それは奇人か常人か2 | ナノ


一樹くんと牧野先生。




 この日も羽生蛇高校のある関東地方は真夏日を記録し、中継のお天気キャスターの服装はいつにも増して露出が多目だった。
 外気温を示す駅前の温度計は30℃きっかりを指している。
 ロータリーの階段を下りる際に、牧野はそれを視界に入れてしまうという失態を犯した。
 体感温度が二度上がり、肌に貼りつくシャツは三倍うっとうしくなった。今日から暦は六月になるが―――まだ六月、なのである。
 見慣れた駅前の一本道を、今日はいつもより遅い時間に歩く。暑く感じるのは少し高めにある太陽のせいなのかもしれない。
 とはいえ時間はまだ七時半。学校に着いても、中は相変わらずひっそりとしていた。牧野のように早くに出勤する教員は少なく、居ても朝練がある体育部の生徒と体育教官室の教師くらいだから、彼らは全員外か体育館なのである。
 職員室で鍵を取り、拠点へと向かう。すっかり自分だけの場所になった家政科準備室だ。
 家政科準備室は三階にあった。校舎で一番南側にある階段を三度折り返してたどり着く。
 途中で向かいから数人の生徒が下りてきた。色の違うジャージを着て、各々手に段ボールや丸めた模造紙を持っている。
「おはようございます」
 丁寧にお辞儀をされ、一瞬誰だろう、なんでこんな所に、と考えた。
 だがすぐに分かった、彼らは生徒会役員だ。
 生徒会室は二階、鍵も生徒会長が所持していると聞くから、生徒しかいなくても不思議ではない。昼と放課後以外の時間に彼らがそこを使っていることも、今日ならばおかしくなかった。
 今日は球技大会だからである。



「はい、皆さんちょっと静かに。あと少しで終わりますからね、最後に明日の連絡事項だけ。 明日は球技大会です。 御存じでしょうが、ジャージと運動靴が無ければ参加できませんので、必ず持ってきてください。体育館の球技の人は、必要に応じてシューズを持ってきてください。それと―――明日は朝から校内でのジャージ着用がOKになります。が、登校は制服ですので間違えないように。明日から六月ですから、衣替えで制服は夏服ですからね、そちらも間違えないようにしてください」
「先生」
 一人の男子生徒が手を挙げた。
「なんですか」
「クーラーって明日から入んの?」
「冷房ですか」
 訊き返すと大半の生徒がうんうんと頷く。
「ええ、明日からそこのスイッチで冷房の調節ができるようになりますよ」
 牧野の言葉でわあっとクラス中が沸き立った。ガッツポーズをとったり、手を取り合っている者までいる。
「そんなに嬉しかったですか?」
 近くの女生徒に尋ねると「そりゃそうだよー」「明日から球技大会だってのに冷房なしじゃ耐えらんないよねー」と二人で顔を見合わせた。
「良かったですね」
 言いながら、牧野も心中は生徒たちと同じだった。
 全ての窓と、前と後ろの出入り口を全開にして、汗を拭きながら授業をする。絶対に冷風などやって来ないと分かっていても、それに頼るしか方法はないという最悪の環境。
 教師は生徒と違い、常に好きな服装でいることを許されていたが、教室が蒸し風呂のようになっていては意味がない。どんなに通気性の良い服であってもやっぱり暑いのだから。
 冷房が入ったら、明日からは各所で自分もその恩恵を受けられるのだろうか。だったら、冷却シートの枚数を減らしてもいいかなぁ、首筋や背中は同じところに貼りすぎたせいで最近ちょっとかぶれてきてたから、なんてことを考えた。
 SHRが終わると生徒たちは球技大会の練習でグラウンドや体育館に向かう。
 学年別の種目は二年の女子がソフトボール、男子がバスケットだ。全校生徒が同じ種目をするには場所も物品も足りないのでこういった手法が取られる。
 ちなみに練習の間、場所確保のために体育部の活動は中止になり、練習時間が終わる六時から八時が部活動時間になる。
 早くいかなければ良い場所を他のクラスにとられてしまうので、生徒たちは遊牧民族のようにがやがやと大移動を始めていた。その中でぽつりと動かない一人を見つけて、牧野は目を留めた。
「一樹くん」
 皆がジャージ袋を手にしているのに帰り支度を始めている。厭世的な彼らしい温度の低い瞳がぐるりと手元を見回した後、牧野を中心に見据えた。
「何か用ですか、牧野先生」
「あの……いえ、一樹くんはこれから何か、用事?」
「別に。することもないので帰ろうかと」
「か、帰るの?」
「何か?」
「何かって……」
 球技大会の練習はしないのだろうか。大会は明日なのに。
「帰るのは俺だけじゃないですよ、ヤル気のないヤツらは沢山います。委員会で練習できないヤツもいますし」
「でも……一樹くん、バスケットでしょう?一樹くんなら背高いし、チームのみんなも助かるんじゃ」
 一樹の口元が笑った。口角が上がり、吐息も零れた、のだと思う。耳はざわめきしか捉えず、声も聞こえなかったが、笑顔といえる彼の顔を初めて見た。
 だがずいぶんと乾いた笑顔だった。
「合理性、ですよ牧野先生。俺はバスケットをしている柄じゃないんです。チームにとってもそれがベストなことなんです」
 胸に何かがぐっと詰まるような感覚を覚えた。
 そんなの分からないではないか。一樹が必要かそうでないかなんて、一人で決めることじゃない。
 しかし分からないのは牧野の方であった。
 一樹がバスケットが得意かどうかを知らない。一樹のチームメイトがどんな気持ちで練習しているのかも知らない。
 初めからヤル気のない生徒のお遊び練習なのかもしれない。あるいは一樹のチームメイトは素人以上に上手くて、部活動に入っていない一樹には入りづらい場所なのかもしれない。
 そして球技大会自体に興味がなく、趣味や勉強を優先して帰宅する生徒がこのクラスにいることも事実だった。
 もしかしたら一樹は面と向かって「お前は必要ない、いない方がいい」と言われたのかもしれない。そんなことあってほしくはない。けれどもしそうだったら?
 牧野は悲痛に唇を噛み締め、言葉を失った。
 一樹は自然な動作で立ち上がり、鞄を持って教室を出ていった。
 あまりに気軽な動作で、鞄さえ持っていなかったら、トイレに行ったのかと思えてしまうくらいだった。
 牧野はそのことに一番心を痛めた。事実も一樹の真意も知らないが、一樹は己に言い聞かせて現実を認めようとしているように思えたからだ。



 昼休みを過ぎて、残すところ準々決勝から先の試合のみとなった。
 ここまで来ると、いかなる強豪チームでもさすがに全勝は難しくなってくる。全ての球技で負けてしまったクラスも増え、廊下でたむろする生徒の姿も多く見かけた。
 校内を巡回する傍ら、牧野は見知った生徒に声をかけながら実はある人物を探していた。
 教室、廊下、玄関、体育館―――居そうな場所を回った。だが彼の姿はなく、傍にいた生徒たちの中にも行方を知る者はいなかった。
 そこに行く用事はないはずだけれど、思いながら牧野は校舎を出てグラウンドに向かった。
 第一駐輪場を抜けるとサッカーグラウンドがある。その奥に陸上トラック、左側にテニスコートが続いているが、手前のサッカーグラウンドでは三年生がサッカーの試合をしていた。
 テニスコートとサッカーグラウンドの間を区切る部分には一列に楓の木が植えられている。
 太陽に手を伸ばす瑞々しい緑、その陰に紛れてしまいそうな木の根元に、牧野は紺色のジャージを見つけた。紺は二年生の指定ジャージの色だ。
 一樹は180pを超す長身で、立っていたらかなり目立つ。座っていると分からないが、それでも腰の高い位置から伸びる手足は木の枝のようにしなやかで長い。
 体育系の部員なら誰もが羨む体型を、本人は少しも必要としていない。むしろ文化系の一樹には持て余す部分のようで、背中を幹に預け、長い脚もうざったそうに芝生に投げ出されていた。
「ここにいたんですね」
 そうっと近づいてから声をかけると、油断しきっていた一樹の驚いた顔を見ることができた。少し意外だ。誰かが探しに来ることを考えていなかったのだろうか。だとしたらそれもまた悲しい。
 一樹は無防備な顔を咳払いでごまかして、すぐに普段の顔に戻った。
「俺に何か用ですか」
 隣に座り込んだ牧野に少し迷惑そうな声だった。
「一樹くんのチーム、まだ勝ってるよ?」
 そう言うと一樹の表情がわずかに曇った。
「だから……俺がいない方がいいって言ったでしょう?あのチームは俺がいない方がいいんです」
「合理的じゃないから?」
「そう、合理的に考えて、俺は必要ないんです。あのチームはほとんどが経験者で構成されてる。補欠の出番なんてないでしょう」
「でも、もし試合中に怪我とかあったら? そんなこと起こってほしくないけど……」
「俺ともう一人補欠がいるのを知ってますか、先生」
 牧野は首を振った。
「あいつは小さい頃からミニバスをやってて、かなり上手いんです。もし何かがあったとしても、チームのヤツは間違いないそいつを選びますよ」
 でしょう?と訊き返され、牧野は答えられなかった。
「見てください。あのサッカーと同じですよ。勝つためにやってるのに、できないヤツを入れる馬鹿なんてどこにもいないじゃないですか。俺だってそうして欲しいと思います。下手に出て負けたら、迷惑になる。そしたら、みんなが『あいつじゃなかったら』って思うでしょうし、万が一誰も言わなかったとしても……合理的じゃない、そんなの」
 一樹は一度言葉に詰まり、だがすぐにお決まりの単語を口にした。
 合理的と言ったところだけ、声に荒んだ色が混じっていた。
「自分より役に立てる人がいるなら、そいつがするべきなんです。俺にできるのは、そいつが引き受けてくれるように頭を下げるか、仮病でも装うか、どっかにいなくなるか……」
 一樹は黙った。
 牧野から見た彼の顔は、昨日見た乾いた笑顔でも、いつもの皮肉屋の顔でもなかった。

 二人の下敷きになっている芝生はちょうど木の陰の境界線で終わり、その先は白く乾いた地面になっている。見るからに硬そうな地面だと一樹は思った。きっと転んだら痛いだろう。
 その上で青と黄それぞれ別のゼッケンをつけた二つのチームが、足元に土煙を上げながら一つのボールを奪い合っている。
 最近知ったが、体育教師の三沢によるとあれはゼッケンではなくビブスというらしい。ゼッケンでも間違いではないらしいが、部活ではそう呼んでいるのだそうだ。
 牧野との会話には関係なく、一樹にとってもどうでもいいことだったが、何となく思い出した。
 三沢が言わなければその時に知ることはなかっただろうから、新しい知識を与えてくれたことは一つの貴重な経験と言えるのかもしれない。
 しかし何においても正式名と一般名が存在し、略されたり通称としてもてはやされたりするのは大概が後者だと思う。
 新しい知識にうぬぼれて世間一般との認識のずれに気づかないことほど愚かなことはないと一樹は考えている。
 だから教えてくれたのはありがたいが、一般の生徒に浸透していない言葉を使い続けるのは、体育の授業には相応しくないのではないだろうか。
「ねぇ、一樹くん」
 牧野の声で思考が中断した。
 いや本来はそちらが中心のやり取りで、今一樹が考えていたことが思考の中断だったのだ。一樹が牧野を見ると、牧野は目の前のグラウンドを見ていた。
「あの10番の人、すっごく上手いですね」
 牧野につられてグラウンドを改めて見ると、その人物はすぐに見つけることができた。何せ、ここに来てから一樹が見ていたのもその10番だったからだ。
「私、サッカーは全然詳しくないんですけど、あの人だけレベルが違うみたい」
 牧野の言う通りだった。10番は背こそ小さく、顔も童顔でパッと見て中学生が背伸びしているように見えなくもないのだが、誰よりも高度な動きをしている。身長を上回る跳躍でパスを受けたり、ボールが足に吸付いているようなフェイントを見せる。
「でも圧倒的な実力差がある部員をそのまま球技大会に出場させるのは、公平性の意味でどうなんだろうと思いますよ」
 言ってから一樹は、俺は何を言ってるんだ、さっきまで自分が言っていたことと正反対じゃないかと心の中でつっこんだ。
 どうしてもそう考えずにはいられないのだ。何が一番いいことなのか。自分にとって、周りにとって。授業でも、私生活でも、球技大会でも。
 学ぶための授業では何が正しいのかを知らなければならないし、勝つことが一番だと考えているクラスメートたちのためには、何よりも勝てる方法を考えなければならない。不参加を決めたのはチームメートではなく一樹だった。きっとチームメイトはそれを望んでいるのだろうと思って。
 けれど一方で全員が一丸となってという理念には反する。皆にとって高校生活は一度きりのものだ。あのベンチにいる三年生たちは、人生最後の球技大会に一度でも参加したのだろうか、それで勝って本当に嬉しいのだろうか。自分だったら…………

「確かにそうですね。その球技の部活をやっている人がいたら、普通の人は敵いませんよね」
 ひそかに恐れていた矛盾点を突くことなく、牧野は暢気に同調した。
「でも羽高はサッカー部が強いから、10番くんみたいな人は他にもいるのかもしれないですね。あ、ほら、相手チームの7番の人も結構上手い」
「いや、あの10番の足元にも及ばない程度ですよ。あいつは別格です、とびぬけて上手すぎるんだ」
 いくら幼く見えても10番だって三年生なのだが、一樹の言い方は友人を指すようだった。
 10番は汗だくになってピッチを走り回り、喉を嗄らしてチームメイトに指示を出している。その姿はチームに欠かせない司令塔のようだった。
 よく見れば、彼は技術面の差が激しい個々のメンバーを見事にまとめ上げていた。 一人でボールを独占しようとはしていないし、指示も各々のスキルに合わせたものを選んでいる。それでいて自分がボールを取る時は爆発的なスピードで相手を引き離し、ゴール前に合わせる。まるでテレビのサッカー中継のようだ。
 わずかな間に思わず見入ってしまったが、彼はきっとサッカー部でも期待の星なのだろう。
「……あのさ、一樹くん」
「はい?」
「合理性も公平性もいいと思うよ。社会生活の中ではとっても大事なことだし、それが弱い立場の人を救うことだってあると思う……けど、一樹くんが本当にしたいことしてもいいんじゃないかな」
「俺のしたいことですか」
「うん……」
「遠慮しときます」
「え、どうして……?」
「それが人を傷つけるから」
 中学三年生の時、一樹は体にあるアザでいじめられていた一人の少女を救うことができなかった。たった一つ、人と違うところがあるだけで。
 一樹は泣きじゃくる彼女を救いたいと思った。彼女がいじめられる理由などそれ以外に何もなかったのだから、おかしいのはいじめる奴等で、彼女は守られなければならないと思った。
 しかし自分はそんな願いの一つも完遂することできなかったのだ。
 クラスの中の圧倒的な力関係。時に暴力に訴えてまで自分を通そうとする理不尽。それを見て見ぬ振りする教師。
 一樹と彼女を一として、それ以外をどのくらいで表すかと言われたら、百にも千にもなるだろう。本当にくだらないものが、あの時は全てだった。その渦に自分も飲み込まれた。
 一旦信じた人間から裏切られることは、初めから信じていない人間の行動より遥かに心を傷つける。
 だったら、優しい顔なんてしないで!
 自分をにらみつけて走り去った彼女の最後の顔がずっと忘れられなかった。その後、頼んでもないのに仲間として勝手に認め、すり寄ってきたクラスメートたち。全てを忘れたくて勉強だけに打ち込んだ自分を褒める何も知らない教師。
「本当に必要なのは正しい判断と、客観的視点なんです。それを失えば、また何が起こるか分からない……それが俺に課せられた役目なんです」
 牧野は心中を吐露する一樹の横顔を見ていた。
 彼もこんな話までするつもりではなかったのだろう。信用している竹内でもない、一介の教育実習生に何故こんなことを言っているのか。話し終わって急に困惑がやって来たようで、一樹の瞳が揺れていた。

 一樹の言ったことに対して、牧野がお説教できることは何もない。慰めようとも思ってはいない。
 もしあえて言うのなら、
「一樹くんって本当にいい子なんだなぁって」
「……はっ?」
「すごく、そう感じました」
「今の……どこからそういう解釈になるんだ、俺は……いい子なんかじゃない!」
「ううん、とってもいい子です。純粋で、人を信じてる」
「人を、信じてる……?」
 一樹は不可解だと言いたげだった。
「一樹くんが人でも物でも、正しく受けとめたいって思い、それは一樹くんが全ては正しくあってほしいっていう願いなのかなって思った」
「そんなこと……別に考えてるつもり、」
「でも、気になるってそういうことなのかなって……ううん、これは私のことなんだけど、私もすっごく気になってた、『どうしてああなるんだ、あれでいいはずがない、あんな人間が許されるはずがない』って。そうじゃない人は、そうならなければならない、私が見る物、出会う人、全てが正しくあってほしいって、私ずっと思ってたんだ」
「全てが正しい……?」
「子を育てる親は間違いを犯すような人ではいけないと思ってたし、生徒の模範になれない教師はいるべきじゃないと思ってた。痛みを理解できない医者は辞めるべきとか、役所の人間が不公平を放置することなんて絶対許せなかった」
 今考えると、反発するのではなしに、素直に「全ては叶わない」と思う。この世界、過去未来、全てが正しくあり続けることは不可能だ。
「でもね、それでいいやってことじゃなくて、私はずっとそういう人を区別することで受け入れることをしないできたんだなって、そう思っただけ……本当にそれだけなんだ」
 言い終えて、牧野はふっと顔を上げた。すると目の前で一樹がぽかんとした表情をしていた。
「えっ、ど、どうしたの、一樹くん」
「牧野先生って……」
 呆然とした顔のまま口だけが動いた。はあ、としか言いようのない相槌を打って牧野は続きを待つ。
「―――見かけによらないですね」
「えっ、それって、どういうこと?」
「なんか、そんなこと考えたこともない人だと思ってました」
「ええ!」  それって悩みなんてなさそうっていうこと!?間接的にそう言われているような気がして、牧野は非難の声を上げた。
「ああ、いたー!一樹!」
 どこからともなくともえの声が聞こえてきた。
 二人で駐輪場の方を振り返ると、ともえともう一人、髪の長い女生徒の二人がこちらにやって来る。
「太田さん、何?」
「何って、あなたのチーム!まだ勝ってるんだから、応援するのが義務でしょっ!」
「わあすごい、あれからまた勝ったんだね。ともえちゃん、わざわざ一樹くんを迎えに来たんだ?」
「べ、っつに、補欠のくせにベンチにもいないなんて信じられないから一言いいに来たの、学級委員として!」
 と言いつつ、ここまで来るにはかなり骨が折れたはずだ。牧野もそうだったのだから。
 ともえは一樹に向かってやかましく吠え立てている。しかし牧野にはその様子が可愛らしいポメラニアンか何かにしか見えない。彼女のそれが照れ隠しだと分かっているからだと思う。気づいてしまえばやかましさも半減して聞こえるから不思議だ。
「岸田さんも?」
 牧野はともえの後ろについて来たもう一人に話しかけた。
「わたし……私は一樹を迎えに来たの、一緒に応援したいから」
「な…に言ってんの!?岸田さんだって補欠がいないのはおかしいよねって話、頷いて聞いてたじゃない!」
「それは一樹に居てほしかったから。私、一樹の傍にいたいし」
 ともえの目に怒りと困惑がさっと宿り、小さな体がわなわなと震えだす。一樹が疲れたようなため息をつき、岸田は失言を言ったつもりもない、という顔で一樹を見つめている。これはさらにうるさくなりそうだ。
 まもなく言い合いを始めた二人の横をすり抜けて、牧野は一足先に木陰から脱出した。
「あれ?一樹くん」
 てっきりとばっちりを受けてしばらく戻れないだろうと思っていたのに、駐輪場を歩く牧野のすぐ横に一樹が並んできた。後ろの二人はどうしたのだろう。
「付き合ってられないから。あの二人、いつも俺の傍に来てわざわざ喧嘩していくんだ」
「それは……」
 君を好きだからなんじゃないだろうか。もはや疑問でもない確定事項だと思う。しかしこれを言ってしまうと馬に蹴られそうな気がする。
 人の恋愛は我関せずだ、牧野は話題を変えた。
「さっき言ったことだけどさ、一樹くん。好きなことをやってる一樹くんを応援してくれる人もいると思うよ」
 あの二人とか。最後のそれは言えなかったが、牧野はクラスメートたちが一樹を嫌っていないという事実の中に、憎めない、それはそれでいいヤツだと思っている人間が多いことを知っていた。
 できれば気づいてほしい、少しでも近づけば、きっと彼らは応えてくれる。
 そう、例えば学年を超えて。あの10番の生徒も、きっと一樹を受け入れてくれる一人だと思う。
 スポーツでも勉学でも、誰かのせいにしていたら突き詰めることなどできない。限られた条件の中で何度自分の殻を突破するかで次のレベルに進むか否かが変わってくるはずだ。チームメイトに平等にボールを与えようと思ったら、勝ちにこだわる人間からひんしゅくを買うこともあるだろう。しかし彼はそれでも自分の想うことをしている。
 きっとどんな人間でも平等に、温かく受け入れてくれるのではないだろうか。
 意外にも話しかけたら意気投合して、最終的に親友になったりして。ちょっと大きめの想像の花を咲かせて牧野は楽しくなった。
「やりたいこと……」
「そうそう、私も一樹くんの本当にやりたいことって興味あるな。授業でも一樹くんの視点って少し独特じゃない?でもすごく貴重だと思うんだよね」
 恋愛でも勉強でもいい、それを存分に伸ばしてほしい。牧野の中にようやく教育実習の理念が芽生え始めていた。すなわち生徒一人一人への愛情と成長のための関わりである。
 無意識下にあった「自らが評価を受ける実習で生徒を想う余裕などない」という思いが少しずつ変わりつつある。牧野がそれに気づくのはまだ大分先になりそうであるけれど。
 そして牧野にきっかけを与えてくれた一樹という生徒との仲も、まだ始まったばかりなのであった。
「牧野先生、俺、誰にも言ってなかったけど……実はずっと気になってることはあって」
「ええ、何ですか?気になります、聞かせてください」
 わくわくして牧野は一樹に尋ねた。
「世界の超常現象を解き明かすことです!牧野先生、俺と一緒にアトランティスを探しに行きませんか!?」
 牧野は最後の最後で一樹がまた分からなくなった。



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