毒蛇の罠

 失言だった。それだけだ。疲れていたせいでうっかりしたとしか、言いようがなかった。

 出張帰りで疲れていたからと、恋人が覆い被さってきたのを頭突きで黙らせたこと自体は全く問題があったとは思わないし、俺が正しいと胸を張って言える。それなのに、額を少し赤くしながらこっちを見て、「そんなに嫌ですか」と言ったその顔が、捨てられた犬の顔にしか見えなかった。それで、そう、つまるところただ単に、口が滑った。
「嫌とかじゃ、ないが」
 言ってから後悔した。何を言ってるんだ俺は。ほら見ろ、目の前のやつもきょとんとしている。だがすぐにその驚きは成りを潜めて、酷く甘ったるい声が振る。
「嫌じゃないなら、良いでしょう?」
 良いわけあるか。言おうとした言葉は掠めるようなキスで柔らかに止められた。そんなことで抵抗をやめるつもりは毛頭無かったので、べちんと音がしそうな勢いでその口を手で塞いでやる。もごもごと唇が手のひらを擽って、不満そうなエメラルドの瞳がこちらをじとりと見詰めてきた。
 どうしてですか、と、うるさいくらいに視線が問いかけていたので、疲れているから寝たいと言うとやんわりと俺の手を剥がして、運動すればぐっすり眠れますよ、とわらう。バカだ。疲れてると言っているのに更に運動とか、ふざけているとしか言いようがない。思ったことをそのまま言えば、今度は子供のように駄々を捏ねだした。
「いいじゃないですか、いいじゃないですかぁ。久しぶりに会えたんですよ?それに、出張先に訪ねて行きたかったのはちゃんと我慢したじゃないですか。ご褒美の一つや二つや三つ、貰ったってバチは当たらないでしょう」
 心底うざい。
「良くねぇっつってんだろ。何回も言わせんな、寝かせろっ」
 問答するだけ無駄だ。そう判断して、言いながら頭まで布団に潜り込む。すると、ひときわ駄々を捏ねる声が大きくなった。うるせえ。
「〜〜ッあぁもう!お前も寝ろよさっさと!」
「じゃあキスさせてくれたら寝ます」
「好きにすれば良いだろ!」

 叫んだ声が少しだけ反響音を残して消えた。

 目の前の、至極楽しそうなにんまりとしたいやな笑顔を見て、ハッとした。さっきよりも数十倍ろくでもない失言をしたと気付く。
「い、いや今のはっ、」
「言質とっちゃいました。…撤回なんてしませんよね?」
「ちょっ待て、おいこら…ッ」
「大丈夫ですよ、キスだけですから」
 撤回なんてプライドが許さないが、状況が悪すぎる。抵抗むなしく押さえ込まれ、両手で頬を包まれた。そして、物凄く信用ならない言葉を認識する頃にはもう、視界はみどりに染まっていた。

「っ、ぅ、んんッ…!」
 最初は触れるだけだったそれは、「もういいだろ」と言おうとした隙をついて貪るようなものに変わっていた。
 呻き声をあげてわずかばかりの抵抗を試みるが、お構いなしに舌を絡め取られる。そのまま吸い上げられれば、呼応するようにぞくぞくと背筋をナニカが這い上がる。
 歯列をなぞられ、上顎を擦られて、下唇を甘く噛まれる。文字通り息つく間もなく口内を蹂躙されて、引き剥がそうとしていた筈の両手は、いつのまにか、縋るように相手の背中の服を掴むだけになっていた。

 どれほどそうされていたかわからなくなるほど口内を侵され、犯され続けて。呼吸も思考もままならないし、酸欠と涙に霞む視界はなにもかもがぼやけて形を成していない。中途半端に情報を遮られているからか、唾液の混ざり会う音も、自分のくぐもった声も、飲みきれなかった唾液が頬を伝う気持ち悪さも、そして宥めるように脇腹を這う手のひらも、いやにハッキリと脳裏に刻み込まれていく。
 くちうつしで流し込まれ続ける快楽と熱が、腹の底に貯まっていくのがどうしようもなく苦しい。まるでなにかの毒のように甘いくちづけは、真っ当な行動をするのに必要な思考や体力を、根刮ぎ奪っていった。

 すっかり感覚の麻痺した唇がやっと解放されたときにはもう、どうしようもないくらい昂っていた。白々しい笑顔で、御馳走様です、眠りましょうか、などと宣った緑川に、なんで、と舌足らずに問うてしまった程には、頭も正常じゃなかった。
「キスだけって約束でしょう?」
 そう言ってわらっている緑川は、ぜったいにわかっている筈だというのに。
 疲れているのは本当だ。嫌だと言ったのだって本心だった。だが、しかし。
 ここまで熱を溜め込まれて、眠れるわけがない。
 言葉に詰まる俺に、明らかに楽しんでいるのが滲み出ている顔で、緑川はそっとささやく。
「空稀さんがしたいなら、僕が断る理由なんて何処にも無いですけど…さっき、いやだって言われちゃいましたからね」
 わかっていた。寝ると言うならさっさと横になれば良いのに未だ俺を見下ろしているのも、あんな拷問のようなキスをしたのも、言葉の端々に思惑を滲ませて話しているのも、全部ぜんぶ、計算で、企みで、ありふれた罠だ。
 わかっているその罠を、自ら踏み抜けと。捕食者の瞳が、薄暗い部屋のなかで煌めいた。




ネタ元▼
https://twitter.com/mfmfnightfever/status/612226227999371265
『舌だか口内だかっていうのは、人体において一番か二番目くらいに敏感、ということなので、「本番は無理だけど、キスだけならいいよ」と軽く了承しちゃったが最後、10分ほどひたすらねちっこいキスで口の中嬲られて、もはや拷問ってくらいの快楽与えられて、終わった頃には自力で立てもしない受下さい』
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