その日は、急に雨が振った。



「うわぁ…いきなり降って来るとは思わなかったよ。」



建物の軒下で雨宿りをしながら、ノーアから頼まれたおつかいに出かけていた那月は呟いた。
行き交う人は傘をさして足早に歩いている。
今日雨が降ることを知っていたのか、それとも雨が降り始めた後に家を出たのか。
どちらにせよ傘を持っていると言う事実は変わらない。
色とりどりの傘を羨ましげに眺めると那月は大きく溜め息を吐いた。



「誰か迎えに来てくれないかな……あれ?」



ふと視界に入ったものに那月は首を傾げた。
噴水のある広場の方から赤い髪の女の人が傘もささずに歩いて来たのだ。
風邪をひかないだろうか?
ずぶ濡れでゆっくりと歩く女の人を見て那月は思った。
しかし同時に疑問を抱く。
あんなにずぶ濡れな人がいるのに人々は一瞥もくれずに歩いて行く。
まるでその人の存在が視界に入っていないようだ。
那月は眉をひそめた。



「…赤い髪の女の人、か。」



小さく呟くと思案するように首を捻る。
見覚えがあるのだ、以前見た夢の中に出て来た人物と瓜二つ…。
そんなことを思っていたらふいに何か冷たい手に手首を掴まれた。
目の前には、赤色。



「まさか戻って来るとは思わなかったわ。元世界の罪人、ナヅキ…今は那月だったかしら?」



ぞわりと嫌な汗が背中を伝った。
いつの間に移動して来たのか赤い髪の女の人は那月の手首を掴んだまま凛とした声で言う。
吊り目がちなエメラルドグリーンの瞳は真っ直ぐに那月を見つめている、目を逸らすことが出来ない。
那月はこくりと喉を動かすとか細い声で呟いた。



「し、にがみちょう…?」

「あら、執刑人が記憶を消したはずなのだけれど…私のことを知っているのね。そう、私は死神長のカトレア。」



世界の名の元にあなたを連れ戻しに来たわ。
嫌と言うくらいはっきりとした声が響いた。
本当ならば今すぐにでも走り出したい、しかし出来なかった。
まるで自分の体が自分の物ではないかのように言うことを聞かない。
動けないと言う事実は那月の中に焦りを生んだ。
カトレアに言われるまでも無く理解した。
きっと、ここで逃げられなかったら元の世界に送り返される。



「いや…いや、誰か…!」

「呼んでも無駄よ、あなたは今誰の視界にも入っていない。さぁ、これからあなたをハーモニアに送り返すわ。世界の心、あなたは世界を裏切った。…たとえ世界があなたを許しても、秩序である私達が許しはしない。」



強い意志が感じられる瞳に那月は敗北感に似た何かを感じた。
目の前に佇む誇り高き死神長はその役割を全うすると言う目的と共にいるのだろう。
しかし自分はどうだろうか?
この世界から離れたくないことは確かだ、しかし明確な理由が見付からない。
先程までの焦りが嘘のように治まっていった。
絶望とはこのようなことを言うのだろうか。
頭の芯がすっと冷え、どこか第三者の立場でこの光景を見ているようだった。
世界に色は無い、唯一識別出来るのはカトレアの燃えるような真紅の髪だけだった。
無表情になった那月にカトレアは言う。



「諦めはついたかしら?さようなら、世界の心。」



闇が、周囲を覆い始める。
全ての色を飲み込むそれが足下から這い上がって来るような感覚。
いつの日か感じたことがある感覚に那月は瞳を閉じて全てを委ねた。



「ジャンク、私…」



小さな声は那月自身と共に深い闇色の中に消えた。






「…那月?」



同時刻、ノーアの家で本を読んでいたジャンクはふいに那月の名前を呼んだ。
那月はおつかいに家を出ているのだからもちろん返事などは無い。
しかしその事実にジャンクはどうしようもない不安を抱いた。
この世界から那月がいなくなってしまったような気がするのだ。
頭の中で警鐘が鳴り響く。



「どうしたんですの、ジャンク?」



心配そうなノーアの声もろくに耳に届かなかった。
段々と表情が険しくなっていくのがわかる。
ジャンクは青色の瞳を細めながら口許の縫い目をそっとなぞった。
那月、声にならない声で呟くとジャンクは傘もささずに雨の中に駆け出した。



「あ…ジャンク!」



ジャンクの姿はあっという間に見えなくなった。
行き場を無くした手をゆっくりと降ろすとノーアは首を傾げた。
あんなに焦って一体どうしたと言うのだろうか。
開け放たれたドアを閉めて家の奥へと踵を返した時、ノーアは目を丸くした。
古い映画フィルムのように不鮮明でノイズがかった物だったが確かに"見えた"のだ。
時使いの術師であるノーアは似たような光景は何度も見たことがあった、これは誰かの過去だ。
しかし意識せずに見えた試しなど今まで一度もなかった。
不鮮明なそれをノーアは目を凝らしてじっと見つめる。



ザー…

『赤いか、みの…』

『……せか、の罪人…』

『いや……れか…!』

『ハーモ、ニア…送り返す……許し、ない…』







『さようなら、世界の心。』




「ー…っ!!」



思わず出そうになった叫び声を急いで飲み込む。
嗚呼、心臓が早鐘を打っている。
ノーアはよろよろとその場に座り込んだ。
そんな、嘘だ。
口から漏れるのは現実を否定する言葉ばかり。
ノーアは悲痛な表情で鈍色の空を見上げた。



「あんまり、ですわ…。」



折角、那月に出会えたと言うのに。
誰に言うでも無くぽつりと呟いた。
胸が、否、心が張り裂けんばかりの苦しみに悲鳴を上げている。
悲鳴はやがて涙に変わり、ノーアはぽろぽろと大粒の涙を零した。
哀しい、寂しい。
しかし同時にノーアは理解していた。
自分以上にこの現実に苦しむことになる人物がいることを。



吐息を捨てて夢を見て、その後は誰も知らない
(那月、貴女の存在は大き過ぎた)

- 26 -


[*前] | [次#]
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -