事の発端はある日、買い物帰りに通りがかったセキエイ高原の警備員が何気なく言った一言。それは数ヶ月前にシロガネ山に入ったきり、一度も降りてきた形跡のない少年がいるといった旨の内容だった。いつものように、「ヤエさん、もし良かったら時間がある時でいいのでちょっと様子を見てきてくれません?」言われて了承したのはまだ記憶に新しい。…その時は、まさか山頂まで登る羽目になったうえに半袖の少年にバトルをふっかけられそうになるとは夢にも思っていなかったのだが。
 正規の登山ルートを途中で外れ、道なき道をひたすら走る青い鬣のギャロップ、ウィズ。ピカチュウは恐らくそこが定位置なのだろう少年の肩にしがみ付いており、ボールに入るのを断固拒否したリザードンが、ヤエ達の後ろを一定の距離を保ってついて来ている。
 そのまましばらく進むと欝蒼としていた森の木々は次第にその様相を変え、ある一点を境に突如として人の手の加わった整然とした空間が現れた。比較的緩やかな斜面に、点々と並んだ大小様々の木々。ピカチュウは思わず感嘆の声を上げ、空から見ていたリザードンはその目を大きく見開いた。生い茂る枝葉の合間から、色とりどりの瑞々しい果実が艶のある表面を覗かせている。明らかに異質ではあるが不思議なほどに周囲の風景にすんなりと馴染むその一角は、ヤエの世話する広いきのみ畑であった。

 『(わぁ!)』
 『(……!)』
 『(すげーだろ?これ全部、ヤエが育ててるんだぜ)』

 ホルダーの中に仕舞い込まれたボールをカタカタと揺らし、まるで自分の事のように誇らしげにそう言うザザム。ピカチュウたちに向けて『(もうすぐ着きますよ)』と言うウィズの声色も、心なしか嬉しそうな色を帯びていた。程無くして見えてきたレトロ調の一軒家の傍には屋根つきの井戸とよく手入れされた家庭菜園があり、家の裏手には全面強化ガラスでできた園芸用の温室が建っている。この家の主はよほど土いじりが好きなのだという事がこれだけで一目瞭然である。

 「なんだお前ら、腹が減ってるのか?売るほどあるからいいが、後でな」

 目移りするほどのご馳走の山にきらきらきらきらと目を輝かせるピカチュウをわしわしと撫で、次いで飛行中にもかかわらず余所見ばかりで危ないリザードンに一喝し、苦笑を零すヤエ。想像の域を出ないが月単位の、しかも食料の乏しい雪山での山籠もりだ。きっとリザードンの炎で暖を取りつつ、長いこと保存食ばかり食べて凌いでいたのだろう。先程拾ってきたこの風邪っぴきトレーナーは余程ストイックなのかマゾなのか、はたまたただの馬鹿なのか…

 (…今回は少し奮発するかな)

 いずれにせよ、それに付き合うポケモン達がヤエは不憫でならなかった。頭の中の在庫帳を開き、彼等に振舞うメニューを何にしようか思い浮かべていると、いつの間にか玄関の前で足を止めたウィズが『(着きましたよ?)』と鼻を鳴らしていた。


 ***


 ―――翌日。少年が目を覚ますと、一瞬それが何かわからないほどすぐ目の前にいたのはふかふかで桃色の丸いポケモンだった。

 「うわぁっ!?」
 『ぷく?(あ、起きた?)』

 まるで覚えのない状況に怠さも忘れてがばりと跳ね起きると、生温くなった濡れタオルが額からずり落ちて小さな手にキャッチされる。よくよく見ればもう片方の手にも硬く絞られたタオルを持っているそのポケモンは、ふうせんポケモンのプクリンだった。どうやらどこかの民家の一室らしい部屋の中をきょろきょろと見回しても、いるのはこのプクリン一匹だけ。ベッドサイドのテーブルの上には、薬箱や体温計などが無造作に散らばっている。

 「…もしかして、おまえが看病してくれてたのか?」
 『ぷく〜(そうだよ〜)』
 「そっか…ありがとな、プクリン」

 お礼を言われたプクリンはぷく!と一声元気に鳴いて、ぽてぽてと部屋の外に出て行った。お日さまの匂いがするベッドからひとまず足を下ろした少年の脳裏に、今こうしてここで目覚める前の最後の記憶がおぼろげに思い出されてくる。

 「そっか…確かオレ、倒れて…」
 「やあ。気がついたみたいだな」

 優しげなその声に少年が顔を上げると、部屋の入口に佇んでいたのは今まさに彼が思い浮かべた人物であった。倒れる前、雪山で最後に会ったその女性はさっきのプクリンをふかふかと撫で、「お疲れさん、メロディ」と労いの声を掛ける。長い耳を垂らし、つぶらな目を気持ちよさそうに細めるその姿が、ふと自分の無二の相棒と重なった。半ば無意識に腰のボールホルダーに手をやる。――ない。荷物ごと全部。

 「―――っお姉さん、オレのポケモンは!?」
 「うん?そんなに不安そうな顔をしなくても、荷物は身につけたままじゃ寝辛そうだったから預かっただけだぞ。ほら、後ろを振り返ってよく見てみるといい」

 助けられた礼や自分の名前を言うより先に飛び出したそんな叫びに気分を害するでもなく、包み込むように微笑んだヤエは朝の日差しが差し込む窓辺を指差した。言われたとおりに少年が後ろを向いた瞬間、窓ガラスが割れそうな勢いでべったり張り付く顔、顔、顔。ガラスをびりびり震わせる計9匹分の鳴き声は、どれも少年の身を心から案じているのがわかる心配そうな響きを帯びていた。

 「みんな…!よかった、無事だったんだな!」
 「ああ、みんな主人思いの良い子たちだな。メロディと2人がかりで説得するまで食事に手を付けようともしないし、誰が何と言おうが絶対にお前の傍を離れようとしなかった。お前は果報者だよ」

 少年と目が合った瞬間、早く中に入れろとばかりにがりがりがりがりと頻りにガラスを引っ掻くピカチュウ。ヤエが苦笑気味に窓を開けると、瞬間生まれた僅かな隙間に小さな身体を捻じ込むようにして「ぴっかぁー!!」と少年の腕の中に飛び込んでいった。

 「おっと!…あの、ありがとうございました。オレはマサラタウンのレッド。こいつは相棒のピカ」
 『ぴかぴか!(よろしく!)』
 「マサラタウンのレッド…ね。なに、これくらい礼には及ばないさ。私はヤエ、こっちはメロディだ」
 『ぷっくりん!(よろしくね!)』

 ごく簡潔な自己紹介を済ませたヤエはレッドと自分の額に手を当てつつ、「食欲は?」と短く尋ねた。言われて初めて空腹に気がついたかのように、空っぽで限界の胃袋がきゅうと鳴って返事をする。

 「そういえば、腹減った……」
 「ふふっ…。そうか、そいつは結構。顔色もいいし、もう大丈夫そうだな。すぐに朝食にするから、ピカはレッドと一緒に庭で待っていてくれ」
 『ぴか!(うん!)』

 既に勝手知ったると言った様子で廊下を駆けるピカに連れられ、きれいに掃除の行き届いた玄関から外に出たレッド。辺りを包む清涼な空気と覚えのある空の近さに、ここはまだシロガネ山の中であるのだと直感で悟った。足を踏み入れた青い芝生の庭は、彼の手持ちが全員ボールから出ていてもまだ十分余裕があるほど広い。

 『(皆さん、こっちですよ)』

 世にも珍しい青く燃える鬣と尻尾をゆらゆらと揺らし、ギャロップのウィズがレッド達を呼ぶと、そこではヤエの相棒、オーダイルのザザムが折り畳み式のガーデンテーブルを丁度組み立て終わった所だった。

 『(よう、半袖坊主。風邪はもういいんだって?いいねえ若さだねぇ)』
 『(ザザムさん、おじさん臭いです)』
 『(はっはっはっは……なにぃ!?やんのかウィズこの野郎)』
 『(……じゃま。ちょっと、どいて)』
 『…………』

 ふよふよと家から出てきたムウマージのエレナは鬱陶しそうにザザムを避けると、全員分のお皿と食器をサイコキネシスで運んできた。その間にドーブルのパレットが黙々とテーブルクロスを敷き、花瓶に生けたお花を飾る。そうしてあれよあれよという間にセッティングされた食卓は、つい数ヶ月前まで旅をしていたレッドでもしばらく覚えのないような大層賑やかなものになった。
 お皿の上に盛られた素朴なきのみ料理は、極限に近い空腹である彼の目にはどんなご馳走よりも輝いて見える。思わず涎が垂れたような気がして口元を拭ったレッドは、最後に飲み物を持って現れたヤエに盛大に笑われてしまった。

 「どうぞ召し上がれ。材料は全部うちの畑で採れたものだ、お気に召すかな?」
 「い……いただきます!!」

 久し振りに味わうまともな食事、そしてそれ以上に完全オーガニック素材の織り成す優しい味わいが、塩辛い保存食に慣れきった味蕾をいい意味で直撃した。暫し夢中で舌鼓を打ったレッドは彼の連れていたカビゴンもかくやといった勢いであっという間に一人前を平らげ、ヤエが差し出したおかわりもまた気持ちいいように胃袋の中に吸い込まれていく。

 ――…デザートのモモンの実まできっちり綺麗に食べ終えると、レッドは仮にも命の恩人の目の前という事も忘れ、ガーデンチェアの背もたれに身体をぐでんと投げ出した。

 「ぷはー…生き返ったぁ……」
 「いい食べっぷりだったな。まさに作り手冥利に尽きるというものだ」

 テーブルに頬杖を突き、くすくすと楽しそうに笑うヤエ。庭ではとっくに食事を終えたポケモン達が無邪気にじゃれあっている。…じゃれあいといっても大型のポケモンがかなり多いので、字面通りの平和な絵には程遠いのだが。
 流れる雲を眺めつつ、かつてない満足感の余韻に浸っていたレッドだったが、ふと思い出したように佇まいを正すと深々とヤエに頭を下げた。

 「ヤエさん、今日は本当にありがとう。このお礼はまた近いうちに必ずするよ」
 「なんだ、改まって何を言うかと思えばそんなことか。さっきも言っただろう?礼には及ばない、ってな」

 「そろそろ帰るのか?」との問いにレッドが頷くと笑顔のままですっと立ち上がり、少し離れてこちらを見ていたザザムに何かの合図を送ったヤエ。するとどこからともなく彼女のドーブル、パレットが現れて、わふっと小さくひと鳴きした。両手でずいと差し出したカゴの中には、甘い匂いのする色とりどりのきのみがめいっぱい詰め込まれている。

 「これは?」
 「土産だ。後で荷物に入れておいてやるから、帰ったら皆で食べるといい」
 「え…嬉しいけど、いいのか?こんなに良くしてもらっちゃって」
 「なかなか面白いことを言う奴だな。さっきご飯を4杯もおかわりした奴の台詞だとは思えないぞ」

 今更遠慮をしたところでもう遅い、と笑い飛ばされ、それもそうかと頬を掻くレッド。そうこうしているうちに、先程のヤエの合図に従ったザザムがレッドの荷物と帽子を持って2人のもとにやってきた。

 「…………………。」

 ザザムから受け取った帽子をぽすりとレッドの頭に被せたヤエだったが、しかし頭に乗せられた手はいつまでも退かされることがない。

 「…あれ?ヤエ、さん?」

 突然黙りこくったヤエの様子を流石に不審に思ったのか、上がりかけた少年の頭を押し込み視線を無理矢理下に向けさせ―――

 刹那。終始穏やかだったヤエの瞳に、抜き身の刃のような鋭い光が宿された。

 『!?―――ぴかっ!!(レッド!!)』
 「メロディ、かなしばり」

 本能的な危険を感じて飛び出しかけたピカだったが、メロディの青い瞳が煌々と輝きだした途端、助けなければという意思に反して全身の動きがびたりと止まってしまった。相当なレベルまで鍛えられていなければ絶対に不可能だろう、ほぼ反則に近い強力無比な金縛り。今やカントーに敵なしとまで呼ばれたレッドの屈強なポケモン達でさえ、みな一斉に身体の自由を奪われ硬直してしまった。

 『グ…グオオオ…!(な…なんだ、これは…!!)』
 「いかにチャンピオンのポケモンといえど、油断した隙を突かれては為す術もない…か。マサラタウンのレッド、武勇はこの山奥にもしっかりと届いているぞ」
 「なっ…!?まさか、オレをだましたのか!?何が目的なんだ!!」
 「なるほど、メロディの金縛りに遭ってももがく元気はあるようだな。パレット、ものまねでメロディを手伝ってやってくれ」
 『わふ(うん)』

 パレットの尾が空中に模様を描き出し、メロディのかなしばりを威力そのままにコピーする。見えない拘束を打ち破らんと必死に抵抗していたポケモン達も、万が一を想定したヤエの用心深さの前に最早指の先ほども動かせず、ただ歯噛みして成り行きを見守る事しかできなくなってしまった。
 訳も分からないうちにあっという間に無力化された自慢の仲間達を暫し呆然と見つめ、しかしすぐに我に返ったレッドはなおも叫ぶ。

 「ピカ!みんな!!…何でだよ!?何でいきなりこんなこと…ヤエさん!メロディ!!」
 「大丈夫、恐らくお前が考えているような手荒な事をするつもりはない。ひとつ私の用事を済ませるついでに、山の麓まで送っていってやるだけだ」
 「それだけのためにこんなことするかよ!!離せ、オレ達に何をする気なんだ!!」
 「話したところで意味などないさ。…さあ、もうお別れの時間だ」

 ヤエの手にしたきのみの籠の中から、くらくらするような甘い匂いが漂ってくる。これは相手の回避率を下げる技“あまいかおり”と同じ効果を発揮する、ヤエ特製の手作り香水の香り。甘いきのみばかりを選んで籠の中に詰めたのは、そうと気付かせず香水を嗅がせるためのフェイクであった。

 「少しの間だったが、お前達と過ごせて楽しかったよ、レッド。もう会う事はないと思うが、山を降りても達者でな」

 いつの間にか元の穏やかな表情に戻ったヤエが、別れ際の相手にそうするように顔の横でひらりと手を振る。すると心得たように二匹のポケモンが彼女の前へと歩み出て、それぞれの赤と青の瞳を淡く輝かせ始めた。

 「ヤエさん!!おい、どういうことなんだよ、答えてくれ!!」
 「おやすみ…そして、さようなら、レッド。

 ―――ウィズ、エレナ、さいみんじゅつ」

 





(銀の霊峰に棲まう魔女)







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