はじめのいっぽ
――天使なんか、きらいだ。
すました顔で、幸せそうな顔で、僕ら悪魔を狩ることが当たり前だと思ってる。 そりゃ確かに僕らは人に害なす存在ではあるし、天使に喧嘩売るやつだって多いし、それを楽しんでいるやつだって少なくないっていうかほとんどだけど。別に死にたがりな訳じゃないし、ていうか生を謳歌しているからこその行動だと思うし。 何を言いたいかって、殺されるくらいなら交渉に応じるくらいの理性だってあるって話。それなのに。
「…いい、加減に…してほしい、んだけど……」 ズタボロになった体を引きずって、とりあえずは生きていることにほっとする。虫の息だけど。 例のごとく、天使に見つかって狩られかけて、結局逃げ延びた。多勢に無勢っていうか、一対多って卑怯じゃない?見つけた瞬間目を光らせて問答無用で攻撃してきて、こっちが術苦手なのをいいことに嬲ってくれちゃって、ホントいいご身分。こっちを心なんて無い動物かなにかだと思ってる。いや、それ以下か。 これだから天使は嫌いなんだ。 きれいごとばかり並べ立てて、カミサマなんて居もしないものを信じて、僕から見れば矛盾だらけのその行動を疑問に思いもしない。動物や人を殺すのはカワイソウだと涙すら見せて僕らを鬼畜だなんだと罵倒するくせに、悪魔を狩るのはむしろ楽しんでいる節すらある。ふざけんな。 大きめの木の根元にもたれかかり、空を仰ぐ。天気がよくて、枝葉のあいだから青色が見える。木漏れ日が、やけに目に染みた。
「…い、おい、大丈夫か?」 声をかけられて目を開く。いつの間にか眠っていたらしい。 「あ、起きた」 「…え、あ、…っ、」 目の前にしゃがみ込んで僕の顔を覗き込んでいる人が居ることに気がついて、思わず仰け反る。急に動いたせいか、お腹の傷が酷く痛んだ。 「お、おい、大丈夫か?」 おろおろという表現がよく似合う様子に、少しわらう。けど、あまり構われていると悪魔だとバレるかも知れない。適当なこと言ってさっさと遠ざけないと。そう思って顔を上げた瞬間、目を焼いた、白。 「――…てん、し?」 「ん?ああ。…なんで疑問系なんだよ?」 「え、いや、…僕の知ってる天使と、ちょっと違うなって、」 「そうか?」 白い翼をぱたぱたさせながら首を傾げる目の前の"天使"。強面だし、なんだかずいぶんと…人間くさい、と言えばしっくりくるだろうか。 「まあいいや、おめえ、うちに来るか?手当てしてやるよ」 そして投下された、爆弾じみた言葉に目を瞬かせる。 「え、」 「それに腹も減ってるだろ、ほら」 何か言おうとして、何を言えばいいかわからずに固まった僕の言葉を待たずに、彼は僕の手を取った。
一応隠れるためにと人に化ける術をかけていたからだろう。この天使は、僕が忌むべき存在だとも知らずに手を差し伸べて……笑いかけて。――間抜けな天使。人間には、こんなにお優しいのか。 ……ああ、そうだ。せっかくだし、利用してやろう。怪我が治るまで、身を潜めるにはちょうど良いかも知れない。そうして、怪我が治ったら、案外と美味しそうなその魔力をゆっくり喰らって、絶望する顔を堪能してから殺してあげよう。 たったそれまでだ、短い間だけれど、"天使"に一矢報いるまたとないチャンスだ。 「…えっと、…よろしく、天使さん」 「ん、よろしくな」 そうと決まれば、としてみた挨拶に、朗らかな返事とに向けられた笑顔。それがやけに眩しくて、どこかがちくりと痛んだ気がした。
家について、まあ座ってろと言われてリビングの椅子に腰を降ろす。「適当なもんしか出せねえけど」と言いながら天使さんがキッチンに引っ込んでしまって、手持ち無沙汰になった僕はつい、不躾だとはわかっているけれど周りを見回した。 綺麗な窓から室内に降り注ぐ日の光とか、規則的に響く時計の針の音とか、そんな穏やかな空間に、ところどころ乱雑に存在する物たち。柔らかくて、緩やかな雰囲気。その人の存在が、その人自身が居なくても感じ取れるような。 「…生活感、ってこういうのなのかな…」 ぽつりと漏れた独り言は誰にも拾われなかったけれど、別に期待なんてしていないからそれは良い。ただどうにも、凪いだ空気が喉にからまって、居心地がわるい。いま僕はどんな顔をしているんだろうか。こんな空間に堂々と居ると言うのは経験が無さ過ぎて、なんだか情けないような空しいような、よくわからない感覚に陥っている。 早く帰ってこないかな、天使さん。お腹は確かにすいているんだ。
「ほらよ。簡単なもんで悪ぃけど」 そんな言葉とともに、ことりと目の前に置かれた食事は、ご飯といくつかの具を炒めただけの簡単なものだった。けれど、僕にとっては随分と珍しいもののように思えた。それというのも、誰かの手料理――それも、僕だけのために作られたもの。それは、いままでに食べたことの無い、とくべつなものだということに、それを目の前にして初めて気付いたからだった。 感動にも似た感覚におそわれて、置かれた料理をじっと見つめたまま動きを止めていたら、天使さんが苦笑する。 「特別うまいもんでもないけど、不味くもない筈だぞ。変なもん入れたりなんかしてねえし」 そう言って僕の手を取り、半ば無理矢理スプーンを握らせて、「冷める前に食っちまえ」と続けた彼の笑顔も、机の上の料理と同じように、どこにだってある、けれど僕に向けられたことは一度も無かったもの、だった。
――夜になって、ぼんやりと窓から見える星空を見上げる。 体は傷だらけだし、昼から知らない感覚ばかりにおそわれてるし、疲れてはいる筈なんだけど……眠れない。どうにも、落ち着かなくて。こんな緩やかな、それこそ微温湯のような空間を、僕は知らなかった。僕が必死で生き延びてきた世界と、ここは本当に同じ世界なのか、なんて。そうとすら思ってしまう程度には、この空間は僕にとって現実味が無かった。 当たり前だと思っていたことは、もしかしたらだけど、とても――かなしいことなんじゃないかと、思えて。 「……そんなわけ、ない、」 それを認めてしまったら、僕が、いままで生きてきて、これからも生きて行くその理由を、見失いそうだった。
――傷が治るまで、魔力が回復するまで、…人間だって言ってるんだし、もうちょっと長めにみても良いかな? ……あれ、どうせ食べちゃうのに何を気にしてるんだろう、僕は。
朝起きて、じっとしているのは退屈だからと、食事の手伝いや、出来る範囲…というか、させてもらえる範囲で仕事の手伝いもしてみた。僕としては大したことはないのだけれど、天使さんは僕をケガ人扱いしたいみたいで、ちょっと無茶をしたら普通に怒られた。少し重いものを運ぼうとしただけなのに、と思いつつ、手伝いを普通に褒められたときと同じようにむずがゆかった。 撫でられるのも、叱られるのも、慣れてないんだよ。
最近おかしい。なにがって、僕自身が。 天使に褒められてちょっと喜んじゃってることがおかしい。叱られて同じ感覚になってるなんてもっとおかしい。……そもそも、一緒に居る状況に甘んじてることがおかしいんだけど。 自分が自分じゃなくなってくみたいだ。――あのひとを殺しちゃえば、元に戻るんだろうか。 なんとなく、何故かはわからないけどもう少しだけ、あと少しだけ……、…ああそうだ、きっと、油断させておいた方が、たくさん絶望してくれる、から。
しばらく退屈で平和な日々を過ごした。結局、天使さんは僕が悪魔だなんて気付いた様子はない。 「……ばかだなぁ、」 呟きながら、何も知らずに眠っている天使さんを見下ろす。 傷はすっかり癒えてしまった。魔力だって回復したし、これならわざわざこんなところに身を潜めなくたってとりあえずはこわいものなんてない。 「天使さんの魔力も、もらうし、」 そしたら僕はホントに怖いもの無しだ。そばに居るとよくわかるけど、天使さんの魔力はけっこう質が良い。 広げた羽と、いびつに歪んだ角。暫く見ていなかった自分のシルエットが、天使さんの無防備な寝顔にかかる。 覆い被さるようにしてベッドに手をつくと、二人分の体重は少しつらいようで、ぎしりと鳴いた。 「……ん、…?」 月の光が遮られたことに気付いたのか、ゆるりと開いたその双眸が僕を捉える。眠気に霞んでいた視線がはっきりするにつれ、その表情は驚きに彩られていった。 「おめぇ、…そのかっこ、」 ――さあ、どうする?
「……驚いた? …醜いでしょう、これが僕の本当の姿だよ。」 口の端をつり上げて、わらう。彼は、次になんて言うだろう。命乞いだろうか。それとも怒りをあらわにするだろうか。ああ、侮蔑の視線を向けるかも知れない。 そこまで考えて、いつの間にか伏せていた視線をもう一度彼に向ける。 彼は、
――わらって、 「なんだ、元気になったんだな」 と、言った。
嘲りも、侮蔑も、なにも含まない、笑顔で。よかったよかった、と、わらって言う。 「……え、…な、なんで、」 思わずこぼれた言葉はひどく震えていた。 「なんでってなんだよ? おめえ、怪我してたからわざわざ力使わねーようにしてたんだろ? 変身出来るようになったってことは元気になったんだな、って。」 きょとんと首を傾げる彼の言い分を聞いて、僕は益々わけがわからなくなった。 え? だって、…それじゃあ、 「……僕の、正体…知って、たの?…い、つ…から、」 「いつって…そりゃ最初からだけど」 声が出ない。驚きのあまりだろうか。だって、だって。知ってた?僕が、悪魔だって――しかも、最初から?じゃあ、 「なんで、」 どうして――だれにものぞまれないはずのいのちが、まだここに在るんだ。 「…おめえ、もしかして、悪魔は狩られて当たり前だと思ってんのか?」 事実その通りじゃないか。僕があの日、なんであんなところに居たのかを思い返せばはっきりしていることだ。 声はまだ出ない。けれど言いたいことは視線から伝わったようで、天使さんは顔をしかめた。 「確かに、そういうやつらも居るけどよ…悪魔にだっていいやつは居るだろ。おめえなんて、ずっとなんもしなかっただろ?」 力が無かっただけだ。あれば、あんたを殺してたはずだった。――いまだって、その、つもりで、 「……っ、なん、で、」 さっきから僕が言っていることはこればかりだ。けれど、他に出てこない。喉でつっかえて、言葉にならない。 「……あのなあ、」 彼は呆れたように呟いて、手をこちらに伸ばした。体がぎくりと強張る。それを見て彼はひどく痛々しいものを見るような顔をしながら、――僕の頭を、その胸に抱き寄せた。
「そんなふうに、捨てられた犬みてーな顔してるやつ、放っとけないだろ」
囁くように言われた言葉が、頭を抱え込んだその手が、間近に聞こえる心音が、ひどく暖かみに満ちていて。ぼろりとこぼれ落ちて、頬を伝うこれは、なんだろうか。 ひく、と喉が引き攣る。頬を伝うものは止まる気配がない。 「う、ぁ、…っ、うえ、ぅ、」 やっと出た声は、今度は止まらなくなった。
この日僕は、うまれてはじめて、声をあげて泣いた。
「んで、」 まだ鼻をすすっている僕を見ながら、天使さんが口を開く。首を傾げながら見やると、天使さんも首を傾げていた。 「おめえはこれからどうすんだ? 元気になったんなら、出てくのか?」 ――そんなの、答えは決まっていた。 「やだ、出てかない…。…天使さんといるって、きめたから。」 嫌だと言われてもいすわってやる。そう続けると、天使さんはただ、そうか、と面白そうにわらう。 「んじゃ、これからよろしくな、…………そういや、名前聞いてなかったな」 言われた言葉に、ぱちくりと瞬きをしてから、そういえばそうだね、と返す。
ぜんぶ、最初から始めよう。 お互いのことをちゃんと知っている、対等な立場から、新しい関係を築きたいから。
――とりあえずは、自己紹介から。
了
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