「はっ…はぁっ…!」



どのくらい走っただろうか、人込みをくぐり抜けて那月が行き着いた場所は古ぼけた聖堂の前だった。
おかしい、さっきから自分が自分じゃない気がする。
この世界に飛ばされてから数時間、段々と自分に異変が起こっているようだ。
走馬灯のような、何か埋もれた記憶が掘り起こされるような、そんな感覚。
那月はぶんぶんと首を振ると前を向いた。



「あたしは那月、普通の女子高生。こんな世界来たことも見たこともない。…絶対に、絶対にそうなんだ。」



口に出さなければ壊れてしまいそう。
那月は大きく息を吸った。
…その時、ふと周囲の異変に気付く。
古ぼけた聖堂は相変わらず静かにそびえ立っているがおかしいのはそこじゃない、背後で何かの息遣いを感じた。
ジャンクが追いかけて来たのかとも思ったが複数のそれに那月の考えは打ち消された。
一体何?
那月はごくりと唾を飲み込む。
そして一歩後退すると草影からは数匹の獣が現れた。
ただの獣じゃない、目の前の獣は那月が今までに見たことがないような生き物だった。



「え…何、これ…?」



足と瞳だけ血のように赤い真っ黒な獣の額には金色の目が一つ付いており、二つの赤い目と第三の目は真っ直ぐに那月を捕らえていた。
怖い、怖い…!!
心臓の音がうるさいくらいに鳴り響く。
獣が長い牙をむき出して襲いかかって来た時、那月は恐怖の余り叫ぶことも出来なかった。
喰われる、そう思った時那月の目の前で黄緑色の何かが踊った。



「怪我は無いか?」

「あ…。」



目の前に佇んでいたのは黄緑色の髪をバンダナで上げた少年だった。
少年は紫色の瞳でちらりと那月を見やると眉尻を下げながら笑った。
少年の後ろではあの恐ろしい風貌の獣達がのびている。
恐らく彼が倒してくれたのだろう。
ほっとした那月は立っていられなくなり、その場にへたりこんでしまった。



「おい、大丈夫かよ?」

「あ…はい、だいじょう……。」



少年を瞳に映した那月は目を丸くし、ごしごしと目を擦り始めた。
しかし何度擦っても目の前の光景は変わらなかった。
翼が、生えてる?
少年の背後には黄緑色の大きな翼が生えていた。
それは時折風に揺られるでもなく動くので作り物ではないことは確かだった。



「…?どうした?」

「翼…!!に、人間!?」



わからないことが多過ぎて整理が出来ない。
そんな那月を見て少年は僅かに目を細める。
そしてがしがしと頭をかきながらしばらく何かを考えていたが、やがてしゃがみ込む那月の手を引っ張って立たせると口を開いた。



「俺はシルドラ・ビハインド。…ただの魔物憑きだよ。」

「シル、ドラ…?」



魔物憑き、そう名乗った時のシルドラの表情はどこか辛そうだった。
しかし再び那月がシルドラを見やった時にはもうあの表情は顔から消えていた。
シルドラは那月に歩み寄ると目を細めながらくしゃりと頭を撫でる。



「…帰って来ちまったんだな、ナヅキ。」

「…!?」



シルドラから紡がれた言葉に那月は目を丸くする。
また、初対面の人物が自分の名前を知っていた。
ここまで来るといい加減寒気がする。
何か裏があるように思えて仕方が無い。



「…なんなの。なんで?なんであたしの名前を知ってるの?」

「それは…」

「世界の心って何?あたしはただの那月だよ。あたしは貴方達なんて知らない!これ以上あたしを混乱させないでよ…!!」



かき乱されることが辛かった。
彼等の目の前にいるのは確かに自分なのに、自分ではない誰かに重ねられていることが辛かった。
きつい口調で、大きな声で、シルドラを思い切り睨み付けて。
那月は自分に出来る精一杯の抵抗だった。
そんなことでは何も解決しないのはわかってる。
だけど、こうすることしか那月には出来なかった。



「…ナヅキ。」

「うるさい!あたしは貴方達の言うナヅキなんかじゃない!」

「…悪い。」

「っ」



首に軽い衝撃。
まるで電気が切れるように視界は暗転した。
シルドラは力無く倒れる那月を抱き抱えると優しく髪を梳いた。



「こんなにそっくりなのに…。もうナヅキはどこにもいねぇんだな。」

「ナヅキじゃなくなってもあの子そっくりの子が帰ってきた。それだけでも奇跡だよ。」



ふいに聞こえた第三者の声にシルドラはぴくりと体を動かす。
聞き覚えのある声、この声はジャンクのものだ。
シルドラは那月を抱き抱えたままくるりと振り返る。
ジャンクは無表情でシルドラに歩み寄るとそっと那月の頬を撫でた。
途端、柔らかくなる表情。
シルドラは知っていた、この慈愛に満ちた笑みはナヅキにしか向けないことを。



「あの子にその気は無くてもあんな大罪を犯したんだ。…処刑されなかっただけいいよ。ナヅキは那月として生きてくれてる…それだけでも幸せだ。」

「…確かに、そうだな。」



口では肯定を示すもののシルドラの瞳は寂しそうにゆらゆらと揺れていた。
寂しげな視線はジャンクを捕らえる。
ツギハギだらけのジャンクの姿を見やると俯いた。



「…傷、まだ痛むか?」

「何年前のことだと思ってるの?それに…ボク、痛覚無くなっちゃったみたいだからもう痛みなんて感じないよ。弾かれ者の魔物憑き…そう言うシルドラはどうなのさ?」

「その呼び方はよせよ、世界の罪人。…俺は平気だよ。最初は死ぬかと思ったけど案外平気だ。」



那月に傷一つつかないなら、こんなの安いもんさ。
言いながらシルドラは背中の翼を動かす。
ジャンクのツギハギとシルドラの翼、これら二つはナヅキの為に出来たモノだった。
このことを那月はまだ知らない、知る時が来たら那月はどうするだろうか。



「ナヅキ…ううん、那月。君は僕らが守るよ。どんな代償が必要でも、絶対に。」



今度こそ君のそばから離れないから。
ジャンクは那月に手を伸ばす。
壊れ物を扱うかのような酷く優しい手つきで那月を撫でるその表情を見て、シルドラはジャンクが失ってしまった痛みを感じた気がした。





瞳を閉じたらおやすみ、朝になればキスしよう
(君をあの子に重ねることを許して)

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