未来を買った男
ツイッターのお題箱より
「気づくのが今更でよかったと笑う王入」その2
育成計画軸。希望ヶ峰学園卒業から6年後
同級生と連絡を絶っていた王馬が偶然入間と出会う話

・入間が元恋人に精神的DVを受けていた描写があります


313円。王馬小吉はその金額に一切納得がいっていなかった。しかし王馬の心持ちなど関係なしにそれは不変の金額として設定されている。いくら元・超高校級の総統といえどもそれを捻じ曲げることは不可能なのだった。王馬は黒い袋を見つめ、ちくしょうと憎々しげに呟いた。
313円。それはDVDの延滞料金である。1枚につき313円。それが5枚で1565円。2日の延滞で計3130円。新作5枚で1000円という謳い文句に誘われて借りたものの、返却期限が短いことをすっかり失念していたのだ。そしてレンタルビデオ店の店員が遅い返却の催促をよこしたのは、奇しくも王馬が気が付いた直後であった。何も延滞金を払いたくないわけではない。払えないほど困窮しているわけでもない。ただ自分の不注意で損をするのがひどく腹立たしかった。そしてDVD1枚につき313円という延滞料金という価格設定も妙に王馬を苛つかせた。新作のDVDを借りるのとほぼ変わらないのである。自分が期限を破ったのが悪いとは知っているものの、つくづく利用者に優しくないシステムだと王馬は憤っていた。
「もう少し早く連絡をくれたっていいのに。延滞金で儲けようって魂胆が見え見えだよね」
一人そうぼやいた瞬間に、王馬はそれに聞き覚えがあることに気が付く。
「……これ、どこで聞いたんだっけ」
思い出そうにも暑さで思考が働かず、もやもやとした気持ちを抱えたまま坂道を歩いた。目的地であるビデオ店は最寄り駅前にあるのだが、そこに行くまでに上り坂を越えて行かなくてはならない。夏の盛り。陽は落ちかけているというのにまだ熱気を孕むコンクリートの急こう配も王馬の苛立ちを助長させる原因であった。
駅前に辿り着いたときには王馬はすっかり汗だくだった。店に行く前に自販機で炭酸飲料を買う。子供の時からのお気に入りのそれは王馬の生活に欠かせない代物だった。喉を潤しながらふと周りを見れば駅前は学生たちでごった返している。その制服からこの近くの高校の学生たちだと分かる。皆似たようなスポーツバッグを持っているところから部活帰りなのだろうと察せられた。声高に喋る彼らの声は、聞こうとしていなくても耳に入ってきてしまう。
「桑田、メジャー行くんだよな」
「やっぱな。レベルが違うもん」
「希望ヶ峰出身だろ?あーあ、俺にもあんな才能あればなー」
「だよなー!!俺も超高校級になりてー」
慌ただしく改札を抜けていく彼らを王馬は一瞥し、かつての同級生の姿を思い浮かべた。
桑田怜恩。元・超高校級の野球選手。名門校にて1年次からエースで4番を張り、練習を一切しないまま甲子園で完封を収めたことから希望ヶ峰学園へとスカウトされる。そして卒業後、プロ野球界へと脚を踏み入れた稀代の天才。現状、国内に桑田と張り合える選手はいないとされ以前からメジャー進出を噂されていた。しかし希望ヶ峰時代の桑田はこれほどまでに野球にのめり込む男ではなかった。軽薄で、努力を嫌い、才能の有無に関わらずミュージシャンになりたいとのたまうような人間。そんな彼が現在、体育会系の頂点といっても過言ではない野球界に君臨し続けている理由は何か。
億を越す年俸に、手放しがたい栄光。その地位を使えば色欲が満たされるということもあるのだろう。しかし王馬は知っている。桑田を何よりも引き留めているものは、チームメイトの存在だということを。
希望ヶ峰学園には野球部が存在しなかった。予備学科にはあったものの、桑田とはレベルが違い過ぎて入部すら考えなかっただろう。そもそもミュージシャンになるために入学したのだと言い張る彼は一切の試合も練習も試みることはなかった。しかし甲子園の時期になると桑田は妙にひりついた空気を醸し出していた。なまじ甲子園を経験した過去があるからなのかもしれない。どうでもいい、関係ないと言いつつも彼が食い入るように中継を見ている様子を王馬は何度も目撃していた。
初めて桑田がプロとして登板した時、王馬はその試合をテレビで見ていた。多少ワンマンプレーではあったものの、メンバーの激励を背にマウンドに立つ彼は実に誇らしげだったことをよく覚えている。そして勝った時に仲間に囲まれ、楽し気に笑う彼を見た瞬間に王馬は分かってしまった。欲しかったものをようやく手に入れたのだと。
超高校級の人間は同じ夢を見ることはない。終里と弐大のようなスポーツ選手とマネージャーのような関係ならば例外だが、皆それぞれ別のものを目指し一人で羽ばたいていく。
超高校級になるということは。希望ヶ峰学園に身を置くということは。普通の高校生が体験するであろう青春から外れるということでもある。桑田を羨んだ学生たちは、桑田が欲しかったものを手にしていることも、きっとそれが後に素晴らしい思い出になるということも王馬は理解していた。
「それでも。あの時……」
無意識のうちに言葉が零れ落ちる。王馬はハッと我に返り、独り言が誰にも聞かれていないか辺りを見回した。王馬を気に掛ける者は誰もいない。
「行かなきゃ」
王馬はすっかり飲み干してしまったペットボトルをゴミ箱に押し込む。額から流れ落ちる汗を拭い、目的地へと向かった。

延滞金3130円を払い、王馬は店を出る。また何か借りる気にはなれなかった。気だるげに対応してきた男性店員も、店外に出た瞬間に体にまとわりつく熱気もただただ腹立たしかった。しかし一つ、脳裏に蘇ってきたことがある。以前も同じように腹を立てながら延滞金を支払った時の思い出だ。
希望ヶ峰学園の3年生の時のことだ。卒業前に思い出作りでもしようと、当時のクラスメイトであった入間と新作映画のオールナイト上映会を決行したのだ。そこでどこかに出かけようとはならないのが二人の性格をよく表している。映画の趣味が異なっていたため、コメディからアングラ系映画まで多様なラインナップが揃い、それなりに退屈しない夜を過ごしたはずだ。その時はAVルームにDVDの入った袋を置いてきてしまった上に、互いにどちらかが返していると思い込み結局今日と同様に2日ほど延滞してしまった。延滞金は割り勘をした。思えばあの時も店員からの連絡は遅かった。そして、ビデオ店に向かう道で彼女が王馬に言ったのだ。
――なんでもう少し早く連絡くれねーんだよ。延滞金で儲けようって魂胆が見え見えだよな。
「あー。あの時、入間ちゃんがそう言ったんだっけ」
あれから6年。24歳になった王馬は入間とも、かつての同級生達とも関りを持たなくなっていた。
卒業すれば将来を約束されるという噂通り、同級生は皆瞬く間にその名声を轟かせていった。ピアニストであった赤松は海外を拠点に活動し始め、百田は最年少宇宙飛行士として長期滞在チームの一員に抜擢された。そしてメディアを騒がせているのは桑田だけではない。舞薗、江ノ島、澪田、花村……かつての学友たちの名を聞かない日はない。無論霧切やセレス、春川たちのように秘密裏に活動している人間もいる。王馬が築いた人脈を持ってすれば彼らの動向を探ることなど容易かった。しかし、王馬は決してそれをしようとしなかった。同級生の情報は意図的にシャットアウトするようになった。何も知りたくなどなかった。年々、変わっていく彼らを知ることが恐ろしかった。同じ時間を過ごしたはずなのに、それぞれ生きていくということを受け入れたくなかった。
学園で過ごした3年間の間、誰かと同じ夢など見たことはない。自分の才能や組織のことを探る者はけむに巻いてきたし、自分が「笑える犯罪」を犯していることなど知られたくなかった。あの頃の王馬は、秘密主義でいたかったのだ。授業にだってまともに出なかった。学園祭も体育祭もそこまで必死にならなかった。気に食わない奴らだって何人もいた。それでも確かにあの時間は、王馬にとっては忘れがたい青春だったのだ。6年も経つというのに、いつまでもいつまでもそこに縛られている。自分だけが子供でいる。大人になれないままで、生きているということを見つめるのは嫌だった。
「帰るか」
このままここに立っていてもただ虚しくなり、暑さに殺される体力を奪われるだけだ。王馬が家への道を辿ろうと足を踏み出した時、突然背後から声をかけられた。
「王馬?」
振り向けば、見知った顔がそこにあった。あの時よりも痩せて、多少不健康そうな体つきをしているもののそれは確かに旧友である入間美兎だった。
「入間ちゃん」
「よう。……久しぶりだな。元気か」
入間が戸惑いがちにそう尋ねてくる。王馬はそのぎこちなさが妙におかしくて、微笑みながら答えた。
「まぁ、それなりに。こんなところで何してんの」
「墓参り。向こうの霊園にじいちゃんの墓があるんだよ。テメーこそ何してんだ」
「DVD返しに来たの。オレこの街に住んでるんだよ」
その答えに入間が目を丸くする。
「……いつから?海外にいたんじゃなかったのかよ」
「少し前に帰って来たんだ」
「そうか」
旧友に会うつもりなどなかった。話したいことも、聞きたいこともないはずだった。しかし実際に目の前に現れると、聞きたいことも話したいことも胸の内に湧き出てくる。気づけば王馬はこんな言葉を口にしていた。
「ねぇ、時間ある?立ち話もなんだから、どっか入ろうよ」
入間が頷くのを確認し、王馬は繁華街の方へと歩き出した。

二人が入ったのは老舗の中華料理屋だった。安い、早い、美味いが売りで王馬も頻繁に利用するが店主の愛想のなさが玉に瑕である。平日にも関わらず店は混んでいた。一番奥のやや薄暗い席に案内される。若い女性の物珍しさと、見目の美しさで入間は店内にいた常連たちの視線をさらっていく。その下卑たような視線とざわついた店内に一抹の不安を感じた王馬は、もう少し洒落た店の方がいいのではないかと提案をしてみる。しかし入間はここでいいからと笑った。部下以外の女性と飲むのは久しぶりだった。王馬にはここ1年ほど恋人がいない。何人かと付き合ってみたが、皆王馬の性格や組織の性質上遠距離恋愛になりがちなことに愛想をつかして去って行った。勿論真剣に結婚を考えたこともある。しかし毎回、王馬君のことがよくわからないの と言って泣かれてしまっては恋をしようという気持ちも段々削がれてくるというものだ。ドラマや映画ならば、ここから恋が始まることもあるのかもしれない。王馬が見たDVDにも再会を果たした旧友との恋愛を描いたものがあった。しかし入間相手ならば恋に落ちるということも、一夜の関係を築く可能性も皆無だ。まずこの店を選ぶ時点でムードもへったくれもない。王馬は気負いせずに彼女と話せそうなことに安堵していた。
入間はよく飲み、よく喋った。今自分の研究所を持っているということ。キーボとは時々会ってメンテナンスをしていること。数か月前に祖父が亡くなり今日は月命日だということ。表情をころころ変えながら語る姿は、学生時代とほとんど遜色がなく、王馬は懐かしみつつ彼女の話に耳を傾けた。
近況に、仕事の愚痴に、ひとしきり話したところで入間がテーブルの端に置いてあった灰皿を引き寄せた。鞄から煙草を取り出したところで、慌てて申し訳なさそうに視線を合わせる。副流煙でさえ嫌っていた彼女のその変わりように驚きながらも、王馬は喫煙を咎めなかった。
「別にいいよ。煙草吸うんだね」
「……まぁな」
オレンジ色のパッケージのそれは火がつきにくく、吸いづらいとされている種類だった。しかし慣れた手つきで火をつける様子に王馬は彼女が誰かにそれを教えられたのだと勘付いてしまう。
「彼氏の影響?」
図星だったのか入間は気まずそうに目を伏せた。
「わりーかよ」
「ううん。ただ、意外だなと思って」
健康に気を遣っていたはずの彼女が影響されるほどに好きな相手ならば、目に見える形でその愛を示していてもおかしくない。だがその骨ばった両手に指輪の類はない。一時的な興味で問い詰めるつもりはなかった。これまでの話に出なかったのは、彼女が敢えて外していたからに他ならないからだ。しかしそんな王馬の気遣いもよそに、入間はあっさりと告白した。
「でも、もう別れた」
そのさっぱりとした物言いからは未練がましさは感じられないが、空いた左手の指先で机を叩いている様子を見るとやはり心残りはあるらしい。追及などするつもりはなかった王馬だったが、学生時代の名残で意地の悪い疑問を投げかけてしまう。
「へー。……彼氏に影響されて吸い始めたはいいけど、別れた途端にやめるのはなんとなくかっこ悪いから吸い続けてるって感じ?」
入間は顔を引きつらせて王馬を睨みつける。だったらなんだよと言いたげなその視線を受けて王馬は微笑んだ。
「あは。そういう変にプライド高いとこ、変わんないね」
ほとんど独り言に近かった。𠮟りつけているのでも、貶しているのでもなく、ただ昔と変わらぬ不器用な部分を懐かしように口を次いで出た言葉だったというのに。心に相当な傷を負っているのか、入間の瞳にはじわりと涙が浮かんだ。冗談だと言う間もなく涙が頬を伝う。まるでせき止めていたものが決壊したかのように、入間は煙草を置いて子供のようにしゃくりあげ始めた。決して広くない店内、客の喧騒の中に泣き声が混じれば異音として注目を集めてしまう。
「何泣かせてんだよー」
「お姉ちゃんこっち来なって。俺達が話聞いてやるからさ」
王馬の背後に突き刺さるのはガラの悪い常連たちの野次。店主の視線も心なしかいつもより鋭い。まさに四面楚歌といった状態の王馬がすべきことは一つだった。
「すいません、お会計お願いします……」

逃げるように店から出た王馬は入間を連れて近くの公園へと向かった。酔っても顔に出ないタイプらしく、予想外にふらつきながら歩く入間をベンチへと座らせる。途中で買った水を彼女に手渡しながら王馬は謝罪した。
「ごめんね。傷つけるつもりはなかった。……多分」
「多分じゃねーよ。そんなつもりはねーって言ってりゃ、なんでも許されると思ってんのか」
目尻を赤く腫らしながらそう憤る入間に王馬はぐうの音も出ない。王馬は彼女の隣に座り、再びごめんねと呟く。プライドが高い割に打たれ弱い彼女の気持ちをもっと汲むべきだったと、後悔をしていた。入間は水を飲み、虚空を見つめながら言った。
「……なぁ、やっぱプライドが高い女って嫌か?」
「え?」
「別れるときに言われたんだよ。お前みたいにプライドが高い女が誰かに好かれるわけないだろって」
入間は唇を噛み、また零れ落ちそうな涙を拭って笑う。
「…有象無象になら何言われても関係なかったけど、好きな奴に言われると堪えるもんだな」
それは学園時代には見たことがない、ひどく悲しい笑みだった。
入間の元恋人は年上の工学者だった。入間がとある講演会に呼ばれた時に彼は聴講者として参加しており、帰ろうとする入間に声をかけてきたのだという。外見も好みだった上に、入間が恐縮するほどにアタックをしてきたことが決め手だったらしい。付き合い始めの頃は優しかったのだという。しかし生活のために入間が特許を取るようになり、その名が世間に広まるようになっていくにつれて彼は徐々に変わっていった。入間が次々に発明品を生み出すのと反比例するように、彼は学問から離れるようになった。口癖は『お前には才能があるからいいよな』だった。
それでも、まるで別人のようになってしまった彼のことを入間は好きだった。自分が素晴らしい発明をすればそれに感化されるように戻ってくれると信じていた。健気に、一途に愛し続けていれば必ず応えてくれるのだと祈っていた。しかしそんな願いも虚しく、4年の交際は終止符を打たれたのだ。
「結婚したいなら家庭に入れって言うんだよ」
「はぁ?何その時代錯誤な考え」
「お前みたいな人間と結婚してやれるのは俺くらいだろって。捨てられたくないならいうことぐらい聞けって迫られた」
入間が受けていたのは明らかにモラルハラスメントだった。精神的DVと呼ばれるそれは国によっては犯罪として定義されるほどの猟奇性を孕んだ行為である。王馬は入間の手をそっと握る。無理に話さなくていい、と言ったが入間は首を横に振った。  
「でもよぉ、発明をやめてまで結婚できねーよ」
「……うん」
入間は赤みを帯びた瞳で王馬を見つめる。再び涙が溢れてくるのを、王馬は拭ってやるもそれは止まることはなかった。
「オレ様といるとイライラするんだってよ。お前みたいな天才が俺達みたいな普通の人間のやる気を削ぐって言ってた。俺達みたいな凡人のこと見下して楽しいかって。そりゃ……オレ様とは格が違うだろうけど。でも、あいつは。いつかオレ様のこと超えるぐらいの発明をしてみせるって、最初に言ってくれて。だから、応援、してたのに」
「もう、いいから」
「……お前みたいにプライド高い女は誰にも好かれるわけないって笑われたよ。いつか、自分の愚かさに潰される前にさっさと死ねって」
王馬は堪えきれずに入間の体を抱き寄せる。抵抗もせず預けられたその体は酔っているはずなのに冷たかった。落ち着かせるように彼女の背中を撫でる。低い温度も、背骨の感触も、このまま強く抱けば折れてしまいそうな腰も、きっと彼女が望んだものではない。
「随分、痩せちゃったね」
「……細い女の方が好きだって言うから。ケッ、オレ様のヴィーナスボディーの価値が分かんねぇなんて馬鹿だよなあいつも」
耳元で相槌を打ちながら震える彼女の背中を撫でる。
「分かってもらえると思ったんだよ。分野が同じだし、天才のオレ様にだって悩みくらいあるからな……。あんなに好きだって言ってくれるんだから、全部肯定してもらえるかもって期待しちまったんだ」
「うん」
「でもなんにも分かってもらえなかった。オレ様もあいつのことを分かってやれなかった。世界を幸せにするために発明をしてきたのに、それが好きな奴を傷つけてるなんて思わなかったんだよ」
「入間ちゃんは悪くないよ。キミの才能に嫉妬したんだ。……キミが死ななくてよかった」
同分野の天才に近づくということは、自分の普通さを自覚するということに他ならない。自分がたどり着けない場所に軽々と到達し、更にその先に行こうとする人間を見た時、人は心を震わせずにはいられないのだ。凡人であることを自覚し絶望するか、天才に憧れて希望を抱くか。入間の恋人は勝手に絶望しただけの話だ。入間が苦しむ必要など何もない。しかし、世の中には自分の人生の責任を誰かに転嫁しようとする者がいる。入間はその標的にされてしまったのだ。
入間は震える声で、まるで自分を追い詰めるかのように呟く。
「死のうと思ったのに。死んだら許されると思ったのに。死ねなかった。怖かったんだ。死に方とか死に場所とか選んでる時間が惜しかったんだよ。こんなこと考えてる間にもっと発明ができるって思って、結局……」
喉の奥から悲鳴のような嗚咽が漏れる。死ななくてよかった、そんな人間に潰されなくてよかった。王馬はただ、祈るようにそう思うことしかできなかった。
「……誰かに嫌な思いをさせても、やめられない。やめたくない。発明を捨てるなんて絶対嫌だ!!」
「うん。無理だよ。だって捨てようと思っても手放せないのが、才能なんだから」
桑田が再びマウンドに立ったように。澪田が仲間と袂を分っても一人で歌い続けているように。最原が真実を暴き続けるように。幸運と呼ばれる人間が自分の意志に関係なく世界を操作してしまうように。
才能は呪いだ。希望ヶ峰なんて崇高な名前を掲げていることは、今となっては皮肉としか思えない。あの場所にいる人間は学園長を含めて皆才能に呪われている。貶されても、突き放されても、誰かを傷つけても、才能は確固たるものとして本人の中に根を張ってしまう。だから放せない、やめられない、それを捨てたら生きていけない。春川やもう一人の十神はその最たる例だろう。
入間は王馬の背に手を回す。押し付けられた体から等速で聞こえてくる鼓動が愛おしかった。
「学園にいた時の方がよかったって思うんだよ」
「……どうして」
「だって、みんな同じだっただろ」
王馬の胸が高鳴る。
「……世間にわかってもらえないっていう点で、みんな一緒だった」
その瞬間に、ずっと探していた答えを見つけたような気がした。あの学園で過ごした時間をかけがえのないものだと思えるのは、同じ感情を知っていたからだ。同じ夢など見なかった。同じ目標など抱かなかった。他のクラスは分からないが、少なくとも自分たちのクラスに団結力などないように思われた。
しかし、才能に呪われた人間たちは皆一様に孤独であった。
試合に勝ち続ける、コンテストやコンクールで優勝する、素晴らしい作品を生み出す。そういった華々しい活躍に投げかけられる言葉は賞賛だけではない。 
――天才はいいよな 理解できないよね あいつさえいなければよかったのに
嫉妬と、諦めの混じった一種の呪いのようなそれを彼らはどんな気持ちで聞いていたのだろう。
九頭龍のような独特な出自の者は、親の七光りなどと噂されていた。それは彼がその幼い体に極道の矜持を抱いていたことを知らない者たちの発言だった。まるで才能のある者は苦悩などなく、傷つかないかのように、簡単に凶器を放つ。「何にでもなれる可能性のある」人間が、「その道しか選べない」人間を理解することは難しいからだ。しかし、そんな言葉を受けてもなお超高校級の人間は先に進むことをやめない。
自分にはこれしかないと知っているから。希望ヶ峰学園は、世間に理解されない孤独を共有できる場所だった。
「そうだね。オレ達はみんな孤独で、不器用だったね」
王馬は自分が何故あの場所に縛られているのか気が付いてしまった。今、孤独を共有してくれる人間がそばにいないのだ。
王馬が日本に帰って来たのは、一度DICEの活動を考え直したかったからだ。王馬は世界情勢を整えながら、笑える犯罪を蔓延させることで無益な争いをなくしていきたかった。端的に言えば、世界を幸せにしたかったのだ。世界中を転々とする中で築いた人脈を使い、各国政府の中枢の情報を獲得できるまでには成長していた彼だったが、ある日見えてしまったのだ。自分がどんな犯罪を行おうと、部下や世界中に散らばる支持者をどこに配置しようと、世界が崩壊し続ける未来が。世界情勢は日々刻々と変化する。支配者が変われば国の方針は変わる。SNSの使い方次第で人々を焚きつけて暴動を起こすこともできる。世界が動くスピードに今いる人間では太刀打ちできないことを知ってしまった。
王馬は占い師ではない、預言者でもない。これはただの王馬の推測であり、先読みであって、確定事項でもない。しかし、もう限界なような気がしてきた。「総統」という立場以外に何もない自分が、他にどんな道を選べるというのか。ここまでついてきてくれた部下に話すのも忍びなく、王馬は休養を取ろうと帰国を選択した。
学園時代に戻りたいと思ってしまうのは、誰かとこの気持ちを共有したいからに違いないのだ。聞いてもらわなくてもいい。ただ、背水の陣のような面持ちで試合やコンテストに臨む彼らを見ているだけで安心することができたあの時間が欲しかった。
「あの時に戻れたらいいのにね」
「ああ」
「オレ達、もう随分な大人になっちゃったねぇ」
もう皆と同じ時間を生きることはない。それぞれで、孤独といつか見える限界点と闘っていくしかないのだ。王馬はそれを自覚することが嫌で同級生のことを知ろうとしなかったのに、こうして入間と出会ってしまったことでもう避けられなくなってしまった。
「あのね、プライド高いの変わらないねって言ったのは悪い意味じゃないから」
「じゃあ、なんだよ」
「嬉しかったんだ。ああ、入間ちゃんがいるんだなって思った。昔と変わってないところをみつけて、学生時代に戻れたみたいで嬉しかったんだよ」
「……そうかよ」
「入間ちゃん」
王馬は入間の頭を撫でる。
「つらかったね」
王馬の背中に回された手がびくりと反応する。
「よく頑張ったね」
「……うん」
「あのさ」
「何だよ」
「確かに、プライドが高くて、破天荒で、頭がいいのにすごく馬鹿で、扱いづらい子かもしれないけど」
耳元で囁くその声が、自分でも驚くほどに優しいことに王馬は気づく。
「でもそれがキミだから。全部ひっくるめて愛してくれる人を探そうよ。世界はめちゃくちゃ広いんだからさー、一人ぐらいはいるんじゃない?」

「……一人どころか世界中の男がオレ様のこと狙ってるに決まってんだろ。天才美人発明家の入間美兎様だぞ?!」
「あはは。そうだよ、その調子。……だからさー、死ぬなよ。絶対」
「ケッ。死んでたまるか」
その表情は見えないが、笑っているように思えた。笑っていてほしいと思った。
「少なくともオレは好きだよ。キミのそういうところ」
入間の鼓動が速くなるのを感じ、王馬は彼女の体を引きはがす。ロマンスなど始まらなくていいのだ。
「言っとくけど別に口説いてるわけじゃないから」
「わ、分かってる!!大体テメーに口説かれたところでオレ様が落ちるわけねーだろ!!」
その喧々とした言い方に王馬は笑う。そう、プライドが高くない入間美兎なんてありえない。一見すれば欠点にも見えるその性格こそが、彼女を構成する最大要素なのだから。
「……でも、ありがとな」
薄く頬を染めながら目を伏せる彼女に王馬は手を差し出す。
「じゃあ相談料として100万もらおうかな」
「テメーなんなんだよ!!」
「にしし。冗談だよー」
入間は舌打ちをする。しかしその表情は穏やかで、それまでに背負っていた張り詰めた空気のようなものはもう消えていた。少しぬるくなりかけた水を飲み、彼女は再び口を開く。
「テメーに会ってなかったら、誰にも話さなかったかもしれねー」
「そっか」
誰かに相談するという選択をそのプライドが邪魔していたのかもしれないと王馬は思う。そんな不器用な部分も、彼女は変わっていないようだった。
「……結構楽になるもんだな」
「それは良かった」
喜ばし気に言う王馬に、入間が微笑む。
「こんな場所で会うなんて、偶然ってすげーな」
「実は運命だったりして」
「あ?テメーと運命なわけねーだろ。精々腐れ縁ってとこだろうが」
呆れ顔の入間に王馬は苦笑する。入間は星が煌めき始めた夜空を見つめながらため息をつく。溜め込んでいたものを全て吐き出したいかのように。
「なんか最近色々あって。ずっと、オレ様の発明で世界を幸せにできるって思ってたけどよー。そうでもねーのかなって」
その弱気な発言に王馬は息を呑む。今、彼女は自分と同じ状況に立たされているのかもしれないと思うともう心の内を明かしてしまいたかった。
「オレもだよ」
入間は意外そうに眉をひそめる。
「そういや、オメーって今何してんだよ。昔から才能について聞くと濁してたからわかんねーんだよな」
「えー。悪の総統」
「またそれかよ」
「本当だよー。嘘じゃないよー」
おちゃらけた口調の王馬を入間が小突く。信じてよーと笑いながら、王馬は彼女にはすべてを話そうと決意をしていた。
「DICEって聞いたことあるかな。時々ニュースで取り上げられたりしてるんだけど。オレはそこの総統なんだよね」
学生時代、秘密にしてきたことの全てを話した。DICEの活動内容は勿論、世界から争いをなくしたいはずなのに自分の力が及ばないことも。そしてこれから先のことを考えるために帰国を決めたことを。全てを聞き終わった入間は、まるで幽霊でも見たかのような表情で王馬の瞳を見つめる。
「王馬……テメーだったのか」
「え?何が?急にごんぎつねのラストみたいなこと言いだしてどうしたの?」
「意味わかんねーこと言ってんじゃねぇよ」
入間が王馬の肩を掴む。その力強さと、切羽詰まった息遣いに王馬はうろたえながら目をしばたたかせた。
「じいちゃんが3か月前に死んだって言ったろ。結構重い病気でさ、歩けなくて。あんまり外とか出られなかったんだ。でもオレ様の発明で不自由ない生活は送れてたんだよ」
「う、うん」
「でも、やっぱつらそうでさ。そりゃそうだよな。いつ死ぬかも分かんなくて、気晴らしっつっても本読むかテレビ見るかくらいだろ?あんまりいいニュースばっかでもなかったから、気が滅入ることも多かったみたいで。でも……2年位前かな。見舞いに行ったらすげー楽しそうにしてる時があって。何かあったのかって聞いたら、おもしれーニュースを見たって言ってんだよ」
王馬は目を見開く。入間は熱を孕んだ視線を王馬に送った。
「DICEっていう、くだらねー犯罪ばっかやってる奴らがいるって。誰も傷つけない、小学生が思いつきそうないたずらを全力でやってんだよって笑っててさ」
王馬は入間の話にただ頷くことしかできなかった。
「DICEの存在を知ってからじいちゃんは少し明るくなったんだよ。こんなことやってる奴らがいるなら世界はきっと良くなるって言ってた」
「……そう、だったんだ」
「わざわざ海外の新聞まで取り寄せて、お前らのこと知ろうとしてたんだぜ?英語もろくに読めねーから、全部オレ様に訳させてよー。クソ迷惑だったな、本当に……」
肩に触れていた彼女の手から力がふっと抜ける。その言葉とは裏腹に穏やかな微笑みをたたえていた。
「じいちゃんを見てて思ったんだ。医療とか、科学の力だけじゃどうにもできねーこともあるのかもしれねーって」
王馬はずっと怖かった。自分たちのやっていることが「ただのくだらない犯罪」で終わってしまうことが。誰にも何の爪痕を残さず、日々の雑踏の中に紛れ込んでしまうことが。いつか忘れ去られてしまうことが。それでも、ようやく報われたような気がしたのだ。世界中に幸福を振りまくことは、きっとあまりに大きすぎる野望だ。無謀とも言えるかもしれない。しかし誰か1人でも笑わせることができたならば、人生に影響を及ぼすことができたならば、あとはそれを繰り返すだけだ。0から100に一気に飛ぶことはできなくとも、0.1を積み重ね続けることはできる。それは根気のいることかもしれないが、王馬は目的を達成するためならばどんな些細な努力も惜しまない性質なのだ。
「オレ様なりにDICEのことを調べてたけど何も分からなかった」
「うん。オレはかくれんぼが得意だからね。そう簡単に見つかったりしないよ」
入間は真剣な眼差しで王馬を見る。
「なぁ、やっぱ運命かもしれねーな」
「え?」
どこか照れくさそうに俯きながら、入間は予想外の言葉を口にした。
「……オレ様をDICEに入れろ」
「はぁ?!」
「オレ様は自分の力を信じてる。でも、いくらオレ様が天才的な発明をしたところでそれを使いこなせる奴がいねーと始まらねーだろ?だから、その、協力してやるって言ってんだよ」
確かに入間の才能があれば、王馬が今までに夢見てきたフィクションじみた犯罪を行うことができるかもしれない。しかし彼女の方からそんな提案をしてくるとは、まさに青天の霹靂。熱でもあるんじゃないかと額に手を当ててやると入間は正気だと言ってその手を払った。
「総統なんだろ?だったらオレ様を上手く使ってみせろ。こんなこと一生に何度もねーぞ?!土下座して感謝しやがれ!!」
「どうして」
宙に浮いたままの王馬の手を入間が握る。冷たかったはずのその手は確かな温度が宿っていた。
「目的が同じだからだ。オレ様もテメーも、世界を幸せにしてーんだからよ」
「それは、そうだけど。犯罪に加担することになるんだよ?」
「正義振りかざして戦争する奴らよりマシだろうが」
後に引くまいとするようなはっきりとした口調に王馬の心臓は早鐘を打つ。
「……でも、さっき言ったんじゃん。オレは先のことを考える為に帰ってきたって。もう限界が見えてきちゃったんだよ」
「じゃあ他にできることあんのか」
体が、心が震える。他にできることなどない。全てを捨ててきたのだから。
「テメーは総統、オレ様は発明家。それ以外に進む道なんかねーだろうが。今更総理大臣でも目指そうってのか?笑わせんな。そんなもん石丸に任せときゃいいんだよ」
入間が力強く手を握り締める。絶対に捉えて離さないという意思がそこから伝わってきた。
「頼む。一緒に、夢を叶えてくれよ」
王馬の頭の中で未来が書き換わる。入間美兎というイレギュラーの存在は、王馬の推測を全て否定してしまった。同じ夢など見なかった。見れないと思っていた。それでも6年という月日が、全ての出来事が王馬と入間を繋いでいる。自分が挫折しなかったら、入間の祖父がDICEを知らなかったら、入間が自分の力を疑わなかったら、こんな風に手を握り合うこともなかっただろう。ずっと変化が怖かった。しかし、こんな形で未来に繋がるのならばもう変化を恐れずにいようとさえ王馬は思う。
王馬は入間の目を見つめ、深く頷く。
「ありがとう。……どうか、よろしく」
「オレ様の黄金の脳細胞を使っといて、限界だなんて言わせねーからな」
限界なんてことは言っていられない。王馬は脳みそはもう次の計画に向けてフル稼働し始めていた。部下たちは入間のことを何と言うだろうか。個性が強い人間ばかりだから最初は反発するかもしれない。思いを巡らせていると、入間が眉間に皺を寄せて王馬を見る。
「でも、完全にテメーの言いなりになったりなんかしねーからな。同じ組織にいるってだけで、テメーの犬になったわけじゃねーし」
「ふーん。残念だなー。忠実な犬になってくれたらいっぱい可愛がってあげるのに」
「気持ちわり―こと言ってんじゃねーよ!」
おぞましそうに顔を歪ませる入間に、王馬はやれやれと大袈裟にため息をつく。
「でも、いいよ別に」
そんな風に縛りつけて傷つけるくらいなら、言うことなんて聞いてもらわなくて構わない。それにそんな型破りな人間を使って自分の目的を遂行させた方がきっと退屈しないで済むだろう。ゲームはハードモードが王馬のモットーだ。
「思い通りにならないからってキミを捨てるほど、オレは愚かな人間じゃないからね」
そう告げると、入間は照れくさそうに微笑んだ。
「テメーらのくだらねー犯罪でさ、あいつがまた笑ってくれたらいいと思う」
「……うん」
「それで、前を向いてくれたらもっといい」
散々傷つけられたにも関わらず、そんな風に笑ってしまえる彼女はよっぽど強いと王馬は思った。才能のない人間が自分たちを理解できないように、自分たちもまた彼らの苦悩を理解することはできないのかもしれない。それでもただ信じたことをやり続けるだけだ。いつか報われると祈りながら。
「とりあえず今日は帰ろうか。送ってくよ」
「あ?な、なんでだよ。テメーの家この辺だろ?」
「だって夜遅いし。危ないよ?酔いも醒めてないでしょ?……嫌なら、やめるけど」
「別に。嫌じゃない」
王馬はベンチから立ち上がり大きく伸びをする。
「よーしじゃあ行こうか。最寄りは?タクシー呼ぼうか?」
「今はY駅の近くに住んでる。電車でいい」
入間も立ち上がり駅へと歩き出そうとした瞬間、バランスを崩してその場に倒れ込みそうになる。王馬は慌てて彼女を抱き留めた。その軽さに少し心が痛んだのは気のせいではないだろう。
「大丈夫?」
入間は王馬をじっと見つめ柔らかな笑みを浮かべる。
「王馬」
「……どうしたの?」
何か言いたげな視線に王馬の声もつい甘くなる。そこはかとなくロマンスの予感。旧友との再会、傷心の彼女に、星の煌めく公園。あまりにも揃い過ぎたシチュエーションに王馬は呑まれてしまいそうになる。  映画ならばきっとこのままキスの一つでもするところなのだろう。しかしこれはあくまでも現実で、相手はあの入間なのだった。入間は、この甘やかな空間を破壊する爆弾を投げ込んできた。
「テメー、ちっちぇーな」
「は?」
「いや、会った時からずっと思ってたけど全然変わんねーなー。どうせアレも大したことねーんだろ?夜の総統にはなれねーらしーな!!ひゃっひゃっひゃ!!」
「夜の総統ってなんだよ!!あー、本当最低。心配して損した」
ようやく彼女らしい態度に戻ったことに安堵しつつ、その品性のなさに呆れかえる。それでも然るべき扱いをすべきなのだろうと王馬は手を差し出した。
「また転ばれても嫌だから、手繋いでてあげる」
「ケッ。ただオレ様と手を繋ぎてーだけなんだろ?仕方ねーなぁ!」
めんどくさいという言葉を飲み込んで王馬は歩き出す。歩きづらそうな彼女に合わせて、ゆっくりと。繋いだ手から伝わる温度が王馬の心を熱くさせる。彼女は確かに生きていて、これから一緒に未来を切り開いていく。この手が生み出す全てのものを使って世界を幸せにしてみせると王馬は心の中で誓うのだった。

駅前は夕方とは違い、サラリーマンや酔っ払いで混雑していた。あ、という声がしてそちらを向けば先ほどの店にいた男たちと目が合う。しかし二人が手を繋いでいるのを見やり、男たちはにやにやと笑って飲み屋が立ち並ぶ路地へと入っていった。あの店に行くのは控えようと思いつつ、先ほど立ち寄ったレンタルビデオ店を見つめた。
「何見てんだよ」
「あ、いや。オレDVD延滞しちゃってさー。お金とられちゃったんだよね」
「ケッ。馬鹿かよ」
「ひどいなぁ。人間誰しもうっかりすることぐらいあるでしょ。でもね、それで良かったと思うんだ」
「なんでだよ」
「だって、今日返しに来なかったらキミに会えなかった」
王馬は笑う。入間は一瞬面食らったような表情をしたものの、すぐに笑い返してきた。きっと今、自分と同じ思いを抱いてくれているのだろうと王馬は思う。期限に間に合っていたら、あと数時間早く気づいていたら、きっと会うことはなかった。こんな気持ちになることはなかった。だから、気づくのが今更で良かったのだ。冗談なんかじゃなくてこれは運命だったのだと確信していた。
「そういや、昔もそんなことあったな」
「あったねー」
「あの時には戻れねーけど」
そう言った入間の声は決して寂しそうはなかった。
居酒屋からホームランへの歓声が聞こえる。店内から流れるデスメタルはあのミュージシャンの新曲だ。女子高生が読みふける雑誌の表紙には未だカリスマとして名を馳せる彼女の姿がある。もう戻れないけれど、きっとあの時には見れなかった景色を見ることができるはずだ。皆がそうであるように。
「あ、そうだ。さっきの金、半分出すわ」
「いいよ別に。誘ったのはオレだし」
「おう。……ありがとな」
「いいのいいの!!その分これからいーーっぱい働いてもらうから」
「うぜー。こき使う気満々じゃねーか」
「えー。発明しか能のない雌豚を使ってくださいってお願いしてきたのは入間ちゃんでしょ?」
「ニュアンスが全然ちげーだろうが!!クソ、もう一人で帰る」
「もー、そんなに怒らないでよー。さっさと慣れた方がいいよ?これから一緒にいるんだからさー」
延滞金と合わせて9330円。それで未来が買えるのなら安いものだ。王馬は小走りで先を歩く彼女に追いつき、その手を再び掴む。転ばないように。転んでも立ち上がれるように。そうして一緒に未来を創っていけるように。