それは奇人か常人か1 | ナノ


教師パロ。実習生の牧野さん




 ペンは全速力で紙の上を走った。
 カツカツという音が、勢いがつきすぎてほとんど一つの音に聞こえる程にボールペンは目まぐるしく動いている。
 こんな速さで書かれた文字はさぞ悲惨なことになっているかと思いきや、紙の上の文字は罫線からはみ出すこともなく、殴り書きのようになるのでもなく、提出用の書類としての基本を守っている。
 ただ一応、という感じだ。ともすれば雑な文字に見えなくもない、罫線に重なっている部分もあった。
 なぜなら牧野は焦っていた。気がつけば簡単な漢字を書き損じてしまって、一瞬動きが止まる。が、すぐにペンケースから修正テープを取り出して、たった今書いた文字の上に素早く引く。苦々しげに細められた瞳が右手首の文字盤をちらりと見た。
 あと三十分。
 針は刻一刻と進んでいた。この長針が二を指した時がタイムリミットだった。
 紙上の空欄は残り三分の一。これが終わったら中途半端になっている昨日の分も書き上げて、できれば他の書類の修正もしたい。そういえば昨日の実習日誌はなんて書いたんだったか―――とにかくやることは山のようにある。
 一旦ペンを置いて落ち着けば、焦って書き間違えることもないのかもしれない。だがペンを止めている間に少しでもこの空白を埋めないと絶対に間に合わない。落ち着こうと深呼吸でもしている間に二行、いや三行は書けそうだ。
 牧野は脳の半分でそんなことを考えて、残りの半分はペンが書く内容の次の次を考えていた。
 何せ教育実習生の朝は忙しい。朝は七時(自主的に早く来ている)から、夜は八時まで。それからレポートや指導案を書いて添削を受けた実施計画書を修正し、学習指導要綱に沿った内容で新たに立案し直し―――……
 実際の教師には責任も仕事内容も劣るものの、この瞬間だけはおそらく同じか、それ以上に忙しいのではないかと牧野は思っている。今共感を得られる友は一人もいないが、休日大学であった同級生は皆地獄のような忙しさに愚痴をこぼしていた。
 牧野も今日が徹夜二日目で、目の下のクマと疲労による貧血だけは起こすまいと気を張っているのだった。
 この回想の間も右手のペンは人生最大スピードで書類を書き上げている。
 一方で、鉄筋コンクリートの壁を越えると外は恐ろしいほど平和だった。内側の殺伐とした空気に少しも干渉されることなく、ゆったりとした時間が流れている。
 季節は春から夏へ、もうじき梅雨に入る頃だった。湿度が高いので窓は閉まっているが、開いていたらきっと登校する生徒たちの様子に気づいただろう。
 正門とは逆向きに位置する被服準備室の窓から見下ろすと、向かいにテニスコート、左手に第二駐輪場があって、ぞくぞくとやって来て自転車を停める生徒たちの姿があった。
 見知ったクラスメートの後姿を追いかけて、呼び止められた方は振り返る。おはよー、昨日のテレビ見た? あっちーなぁ、そういや明日あのCD発売だっけ、なんて声が聞こえてきそうだ。
 彼らも彼らの時間を過ごしていて、校舎の中の牧野のことは知る由もない。朝の時間はそれぞれが別々だ。空にある太陽だけが全てに対して平等で、校舎もグラウンドも通学路も真っ白に照らし出している。
 朝の太陽にはなにものも敵わない。今日は雲一つない快晴だ。抜けるような青空がまぶしい陽光で薄水色に染まっている。


 間一髪、八時九分三十秒で全てを書き終えた牧野は、今日の分の提出書類をファイルに挟み、飛び出すように被服室を出た。
「あ、牧野先生だ」
「せんせー、おはようございまーす」
「はい、おはようございます」
 自分の顔を見て、急に歩調を緩めた二人の女生徒とすれ違う。
 挨拶を交わして、通り過ぎる。途端に甲高い笑い声が聞こえてきて、ちょっとボリュームが大きいなぁと思いつつ、定期考査を終えたことが嬉しくて仕方ない気持ちは分からなくもないから、注意はしなかった。
 四月から五月にかけては五月病と言ってこの時期に抑うつ状態になったり、体調を崩す生徒が出ることがある。だが牧野が見る限り、そのような生徒はいないように思える。もしくは牧野が赴任する前にはいたのかもしれないし、今もいるのかもしれない。ただ今は皆、テスト明けで気分が高揚している。
 指導教官の竹内は「定期考査を機に、生徒もようやく一学期のスタートを切れたというところだな」と言っていた。牧野も竹内の受け持ちである2-Bのクラスにはよく顔を出すので、生徒たちとは親しくなっていた。
 新しい学校、新しいクラス、新しい一年のスタートにテストも大きな役目を果たしているということは、教師という視点で見て初めて理解できるような気がした。
「では今から十分、班ごとに話し合ってくれ。分からない所は牧野先生にも訊いていいからな」
 授業見学は時々このように補助として授業に参加することがある。担当教員の判断によるが、牧野は竹内から積極的に生徒にも指導してやってくれと言われていた。
「牧野先生、こっちこっち」
「はい、なんでしょう」
 テーマは現代社会が抱える諸問題と解決への取り組みについて。手招きに応じて牧野は班から班を渡り歩く。信用されているのか実習生が珍しいだけなのか、次々に班から手が挙がった。
 その間に竹内は黒板に模造紙を広げていた。これも意味あることなのだろうか、何だか仕事を押し付けられている気がしなくもない。
 結局六つある班の全部を回ることになった牧野に、最後の手が挙がった。
「牧野先生、こっちにお願いします」
 ピンと伸びた手を見て牧野の笑顔が引きつった。あの班は……
「一樹くん、何か分からないことあった?」
「分からないわけではありません、疑問に思ったことについてです。それから、これは俺一人の意見ではなくて班全体の意見です」
「あ……そう、なの……」
 この一樹守という生徒、話し方から考え方まで全く生徒らしくない。
 矛盾点を徹底的に追及する姿勢は学生としてむしろ褒められるところだが、超がつく現実主義者で、重箱の隅をつつくようなことばかりを言うので、教師の間では2-Bの一樹というのはあまりいい意味ではない方の有名人だった。
 そしてそれが勉強以外のところも全く変わらないらしい。(でも実は何となく分かっていた) 同級生の間でも煙たがられているのは、生徒同士のやり取りを見ていても分かる。いじめられるほど嫌われてはいないようだが、癖がありすぎてとっつきにくい性格は牧野も大いに頷ける。
「社会問題の解決方法についてどれも不十分である、具体策を講じなければならないというのが一つの結論であるというのは分かっています。しかしそれでも現代社会の人間が行動に移れない理由について、考えるべきだと思うのですが」
「は、はあ……」
「俺はそれを過去の歴史に結び付けて仮説を立てたいんです」
「そうですか……」
 しか言いようがない。
 急にネクタイがきつくなったように感じた。部屋の温度も上昇していないか?妙に息苦しい。
「それでもいいですか?」
「え?」
「この話し合いの意義とは別の方向の話になるかもしれないのですが、それでも良いかということです」
「あ……いや、違う意見も大切ですから、いいと思いますよ」
「牧野先生ではなく、竹内先生はどう言われているんですか?」
「え?」
「御存じないなら、竹内先生に訊いてもらえますか。手が離せなさそうだったので牧野先生に先に訊いたのですが」
 数秒経って、牧野は物凄くめんどくさい、と思った。
 実習生だから本物の教師よりも下に見られることは仕方がない。だが自分の言葉を少しも信用していないと直接言われた気分だ。だから竹内に訊いて欲しいと言ったのだろう。
 めんどくさい。一樹の性格が死ぬほどめんどくさい。
 竹内は自分に近づいてきた牧野の顔を見て、思わず苦笑した。
「一樹に何か言われたんだな」
「いえ特には……グルワクの主旨とは異なる結論が出たから、別の内容について話し合ってもいいかということでした」
「そうか。それは構わない、一樹にも伝えてくれないか」
「はい……」
 一樹が口を開くと毎次何かが起こる。実習初日に授業見学をした日本史の教員から、牧野はこっそり耳打ちされた。どういうことだろうとその時は首を傾げていたのだが、次の地理の授業見学で教師に食って掛かる一樹を見て合点がいった。
 毎回、2-Bの授業が終わると一日の大半が終わったかのようだった。今日も実際はまだ二時間目が終わっただけで、それに気がつくとどっと疲れがやって来た。
 竹内は先に退室し、牧野は代わりに片付けを請け負った。黒板を丁寧に消していると、
「先生、先生、さっきまた一樹が迷惑かけたんでしょ?ホントごめんなさい」
 後ろから声がした。
 そこにいたのは学級委員の太田ともえだった。
 猫の思わせる瞳と甲高い声。誰もが彼女からはきつい印象を受けるが、当の本人はとても優しい性格の持ち主だった。確かにはきはきとものを言うところはあるけれど、自分本位で行動したりはしない。それだけ正義感も強いのだ。学級委員として生徒たちだけでなく教師からの人望も厚い。一樹とは全てが正反対だった。
「一樹にはいつも言ってるのに」
 ともえは肩に掛からないくらいの綺麗な黒髪を耳に掛け、お気に入りだというピンクの髪留めでまとめなおした。
「先生も大変よね、実習で一樹のいるクラスに当たっちゃって」
 竹内先生はとってもいい先生なんだけど一樹がね、半分ほど振り返って、後ろで小難しそうな本を読んでいる一樹を眺め見る。
「私のことなら大丈夫ですよ。私が未熟なのは間違いないですし、逆にみんなに迷惑をかけていたら申し訳ないなって」
 ともえは強く否定した。
「そんなことない、先生は教え方丁寧だし、ちゃんと私たちのこと考えてくれてるって気がするから、みんなも分かってるはずだもの」
「ありがとう、ともえちゃん。私もこのクラスに来て、皆さんに学ばせてもらうことがたくさんあって……本当に良かったと思ってます」
「本当?なら良かった、一樹も本当はね、悪いヤツじゃないの。偏屈で理屈ばっかりこねるけど、クラスのためを思って訊いてくれてるんだと思うし……」
「じゃあ、ともえちゃんと一緒なのかな」
「な、何言ってるの!一樹と一緒なんて死んでもお断りよ!」
 ともえを褒めたつもりだったのだが、あとは私がやっとくからと、もぎ取るように黒板消しを取られてしまった。後は彼女に任せるほかなく、牧野は教室を出た。
 彼女は一樹が好きなんだなぁ。はっきり顔を赤くして声をあからさまに大きくするなんて、鈍感な自分でも気づかざるを得ない。その後ろでうるさそうにこちらを一瞬見た一樹。あれは何も分かっていない顔だった。
 お堅い学級委員と変わり者の秀才の今後に思いをはせてみる。青春だ。


 だがその日のことを思い返すと、牧野はともえに言った言葉を復唱することになり、若人の恋愛はどこかへ行ってしまった。
 晩飯を食べている時も、風呂に入っている時も、頭の中にその言葉が引っかかって仕方がない。
「まだボーっとしてるんですか」
「わっ、宮田さん」
 教科書の後ろから現れた自分の顔に、牧野は体をのけぞらせた。
 風呂から上がった弟の顔は、兄の牧野から見ても鏡を見ているような錯覚に陥る。双子とはいえ別人なのに、汗と一緒にトレードマークの眉間の皺が流されてしまったからだろうか。今は憑き物を落としたかのようにさっぱりしている。
「全然進んでないみたいですけど、もう終わったんですか?」
「いえ、それがまだ一枚も……全部で七枚もあるのに、」
「何やってるんですか、もう十時ですよ。ボーっとしてると、また先週みたいになりますよ」
 先週というのは、実習二週目の木曜日のことだった。
 扇風機のボタンを押し、傍に麦茶入りのコップを置いて、これで朝までレポートを書く体勢が万全に整ったと思ったところで、そこからの記憶がない。
 目覚ましが鳴って時計が五時を指していたのを見て、牧野は悲鳴を上げた。
 ご丁寧に掛け布団を被って部屋の電気も消えていた。牧野は数秒とおかず、睡魔に協力した者の存在に気づいた。
 走りながらパジャマを脱いで、歯を磨いていた弟にどうして起こしてくれなかったのかと喚き散らすと、「だって最近寝てなかったから」と一言。
 おかげさまで体は久しぶりに軽かった。駅の階段を全速力で駆け上がってもまだ全力疾走できるくらいの余裕があった。
 だが電車の中でレポートは書けないのだ。指導案は生徒や学校の個人情報に関する資料に入るため、大学側からも実習校からも秘匿第一と念を押されている。
 これなら座って寝ている方がまだ時間を有効に使えていた。その分手持ちのメモに頭の中で組み立てた内容を箇条書きにし、そのおかげでレポートを一枚書き終えたというのは大きいが、牧野はその日昼飯と休憩時間を全て費やし、用を足す時間まで惜しんでレポートを書き上げたのだった。
 あの失態は思い出すだけで憂鬱になる。だが牧野はすぐに件のことを思い出し、ため息をついた。
「どうしちゃったんですか、本当に。あまり疲れてるなら、手書きは止めてパソコンで打てばいいんじゃないですか?」
 心配そうな宮田の眉間にいつもの皺が浮かび上がった。
「いや、補助でついてた授業でちょっと……ね」
 自分のせいでできた皺を押し消すように指でなぞると、宮田は今日のともえのように顔を赤くして「何するんですか」と目を逸らした。

 一樹が嫌いなのではない。ともえがお節介だったのでもない。
 一樹の科白はどこまでも正しかった。あの質問に牧野が独断で答えるのは正しくなかった。竹内とはそこまで細かい打ち合わせをしていなかったのだから、素直に非を認めて竹内に訊き、それを伝えれば良かった。
 確かに牧野はそれと同じく行動していた。しかし心の内はどうだろう。
 なぜ自分にそのような言い方をするのか、そんなことを言われなければならないのかという気持ちがあった。
 ただの実習生なのに、変なプライドだけ先に出来上がっていたのだ。本当に未熟だと思っていたら、一樹をめんどくさいとは思わない。
 ともえにクラスのことを訊かれて、咄嗟に「このクラスで良かった」と言えなかった。
 一度心の中で咀嚼して、なぜこのクラスで良かったのか、という理由を探さなければ答えられなかった。
 牧野は自分に呆れていた。
 自分は本当に未熟者だ。教えるどころか教えられてばかり。一樹やともえがいなければ、気づかないまま実習を終えていたのではないだろうか。
 竹内はそのことを気づかせようとしていたのだろうか?だから積極的に補助に入れてくれたのだろうか?



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