触れる距離(エレン)


エレンが泣いていた。
声も上げず、ひどく静かに。
俯いたその瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちている。

何故かエレンはその両手を鎖でつり上げられていた。
どうやら足も固定されている。跪付かされるように、腰へと鎖が伸びている。
そういえば、随分高い所に居るようだった。下から見上げていた為に、エレンが泣いている様子が見えたのだ。


「エレン」


呼び掛ける。
反応はない。まるで聞こえていないようだ。
自分の声だけが遠く反響していく。
ここは何処なのだろうか。床も、あたりに幾重も生えている柱のようなものも、氷のように艶やかに煌めいている。
気温から考えるのならば、氷ではない。けれど、どうしてだろうか。寒気を覚えるような光景だ。体が底から冷えて凍えてしまうような。


「エレン」


再度、呼び掛ける。
上半身の衣類を身に付けていないエレンは、ひどく寒そうに見える。
せめて、上着を。
エレンの元へと向かう階段が見えた。あれを上れば、近付ける。
あたためて、その涙を──




拭わなければ、と思った瞬間に目が覚めた。
奇妙な夢だ、と思う程度には内容を覚えている。拭う前に、助けるのが先だろうに。明らかに拘束されていた。
目の前に広がる景色は、勿論夢の中のものではなく、古城の中の食堂だった。
俯せていた頭を急に起こした事で驚かせてしまったのか、机を挟んだ向かいに立っていたエレンが目を丸くしてこちらを見ている。

こんな場所で寝てしまっていたらしい。
そして、丁度エレンが通りかかった所で目が覚めて、この現状か。


「………………エレン」

「は、はい」


夢の中とは違い、名を呟くと返事があった。呼んだまま沈黙してしまった俺に、エレンの瞳が困惑の色を浮かべている。


「……………………」


泣いていたのは夢の中だ。
今、この場で戸惑ったように俺を見ているエレンに涙の後はない。
分かってはいるのだが、どうにも切り替えが上手くいかないようだった。
拭わなければ、と。その思いが消えない。

立ち上がり、エレンへと歩み寄る。
何かする途中だったのだろうか。トレーは持っていない。食事ではなかったのだろう。もしかすると、俺を呼びに来たのかしれない。

前髪を避け、大きく見開かれたままの瞳の、その目尻へ触れようと親指の向きを変えた所で「ナナシ、ストップ」と制止の声を掛けられた。
手を止めて、そちらを見やる。

ハンジが居た。
いや、ずっと居たのだろう。
マグカップを両手で握り、食堂の隅の席へハンジが腰かけていた。


「エレン、ナナシは寝惚けてるだけだから、動いても大丈夫だよ」


そのハンジの言葉に、エレンがギシリと身動いだ。
硬直から解き放たれたように、一、二、三、と三歩ほど後退して停止する。
行き場を無くした手だけが虚空に残った。

……俺は何をしようとしていたのだったか。


「……………………?」

「ナナシ、おはよう」

「……おはよう」

「目は覚めたかい?」

「…………あぁ」


目は覚めている。
ふと視線を前へと戻すと、後退したまま再びエレンが固まっていた。
遠いな。
見上げる程の距離ではないが──と考えた瞬間に、疑問を覚えた。見上げる?
何故そんな事を思ったのだろう。
鎖もない、と。心のどこかが安堵している。鎖とは何だ。
もう訳が分からない。


「……俺は今、混乱している」

「だろうね」


言い方が可笑しかったのか、その内容にか、ふっ、とハンジが笑った。


「でも、エレンよりはましだと思うよ」


……だろうな、と思ってしまったのは、今までに見た事もないような困りきった表情を浮かべたエレンを見てしまったせいだろう。
空けた距離を詰める事も出来ず、なんと声をかけていいのかも分からない、そんな顔だ。


「すまない。寝惚けていた……らしい。なにもしない」

「なんでそんな片言なの」


耐えきれない、といった様子で吹き出したハンジに、空気が和らぐ。
両手を上げて態度でも示すと、漸くエレンも小さく笑った。


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