解除された音がしたのだが、取っ手は少しも動かなかった。
「えっ……これも?」
 驚く牧野に女性は何かに気づいたように他の取っ手を調べ始めた。牧野も一緒に二十以上ある郵便受けを調べてみて、全ての取っ手が同じ状態であると分かった。
「もう完璧アタマきた!誰よ、これやったの、タチ悪すぎでしょ!」
 まもなく頭髪の薄いマンションの管理人が業者を引き連れてやって来た。作業着姿の男性は、先ほど牧野たちがしたように取っ手を引いたり回したりした後、持ってきた工具箱から専用の開錠工具を使って何とか開かないかと試している。
「おそらくマンションの住人を狙った悪戯でしょうね。誰かがオートロックを開けたときに入ってきて、接着剤でここをくっ付けたんでしょう」
 幸い専用の剥離剤で取り出し口は開くようになり、なかの郵便物にも別段影響はなかった。牧野と女性は二人で胸をなで下ろし、管理人は警察に近辺を巡回してもらうよう電話をかけると言った。
「それでお金ってどうなるの?これって共益費から出るんじゃなくて?」
 ああそうか、牧野はすっかりそちらの方には頭が回らなかった。
「そうですねぇ、接着剤を除去するだけでしたから、一人あたま5300円になります」
「5300円!?」
 予想外の査定に彼女は声を大きくした。そして「どうなんのよ」ときつい視線を管理人に向ける。管理人の老人は「いや、これ全部共益費ってのは無理ですよ……」と声をしぼませる。
「嘘でしょ、毎月一万も払ってるのに、いったいどこに使ってるのよ」
「いやでも、他のところの維持や清掃費にも使ってますから……」
 彼女の勢いが増してきそうな予感を察して、牧野はさりげなく作業を続けている業者の男性の後ろに移動した。
「災難でしたねえ、でもまあ、世の中迷惑かけることを楽しみにする輩もいるらしいですから」
 男性は慰めのつもりで言ったらしいが、これが彼の給料に繋がるのだからどうも本気で同情しているようには聞こえない。このような出来事を当たり前と捉えているような感じもした。
 しかし何か引っかかる。牧野の胸は糸で引っ張られるようにそれを違和感と感じていた。
 この男性への失望感、愉快犯への怒り、治安が低下しつつあるこの街への嘆き―――どれもしっくりこなかった。今、頭の中に並べた可能性のどこにも正解はないような気がした。



 ある日、牧野は学内で気になる噂を耳にした。
「この辺りに変質者が出るらしいってよ」
「それが相当キテるやつらしい」
「露出狂だろ?この寒いのにご苦労なこって」
「いやいや、それだけじゃないんだって、最近の変態は掛け持ちするらしいよ?」
「なんだよそれ」
 休み時間に雑談している友人たちの会話の内容に、牧野は驚いて顔を上げた。
「何でもマンションとかアパートの鍵を壊して回ってるんだって」
「ね、ねえ、それってさ」
「なんだよ牧野、興味あんの?」
 突然身を乗り出してきた牧野に二人の友人は物珍しそうな顔をする。
「いや、うちのマンションも先週やられたばっかりだから……」
「マジかよ、それって大丈夫なのか?」
「でも牧野の家ってこっから遠いよな」
「うん……自転車で二十分くらいかな」
 事情に詳しい友人の一人がその言葉に反応した。
「遠くねえよ、あそこに座ってる女子いるじゃん。 アイツも駅が三つも離れてるのにやられたって一昨日言ってたぞ」
「え、何だよそれ、だったら俺の家もヤバいってこと?」
「いや」
 多分だけど、と友人は言った。
「そいつ、女子を狙ってるんじゃないかな。だって、俺が聞いたのは、鍵に悪戯されたって報告と、その付近で露出狂を見たってのが必ず一緒なんだよ」
 その両方の被害にあっているのが皆、女子なのだという。どこ情報だよ、ともう一人が聞けば、
「下の掲示板。お前らも後で見て来いよ」
 しかし牧野たちが掲示板を確認する間もなく、教室にやって来た担任から説明があった。
「警察が巡回するにも範囲が広いとのことなので、各自十分注意するように」
 特に女子、と念を押された。
「まあそうだよな、俺らに見せたってせいぜい『うわーキモー』としか思わねえもんな」
「いや女子でもそういうやついるだろ。俺だって自分の見てそんなこと言われたら生きてけねえわ」
 クラスメートは口々に言った。女子が標的ということと、せいぜい軽犯罪という情報が逆に彼らの油断を生み出しているようだった。
 だが牧野には決して他人事ではない。犯罪者にパターンをあてはめることこそ何よりも危険で、侮りは被害拡大の引き金になり得るのだ。
 この中で牧野は少数派だった。本当に怖がっているのも一昨日被害にあったという女子だけで、他の女子は皆、自分が例外になると思っている。
 牧野は眉をひそめた。この話題、長引いても良いことはなさそうだ。
 洗脳は言いすぎかもしれないが、多数派のなかで感じる少数派の心もとなさはそれに近い。次第に自分の考えが間違っているような気になってくる。牧野も今はそうは思わなかったが、毎日この話題を間違った方向に結論づける彼らと話していたら、正気を保てる自信がなかった。
 まだこの危機感を抱いている内に防衛策を取るべきなのかもしれない。ようやく心配がなくなったと思っている宮田には心配をかけたくないが、これ以上身の回りに何かあるようなら、彼にも話をしなければ……
 しかし事態は彼らに与するようにあっけない結末を迎えた。
 例の被害にあった女子のアパートの近くで犯人が捕まったのだ。聞けばかなりの余罪があるようで、犯行に及んだ範囲は五つの区にわたり、他の学部からも恥ずかしくて口に出せなかったり、悪戯だと思い込んでいた被害者が続々と現れ、男子も少なからず被害に遭っていたことが判明した。
 牧野もその中の一件として処理された。形式として事情聴取を受けたのだが、その時の警察の対応がどこか事務的で作業的に思えたのは、以前電話をした時と同じだった。今回は被害件数が多かったこともあるだろうし、そもそも彼らはそういう対応しかできないのかもしれない。
 その警察による説明は、「同じマンションに住む女性を狙った悪質な悪戯」というものだった。瞬時に彼女が思い出される。やはりターゲットは彼女だったのか。その巻き添えに自分は郵便受けを接着剤で固められ、大学に通う別の女子と同じ恐怖を味わった。
 同じ……そう言い切ろうとすると、なぜだかしっくりこない。
 本当にそうなのだろうか。彼女は近くで露出狂を見たと言っていただろうか。
 彼女とはあれから一度もすれ違っていない。会わない時は一か月近く会わなかったりするので、別におかしいことでもない。だから分からなくて当然なのだが、一つ納得できないことがあるとそれが妙に気になる。
 部屋番号は知っているから、ドアポストに手紙でも入れて訊いてみることもできる。いやしかしそこまですることだろうか。
 ためらっている内に牧野の実習が始まってしまった。朝から晩まで実習校に入り浸り、明けても暮れても提出物の嵐である。バイトもできないほど忙しい日々が流れ、いつしか手紙のことは忘れてしまった。



 実習の最終週は研究授業である。
 実習校の指導者、大学の指導教官に加えて同じ教科担任の教員、校長や教頭が見にやって来る。生徒たちに授業をしながら後ろの指導者の視線に耐えなければならないのだ。
 実習生はこの一日のために努力してきたといっても過言ではない。少しでも内容の濃い授業をと牧野は考え、指導案をかき上げたのは当日の朝だった。部屋を出た時点で既に疲労困憊である。けれど今日が本番なのだから、牧野はエレベーターを待つ間に鏡に映る自分に気合を入れ直した。
 一階に着いて駐輪場へ。まだ人の気配はほとんどない。朝の空気が冷たく頬を包みこむ。頭が一気に覚醒してきた。
 実習先は電車より自転車の方が近いということで、牧野はそれを利用していた。駐輪場は郵便受けの手前の、コの字型のスペースに設けられている。教科書と資料でずっしり重たくなった鞄を前かごに入れて、ポケットの鍵を探る。その時、入り口の自動ドアが開く音がした。
 一瞬身構えたが、玄関を通ってやって来た人物は見慣れたジャンパーに数部の新聞を脇に抱えていた。
「おはようございます」
 牧野は軽く会釈した。郵便受けに向かう配達員を見送った。そういえば新聞配達の人は毎日どうやってここまで入ってくるのだろう。暗証番号をあらかじめ教えてもらっているのだろうか。牧野は一瞬、気を緩めた。次の瞬間、背後から悪寒が走り抜けた。臀部をするりと撫で上げられたのだ。
 それでも頭の半分では別の理由を考えていた。隣の自転車のサドルにぶつかったとか、できるならそうであってほしかった。
 しかし振り向いた牧野は言葉を飲み込んだ。先の配達員がいつの間にか真後ろに来ていて、そのヘルメットの下から瞳をぎらつかせていたのだ。
 拒絶も、悲鳴も出なかった。目の前の現実を受けとめることすらできず、牧野は視線だけをゆっくりと下降させた。たった今犯行に及んだばかりの形で、手がそこに置かれていた。サドルの上に乗せ、牧野が尻を下ろすのを待っていたと言わんばかりだった。
 かっと牧野の感情が爆発した。
「なっ、なにしてるんですか!!」
 大声をあげた途端、男は風のように逃げ去った。追いかけようと走り出し、牧野はあることに気づいて立ち止まった。
 今日でなければ事情を説明して半休をもらうこともできただろう。仮病を使って実習を休んでも良かったかもしれない。けれど今日だけは休めない。もう行かなければ間に合わない。
 牧野はその場にうずくまった。膝を抱えて小さくなる。そうしようと思っていたのではなく自然とそうなった。
 行かなきゃ、学校に行かなきゃ。そのためにずっと頑張ってきたんだから、今日だけは駄目だ。今日だけは我慢しないと駄目なんだ。
 身体は全力であの男を追おうとしていた。それを押さえるために噛み締めた唇の中で歯がギリギリと音を立て、固く握られた拳を胸の中で抱き込んでしまわなければ、暴れて今にも飛んでいきそうだった。
 やがて牧野は幽体のようにふらりと立ち上がり、とぼとぼと駐輪場へ戻っていった。



 暑い、暑い。
 牧野は寝苦しくて目を覚ました。
 締め付けられるような胸の圧迫感は息苦しさによるものだ。牧野は体を起こして少しでも楽になろうとしたが、自分の体だというのに死体のように重かった。
 全身は水でも被ったように濡れていて、それが氷のように冷たい。牧野は思わず身震いした。
 時計を見ると夕方の五時だった。まだこんな時間、そう思って今日は何日だったかと思いなおす。部屋は暗がりに飛び込んだような黒で四方を取り囲んでいた。部屋の真ん中だけが仄明るく見えるが、明るいのではなく周りが暗すぎてそう見えるだけだった。
 ふっと目に留まったのは揺れるカーテンだった。窓が半分空いている。そこから入る熱風がこの部屋をさらに居心地悪くしていた。
 クーラーは切れてしまったんだろうか。でも体は暑さを訴えるくせに芯まで冷え切っていて、電源を入れなおす気になれない。
 牧野はとりあえず窓を閉めようと立ちあがった。死体のようだった体がもっと重くなる。それでも牧野は足を引きずるようにして進んだ。部屋が完全な暗闇でなかったのは窓から外の光を取り込んでいるからだった。
 窓際に立った牧野の視線は、錆びついた鉄柵のベランダとブロック塀に阻まれた。その二つが堅牢な壁としてマンションを閉じ込めているかのようだ。
 ねずみ色のブロック塀。牧野には見覚えがなかった。よく考えたら牧野はこの部屋自体に見覚えがなかった。
 ここは、どこだ? この部屋は、一階?
 牧野はカモフラージュにもなっているブロック塀を下から見上げた。ブロック塀は目視で二メートル以上ある。だからそこから覗けるはずがないのだ。塀の上から目だけを出してこちらを見ている男などいるはずがない。
 その目が牧野を見てニヤッと笑った。
 牧野は絶叫して後ろに倒れ込んだ。狭い床の上に牧野の体が転がった。すぐに起き上がろうと思っても、体を打った痛みと恐怖心で指先一つ動かせない。塀にいた男は手を出し、上半身を出し、こちらに向かって来ようとしていた。
「いやだ!来ないで!」
 もはや懇願に近かった。けれど牧野は口から悲鳴さえ吐き出すことができなかった。震えあがったのは唇の端から爪に至るまで全てだった。
 カラリと窓が開く音がした。影の塊のような男がそこに立っている。もう室内へと一歩を踏み出していた。
「やだああ、やだああああ!!」
 牧野は体を転がしてうつ伏せになり、這いつくばってドアの向こうを目指そうとした。力を失った関節は肘をつくこともかなわない。肩を使って手を着こうとしたら、指があり得ない方向に曲がって嫌な音を立てた。それでもいい、なんでもいい、ここから出なければ殺されてしまう。心臓の鼓動が楔を打ち込まれた絶叫のように早鐘を打った。
 牧野の肩に指がかかり、そこから一気に牧野の体は引き戻された。なすすべもなく体は再び転がされ、牧野の上に男が覆い被さった。
「ず、ずっと見てたのに、どうして、逃げるんだよ……どこにも、行ったら駄目だよ、君はずっと、ここにいるん、だから」
 男の手にはナイフが握られていた。



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