―――シロガネ山。カントー・ジョウトの境界に聳える、一般人の入山は許されない霊峰。山肌に穿たれた洞窟内は、起伏に富んだ複雑な地形が織り成す天然の大迷宮。轟々と流れ落ちる滝や高く切り立った岩肌、そして山頂に近付くにつれ激しくなる雪が、踏み入る者達の歩みを例外なく鈍らせる。

 「…………寒いな」
 『(…おう)』

 人知の及ばぬ未開の山道、肩を小さく竦めて、ファーのついたコートの襟元に顔半分を埋めたまま、適度に踏み固められた真っ白な雪の上を慎重に歩く一人の女性。うず高く積もった雪を鬱陶しそうに掻き分けながら、傍目にもよく鍛え上げられた頑強な体躯のオーダイルがその数歩先を歩いていく。
 滅多な事では訪れない来訪者たる彼等の行き先を静かに見守る、無音の世界に息を潜めた無数の気配。それらの視線には気付いていながらも、敢えて反応を返すことはない。厳しい自然に研ぎ澄まされた本能を持つこの場所のポケモン達を、不用意に刺激するのはあまりにも危険であると彼等は熟知しているためだ。
 これといった荷物も持たず、どこか慣れた様子でただ前へ進むその姿からは、こんな場所に居ながらも冒険者然とした雰囲気を全く感じられない。場所が場所であるが故に、些か奇妙な一人と一匹だった。
 
 「…もう少しで山頂か。ザザム、疲れないか?」
 『(これくらいでヘバりゃしねーよ。それより、俺様はそろそろ飽きてきた)』
 「…飽きた、とでも言いたそうな顔してるな。どうせここまで来たんだからもっと気合を入れろ」
 『(へーへー。ったくヤエには敵わねぇなあ)』

 ザザム、と呼ばれたオーダイルが、当の本人には聞こえていない文句をぶーぶー垂れながらも主の進む道を作るために先導という名の雪かきを再開する。その後ろで手袋に包まれた両手を申し訳程度に擦り合わせ、ほうっと白い吐息を零したヤエ。何の意味もない事など分かりきっているが、やはりやらずにはいられないのだろう。氷点下の温度に晒された呼気はすぐさま凍てつき、ミクロの結晶となってきらきらとシロガネ山の空気の中に散っていった。
 仕上げだ、と言わんばかりに繰り出されたザザムの拳を受け、ぼご、と音を立てて崩れ落ちた雪の壁の向こう。鈍色の岩肌にぽっかりと口を開けたその無骨な横穴は、山頂へと続くただ一つの道。ヤエは頭やコートについた雪を簡単に払い落とすと、早く用事を済ませて帰りたい一心で相棒の背中にしがみついた。最後の洞窟のその中には、最早暴力的なまでの高さと角度を持った岩肌――というよりこれはもう崖である――が、彼等の眼前に悠然と聳え立っている。

 『(おいおい、そんなんじゃ危ないぜ?もっとくっつけよ、こう…愛を込めてぎゅーっとな)』
 「……」

 何を言っているのか細かい所までは分からないまでも、長年の勘からどうせ碌なことではないだろうと判断したヤエ。物言いたげな横目の視線を華麗にスルーし、「ロッククライム」とただ一言指示を出す。対するザザムも大して気にしたふうでもなく、相変わらずと言うべきそんなパートナーを乗せて切り立った崖を力強く登っていった。―――そこまでは、良かったのだが。

 ――――――……!

 「『!?』」

 岩肌を登りきったその瞬間、びり、と強く射抜かれたような得体の知れない感覚に襲われる。この場所に何度か訪れた事のあるヤエとザザムも、こんな事は初めてだった。
 …何かが、いる。そう確信し、一層警戒を強めながら息を殺して進む2人。不思議と、引き返すという選択肢が頭に浮かぶことはなかった。山頂へと続く出口はぼんやりと明るく、雪が照り返す色のない光が薄闇を淡く侵食している。
 近付く毎に一層強くなる、びりびりと張り詰めるような感覚。低く唸るような風切音を鳴らして吹き込む鋭い冷気に思わず目を瞑りつつ、洞窟を抜けて横殴りの吹雪の中に身を投じた。先程よりもずっと風が強い。山の天気は変わりやすいのだ。

 『(…ヤエ、掴まれ。吹っ飛ぶぞ)』 
 「…ありがとう」

 さりげなく風上に立ったザザムの傍らに身を寄せて、ほぼ視界ゼロの前方を薄く開いた両目で見遣るヤエ。…自分の記憶が正しければ、ここから先には崖しかない筈。しかしそれならば荒ぶる吹雪の合間にちらつく、あの鮮烈な色彩は一体何だというのだろう。見渡す限りの白い世界の中、不動に佇むそれは“赤”。
 それ以上先に進めないまま、その赤い点を凝視することしかできない2人。その時ふいに凍風の吠え声は鳴りを潜め――…刹那。視線と視線が、かち合った。

 「―――っ!!」
 『(!!ヤエ、下がれ!!!)』

 薄ら寒い何かが脊髄を伝って一気に駆け上がり、息が詰まるような錯覚を覚える。今までに経験のないこの感覚に名前をつけるならば、これは間違いなく“戦慄”。状況理解が追い付くよりも先に、常識外れの質量を持った地獄の業火が恐るべき速度で襲いかかってきた。紙一重の所で躱したものの、背後にあった巨大な氷塊がどろりと溶け落ちあっという間に消滅する。――冗談じゃない。

 「おい、ちょっと待て!!話を……うわっ!?」
 『(くっ、一旦中に入るぞ!ここじゃまともに動けねぇ!!)』

 同じく言い知れない危険を感じたザザムはヤエを片手で抱え上げ、足場の悪い雪道から洞窟の中へと逃げ込んだ。岩場の陰に下ろした主人を背中に庇い、近付いてくる一人と一匹の足音の方向をじっと睨みつける。
 …現れたのは数々の歴戦を積んできたのだろう、強者の風格を惜しみなく漂わせるリザードンと、普段よく見る愛玩動物としてのそれとは明らかに一線を画する雰囲気を持った、愛らしくも逞しいピカチュウを肩に乗せたトレーナー。ヤエとザザムの脳髄に、再び射抜かれたようなあの鋭い痺れが走った。空気を揺らす風の唸りが遠く聞こえる。外はいよいよ本格的に吹雪いてきたのだろう。
 彼は目深に被った赤い帽子を片手で小さく動かすと、その深淵のような黒い瞳に“挑戦者”達の姿を映し込む。試されるような視線を受け、はっとした。…目と目が合うのは、バトルの合図だ。

 「…お前は、」
 「………………」

 少年は何も答えず、じっとヤエ達が動き出すのを待つ。代わりに、唸る吹雪が地鳴りとなって空気を揺らしていた。永遠にも思えるような張り詰めた沈黙の中、どこか仄暗いその瞳の中に見えたのは、少しの“期待”と“焦燥”…そして“諦め”という重い影。長くトレーナーの世界に身を置いてきたヤエには、その影にどこか見覚えがあるような気がした。既視感の具体的な正体は解らないまでも、目の前の彼が今何を求めているのかくらいは何となくで感じて取れる。…しかし、だからこそ。自分を庇うザザムの背から顔を出し、その肩をぽんと軽く叩いた。

 「…ザザム」
 『(は?でも、)』
 「大丈夫だ。…そこにいてくれ」

 幾つもの厳しい戦いを経験し、大人になったかつての少女。綺麗に、そして微かに寂しそうにふっと微笑んで見せたヤエに、ザザムはもう何も言わなかった。言葉少なにそれだけで分かり合えるのは、やはり誰よりも長く苦楽を共にしてきたパートナーたる所以だろうか。
 ヤエは少年にゆっくりと歩み寄ると、困ったようにちいさく笑って。

 「…なにか勘違いをしているみたいだな。何があったか知らないが、私はバトルをする気はないぞ」
 「…………え、?」
 「3ヶ月前に麓のゲートを通って、そのまま帰ってこない奴ってのはもしかしなくてもお前だな?警備員達が心配していたぞ。お陰で何も関係ない私が捜索に駆り出されたのさ」

 予想または期待、どちらでもいいがそれらを大きく裏切られたのか、虚を突かれたようにぽかんとする少年とポケモン達。それはそうだろう、こんな所――つまり、ポケモントレーナーの世界における色々な意味での最高峰、ここシロガネ山の頂上にまでわざわざやってくる奴が、売られたバトルを買わずにそそくさ帰るなどまず普通では考えられない。しかし、事実は事実なのだから仕方ない。

 「修行の為の山籠もりは結構だが、それで他所様に迷惑を掛けるのはいただけないな。すぐにとは言わないが、キリのいい時にでも一旦……ん?」
 「……………………」

 少年の顔を近くで改めて見て、説教は一時中断。突然現れた見知らぬ誰かに怒られているというのに、どこかぼんやりと上の空で反応がないのである。
 ぽんぽん、と肩を叩く。反応なし。軽く揺すってみる。ふら、と体が前に傾き、重力に従い倒れていった。慌ててどうにか支えたが、脱力しきってしまっていてとても立たせることはできない。そして何より…

 「…!?おい、すごい熱じゃないか!!どうしてこんな状態で、」
 「……う、」

 ヤエは少年をとりあえず膝の上に仰向けにして、額に手をやった。次に顎の下辺りを両手で触ってみるが、どちらも信じられないほど熱い。素人判断でもまずいと分かるこんな状態でついさっきまで吹雪の中に立っていたうえ、バトルまで吹っ掛けようとしていたのだから信じられない。そして今気付いたがよくよく見ればこの少年、ここは雪山だというのに軽装どころかなんと半袖である。何もかもがあまりにも常識外れすぎて、ヤエは何だか頭痛がしてきた。しかしいずれにせよ、病人をこんな場所に放っておくわけにはいかない。ヤエと少年を交互に見て心配そうに耳を垂らすピカチュウと、駆け寄ってきたはいいもののどうしたらいいのか分からずオロオロしているリザードン。

 「うろたえなくていい、大丈夫だ。ちゃんと私が助けてやるから」
 『(本当か!?…すまない、頼む)』
 『(ありがとう、お姉さん!!)』

 着ていたコートを脱ぎながらそう言えば、言葉の意味を理解したのかリザードンと、同じくピカチュウも深く頭を下げた。余程彼の事を慕っているのだろう。よく育てられたポケモンだ、とヤエは素直に感心した。もはや殺人的なまでの容赦ない寒さが痛いほどに肌を刺してくるが、半袖姿で震えている目の前の病人を見れば優先順位は言わずもがなである。コートを少年の肩に掛け、ポケットの中から1つのボールを取りだした。

 『(おいヤエ、その格好じゃお前が大丈夫か?)』
 「馬鹿か寒いに決まってるだろ当たり前だ。…ウィズ!」

 寒いので必要最小限のモーションで投げたボールの中から飛び出したのは、青く燃える美しい鬣を持つ色違いのギャロップ。ウィズと呼ばれた彼は、こんな場所で長袖のTシャツ一枚という薄着の主人の姿を見るとぎょっとしたように彼女の傍へと擦り寄った。

 「…うん、まあ普通はそうだよな、ありがとうウィズ。さ、お前らは一旦ボールに戻れ」

 ウィズの暖かな鬣を撫でながら自分の相棒をボールに戻すが、少年の手持ちの2匹は頑として首を縦に振らない。ピカチュウは少年に掛けたコートにしがみついたまま離れず、リザードンはどうやら飛んでついてくる気満々で大きな翼を動かしている。

 「仕方ない、もう行こう。多少荒っぽくてもいいから最短距離でうちまで頼む」
 『(はい!)』

 ヤエと少年、そしてピカチュウがしっかり乗ったのを確認すると、逞しい4本の脚を折り曲げ強く地を蹴るウィズ。足場の悪さを忘れるほどに軽やかに、霰の降り注ぐ銀色の山を風のように駆け降りていった。






(思いがけない拾い物)