あの日から10日が経とうとしている。
那月もだいぶこの世界、ラズリエルに馴染んで来たようだ。
ナヅキの記憶がそうさせるのかもしれない。
しかしどちらにしろ、那月が笑う回数が増えたのは明らかだった。



「ノーア、これはどうすればいいの?」

「奥の棚の下から二番目が少し空いてますでしょう?そこに置いて下さいな。」

「りょーかい!」



那月の元気な声が耳に届く。
読んでいた本から顔を上げて見れば無邪気に笑う那月の姿が視界に入って思わず笑みが零れた。
眉尻を下げて笑う那月を見ると心が暖かくなる。
しかしそれと同時に懐かしい、切なげな声が脳内で響いた。



(行かないで、一人にしないで)



ちくり。
もう痛みなんて感じるはずが無いのにどこかが痛んだ。
先程の気持ちとは打って変わって喉の奥がひりひりするような、心臓を鷲掴みにされているような感覚に陥った。
なんだか、今は那月を見ていたくない気がする。
ジャンクは静かに立ち上がると那月とノーアの笑い声を背にノーアの家から出て行った。



「ナヅキ…」



縋るような声色の小さな呟きは那月とノーアの話し声にかき消された。







「…お前だけなんて珍しいな。」

「たまにはそういうことだってあるよ。」



古ぼけた聖堂の中には二つの声が響き渡る。
一つはジャンクの声、もう一つはこの聖堂に住むシルドラの声。
シルドラは黄緑色の翼を数回羽ばたかせた後、長椅子を指差して座るよう促した。
ジャンクが座ったのを見届けるとシルドラは隣りに座り、ジャンクの顔を覗き込んだ。



「…で、どうしたんだ?わざわざここに来るってことは何かあるんだろ?」



じゃなきゃお前、那月にべったりだもんな。
眉尻を下げて笑いながらそう続けるシルドラを一瞥するとジャンクは深い溜め息を吐いた。
…確かに、二人きりで話す時はいつも相談事ばかりだった気がする。
不思議とシルドラにはなんでも打ち明けることが出来るのだ。
雑談混じりに悩みを一緒に考えて、打開策を見出だしてくれる。
魔物憑きでありながら街の人々に好かれているのもその人柄故だろう。



「…好きになっちゃったんだ、あの子のこと。」

「…那月、か。」

「最初はナヅキだから側にいたいんだと思ってたけど…今は違う、あの子って言う存在が気になるんだ。でも17年前にボクはナヅキが望む限り側にいることを誓った。ナヅキじゃなくて那月を選んでも良いのかな。…ボクは一体、どちらを取れば良いんだろう。」



『ジャンク…』
ボク達と生きたナヅキと
『ジャンク!』
ボク達と違う世界を生きて来た那月の声が脳内に反響する。
ちくり。
…嗚呼まただ、またどこかが痛みを訴えた。
自分にとってナヅキと言う存在は掛け替えのない大切なもの、しかし那月に対する愛しさも膨らんで行くのも事実。
一体どうすればいいのかわからない。
俯くジャンクの隣りで、盛大な溜め息が聞こえた。



「…オーガの一族は忠誠心に厚いって言うのは本当みたいだな。」

「え…?」

「今のお前はさ、ナヅキって言う鎖に心を縛られてるんだよ。」



言いながらシルドラは立ち上がると背中の翼を大きく広げながら二、三歩歩く。
そして一呼吸置いてからジャンクを振り返り、穏やかな笑みを浮かべた。



「お前はナヅキって言う存在が分かれたことに戸惑ってるだけなんだよ。どちらか一方だけが大切って訳じゃない。それに大切のベクトルは違うだろ?」

「…。…ねぇシルドラ、ナヅキが最後に言ってた言葉覚えてる?」

「一人にしないで、か?」

「そう、その言葉。あの言葉が頭から離れないんだ。」



脳内で響くナヅキの声。
それは那月に惹かれるにつれ大きくなってきた気がする。
この声は忠誠よりも愛を取ろうとした自分への戒めなのかもしれない。
ジャンクは口許の縫い目をなぞり、目を伏せた。
死なずの異名を持つオーガ族の自己再生能力はずば抜けている。
本来なら放っておいてもこんな傷は跡形も無く治癒する。
しかしジャンクはわざわざ再生能力が働く前に時使いのノーアによって傷口の時を止めてもらったのだ。
代償として痛覚を失ってしまうことになると言われたが傷が消えずに残るのならばそれでもいいと思えた。
この傷は言わばナヅキへの忠誠の証しなのだ。
失う訳にはいかなかった。



「ナヅキは今も一人なのかな。」

「…ジャンク。」



喉まで出かかった言葉を飲み込む。
こんなことを言う権利、自分には無い。
ジャンクはナヅキに対して依存にも近い忠誠を誓っていた。
そう簡単に気持ちを変えることは出来ないだろう。
シルドラは苦しげに顔を歪めると絞り出すような小さな声で言った。





「なんで、お前が苦しまなくちゃなんねぇんだろうな。」





彼の曖昧なその感情を、人々は『愛』と呼んだ
(お前は優し過ぎるんだよ、馬鹿野郎)

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