「分隊長主でハンジをかまいまくる話」
ノックに対する返答は無かった。
この時間に無人の筈がない、と遠慮なく扉を押し開ける。元々許可を得る為のものではなく、ただ来訪を告げる為だけのノックだった。
覗いた室内に人の気配はなく、半ば書類に埋もれているような机の上に、ぽつりと眼鏡が放置されている。
丸みを帯びたフレームは、彼女が普段身に付けているものだ。ゴーグル以外に予備はなかった筈だが。外して、どこかへ出掛けたのだろうか。珍しい。
散乱している紙や実験器具、その他諸々を踏みつけ無いように気を遣いながらそちらに足を向ける。
レンズに触れぬよう、フレームを掴んで何気なく眼鏡を持ち上げた丁度そのタイミングで、扉の開く音が響いた。
部屋の主が戻ってきたようだった。
「ナナシ?なにしてんの?」
タオルで顔を拭っていたハンジが、不思議そうにこちらを見つめている。
ここに俺がいる事に加え、眼鏡を手にしている状況に理解が追い付かなかったのだろう。
滴る程ではないにしろ、前髪が水気を帯びている。目元が赤い。
また徹夜でもしたのだろうか。この半端な時間に顔を洗いに出るとは、余程疲れも眠気も溜まっていたのかもしれない。
「モブリットは居ないのか?」
「あぁ、今はソニーとビーンに変わりがないか見に行ってもらって──」
ジャケットの胸ポケットに眼鏡を仕舞った事で、ハンジの声が途切れてしまった。
持ち帰った所で俺に使い道はない。それはハンジもわかっているのだろう。怪訝そうな眼差しを向けられる。
「自分で見に行く気力もない程疲れているのか」
「え?いや、そういう訳じゃないけど」
「何日寝ていない?」
続けて問うと、漸く俺の言動に合点がいったのか、その眼差しが揺れた。ひきつったような笑みも浮かべられる。
自覚症状があったのだ。わからない筈がない。
「ハンジ」
「いや、大丈夫。まだ大丈夫だから」
止めてくるように、と。
俺がエルヴィンに頼まれたとでも勘違いしているのかもしれない。その勘違いを正す理由もなく、必死に首を振るハンジの元へ無言のまま歩みを進めた。
「え」
正面より少し左で立ち止まり、右手をハンジの顔面へ、左手をハンジの後頭部へと伸ばす。
咄嗟に避けようとする頭をがっちりと固定し、眼窩の縁、彼女の眉間のツボを力一杯押してみた。
「ちょっ!?ナナシ!?なに……ってこれ前にリヴァイにやられてたやつじゃない!?」
目の疲れに。そして眠気解消にも効果があるとされるツボだった。突然眼球に向けて指先が向かってくる恐怖と合わせての眠気覚ましだと俺は思っている。
ちなみにここまで力一杯押す必要はない。
「眠気は飛ぶぞ」
「眠気以外も飛んでるよ!?」
「それは良かった」
「なにが!?」
この恐怖を分かち合えるのはハンジしかいないと思っていた。
身動ぐハンジを抑えこみ、数秒間の攻防の後に解放する。ついでに軽く頭を振って瞬いているハンジの手からタオルを奪っておいた。濡れた髪ももう乾く頃だろう。
「俺が戻るまで、少し休んでおけ」
「いたた……戻るまで?」
「タオルを蒸してくる」
「…………ナナシ、どうしたんだい。今日なんかおかしくない?」
「…………」
「ここで無言!?」
ハンジの言葉を反芻する。
優しいではなく、おかしい。
そうか。なるほど。
「ベッドまで運んで欲しければそうするが」
期待には応えるべきだろうか。
普段ならまず言わない台詞を口にすれば、動揺した様子でハンジの体が大きく揺らいだ。僅かな沈黙を挟み、じりっと一歩、距離が開く。
何か答えられる前に追うように半歩踏み出してみれば、更に一歩後退した。
俺の顔を凝視するハンジの頬には、じりじりと赤みが差してきている。
「嫌なら、素直に大人しく休んでいろ」
この反応は面白い、と。感情が顔に出てしまう前に切り上げる事にする。
疲れのせいで若干振り切れていたハンジのテンションも、これで元に戻るだろう。
どの道眼鏡がなければ細かな作業は出来ない。疲れを推した所で成果は上がらないだろう。
さて、行くか。
「…………結局、何の用で来たんだい?」
「特に用はない。ただ顔を見に来ただけだ」
部屋を出る寸前に聞こえてきま問いかけにそう答え、俺は湯を沸かすべく調理室へと足を向けた。
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